8月18日(火)
マルセイユ〜アルル〜ポン・デュ・ガール
〜アビニョン〜リヨン
起床(0500)朝食(0625)マルセイユ・ホテル出発(0738)アルル(0856〜1050)ポン・デュ・ガール(1135〜1215)アビニョン(1240〜1530)リヨン(1830〜1930)リヨン・ホテル着(1930)夕食(2010〜2200)就寝(2300)
4−1 朝
・起床(0500)朝食(0625)出発(0738)

6時半からの朝食ということではあったが、少し早めに行くともう地下にある朝食場所には明かりが点いていたので、5分ほど早かったものの食べ始めた。ヨーグルトとパンとコーヒーを飲んでいるうちにほかのメンバ

それからハムだとか卵だとかいろいろ追加されて出てきた。純粋のコンチネンタルとネットを調べると出ていたので、最初からこんなものかと思っていた分、嬉しかった。最後に果物が出てきたので、緊急食料用にバナナを二本失敬した。
出発は荷物の積み込みに時間がかかって、7時38分に出発した。外はかなり明るくなってきていた。
4−2 アルル(0856〜1050)

アルルは、ローヌ川河畔に位置し、運河で地中海と結ばれた交通の要衝。紀元前1世紀ごろ、すでにローマ帝国の植民都市となり

最初に町に入って、現地のガイドさんをピックアップ。日本人の女性。日よけのためだろうが大きな赤い帽子をかぶっているので、非常に見つけやすい。まずは郊外へと車を進める。
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4−2−1 ゴッホの跳ね橋(0910〜0915)

この絵のモチーフの跳ね橋は実はもうない。第二次大戦で破壊されてしまい、ゴッホの絵をもとに復元したのだそうだ。と言っても跳ね橋はこれだけではなく、同じような橋が運河に20余りかかっていたよ

実はこの「跳ね橋」は余り人気の場所ではなく、ここまで見学に来るのは日本人とドイツ人とゴッホの母国オランダ人くらいなものだそうだ。ここでも日本人とドイツ人の性癖の類似性を見ることとなった。

4−2−2 夏公園(0925)
夏の公園前の駐車場に停車してバスを降り、夏の公園へ行く。
ゴッホは1888年2月アルルへやって来た。アルルではゴッホの呼びかけにゴーギャンがやって来て共同生活をするが旨くいかなかった。そこで、1888年12月23日の夜、ナイフを持ったゴッホがゴーギャンに襲いかかろうと近づいたが、逆に睨み付けられると、ゴッホは部屋に戻り、すぐに耳を切り落としたという。その耳を切り落としたゴッホのレリーフがこの公園にはある。
4−2−3 円形闘技場(0933〜1000)



長径136m、短径107m、合わせて高さ21mになる2つの層には、それぞれ60のアーケードが付いている。この中央でもまた闘剣士達や猛獣の戦いが行われ、市民の娯楽となっていた。ローマ帝国はこうして人心をつかんでいたのだ。椅子には名残りの番号が残されていた。

その後市内巡りへ出かけた。
※アルルの円形闘技場で世界遺産番号を二つ掲げているが、これは「アルルのローマ遺跡とロマネスク様式建造物群」と「フランスのサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼」の重複指定のため。
4−2−4 ゴッホのカフェ(1007)

4−2−5 市庁舎


市庁舎は17世紀のバロック様式でベルサイユ宮殿の建築に携わった人が設計したもので、その後のフランスの建築家の参考とされたのだそうだ。柱が20本もあるのが特徴。天井も模様があって面白かった。時計塔が一段高い所に付けられている。塔の上にはブロンズの「軍神」マルス像が置かれ、下から見ると太陽の光を反射してきらきら輝いて見える。
広場に立っているオベリスクは円形闘技場の中央にあった物だそうだ。
4−2−6 サン・トロフィーム教会

昔バジリカのあった所で、その後手を加えられ、手の込んだ装飾彫刻が施されている正面入口は1190年に完成し、ロマネスク建築の傑作と讃えられる。15世紀にはゴシック様式の内陣が加えられた。
正面ファサードには、聖書の様子が描かれている。キリストの像を取り囲むようにマタイ、ルカ、マルコ、ヨハネらが黙示録の四つの獣

中は見事なステンドグラスとマリア像が際立っている。
4−2−7 ゴッホの病院 「エス・ヴァン・ゴッホ」 (〜1045)


アルルでは、残念ながらゴッホの作品自体を見ることはできないが、こうしたゆかりのある場所場所には絵のパネルが置かれている。本物は世界各地で見る事が出来るが、一番多く作品を展示しているのはアムステルダムの「ゴッホ美術館」だということだ。
最後にここでゴッホのカレンダーと塩キャラメルを購入。
円形闘技場へ向かう道筋に「アルルの女」の衣装を着た等身大の人形が店頭に飾られていたが、ここからの道のガードレールでは女達が手をつないで踊っていた。
4−3 道々
・ひまわり畑・ブドウ畑・カマルグの白馬・ニームのエンブレム

始めに白馬が目に飛び込んできた。これが「カマルグの白馬」です、と言われて急いでシャッターを切ったが・・・?帰宅してから調べてみると、カマルグという湿原地帯にいる白馬のこと。海の泡から生まれたと言い伝えられている。フラミンゴと共にカマルグの自然を象徴する存在として、放牧されている半野生の白馬のことだ。
それからひまわり畑やブドウ畑がずっと続く。ひまわりは既に花の時期は終わってしまってみな頭を垂れているが、これが全て咲き誇っていたときには、インドやチェコの菜の花畑に匹敵するくらい見事な物だろうと優に想像できるほどだ。ブドウはもう実を付けている物がたくさん見られた。季節は確実に進んでいる。

4−4 ポン・デュ・ガール(1135〜1215)




我々はそこを歩いて渡った。下では水遊びを楽しむ人たちが大勢見られた。今日も暑いので、気持ちよさそうだ。
渡り終えた所で、ソフトクリームとお土産を買った。
4−5 アビニョン(1240〜1530)

1309年、法王クレメンス5世はたび重なる勢力争いに疲れ、フランス王の庇護を求めてこの地へ入った。以後、1377年まで、7人のフランス人教皇がアヴィニョンにいた。法王庁を奪われたイタリア人は、この時期を「法王のバビロン幽因」と呼んで非難したそうだ。ローマから法王庁が移転したことでこの街は激変した。宮殿の他にも教会、修道院など豪華な建物が次々建てられたのである。
4−5−1 アビニョン橋(1240〜1248)


我々もガイドさんにならって、♪アビニヨンの橋の〜とうたったが、実際の所はガイドさんによると、橋の幅は狭くて、とても輪になって踊れるようなものではないとのこと。
4−5−2 昼食(1257〜1400)

・メニュー・・サラダ、子牛、デザート(フルーツサラダ)
・飲み物・・ワイン(250cc)2.7ユーロ
4−5−3 法王庁宮殿(1410〜1500)

旧宮殿は、ベネディクトゥス12世の命で、ミルポワのピエール・ポワソンが手がけた。宗教建築から一切の装飾を排除することをモットーとする、シトー会出身

クレメンス6世(在位1342年−1352年)の時に、現在新宮殿として知られる部分の増築が行われた。クレメンス6世は華美を好んだため、イタリアからシモーネ・マルティーニやマッテオ・ジョヴァネッティを招いて、内装を豪奢に飾らせた。このため、旧宮殿の飾りのなさとは対照的に、新宮殿はフレスコ画、タペストリー、絵画、彫刻

写真はフレスコ画以外の所ではフラッシュさえ可だったが、被写体としてあまり面白いものではなかった。
4−6 リヨン(1830〜1930)
リヨンは、紀元前43年にローマ軍がフルヴィエールの丘に「ルグドゥナム」という都市を築いたことに始まる。紀元1世紀、初代ローマ皇帝アウグストゥスの時にガリア3州の首都となり、商業、軍事の中心として栄えた。
4−6−1 フルビエールの丘(1840〜1900)

ここへ来ればそれらが一望できますという話だったが、実際には目の前に高い木が立ち並んでいて全くそのかけらさえも見る事が出来なかった。仕方なくその向こうに見えるソーヌ川とローヌ川の間の町並みをカメラに納めた。新市街といっても町の歴史は古く、18世紀から計画的に進められた街づくりは整然として、パリと肩を並べる美しさ。高さをそろえ彫刻で飾られた建物は趣があり、多くの博物館や文化財が点在しており、旧市街も含めてこの2つの地域全体が世界文化遺産に指定

また、ここには、ノートルダム・ド・フルヴィエールバジリカ聖堂が建っている。市内のどこからでも見ることができるリヨンの象徴的建物。1872年から1896年にかけて建設されたバシリカ式教会堂。内部はモザイクやステンドグラスで豪華絢爛。正面にはステンドグラスに囲まれるようにマリア像がある。地下礼拝堂はちょうど閉まるときで入ることは出来なかった。
4−6−2 旧市街地


ソーヌ川沿いに並ぶ古い家並みやローマ劇場などを遠望した。
4−7 リヨン・ホテル着(1930) アクソテル ベラーシュ 313号室

4−8 夕食(2010〜2200)

・飲み物・・記録が抜けてしまった。が、飲まないことはないので、多分赤ワイン。
一つ一つが出てくるのが非常に遅くて、と言うよりこちらのペースはこうなのかもしれないが、食事が終わるのが遅くなった。最後に出てきたワッフルの大きさにはびっくりした。
4−9 就寝(2300)
今日は4つも世界遺産に行った。密度の濃い1日だった。