5月5日(火) 曇り プラハ市内観光(1) 212


起床(0600)ホテル前バス発(0908)ストラホフ修道院(1000〜1040)プラハ城(1100〜1350)昼食(1412〜1520)カレル橋(1430〜1605)旧市街広場(1622〜)ムハ美術館(〜1730)自由時間(1800〜1930)マリオネット(1940〜2200)ホテル着(2018)



5−1 朝
 出発がゆっくりなので、我が家にしては珍しくのんびり起きた。
 朝食が6時30分からで、今朝は前回と違って正式のフロントの前、大きな方だ。開始時刻より少し早かったので、バス停の前で朝 の体操をした。
 その後は部屋でのんびりした。
 ホテルを予定より少し遅れて出発。今回は人数が多いせいもあるのだろうが、どうも時刻が守れない。
 今日のバスは2階建てバス。当然2階へ行く。視界が広がって見晴らしがいい分、気分もいい。なのに、これで観光するわけではな く、市街地へ行くだけ。
 道路は平日のせいで渋滞。一寸進んでは止まり一寸進んでは止まり状態。目的地まで50分もかかった。
 空模様が怪しくなってきた。どうにか持ちこたえてくれると良いのだが。

5−2 ストラホフ修道院(1000〜1040)
 初めの観光はここから。バスを下りて、しばらく待ってから中に入った。写真は料金を払うと許可されるので、我が家は二人分支払った。
 ここは、12世紀に創建されたプレモントレ会の修道院で、図書室とその蔵書で知られている。17世紀には「神学の間」が、18世紀には「哲学の間」が増築された。ここの天井画が有名で、是非とも見たかったのだ。
 修道院は、社会主義体制によって禁止されるまで800年もの間、秩序が保たれてきた。解散令が出ても、蔵書が多かったことから、図書館だとして生き残ってきたという。現在でも修道士がいる。

5−2−1 神学の間
 建物自体そう大きい物ではなく、部屋の観光なので、廊下には行列が出来ていた。この廊下にも古書が並んでいる。しばらくその後ろに並んでようやく部屋が見える所までついた。入口にはロープが張ってあって中に入ることは出来ないので、体を乗り出すようにしてのぞき込んだ。
 天井にはフレスコ画が描かれている。白色を基調として学問と知識を賞賛する場面が描かれているということだが、遠目でしかも斜めなので良くはわからなかった。ここに収められているのは1万6000冊。宗教関係の本が並べられている。蔵書の中で一番古い写本、9世紀に制作された「ストラホフ福音書」もガラスケースに入れられて展示されている。古い地球儀もいくつも置かれている。

5−2−2 哲学の間
 こちらにも赤茶色を基調にしたフレスコ画がある。天井まで届くほどの本棚に、5万冊にも及ぶ哲学書、歴史書が保管されている。蔵書棚に見せかけた隠し扉があって、螺旋階段で上ることができる仕掛けもあるようだが、それが何処なのかはわからなかった。
 これら二つの図書室には初版本が多いのが特色になっている。コペルニクスの初版本もあるという。大学の研究者達は中に入って実際に手に取り調べることが出来るそうだ。

5−2−3 被昇天教会
  修道院に並ぶようにして建っているのがこの教会。教会として観光書には載っていないのだが、モーツァルトが演奏したオルガンというのがあるとのこと。あいにくと中には入れなかったので、格子の間から覗き込んだ。結果、よくわからない。
 それから、歩いてプラハ城へ向かう。
 途中、ロレッタ(聖母崇拝の礼拝堂)、外務省、大司教の館(白い大きな建物)、だまし絵の立派なシュヴァルツェンベルグ宮殿などの説明を聞いた。その後少し自由時間となった。

5−3 プラハ城(1100〜1350)
                      より大きな地図で プラハ(プラハ城周辺版) を表示
http://www.hrad.cz/en/prague-castle/guidepost-for-visitors/ (参考になりますかね?)
 世界一の古城、プラハ城はかつてボヘミア国王や神聖ローマ皇帝の居城であり、現在はチェコ共和国の大統領府のある場所である。
 870年に造られた最初の建築物は、聖母マリア教会であった。聖イジーと聖ヴィートのバシリカは、10世紀の前半に建設された。ボヘミアで最初の修道院は城の中、聖イジー教会の隣に建設された。ロマネスク様式の宮殿がここに建てられたのは、12世紀のことである。14世紀には、王宮がゴシック様式で再建され、城砦として強化された。聖ヴィートのバシリカの代わりに、広大なゴシック教会が建設されたが、完成までにはほぼ6世紀かかった。
 プラハ城には、ゴシック様式の聖ヴィート大聖堂、ロマネスク様式の聖イジー教会のバシリカと修道院、そして宮殿、庭園、尖塔が含まれており、あらゆる建築様式を実態的にあらわしている。

5−3−1 衛兵
 ちょうどプラハ城では11時の衛兵の交代式があるというので、我々は走って見に行った。人だかりがすごくてあまりよく見えなかった。この衛兵はなかなかの人気だそうだが、倍率が十倍を超えるほど競争が激しいそうだ。なかなか格好いいが、動いてはいけないというのは大変だろう。それをいいことにjunさんはちゃっかりと並んでパチリ。衛兵さんの頭の上には勇ましい「戦う巨人達」が飾られている。
 その少し先に、市街地が見渡せる所があったので、写真を撮りながら集合時間まで過ごした。

5−3−2 聖ヴィート大聖堂
 大聖堂が現在ある場所に最初の教会が建てられたのは925年のこと。現在のゴシック様式の大聖堂建設は1344年に開始されたが、15世紀前半に起きたフス戦争の開始により停止した。15世紀後半になると、ウラースロー2世は建設を引き継いだが、始まってすぐに、資金不足のため作業は打ち切られた。1844年「プラハの聖ヴィート大聖堂を完成させる連合」が結成され、1929年、聖ヴィート大聖堂はついに完成した。 完成までには約600年が費やされた。
 城対教会の所有者の争いがあるそうで、現在は裁判で城の所有とされているので無料で入れるが、以前、教会の所有とされていたときには入場料が必要だったそうだ。まだ、係争中ということなので、次に来るときにはまた変わっているかもしれない。

5−3−2−1 バラ窓
 入口から一番奥に大きなバラ窓がある。ガイドさんの説明によれば、3万枚ものガラスを使って天地創造を表している。夕方陽が差し込むと両側の白い壁が赤く染まって綺麗なのだそうだが、一般の入場者は見学時間が過ぎているので見られないとのことだ。

5−3−2−2 高い天井
 高さが33mもある。天井の石は、柱で支えているので空間が広く窓も大きく造られる。これがゴシックの特徴の一つである。1352年に大聖堂の仕事を引き継いだペトル・パルレーシュが造った。いわゆるパルレーシュのヴォールト、もしくはネット・ヴォールトと言われるものだ。網目状に2本のリブが交差するため、ヴォールト天井をかなり補強することができる。

5−3−2−3 ステンドグラス

 入口付近のステンドグラスは20世紀初頭に完成したため、窓が大きく開けられ、アールヌーボー様式の作品である。その中の左から3番目のブロックにある礼拝堂にはムハの絵、「聖キリルと聖メトディウス」がある。キリルとメトディウスはギリシャ出身の兄弟で、863年頃チェコにキリスト教を伝え、プシェミスル家の人々を洗礼した聖者である。それぞれのブロックには、それぞれスポンサーがついていたそうだ。

5−3−2−4 地下の墓
 ここから後ろの現在見えている部分がゴシックの部分になる(祭壇のある部分はロマネスク様式)。この地下は、カレル4世、ヴァーツラフ4世、ルドルフ2世ら歴代の皇帝の墓になっている。が、入口にはロープが張ってあって、したに下りることは出来なかった。しかし、翌日来てみたときには入っている団体があった。学習目的とかだったら入れるのかもしれない。(写真の右下がその地下に行くことの出来る階段なる場所)

5−3−2−5 ネポムツキーの墓石
 内陣を左回りに行くと、というよりここは一方通行になっていて、早くその墓に行こうと逆回りしたnoriは係員にストップをかけられて、またグルリと回ることになってしまった。
 純銀製の墓石。天使や騎士達が墓を守っている。台の上ではネポムツキーが十字架を抱いている。勿論背後には5つの星がある。聖堂の中央に置かれたフェルディナント1世の霊廟よりも立派。ネポムツキーが殉死したのは1393年だが、この墓が造られたのは1736年。使われた銀は2トンに及んだ。

5−3−2−6 聖ヴァーツラフ礼拝堂
 仕切られていて入ることの出来ない礼拝堂、それがヴァーツラフ礼拝堂。大聖堂の中にある礼拝堂の中でも極めて特別な聖堂だ。聖ヴァーツラフの墓がある。1344年から1364年にかけてペトル・パルレーシュにより建設され、リブ・ヴォールトを有する。壁の下半分は1300以上もの金とガーネットの半輝石で埋められ、キリストの受難が描かれた絵で美しく飾られている。壁の上半分は聖ヴァーツラフの生涯を描いた絵で、1506年から1509年にかけて作製された。壁の中央部分には、1373年に作製された、聖ヴァーツラフのゴシック像がある。
 ここで言う聖ヴァーツラフとは、ヴァーツラフ1世(在位:921年 - 935年)のこと。ヴァーツラフは聖ヴィート大聖堂の始まりとなる聖堂を建造、宣教師をドイツから招くなど、キリスト教化を進める政策を採った。が、政権争いで教会の入り口のところで8月28日に弟に殺されたという。ヴァーツラフは自分の建てた聖ヴィート大聖堂に葬られ、聖者として人々の信仰を集めるようになった。ヴァーツラフは真のキリスト者にして理想の騎士とされ、国と民族を守った英雄として語られるようになった。
 ボヘミアの色は黒に近い葡萄色だが、これはヴァーツラフの血の色だそうだ(ガイドさんによる)。

5−3−2−7 黄金の門
 西側の入口(現在我々が利用して堂に入っている場所・・・ゴシック部分)が完成するまでは、ここが大聖堂の入口であった。
  入り口の上部には、14世紀に装飾された「最後の審判」のモザイク壁画が残されている。中央部分の上がキリスト、その下には聖人達、更にその下にはカレル1世と妻のエリザベートの姿がある。左側下の裸の人たちは生まれ変わりの人たち、右側の部分は地獄を表している。

5−3−3 イジー教会
 イジー広場は、中世プラハ城の中心広場であった。イジーとはドイツ語でゲオルク。303年に殉職し騎士や戦士の守護聖人となった。12世紀頃になると馬にまたがって龍を退治する姿で描かれるようになった。そのため異教徒の中に初めて教会を建てるときはイジー教会だったという。竜=異教徒、と見立てたらしい。
 この教会は、10世紀前半に建設されたプラハ城最古の建物である。付属の修道院も10世紀末に設立され、現在は中世ボヘミア絵画のギャラリーとなっている。
 先にこちらを見学するつもりだったのだが、人数に限りがあり、我がグループは二分されることになった。後のグループになった我々は自由時間となったので、二人で隣のイジー教会(右側)に入ることにした。
 http://www.hrad.cz/en/prague-castle/photogallery/prague-castle/12.shtml
(写真があります)
 現在の建物は、火災にあった後1142年に石造の初期ロマネスク様式に改築され右正面は17世紀に初期バロック様式で増築された。バジリカ様式の建物。
 内部は質素だ。何もない内陣の壁にはアーチ型の窓がいくつかあるだけ。石壁がむき出しになっている。が、昔は壁一面に顔料を使用して描いた極彩色の絵が描かれていた。昔は中2階があって、女性はそこで立ってお祈りをしていたのだという。イスラムと変わりません、という説明だった。確かユダヤ教もそうではなかったか。
 座席になっている所の下はプシェミスル家の歴代墓地となっている。ボヘミア最初の聖女ルドミラもここに葬られている。
 カメラ撮影は禁止。ひっそりとした教会内を話もせずに静かに1周した。
 その後、前半の人と交代して修道院へ入った。リュックは持ち込み禁止と言うことなので、添乗員さんに預けての入場となった。
  http://www.hrad.cz/en/prague-castle/photogallery/prague-castle/13.shtml
(絵があります)
 今回のガイドさんは歴史に詳しいが、絵画についても一通りの知識があるらしく、わかりやすく解説してくれた。
 我々が見た所は19世紀の絵画彫刻類を展示してある所。チェコの絵画の変遷がよくわかった。

5−3−4 黄金の小道
 黄金の小道と呼ばれているところは小さな店や食堂が連なる場所だった。しかしながらここを通るにも入場券が必要だった。といっても既に購入してある一括券に含まれているので、新たに購入する必要はないのだが、入口でチェックされる。入ってすぐの所の青い家がカフカの住んでいた家だそうだ。
 この辺りには錬金術師を住まわせていたという話からこういう名が付けられたということだが、実際は衛兵のための住まいだったといわれている。城壁回廊の下にある部分を利用して住居とした。実際、壁のように見える所へ上ってみると、隠し穴のような鉄砲用の穴がたくさんあった(日本で言う所の狭間)。つまりそこは壁ではなく人が通れる通路を含んだ厚みのある城壁だった。城を守る最後の場所だった。今は、武器類がたくさん並べて展示している。
 下はどの家もみやげ物屋となっている。マリオネットの店もあった。そこを通り抜けていくと、最後にドクロに押しつぶされた人の像があった。さしずめ、ドクロがjunで人がnori?
 集合場所は黄金の小道を突き当たって、下に降りてゆくともとの道と合流する、そのあたり。レストランやトイレがあって、休憩が出来た。比較的早めに着いたので、トイレを済まして店に入るトポスとがあった。そこで書きためてきた絵はがきを出すことにした。少し不安もあったが、ホテルからどさっと言うのも風情がないので、ここから出すことにした。

5−4 昼食(1412〜1520)
 昼食場所までワイン畑の横を通り、プラハの街を見下ろしながら歩いて行った。プラハ城から下界へ降りてゆく感じで、喧噪の中に戻ってきた。降り立ったところはちょうどトラムと地下鉄の駅があった。明日の自由行動の時はここから乗り換えればよい。その意味では格好の場所に降りてきた。
 町中に出た所にある店で昼食。メニューは、キャベツのスープ、牛肉のシチュー(ビール煮)。ビールは25Kc。
 食事が終わってから、明日の自由時間のために、電車の乗り方などを教えてもらってから次の観光場所カレル橋へ向かった。
 途中、船乗り場があったので、観光船の乗り方も教えてくれた。

5−5 カレル橋(1430〜1605)
 ヴルタヴァ川にかかるプラハ最古の橋。16のアーチに支えられ、全長約520メートル、幅は10メートル近くもある。
建設が始まったのは、1357年。カレル1世の命で聖ヴィート大聖堂を手がけたペーター・パーラーが実際の工事に携わった。約50年もの長い年月をかけてようやく完成したのは、ヴァーツラフ4世の時、1402年であった。補修工事が1890年と1975年に行われているが、15世紀初頭の姿は保たれている。
 橋に「カレル橋」という名がついたのは、建設を命じたカレル1世の時代ではなく、1870年以降のこと。それまでは、単に「石橋」あるいは「プラハ橋」と呼ばれていた。

5−5−1 聖人達

                        より大きな地図で プラハ(カレル橋周辺) を表示
 両側の欄干に30体の聖人像が並んでいるが、これらは最初から橋にあったわけではない。古い物でも17世紀、多くが18世紀か19世紀になって付け加えられた。
 最初は簡素な木製の十字架が1本だけ立てられていた。この向かい側が処刑場となっていたからだ。旧市街側の最初の突起部分がそれにあたる。ここで、首を切られ川に投げ捨てられる罪人が最後の祈りを捧げるようにと、十字架が立てられたのだ。
 像の中にはボヘミアに関連した聖人が多い。聖ヴィートは言わずもがな聖ヴィート大聖堂に祭られている聖人。聖ヴァーツラフはボヘミアの守護聖人。
 そして、聖ネポムツキー。殺害された時の様子が台座の銅板に描かれている。そこを触ると幸運が訪れるということで、今やピカピカになっている。我が家も交代で触ったが、さて、どんな幸運がやってくるだろう。そんな所なので、写真を撮るにも順番待ちと聞いていたが、そんなこともなくすぐに撮れた。
 ただ、実際に投げ込まれた場所はもう少し旧市街地よりの所で、金属製の十字架と五つの星がはめ込まれた石版の所になる。
 他にも「聖母マリアとイエス」「聖ヨゼフ」「ピエタ像」「聖バーバラ他」の像があるが、日本人のお馴染みと言えば「聖フランシスコ・ザビエル」だろう。東洋人がいるのでわかるということだった。なるほど東洋人だが、これは日本人ではないな。
 橋の上には絵描きさんなどがいたが、それほど多くはなかった。現在修復中なので、あちこちで工事をしているせいだろう。
↑ 聖ネポムツキー
↑聖フランシスコ・ザビエル
↑ ヴァーツラフ の像(中央)
↑ピエタ像
↑聖アンナ、聖母とみどり児像
↑聖バルバラ、聖マルガリータ、聖エリーザベト像

5−5−2 十字騎士広場
 旧市街側の橋塔を抜けると左手側に広場がある。そこにはカレル1世の像が立っている。右手にはカレル大学の設立証書を持っている。台座には、神学、法学、医学、学芸を表すレリーフが彫られている。カレル大学を代表する学部である。
 神聖ローマ皇帝カール4世となったカレルは、ボヘミア王カレル1世としても君臨し、自分が生まれた町プラハを帝国の中心地とすべく、新しい町造りに取りかかった。ヴルタヴァ川に橋を架け、大学を創立した。プラハ司教座を大司教座に昇格させ、聖ヴィート大聖堂を建て替えた。荒れ果てていたプラハ城を改築し、今日の形に整えた。更に新市街地を建設し、ヨーロッパではイタリアに次ぐ大都市とした。ボヘミア重視のカレル1世の政策に、周辺諸国は「カレルはボヘミアにブドウやイチジクを植えている」と揶揄し、非難したが、現代のチェコでは「プラハの父」と褒め称えている。
 実はここでちょっとしたハプニングがあった。我々のガイドは日本人の男性だが、その奥方も日本語のガイドをしているチェコ人だった。二人が(たぶん)偶然にこの広場で出会ったのだった。

5−6 旧市街広場(1622〜)

                 より大きな地図で プラハ(第1日目午後観光) を表示
 旧市街の中心をなすこの広場は、11世紀頃、ドイツやフランスなどと商業的関係の発展に伴い、教会や商人達の住居の土が建てられるようになって、次第に形作られていった。実際に広場を取り囲む建物群は、ゴシック様式、ルネサンス様式、バロック様式など、プラハの歴史に登場したほとんどの時代様式が混在している。(右の写真は翌日の観光の時に時計塔に登って広場の北北東方向を眺めたもの)
 広場の中心にはヤン・フスの像があり、広場のシンボルになっている。ヤン・フスは15世紀のチェコにおける宗教改革の先駆者で、腐敗した教会を批判、プロテスタント運動に力を注いだが、当時のカトリック教会の力は強く異端者と見なされて、コンスタンツ公会議で有罪とされ1415年に火刑にされた。16世紀にドイツのマルティン・ルターによってはじまる宗教改革より約100年前の出来事だ。彼はまたカレル大学の総長でもあった。チェコでは最も尊敬されている神学者である。
 人々の注目を集めているのが旧市庁舎にある時計塔。この建物は14世紀前半に建設された。その後も隣にあった建物の買い取りや増築によって西側に次々に拡張していったので、旧市庁舎が何処までなのかわかりにくい。
 南側にある時計塔には二つの天文時計が取り付けられている。上のものは天動説に基づいて造られている。下のものは旧市街の紋章を軸に12の星座が散らばっている。周りの人形はそれぞれ人間の本能を表している。リュートを持った男は煩悩を、鏡に見とれている男は虚栄を、金袋を持った男は欲を、骸骨は死をそして手に持っている砂時計は人生の時間を表している。
 この時計が注目を浴びるのは、この造りによってではなくその周りにあるからくりによる。これが毎正時に動くので、我々もそのときを狙ってしばらく待った。
 鶏が羽ばたくのを合図にして、まずは時計の周りにある人形が動き出す。次に骸骨が縄を引っ張り小さな鐘を鳴らして砂時計を逆さにする。そうすると時計台の窓が開いて、キリストの12使徒が両方の窓から順に顔を出す。全員が顔を出すと窓が閉まってしまう。この間、僅か30秒だ。

5−7 ムハ美術館(〜1730)
http://www.mucha.cz/index3.phtml?S=home&Lang=JP (参考になります)
 ミュシャ博物館は世界に知られ名を馳せたアールヌーヴォーを代表する巨匠アルフォンス・ミュシャ(チェコ語読みは"ムハ")の生涯とその作品を展示する世界初の博物館。
 油彩画、素描画、パステル画、彫刻、写真、そして作家個人の縁の品から構成される約 100 点のセレクションは、 19 世紀パリの伝説的女優サラ・ベルナールに捧ぐかのポスターの名立たる作者の二つとない世界観へと導きます。
展示は、「スラヴ叙事詩」をのぞくアルフォンス・ミュシャ( 1860 ? 1939 )の造形作品の総覧となっています。とりわけ、世界に知られるパリ時代( 1887 ? 1904 )に焦点が当てられています。サラ・ベルナールのために作成された最も知られているポスターをはじめとする全般にわたるポスター群、特徴的な装飾パネル画、「装飾資料集」( 1902 )より図版、パリ時代のスケッチブックなどをここでは展示しています。
 その他の装飾品、彫刻、そして書籍作品は、ショーケースに納められています。特別コーナーは、晩年、 1910 年? 1939 年のチェコ時代に制作されたポスター、そしてドローイングや油彩画から構成されています。決して無視できないのが、ミュシャのプラハとの関係です。展示の最後を飾るのが、オリジナルの家具によるミュシャのアトリエの再現、ミュシャの家族の写真、そしてパリでミュシャによって撮影されたアトリエの写真群です。
 また、展示の一環として、アルフォンス・ミュシャの生涯と作品を追ったドキュメンタリ映画もあります。(上記ホームページより)
 しばらく自由に見学した後、来年のカレンダーを購入した。
 その後しばらく市内をふらつきながら、要所要所を説明してもらった。全ては明日のフリータイムに備えての事だ。写真は「黒い聖母の家」のその名の由来となった像。

5−8 自由時間(1800〜1930)
 ようやく自由時間になったので、急いでスーパーマーケットに行った。お目当てはお土産購入。テスコというかなり大きな店なので、全てここで購入した。といっても、いつものようにワインとチョコレート。二人ともかなりの荷物になった。
夕食も自由なので、近くのマックに入った。セットを頼んだら、ミネラルまでついてきたのでびっくりした。あまり時間もなかったので、急いでかぶりついた。

5−9 マリオネット(1940〜2200)
 全員が集合した所で最後の観光はマリオネット。国立だというが、かなり小さい。最も人形がそれほど大きな物ではないので、このくらいがちょうどいいのかもしれない。4分の3ほどの入りで、殆どが日本人だったのは一寸興ざめだ。この町にこんなにもいたのか日本人!
 演目は「ドン・ジョヴァンニ」。他にもマリオネット劇場があったが、ここの演目も「ドン・ジョバンニ」。これしかないのか?
会場が暗くなるとまずモーツァルトが現れた。オーケストラがいるわけではないが、指揮を振る様が面白い。いわゆる狂言回しの役者のようだ。この後も場面が変わる度に出てきては観客を沸かせていた。
 モーツアルトの音楽に合わせての劇は、言葉はわからないけど、人形の動きがおもしろく、大まかに知っている話の筋に当てはめながら見た。途中1回の休憩があるが、最後は少し飽きてきた。笑いもパターン化してきたし、長い。

5−10 ホテル着(2018)
 ホテルに着くと、明日は1日フリーということで朝から自由なので、荷物の整理とかもない気楽さで、風呂に入ってから早めに就寝。 (右写真は帰路バスの中から眺めたライトアップされた夜のプラハ城)