オーストリア世界遺産駆け足旅行 第二日目a

2、9月22日(水)

起床(0300)ウイーン・ホテル発(0730)ウイーン空港発(1009)<OS903 17AB>インスブルック空降着(1057)昼食(1150~1305)インスブルック観光(1306~1600)インスブルック・ホテル着(1622)夕食(1820~1940)就寝(2030)
                        ホテル:アルピンパークホテル 405号室

2-1 朝

起床(0300)朝食(0630)ウイーン・ホテル発(0730)

 うつらうつらの一夜だった。時差ぼけなどとはあまり縁がない旅行をしてきたのだが、やはりトシのせいか熟睡はできなかった。
 仕方なく3時には起きることにして、健康チェックの後、日記を書いたり今日のコースを確認したりして長い時間を過ごす。
 ようやく朝食の時間時なったので下へ降りていく。朝食は全員がそろってから一緒に行くことになっている。ビュッフェスタイルで、味は悪くなかった。
 朝食から出発まで1時間しかないので、さっさと済ませて部屋へ戻り最終確認。
 外は深い霧に包まれている。飛行機での移動なので、飛ぶのかどうか気になる所だ。

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2-2 インスブルックへ

ウイーン空港着(0755)

 バスは昨日来た道を引き返し、空港に向かう。一面靄がかかっていて、太陽も朧月状態で、幻想的な感じ。こうした天気は日中には晴れる。今日もウィーンは晴れだろう。しかし我々はウィーンを後にしなければならない。インスブルックもかくあれと祈る。

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2-2-1 ウイーン・空港にて

 オーストリアのカウンターへ行こうとすると、まず、それぞれが自動チェックイン機で手続きをしてから、といわれた。機械はたくさん並んでいて確かにみんながこれを使いこなせれば効率がいいのだろうが、説明する係員もそういるわけでもなく、結局あちこちからこれどうするの?次どうするの?と日本語が飛び交うようになった。我々も先頭切って機械に向き合った。日本語画面もあるのだが、どうも何をしたいのかの説明がないので、要領を得ない。それでも格闘していると、結局これはらちがあかないと思ったのだろう、結局はカウンターでよいということになった。
 カウンターは10くらいあったのですぐに手続きが終わった。我が家の席は17Aと18Fと離ればなれだったので、変えてくれというと、グループだからダメだという。グループ内でそれはやってくれということだが、いつものせりふながら、個人主義の国が何をいうかと思う。
 昨日のパスポートコントロールの人といい、どうもオーストリア人というものは、サービス精神というか愛想がない。まあ、1時間くらいだからいいやとそのまま受け取る。帰国日もそうだったらと思うと頭が痛い。
 全員で搭乗口付近まで移動して、最終的に集合時刻を確認していると、搭乗券が違っていることに気が付いた人がいた。なんと、成田行きの搭乗券が発券されていたのだ。
 今はEチケットですべて簡単に書いてあるだけの券だからにしても、ひどい間違いだ。こんなこと初めての体験だ。添乗員とともにカウンターへいって変えてもらったが、スーツケースも成田行きの方へ行ってしまうだろうから、全く大変なことになるところだった。
 一つ一つ自分で確認することが大事だということを教えられた一件だった。
 それから地図を探したりおみやげに買ったチョコレートの試食をしたりして過ごした。

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2-2-2 機内にて

搭乗(0945)離陸(1009)飲み物サービス(1039)

 飛行機は双発のプロペラ機。見るからに小さい。そこまでバスで行った。
 番号が後ろの方なので、後ろの入り口から入る。皆、前の方から乗り込むので、一番に機内に入った。座席は20番までの4列。離れて座っていると、たまたまjunの隣が添乗員さんだったので、席を替わってもらって、二人で並んで座ることができた。
 離陸してしばらくすると窓の外には、畑が見えてきた。日本と同じとまではいわないが、限られた耕地なので、比較的一区画が大きくはない。また人工的に作られたのだろうか、池の周りに人家が囲むようにしてるそうした場所を3つ4つ見た。別荘になっているのかもしれない。
 さらに進むと山々が見えてくる。山々に囲まれた盆地のようなところがあり、そこには雲溜まりと形容したらよいかと思うような一面雲に覆われた地表があった。さらに進むと機体の近くにも山が迫ってきた。残雪があるのも見て取れた。これはインスブルックのガイドさんが行っていたのだが、7・8月にも冷夏で降雪が山にはあったということで、その名残なのかもしれない。感じとしては、九塞湖空港に着陸する直前のような感じのところを通る。
 そのころ飲み物とスナックのサービスがある。チョコバーのようなものと、リンゴの絵が描かれた小ぶりの袋とがあったので、両方を一つずつチョイスした。チョコバーもどきの方はまぁその想像通りではあったが、一方は何とリンゴそのもの丸ごと一個が入っていた。
 飛行機から見える山々はさらに高くなってきたのだろうか、残雪というよりは氷河のように感じられる頂を見ながら飛ぶ。あいにくと逆光なので、あまり写真的にはよくないが、いやが上にも冬季五輪を二回も開催した場所にこれから行くのだという実感が伝わってくる。遠くに、更に進んでそれよりも近くにピークが二つ見えた。
 やがて飛行機は少しずつ高度を下げ始めた。山間の村に不釣り合いなくらいの教会が見て取れた。車輪が出始めた。インスブルック郊外の集合住宅が見える。やがて小さな流れを越えるとそれに平行してインスブルックの駅の上空に出た。
 noriは必死になって次に現れるであろう新市街と旧市街地域に向けてカメラを構える。やがて写真で見た時計塔が現れる。市の塔だ。これだけはと必死にカメラに収める。その直後に飛行機は飛行場エリアに入った。

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2-2-3 インスブルック・空港

着陸(1057)空港発(1120)

 空港は小さなものだった。これで二回のオリンピックをこなしたのかとも思う。空港の建物の反対側は山が迫っており、綺麗で絵になる風景だ。乗客は皆カメラを構えていたが、係員は特にせかすようなこともなく、注意めいたことも何も言うことはなかった。
 空港からはもちろんバス移動。このバスで我々は基本的にこの後移動することになる。
 乗り込んできたガイドさんは日本人。
 道々オーストリアについて話をしてくれた。
 まず、今日は久しぶりの天気なのだとか。7月~9月の間に30度を超えたのは数日で、雨が多く、20度前後の日が多かったそうだ。8月半ばには積雪もあったというほどの冷夏で、日本の暑さがうらやましかったと言われた。今日は26度まで上がる予報だが、そんな日でも朝晩はせいぜい10度くらいだという。
 インスブルックは、1180年頃にできた街で、ドイツ国王の家来に支配されていた。イン川にかけられた橋、という意味の名前がつけられ、それがインスブルック。当時かけられた木の橋が、街の紋章になっている。1363年にオーストリアの支配下に入った。というのもそれまで支配していたチロル伯が亡くなったために、ハプスブルク家の傘下に入ったということのようだ。
 現在は、人口が15万人くらいだが、そのうち2万5千人は大学生と言うほど多く、大学生の街だ。バスで通り過ぎたインスルブック大学には、神学が有名と言うことで多くの韓国人が学びに来ているそうだ。
 夏は登山、冬はスキーの街として名をあげている。

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2-3 昼食(1150~1305)

サラダ、ヌードル入りスープ、チキン、フルーツ(オレンジ)、パン。赤ワイン(2、4€×2)

 バスは15分ほどで、市街地に出た。そしてあっという間に新市街地に。新市街地というが、それは比較の話で、古い町並みを保っている。
 バスを降りて歩いていると聖アンナ記念柱が目に入ってきた。すでに我々は、マリアテレジア通りに入っていたのだ。食事場所はその通りにあった。
 早く着きすぎたので、まずは昼食の店と交渉して早めに食べられるようにしてもらった。

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2-4 インスブルック観光(1306~1600)

 まず添乗員とガイドさんが観光の打ち合わせをしていた。聞くこともなく聞いていると、ガイドさんがしきりに時間のことを言っている。要するに自分の契約は○時間というようなことだ。その契約時間の中に我々の自由時間も含めて、と言うようなことを言っているので、なんかおかしい気がした。その予感通り、この人は、形式的に説明をさっさと済ませるだけで、観光客のことなどはみじんも考えていないようなガイドぶりだった。(輸入が禁じられている干肉などをほとんどそそのかさんばかりの勢いだったような点も気になった。)

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2-4-1 マリアテレジア通り

 昼食を終えて出たところがマリアテレジア通り。そこで動くこともなく、遠くに見える聖アンナ記念柱の説明を始めた。逆光だし、近くに行って写真を撮りたいと思ったのに、これはあるまいと思った。更に、ガイドブックには必ず載っている凱旋門には、遠いので行きませんと言って、反対側の旧市街の方へ向かった。要するにマリアテレジア通りはこれでおしまい。
 が、自由時間になってから行った人に聞くと、凱旋門までそんなに遠くなかったと言うことだった。

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2-4-1-1 聖アンナ記念柱

 この通りの一番の目玉だという。一時スペインからハンガリー、オランダの一部までも支配下に置いたハプスブルク家だったが、スペインのカルロス一世がその後をフランスのブルボン家に継がせると遺言をしたために1701年、スペイン王位継承戦が起きる。そのとき、隣接するドイツのバイエルンが軍を送りこの地は占領された。その後独立するわけだが、独立した日が聖アンナの日だったので、それを感謝してこの記念柱を立てたと言うことだ。
 一番上にいるのがマリア、下で手を合わせているのがアンナ。アンナはバイエルンの方を向いている。侵入を防ぐ祈りをしているからだそうだが、実際には、その後もナポレオン軍とナチス軍に占領されている。ためにこの両者は今でもあまり仲が良くないそうだ。
 ナチス軍の駐屯地となった建物が、この通りにある州の議会ホール。記念柱の後ろにある黄色い建物だそうだが、はっきり確認はできなかった。
その近くにある白い建物がショッピングセンター。地下にスーパーがあって品揃えもよく安い物がたくさんありますよ、などとガイドさんが言う物だから、これも後で物議を醸し出す一因となった。

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2-4-1-2 シュピタール教会

 今は普通の教会だが、かつては病院教会と言って、身寄りのない人や病人を世話する所だった。裏にかなり大きな墓地もあって、今はその通路は小さな喫茶店になってしまってふさがれている。
 こうした病院教会は、旧市街の外側に造らねばならないという決まりがあったそうだ。
 他にも都市としての権利を認められるためには条件があったそうだ。
 一つ目は、街を取り巻く溝があること。今はそこはマリアテレジアによって1765年に埋められて道に変わったが。
 二つ目は、城壁と城門があること。もちろん街を守るための物だ。それも今はない。というのもやはりマリアテレジアによって壊された。代わりにやや離れた所に凱旋門が造られた。
 旧市街の入り口の建物の壁に、この昔の門の絵が描かれて残されている。
 三つ目は、街には教会と塔があること。
 インスブルックは1239年にこれらをクリアして都市としての権利を得た。

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2-4-2 乗り物

 古い町と新しい町を象徴するかのように、同じ道を車と馬車とトラムと、最近増えてきたという自転車が併走している。その間隙を縫って人は道路を横断する。
 これがなかなか難しい。車は止まらなければならないそうだが、自転車は無鉄砲に走ってくるそうだ。いずこも同じ光景か。

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2-4-3 宮廷教会と修道院

 マリアテレジア通りから旧市街の方へ横断して、大きく右に曲がって行くと、右側に宮廷教会が見えてきた。ここには皇帝マクシミリアン一斉の墓石がある。
 向かい合うように左にあるのが、今はレストランになっているがかつては修道院だった。
 これは、マリアテレジアが、夫のために造った物で、娘のエリザベートを院長にして、一日2回のミサをあげるように命じたという。

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2-4-4 王宮

 宮廷教会とレストランのアーチをくぐっていくと王宮に出る。そこからは山並みが見える。山々は、2千から3千m級で、その中に頂上に白い建物が見える所までは山岳鉄道で20分ほどで行けるとか。その高さは2,200mくらいだそうだ。
 オーストリアに王宮と名がつくものは、3つあるがここはそのうちの一つ。他の2つはウイーンにある。
 マクシミリアンがこの街を気にいってジークムント公によって1460年頃に造られた城を拡張した。
 当時はゴシック様式だったが、マリアテレジアの時にロココ調に造り替えられた。マリアテレジアはここにシェーンブルン宮殿と同じ物を造りたかったそうだ。
 ロココ調は左右対称というのが特徴。ということでマクシミリアンが造った塔が合わないというので白い塔に造り替えられた。今は全体が白くなっているが、マリアテレジアの時はマリアテレジアの色、黄色が主体の建物だった。
 また、バルコニーの下に王冠とM・Tの金文字が見られるが、これはマリアテレジアの頭文字。何と自己顕示欲の強い人だろうと思う。この人に育てられたのがマリーアントワネット、さもありなんという感じだ。
 中には部屋が400くらいあり、そのうち30くらいが個人の物として貸し出されているそうだ。ただ、住みやすく改造することは許されず、クーラーなどもつけられないそうだが、ガイドさんによると住みにくさよりも快感・満足感があるのでしょうと言うことだ。
 中の見学もできるが、最低でも1時間は必要でしょうということだった。フリータイムには無理でしょうということだ。

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2-4-5 前庭

 王宮の前に、額縁があった。これはこの時期だけのモニュメントとして置かれているとのこと。その額の中に自分が入って完成となる、とのことで、早速noriがモデルとして入る。
 それからレオポルトの噴水。レオポルト五世の騎馬像がある。が、これは人物よりもその馬の方に価値があるという。
 前脚をこのようにあげて後脚だけで立つクルベットという姿勢はアルプス以北で現存する最古のもの。ザルツブルクのミラベル宮殿のペガサス像よりも古いんです、と得意げな説明があった。作者は同じ人。しかしこのスタイル、ロシアで何度も目にした。
 騎馬像のまわりには、女神像や海神像も置かれている。それと現代人の悪戯による三角コーンも。

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2-4-6 再度宮廷教会

 「戦争は他家に任せておけ。幸いなオーストリアよ、汝は結婚せよ」の言葉が示すとおり、ハプスブルク家は婚姻により領土を拡大してきた。その最も成功した例はマクシミリアンの時代。マリアテレジアに時は、拡大と言うよりも保守のための結婚政策だった。
 マクシミリアン一世は、この宮廷教会内に霊廟を準備していたが、24,000グルデンの借金を理由に滞在を拒否されたことがあり、遺言により遺体は母エレオノーレが眠るヴィーナーノイシュタットの聖ゲオルク教会に、心臓だけはブリュージュ(ブルッヘ)の聖母教会にある最愛の妻マリーの墓に共に埋葬された。ために、中央に24のレリーフが施された棺の中に遺体はない。
 この霊廟の両側にある等身大以上の28体の青銅像「黒い男たち」はドイツ・ルネッサンスの最高傑作といわれている。
 これらは、1553年~1563年にフェルデナンド1世の命により造られた。
 ここは写真付きの説明だけ。後でフリータイムにでも入ってみてください、ということだが、そんなに時間はない。
隣接しているのが博物館。
 修復中という王宮の中庭を通り抜けて次の見学場所へ向かう。

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