2.10月28日(日) ソウル 龍仁 (快晴)
起床(0520)ホテル発(0837)昌徳宮(0906~1040)北村韓屋村(1045~1104)新羅免税店(1117~1230)昼食(1243~)7LUCKカジノ(1420~1520)宣陵(1530~1620)水原華城(1700~1800)夕食(1820~1910)ハンファリゾート 龍仁着(1950)就寝(2130)
2-1 朝
起床(0520)買い物(0630)朝食(0720~0745)
朝は日本にいる時の、いつもの時間に起床。健康チェックをしてから荷作りなどをする。
それが済んで、周りが明るくなった頃に近くのコンビニに買い物に出かけた。階段を下りながら、どうもこのホテルは以前泊まったところであるような気になった。
コンビニはその階段を下りたところにある。セブンイレブンだ。
そこで水(500w)、チャミスル(1100w)、つまみ(1000w)を購入して戻った。
それらを部屋に置いてから朝食会場へ。
ビュッフェかと思ったらセットメニューで、座席も指定されていた。
目玉焼きが二つ、トースト、コーヒーという寂しいものだった。この先こんな感じかと思うと、暗澹たる想いもしたが、まぁ年齢から言えば、このくらいの方が健康的ではある(目玉焼き二個は多すぎるが)。
2-2 昌徳宮(0906~1040)
ホテル発(0837)昌徳宮(0906~1040)
集合は8時半だったが、少し早めに行ってみると既にバスは来ていて、乗り込んでもいいというので、サッサと後方の席を二つゲット。全員がそうなれるわけではないが、まあ、先に乗り込んだ者勝ちというところだ。
用意万端だったが、遅れてきた人がいて出発が7分遅れた。今回はいつも遅れる人がいて、最後の日にはさすがに温和なガイドさんも、団体行動なのだから時間は守ってもらわないと、という始末だった。
バスの中で、豪華な切手シートと世界遺産スタンプ帳が配られた。
さて、今日は市内観光ということで着いたのは昌徳宮。韓国読みでチャンドックンという。入り口には日本語のパンフレットが置かれていた。
それによると朝鮮時代の宮廷の一つで、太宗(3代王)が1405年に建てた朝鮮王朝第二の王宮とのこと。1592年豊臣秀吉による朝鮮出兵の時焼失してしまい、1607年から1610年にかけて再建された。が、1917年火災のため内殿などが消失したため、毀損された。1991年から復元事業が進み、整備された。現在の韓国国内の宮殿の内、最も創建時の面影を残している。
ここは以前も訪れているが、その時はここ専属のガイドと見て回らなければならなかった時代で、早口のガイドだったことしか記憶が無く、行く場所行く場所新鮮か何時がした。
2-2-3 進善門
橋の先にあるこの門は、進善門といって、仁政殿の一画の入り口になる。
ずうっと石畳の道が続いているが、中央の少し高くなっている道は王の通るための道。その横の一段低くなっている道が官僚達で、それ以外の人は周りを通ったそうだ。
ここは広場のようになっているが、長方形ではなく、進善門の方が広く、向かい側にある粛章門の方が狭い台形のような形になっている。それは、粛章門の後ろには山が連なっているため、地形を最大限に活かしながら空間を広く使う工夫をしたためなのだそうだ。
この門には、申聞鼓という物が設置されていて、市民が言うに言えない悔しさを訴えたいときには、ここへ来てその申聞鼓を叩くように、という通達が出されていたそうだが、実際には兵士達が警備している門を通過してここまで来るのは大変なことだったようで、有名無実化しており、王の行列に直訴することが多かったそうだ。
2-2-5 仁政殿
昌徳宮の正殿で、王の即位式、臣下たちへの挨拶、外国使臣の接見など、国家の重要な儀式を行っていた所で、15代の王から26代の王までの即位式も行ったのだそうだ。
前方には儀式を行う庭があり、正一品などと書かれた石が並んでいるが、これは位を表す物で、その位の者がそこに整列した。品階石というのだそうだ。左側が武官、右側が文化人となっているとのこと。
この庭には木が無いでしょと、更にガイドさんの説明は続く。四角い庭に木を植えたら困るという字になるから、韓国では嫌うのだそうだ。日本統治時代に日本人が木を植えたが、終戦後はすべて抜いたそうだ。また、門から見えるところに木があるのも、閑という漢字になるので、これまた嫌うとか。その代わり見えないところには植えても良いということで、後方には階段式の庭園がある。
韓国でも王を表す彫り物は龍だが、中国に支配されていた頃にはその龍を使うことを禁じられていたため仁政殿への階段の彫り物は鳳凰になっている。
仁政殿は、見かけは2階建てだが、内部は吹き抜けになっている。床は元々は土を焼いて作った石床が敷かれていたが、いまはただの床になっている。電灯やカーテン、ガラス窓などとともに、1908年に西洋式に改造された。
庭を取り囲んでいる外行閣には、親衛隊の駐屯所と倉庫があった。
ここは、秀吉出兵の時にも、その後にも消失したことがあるせいか、火事には気を遣っているらしく、防火用の水瓶が沢山置かれていた。またこの水瓶には別の意味見合ったらしく、夜邪鬼が忍び寄った際に、月星の灯りで水瓶を覗き込み、そこに映った自らの顔を見て驚いた退散する仕掛けだったとも言う。
2-2-8 大造殿
ここは王妃の生活場である。当時は一夫多妻制で、王妃以外に何人もの女性がいたそうだ。これらの女性は、二度と外へは出られなかったとか。
それでもこれだけの屋敷を与えられていたのはやはり王妃だからこそだろう。
それぞれの建物は廊下でつながっており、王は東側から入り、事を済ませると西側から戻っていったのだそうだ。
元々の宮廷建築の様式を再現している唯一の所となる。内部は洋式に改造されており、王室生活最後の様子が比較的良く残されているそうだ。
歴代の王の多くは、この大造殿でなくなったという。やはり最後は正室のところで過ごしたというところか。
大造殿の正面を見て右側端にある部屋は、興福軒といい、1910年、最後の御前会議が開かれた場所だ。そこで朝鮮が日本の支配下に入ることが決められた。いわゆる韓国併合である。これをもって李氏朝鮮王朝は終了した。
日時計の複製も置かれていたが、当時こういう物も考えていたのだそうだ。
ただこの頃になると、気温も上がって注意力も散漫になってきた。
2-2-10 楽善齋
朝鮮24代の王、憲宗が、側室のために建てた建物で、王宮の証である丹青(彩色)を施していない質素なものになっている。大韓帝国最後の皇太子、李垠の妃となった李方子が1989年まで生活したところでもある。
壁や障子の模様などに清の影響が見られる。また、憲宗が本と書画をこよなく好み、楽善齋は様々な書物で一杯だったそうだ。そのせいだろう、書が多く掲げられていた。
障子は後ろも前も開け放す事が出来るようになっており、風通しが良く、また後ろの庭も見られる。
また横には使用人の小部屋があった。ここもオンドルの設備は備え付けられていたそうだが、3畳くらいの狭い部屋だった。
2-3 北村韓屋村(1045~1104)
昌徳宮と景福宮の間に位置していて、朝鮮時代の政治・文化・行政の重要な地域で、村のほとんどは貴族や兩班(ヤンバン)で構成されていた。つまりは、王族や高官大尉の高級住宅地であった。それでも、部屋の数は100を超えてはいけないと言うことで、99室が最高なのだそうだ。100は王だけの特権だとか。
開発の進む中、1983年韓屋保存政策が施行されてから北村を守ろうとする声が高まって、現在は110棟あまりの韓国家屋が集まっている。
韓屋の美しさを堪能してもらえるように、特に代表的な8箇所のスポットを北村八景として指定してある。迷路のような路地をめぐり、韓国の歴史や伝統に触れようとして、八景全てを歩いて回ると、約2時間から2時間半ほどかかるということなので、それは初めから期待していなかったが、そのうちの二つくらいには連れて行ってもらえるかと思ったのだが、それについては全く触れることなくただせまい路地を歩いただけだった。
ちょっとがっかりだ。
路地は、道が狭く、坂も多い。しかもそこへ車が入ってくるので、歩くのにはかなりの注意も必要だった。
ドラマ「冬のソナタ」のロケ地となった学校の正門も見てきたので、三景の辺りを歩いたようだ。
2-7 宣陵(1530~1620)
朝鮮王陵は朝鮮王朝の建国(1392年)から滅亡(1910年)までの27人の王と王妃の墓のことで、これはそのうちの一つ。風水的によいとされる場所を選んで建てられる。しかも、なるべく本来の地形を壊さないように造られている。
第9代王の成宗(ソンジョン)と、継妃(王の後妻)である貞顕王后ユン氏のもので、造成時期は1495年。2人の墓なのだが、並んでいるのではなく少し離れたところにそれぞれ独立した形である。我々はそのうちの王の方の墓のみを訪れた。
陵域の入り口にある鳥居のような紅門から石の道を通って中に入る。この石の道の一段高くなった道は、亡くなった人の魂が通る道なので、参拝に来る人は、たとえ王でもその横を通らなければならない。
まっすぐ行くと丁字閣がある。ここでは法事などを執り行ったそうで、その様子とお供え物の内容が、写真や絵で紹介されていた。ここへ上がるのにも、神(魂)の階段と王の階段とが区別されていた。
肉は駄目で、魚も鱗のないものは駄目、酒は焼酎ではなく清酒、といろいろと決まり事があるそうだ。
陵へ向かう道沿いには、碑閣(碑石や神徒碑を保護する建物)や守僕房(陵の見張り人用の建物)などもあった。
少し坂を上っていくと丸いお椀を伏せたような土饅頭の陵に着く。陵は土饅頭の中央にあった。その周りは欄干石でしっかりガードされていた。また、周辺には、馬や羊、虎などの動物、武官、文人の像があった。陵を守っているのだという。
陵の前の机のような平らな石は、魂が戻って来たときに休憩するところなのだとか。
さすがに陵の近くまではいけないように柵があるので遠目からの撮影となった。
帰り際、塀の模様に龍が使われていた。ガイドさんによると、この頃は中国に禁止されていた模様なので、見つからないようにそっと付けたのだそうだ。
この宣稜の訪問で、我々の世界遺産訪問数(目標333)は309となった。
2-8 水原華城(1700~1800)
朝鮮の第22代の正祖大王が在位の時、行宮(王の別邸)として1794年に着工して1796年に完工した。ここも以前に訪れたことがあるのだが、どうも違う場所(違う門)に来たように思う。
ここは、正祖が父の思悼世子の祭礼をあげるために、父の墓がある華城へ向かう際、泊まれるように造ったというのが公式的な理由。が、実際は、王を退いた後、華城で暮らすつもりだったという。しかし、正祖は1800年に突然息をひきとり、その後華城は忘れ去られてしまったそうだ。何とももったいない。
長い城壁(5.5km)で守られており、入るには4つの門を利用した。半円形の門の2階に門楼が造られている。煉瓦で積み上げた半円形の甕城で、守られていたというわけだ。
そこには、南は赤、西は白、北は黒、東は青と、それぞれ違った色の旗が立てられている。
我々はそのうちの東の蒼龍門から中に入った。天井には綺麗に彩色が施されていた。そこを抜けると町が見渡せた。
それから城壁の上をしばらく歩いた。
始めに円形になっている、東北弩台に着いた。弩とは、一度に沢山の矢を射る弓のことで、弩台とは、弩機を射る防御施設で、この水原華城には、ここと西と二つの弩台が設置されている。西のは城壁の内側にあるが、ここのは、雉城(一定の距離ごとに城郭から外に付きだした構造物で、城壁に近づく敵を監視したり攻撃したりするための施設)の上に、煉瓦を積んで造られている。ここは、狭い階段を上って上まで行くことが出来る。最初の門もよく見えて、全体の様子が良く分かった。
そこから少し歩くと次の建造物は、東北空心ドン(土へんに敦)。軍士が中に入って敵を監視できるように造った望楼の一種。この東北空心ドンは、水原華城で一番特異な建物の中の一つで、煉瓦を積んで造られている。
東将台が、最後の観光建造物。華城の東方面の軍事指揮所であると同時に軍事訓練上として使用していた。兵士達の修練の場として使われた所で練武台とも呼ばれている。
将台は、東と西にある。
ふと気がつけば日はだいぶ西に傾き、城門や城壁をあかね色に照らしていた。
見学はここで終わり。水原華城のほんの一部だけだ。いろいろと調べていったのだが、時間の関係でほんのさわりだけだったのは残念だが、今日は内容が盛りだくさんで疲れていたので、こんな物かと早々とバスに乗り込んだ。
2-10 ホテル <ハンファリゾート 龍仁 403号室>
ハンファリゾート 龍仁着(1950)買い物(2010~)就寝(2130)
今回申し込んだのが一番早かったのか、名簿の順番は1と2だったので、ホテルの鍵をもらうのも一番だ。今日の部屋は403号室。フロント階なので移動も楽々。
コンドミニアム式の部屋で、全室オンドルなのだとか。韓国の人たちが家族で利用するホテルのようだ。ということで、布団も自分たちで敷く。キッチンセットも備え付けてある。買い物をするための店も2階にあるとのことなので、とりあえずの荷物の整理が終わってから行ってみた。
要するにコンビニかあるいはミニスパート言ったところだった。アイスクリームをそれぞれ好きな物を選び、合計2300wで購入。部屋に戻ってからは写真の整理などもして就寝。