バルト三国

5月5日(水) リガ(ラトヴィア) =国境越え= カウナス(リトアニア)曇後晴

起床(0500)朝食(0620)ホテル発(0800)国境(0910~0928)十字架の丘(1005~1100)昼食(1150~300)カウナス観光(1433~1845)ホテル着(1900)

5-1 朝

起床(0500)朝食(0620)

 朝からどんよりした天気だ。雨にならなければいいのだが。それでも、窓からの景色は、思わずカメラを構えさせるほど綺麗だった。手前の川は運河のようで、船を着けるためだけのもののようだ。大きい川が昨日遊覧したダウガヴァ川。その向こうに広がるのが旧市街地区だ。
今日は荷物を出さなければならないので、健康チェックの後荷作りをし、朝食の前に部屋の外へ出した。
 それから朝食に行った。内容はいつもと殆ど変わらない。



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5-2 カウナスへ

ホテル発(0800)国境(0910~0928)

 今日はまた国境越えをして、次のリトアニアへ向かう。
 バスは定刻に出発。座席は今日も一番後ろの席をゲット。ここが我が家の定位置となった。
 町にはちらほらと通勤・通学する人達の姿が見えた。こちらは公共の乗り物が発達しているのか、停留所も充実している。
 国境へは1時間ほどで着いた。雨がちらほら降り始めてきた。ここで両替をした。他には何もない。小さな小屋のような所にいる両替えの人が気の毒に思えた。
 今回は50ユーロを169.5リタスと変えた。
 リトアニアに入ると、それまでの荒れ地や湿地帯とは違って、耕作地や牧草地が目立つようになった。鹿らしい動物が飼われているのを珍しく見た。ただ、耕作地は広いのだが、巨大スプリンクラーはなかった。自然の恵みで十分と言うことだろうか。
 また、コウノトリの巣を見つけた。中にコウノトリがいるのかどうかはわからない。



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5-3 十字架の丘(1005~1100)

 バスを下りる時には、どうにか雨も上がっていた。良かったと思ったが、まだ雲は厚い。
 まずはインフォメーションでトイレを借りる。有料だ。今回の旅で有料だったのはここだけだった。一人1リタス。
 その前にお土産物やさんが数軒並んでいる。一坪くらいの小さな店で、殆どが十字架やロザリオだ。それらを眺めているとどこからかその店の売り手のおばさんが飛んできて、サインペンを手に盛んに何かをしゃべっている。こちらがわかろうとわかるまいと関係ないようにサインペンを突き出してまくし立てていた。多分売り込みなのだろう。そこで我が家は十字架を買った。それも奮発して20リタスの大きな方。そこに早速サインペンでお願い事を書いた。添乗員さんには、ここはそういう所ではありませんから、と言われた。
 それを持って丘の方へ行った。しばらく歩くと小高い丘が見えてきた。どんよりした雲の下にある。
 添乗員さんによると、「ここは快晴になることは少なく自分が来たときも殆どこの様な天気が多い。冬などもっとどんよりしていて夕方に来ると不気味な感じがして途中で引き返すお客さんもいます。」ということだ。
 誰がいつ始めたのかは定かでないが、多くの十字架が立てられるようになったのは、当時の支配者である帝政ロシアの圧政にポーランド人とリトアニア人が1863年に蜂起して多くの犠牲者をだしてからである。礼拝堂があるわけでもなく、祈りの場というのではなく、また墓地でもない。ここは、抑圧された民族・宗教の思いの象徴とされた。
 ソ連時代には、この丘は禁域とされ何度もブルドーザーで壊されたり燃やされたりしたが、その都度すぐに置かれるようになり、この繰り返しの末やがて黙認するようになった。そういう歴史の重みのある場所に我が家はお願い事を書いて仲間に入れてもらった。
 ここにはいろいろな十字架がある。カトリックのもあるしプロテスタントのもある。コプトの十字架もある。それらにはたくさんのロザリオがかけられている。ロザリオは、数珠と同じように右手に巻いて一つ一つ数を数えながらお祈りをするのだそうだ。修道士は必ず持っているとか。
 十字架の数に圧倒されながら、周りを1周した。これらの十字架は、定期的に整理をする人がいるそうだ。



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5-4 昼食(1150~1300)

 昼食はカウナスへの途中の村で。風車の中のレストランという一寸変わったところだ。風車の中なので、狭い。2階へ通されたが、我々の団体が入ると満席状態だ。3階まであるらしい。
 メニューは、チーズ入りサラダ、ツェペリナイ、フルーツゼリー。
 サラダは美味しかったが、郷土料理というツェペリナイはどうも、というところか。


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5-5 カウナス観光①
    郊外編(1433~1710)

 カウナスに入ると緑が多いことに気がついた。また花も沢山咲いている。急に暖かい地方に来たような感じがする。
 カウナスはリトアニア第二の都市。やはりハンザ同盟の一員として、商業活動の中心地として繁栄した町。旧市街にはこの頃のゴシック建築が数多く残っている。
 ここは、1920年にポーランド軍がヴィリニュスを占領してから第二次大戦が終わるまでの間、ヴィリニュスに代わって首都であったことがある。
 また、ここは日本には一寸縁のある町だ。


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カウナス マップ


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5-5-1 杉原記念館(1433~1525)

 始めに行ったのはその縁。旧日本領事館が今は杉原記念館として開かれている。
 言わずもがな、杉原千畝が、ここで弾圧されたユダヤ人にビザを発行してその命を救ったという所だ。発行されたビザの数は1600(2100以上との説も)に及び、これによって実際に日本を経由し、第三国に渡ることのできたユダヤ人は6000人を越えると伝えられている。ビザは家族に1枚あれば良かったからだ(杉原千畝の考え方)。つまりはシンドラーが、チェコ人の杉原と呼ばれるべきではある。映画化がシンドラーでされたからという事情によるにすぎない。
 記念館の外にはサクラが植えられ、丁度花を付けていた。ヨーロッパで桜を見るとは思わなかった。中に入ってまずは彼のビデオを見た。かなり古い実際のビデオも挿入されていた。そこで彼の業績を知ることが出来る。
 何故、日本領事館にユダヤ人が殺到したかと言えば、その頃、オランダと日本以外の大使館は閉鎖されていたから。日本領事館もソ連から早く閉鎖するようにせかされていたらしい。そういう条件の下でもビザを発行し続け、閉鎖された後はホテルでも書き続け、それはカウナスから退去する列車の発車間際まで続いてともいう。
 彼はブカレストの領事を最後にシベリアに抑留され、帰国後は外務省を退職した。
 執務室を再現した部屋には、写真も展示されていた。面白かったのは、ここを訪れた人の地域がわかるようにと日本地図に小さな日の丸がさしてあったことだ。勿論東京は既に一杯だった。



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5-5-2 第9要塞(1550~1710)

 第9要塞へ向かう途中、団地があった。「ここがゲットーだったところです。ここから第9要塞まで続く道が死のロードと言われています。私たちはそこを通って要塞へ向かいます。」とガイドさんに言われてドキッとした。今は全く関係のない建物が建ち、関係のない人が生活し、関係のない車が横行している。ましてや観光に来た我々などそこを通ることも憚られるのではないか、と言う重い気持ちになった。
 ともかくもその道を通って第9要塞に着いた。
 バスを下りて要塞へ向かう途中に変わった形をした3つのモニュメントが目に飛び込んできた。これについては後で説明があった。
 リトアニアは1800年代、帝政ロシアの支配下に置かれていた。この建物は第一次大戦でのドイツ軍の侵攻に備えてロシア軍が1913年、9番目に建造した要塞だが、たった11日間の戦いでロシアはこの要塞を放棄した。第一次世界大戦後の1918年にリトアニアは独立国家として誕生。ここは、1924年からカウナス市の重労働刑務所として使用された。しかし、1940年再びロシアの支配下に置かれると、シベリヤへ流刑される政治犯を収容するための刑務所として使用された
 そして1941年再びドイツが侵攻し、その占領下ではユダヤ人の虐殺も行われた。ここも強制収容所として使用され、リトアニア国籍のユダヤ人約2万人、その他の国籍のユダヤ人約3万人の計5万人が収容された。彼らはここで殺戮されたわけだが、その場所にさっきの記念モニュメントが建てられた。
 いくつかある要塞の中でここの保存状態が一番いいということで、1959年博物館としてスタートした。
 中に入るとまずはカメラ券を購入した。一人20リタス。結構いいお値段だ。
 中庭を抜けて中に入るとすぐ蝋人形がいてドキッとさせられた。



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要塞の説明

 9つある要塞の様子が見取り図と写真で展示してあった。


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ユダヤ人を救った人々 杉原千畝達の部屋

 6千人のユダヤ人を救った外交官ということで杉原千畝を取り上げた部屋があった。資料の内容的には、先に行った記念館と大差ない。が、数量的にはこちらの方が多い。
 杉原さんのビザ発給は7月末にソ連が外国公館の閉鎖を決定してから急増する。他の国が早々と閉鎖した中で、オランダと日本が最後まで開いていたからだ。彼は期限切れのパスポートの人、行き先国のない人、金のない人などにも日本通過ビザを発給した。必要書類の不備をも無視して、退去の1940年9月4日までに2139人にヴィザを発給した。ビザを手にしたそれらの人たちはシベリアを経由して日本に渡り、世界各地へと逃亡していった。これが杉原さんの偉業で、この行為によって彼は1969年と1985年にイスラエルから顕彰されている。しかし、これだけのことを彼一人で行い得たわけではなく、オランダの領事、ロシアのウラジオストックにいた彼の友人の二等書記官の協力があってこそのことだった。また、日本では、神戸にあったユダヤ人協会が、受け入れと送り出しに奔走した。助けられた人の中には、後にイスラエルの宗教大臣になった人もいた。
 杉原さんは、その後、1940年9月4日にカウナスを離れ、プラハ、ケーニヒスベルク、ルーマニアと任地を移し、終戦を迎えるとブカレスト郊外のソ連の収容所に1945年8月17日に連行された。1年3か月間拘留の後の1946年11月16日にブカレストを発ち、5か月後の1947年4月10日にウラジオストクに着き、興安丸で博多に帰国した。しかし、6月7日に外務省を解雇された。
 彼以外にもユダヤ人達を救った人々の資料もあった。
 ところで最初の写真の右上は彼の死語の奥さんの写真。一緒に移っているのはなんとスピルバーグ。どうも彼は杉原の物語を最初映画化したかったらしいとのこと。


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囚人(監獄時代)の部屋

 強制収容所になる前は監獄だった。そのときの部屋を再現した。男女同部屋という扱いで、主に政治犯が収容されていた。書簡など読むことが出来なかったので、ベンチや壁に隠し場所などがあった。彼らは主に農業に従事していた。

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看守に逆らうと・・・仕置き部屋、独房、立ち牢など

 やはり反逆者とはいるもので、看守に反抗したり言うことを聞かなかったりすると仕置きされる。その様な部屋を3つ見せられた。
 1つめは罰の部屋。独房ではなく複数で入れられる1.5畳くらいの部屋。光は全く差し込まず、水が滴るようなじめじめした部屋に、2日から2週間閉じ込められた。中には体調だけではなく精神的にもおかしくなるものも出たとか。罰として膝の上に重い石を乗せる石責めという拷問もあったらしい。
 2つめは独房。やはり光は全く入らない。階段の下で、囚人の履いている木靴がひっきりなしに音をたてて通るので気の休まるときがなかったとか。ここには3日間閉じ込められた。部屋の名前は「ヘルスリゾート」。何とも皮肉な名を付けたものだ。
 3つめは、立ち牢。狭い所に20人くらい詰め込まれ、座ることが出来なかった。ここに何日間も閉じ込められた。


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ストーブ

 廊下は細く長く暗い。そこに1913年製のブリキのストーブがあった。これは看守たちようで、部屋の中には当然無かった。


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フランス国籍のユダヤ人

 ここにはカウナスだけでなくヨーロッパのあちこちからユダヤ人が集められた。フランス国籍のユダヤ人の部屋で一部屋を占めていた。それだけ人数が多かったのだろう。彼らの番号と名前が表示されていた。また、壁には落書きが残されている。ナチがここを捨てて逃げるときに、証拠隠滅のために塗り込めたものを、剥がしたものだ。
 それから彼らの持ち物が並べられている。全て没収されたものだ。


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ゲットーの様子

 ゲットーの様子のわかる写真が並べられている。
 またカウナスのゲットーの様子を再現してある。
 1941年6月14日、ナチスが侵攻してきた。ユダヤ人を集めるために造り、周りを有刺鉄線で囲んだ。当初は約3万人が入っていた。彼らはっここでいろいろな作業をさせられた。一人一人、右上に腕章を付けさせられた。没収品の中には、櫛や眼鏡などの必需品から、金属製品、金歯までも取られた。
 カウナスで一番殺戮の多かった日は、1941年10月28日から29日の2日間で、1万人が殺された。自分で穴を掘って、裸にされて殺されて、その穴に落とされた。それが延々と繰り返し続けられたそうだ。終戦間際になって、ソ連軍が攻め込んできたので、そこを爆破して痕跡を消した。展示されている品々は、後に掘り返して見つけたもの。
 いたいけな子供や幸せそうな家族の写真を見ると心が痛む。


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集団脱走

 1943年12月24日に大脱走が起きた。
 さながら映画のようだが、作業中に見つからないように少しずつドアに穴を空けておき、この日に決行した。鉄のドアに、小さく300個の点の穴を空け、最後に大きく開けてそこから逃げたのだそうだ。
 ドイツ兵はというと、クリスマスで一寸浮かれ気分であったことと、敗戦の色が濃くなっていたので痕跡を消す方に神経がいっていたせいだろうという。
 ドアを蹴破った後、その裏のトンネルを通って外へ出た。しかし、森の方へ逃げた者は捕まって殺され、ゲットー方面へ逃げた者は行方不明ということで捕まらなかった。旨く逃げおおせたのだろうと想像してもその数は24人に過ぎない。
 そのときに使ったドリルや合い鍵、梯子などの道具類も展示してあった。


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外へ

 もう一度建物を確認するように外側から眺めた。建物の横にトンネルのような入口がある。
 また、そこから続く小高い丘と水が涸れた堀のような部分には、今でも人骨が埋まっているのだそうだ。いかんせん、殺戮された人の数が多くて発掘しきれないのだそうだ。また、一部当時の殺戮の場をそのままに残してある。


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3つのモニュメント

 その先にモニュメントがある。「希望、独立・勝利、痛み・苦しみ」の3つを表した3本柱になっている。
 近づいてよく見ると、そこには顔と手が浮き彫りにされていた。


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5-6 カウナス観光②
    旧市街地区編(1730~1845)

 カウナスはネリス川とネムナス川に挟まれている。この様に川の合流地点は防衛上の拠点として重要な地点であることが多く、城が築かれる。カウナスもその例に漏れず、城が築かれた。


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カウナス マップ (旧市街)

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カウナス城 (1731~)

 人は紀元前から住んでいたようで、5世紀か6世紀頃には集落ができていた。そこに小さな砦が築かれたのが1140年頃である。この砦が後にはカウナス城となる。この城はかつては高さが13mで厚さが2mの城壁で二重に囲われていた。1362年にドイツ騎士団の攻撃で陥落した。その後、ビタウタス大公の時代に再建され、1500年代には砲台もあり、ヨーロッパの国の中でも強固な城塞であった。しかし、ドイツ騎士団に勝利した後は、城としての重要性を失った。
 17世紀には牢屋として使用するようになり、1800年代には帝政ロシアに支配されるようになった。その頃石などが建築材として持ち出され、廃墟となってしまった。
 現在は4つの塔のうち修復された一つの塔と城壁の一部、城郭の名残だけとなってしまった。まだ修復中であるが、一部は観光案内所と博物館になる予定であるとのこと。


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オルギ教会 (1739~)

 聖フランシスコ派の教会。ソ連時代には倉庫として使われ、そのためにステンドグラスは全て壊されて壁にされてしまった。


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ベルナルディン修道院

 1400年代の修道院で、施療院でもあった。ソ連時代は閉鎖されていたが、独立後、修道士が戻ってきて、修道院として使用中。


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神学校・司教館・聖三位一体教会 (1742~)

 神学校は、カトリックのものである。プロテスタントにはない。この神学校は1600年代に造られた典型的なルネッサンス様式の建物。ソ連時代には軍事教練場として使われた。
 司教館は1938年の再建。ソ連時代には美術学校として使用された。(3番目の写真)
 聖三位一体教会も、1600年代のルネッサンス様式。
ゲオルギ教会からこの辺りまで立ち止まることなく話しながら歩いて行くので、写真を撮りながら記録を取りながら、もう大変だった。ということで、もしかしたら説明と写真に違いがあるかもしれない。また、ソ連という言い方で説明していたので、そのまま記述したが、たぶんあっていると思うがロシアかもしれない。その辺りがはっきり出来なかった。


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マルクト広場 (1745~)

 市庁舎があるのはドイツ風にいうとマルクト広場。町の中心になるマーケット広場である。14世紀にカウナスはハンザ同盟都市の交易圏として栄えた。カウナス自体はドイツ人の町ではないのでハンザ同盟には加盟してはいないが、ハンザの代表部がおかれた。
 主に取引をしていたのは、リネン(亜麻)、アンバ(琥珀)、蜜蝋などである。この広場には蜜蝋の製造所があった。その跡が、ガラスで覆われて覗けるようになっている。
 周りには 大聖堂もあったが、これは後で行くことになっている。


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旧市庁舎

 1542年に最初の基石が置かれ、18世紀半ばに今のように建てられた。美しいバロック様式の建物で、「白鳥」に例えられる。帝政ロシアの時代には政治犯の牢獄として使われ、その後は皇帝の別宅にもなった。
 現在は結婚の登記をするだけになっている。教会で結婚式を挙げると、カトリックの場合離婚できないので、最近の若い人はここで登記する人が増えているのだそうだ。


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ペルクーナスの家

 15世紀ハンザ商人の館として造られたゴシック様式の建物。36種類ものレンガを使っていろいろな様式が絡み合って複雑な作りになっている。その後、イエズス会の教会となり、やがて市長の家となり、学校となり、今は図書館となっている。
 19世紀に修復が行われたとき30cmほどのブロンズ像が見つかり、これがキリスト教以前の多神教の女神ペルクーナスであるという説と、インドの神像であるとの説があるが、今その像は失われてしまってない。(この部分の説明には少し違った意見もある。日本語版ウィキペデイアによれば雷の男神。ヒンディーのパルジャニヤやスラブ神話のペルーンと同じと解説がある。)


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聖ビタウタス教会

 15世紀前半にたてられたゴシック様式の教会。ビタウタスが戦場に行って奇跡的に勝利できたのは神のご加護だということを感謝して造ったといわれる。これもレンガ造りで綺麗だ。
 この教会のすぐ横を流れるネムナス川は、何度も反乱を起こしていた。その中でも特に、1946年の3月24日には2.9mも水位が上がった。その記録が残されている。


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ドイツ商人の家

 市庁舎広場に面して大聖堂に行く途中に土産物屋が並んでいる。これらの建物は、ハンザ同盟で実権を握っていたドイツ人達の住居だった所。土産物屋だけではなくアパ-トメントにもなっている。お金持ちは窓をステンドグラスで飾っていた。キッチンは3階にあったので、煙突は暖房用ではなくキッチン用のものだそうだ。


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大聖堂

 丁度ミサの最中だったので、迷惑のかからないようにと静かに入る。
 15世紀のもので、リトアニア最大のゴシック様式。大きな9つの祭壇が見物で、両脇にはカトリックの特徴である懺悔室がある。現在のリトアニアのカトリックの枢機卿はここを本拠地としている。
 内装はネオゴシック様式。ゴシックの後の様式だが、柱で天井を支えるというのは同じ。両壁にはフレスコ画が描かれており、キリストの奇跡を描いている。「ペテロのすなどり」や「パウロの落馬」の場面などもある。といっても、ミサ中ということで話だけだったので実際に目にしたわけではない。
 この教会は、「聖ペテロパウロ大聖堂」という名の通り、ペテロとパウロに献堂されている。
 裕福な貴族の個人の礼拝堂もある。


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買い物 (~1845)

 その後少し買い物タイムとなったので、ユーロが使えるという店に入ってリネンの人形を購入した。
 ガイドさんがインフォメーションセンターには琥珀を売ってますから是非見てくださいというので、行って見たが、あまり売る気もなさそうだし、品物も気を惹くようなのがなかったので早々と出て、集合まで市庁舎の写真を撮ったりしていた。


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5-7  ホテル ★★★ 808号室

 ホテル着ちょうど19時。 ホテルは今回の旅行では一番ランクが下といえるホテルだが、一応必要なものは揃っているしバスタブもあるので文句は言うまい。
 夕食までのんびりしようと思ったが、向かいにスーパーがあるので、まずはそこへ行ってみることにした。


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買い物(1920~1945)

 結構大きなスーパーだった。仕入れたのはお土産にするチョコレートと今夜のビール。無事支払いも出来た。


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夕食 (2000~2050)

 メニューは、サラダ(キューリの詰め物)、メーンはズッキーニ、デザート、コーヒー。
 これがびっくりだった。サラダはいいとして、メーンがズッキーニということだが、サラダと殆ど同じ。肉が食べたい肉が食べたい我が家にとっては大いに不満のある食事だった。同席の人とも余り話をせず、さっさと平らげた。


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再び買い物

 ということでまたスーパーへ行った。何か食べるものを、肉を、ということで探した。するとチキンの照り焼きが袋に入って、しかも温められた状態で売っていた。それを買い込んで、部屋で宴会をした。
 食事は寂しかったが、窓から見えたライトアップされた教会は綺麗だった。


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