8月21日(金)
   モン・サン・ミッシェル〜オンフール〜ルーアン〜パリ

起床(0530)散策(0642〜0758)朝食(0800)モンサンミシェル・ホテル発(0900)オンフール(1150〜1300)昼食(1303〜1410)ルーアン(1520〜1650)パリ着(1825)夕食(1922〜2040)パリ・ホテル着(2057)ベッドイン(2210)



7−1 朝
 5時半に起床。朝モン・サン・ミッシェルを再度見ようということで、顔を洗い、スーツケース作りを片付けた。昨日モン・サン・ミッシェルのクッキーを買ったので、今回はガラガラだったスーツケースもだいぶスペースが少なくなってきた。
 夜はまだ完全に明けてはいないが、ホテルを出ることにした。やはり寒い。

7−2 散策(0642〜0758)
 昨日の夜は素晴らしかった。その余韻に浸りながら寝たわけだが、その感動を再び味わおうと出かけた。モン・サン・ミッシェルの朝の風景を写真に収めたいからだ。歩き始めると東の空がほんのりと赤くなってきた。日の出の時間は何時頃だろうと思いながら歩いた。下の道は姿を現していた。途中、ツアーの人と出会った。我々が一番乗りだと思っていただけにびっくりした。少し話をしてから先を急いだ。
 もうかなり水は引いていたが、まだ少し名残りはあってぬかるんでいる感じだ。手前の駐車場にはキャンピングカーが勢揃いしていた。こうして泊まりながら各地を旅行しているなんて優雅なことだ。昨日の夜には水没していたモン・サン・ミッシェル側の駐車場もそろそろ姿を現してきていた。
 7時15分、周りも明るくなりとうとう日の出の時間を迎えた。が、予想とは反してモン・サン・ミッシェルからではなく海の方からの出だった。それも曇っているので余りぱっとしない。いつもなら海からの日の出は感激するのだが、今日はモン・サン・ミッシェルから出てくるのを見たかった。こればかりは時期の関係でしょうがない。
 朝食の時間が迫ってきたので、長居は出来ず写真だけ撮って急いでホテルへ戻った。

7−3 朝食(0800)モンサンミシェル・ホテル発(0900)
 朝食はいつものようにヨーロッパスタイルの簡単なもの。最近はもう慣れっこで、量的にも不足を感じない。ラッキーーなことにここの名物クッキーがあったので、noriはしっかりとそれを確保。
 ほぼ予定通りにホテルを発った。

7−4 オンフール(1150〜1300)

                 より大きな地図で オンフール を表示
  オンフールの街は12世紀の中頃まで、ルーアンからイングランドへ商品を運ぶための重要な中継地点であった。安全な港と広い後背地を持つセーヌ川の三角州に位置するため、百年戦争のころより、街は戦略上重要な場所としてその恩恵を受けた。
 この港は数多くの探検者の出発地でもあった。1608年、サミュエル・ド・シャンプランによって組織された探検隊は、カナダのケベックの街を築いた。以降、街はカナダ、アンティル諸島、アフリカの海岸、アゾレス諸島との貿易により、繁栄した。結果として、フランスの5大奴隷貿易港の1つとなった。
 また禁煙は多くのが形が好んでこの風光明媚な港を描いている。
 対岸のル・アーヴルとの間には、1995年にノルマンディー橋が架けられた。

7−4−1 旧港
 17世紀に、ルイ14世のもとで権威をふるった財務長官コルベールの命により作られた旧港には、漁船やヨットがたくさん係留している。周りには色とりどりの建物が建ち並び、それらを利用してレストランやカフェテラスが軒を連ねている。
 近くには総督の官舎だった総督邸、オンフルールで最も古く現在は海洋博物館になっているサン・テティエンヌ教会、17世紀以降に塩の貯蔵所、税務署として使われていた塩倉庫などがある。
 この総督府の壁に1枚のモノクロ写真が掲げられてあった。1944年8月24・25日と記載されていた。今ではこのきれいな家々が佇む港町も、当時はドイツ軍に占領されていたという歴史があるのだと言うことと、それを町の人たちは今でも忘れていないと言うことを物語っているものだった。
 更にそのそばには古い時代の地図もあり、この町の現在は中世と変わらぬ姿をしていることが分かる。

7−4−2 サント・カトリーヌ教会
 鐘楼とともに町のシンボルになっている教会で、百年戦争で壊された教会の跡地に建てられた。同じ時期に百年戦争の勝利を祝って各地で教会の再建が行われ、石材や技術者の不足ということもあって、石ではなく木材で建てることにした。もともと港町であったのでたくさんいた船大工たちが造船の知識や技術をもって、フランスで最大の木造の教会を建てたのである。そのために天井は船底のようになっている。石よりも温かみがあってホッとする空間だ。
 教会の別棟には15世紀末につくられたやはり木造の鐘楼がある。

7−4−3 自由散策
 その後しばらく自由散策になったので、旧港へ戻った。
 ちょうど昼食時とあって、どのレストランにも人がたくさん入っていた。山盛りになったムール貝が美味しそうだった。港をグルリと1周した。ここは印象派の画家に好まれ、よく描かれたそうで、この日もイーゼルを立てて描いている人がいた。
 総督館前に跳ね橋もあって、タイミングが良ければ開いている所が見られるのだが、残念ながら、帰るまでその機会には出会えなかった。
 この町も木組みの家が多い。が、中には本当の木組みではなくて模様?と見えるものもあった。いずれにしろ趣があってきれいだ。これらの家は上に行くとせり出しているのがある。階上がせり出して不安定そうに見えるが、これは税金対策なのだとか。

7−5 昼食(1303〜1410)
・メニュー・・かにのスープ・エイフィレ煮・デザート
・飲み物・・ワイン(500cc)13ユーロ
エイフィレの煮物だったが、これは「カスベ」に違いないというのが一致した意見。美味しかった。noriは骨まで食べきった。
 食事の後、セーヌ川遡るように(セーヌ川沿いというわけではないが)ルーアンへ向かう。

7−6 ルーアン(1520〜1650)
                    より大きな地図で ルーアン を表示
  ルーアンは大きな街だ。セーヌ川河口に開けたローマ時代からの歴史をもち、後にノルマンディー公国の首都となった。
 木骨組みの家が並ぶ旧市街には、荘厳なゴシック様式の大聖堂や教会が点在する。大聖堂は印象派画家モネによって描かれた。15世紀にジャンヌ・ダルクが火刑に処された町としても知られ、悲劇の場所には彼女の名の教会が建つ。

7−6−1 ノートルダム大聖堂
 12世紀に工事がはじまり16世紀に完成。幾世紀にも渡って建てられたゴシック様式の建物だ。火災や戦争で絶え間なく修復されている。
 尖塔の高さは151m、フランスで一番高い大聖堂。13〜20世紀のステンドグラスの変遷も読み取れ、内陣にはヴァイキングで初代ノルマンディー公になったロロをはじめリチャード獅子王など有名な墓碑が設置されている。ルーアンを愛したリチャード王は死後、墓碑に心臓を納めさせた。
 19世紀のクロード・モネの中期の連作『ルーアン大聖堂』はこの聖堂を主題としたものである。モネは大聖堂の向かいに建つ旧王室財務局(現観光案内所)の2階部屋を借りて描き続けた。ほとんどの作品は大聖堂の扉口と左側の塔をやや斜めから捉えた同じ構図になっている。
 ここも先の大戦で大きな被害を受けた。街全体が被害を受けたと言ってよいが、その復興の様子も大聖堂内部にディスプレイがあった。

7−6−2 裁判所
 15〜16世紀にかけて建立された建造物で、とくに1508年から26年にかけてつくられたファサードの装飾がすばらしい。上部には小さな尖塔や小鐘楼、切り妻壁の入り組んだルネサンス様式の彫刻がびっしりと施されている。第二次世界大戦で大きな損傷を被るが、戦後修復された。
 ここはかつて裕福なユダヤ人地区だったのだが、1306年に大規模なユダヤ人迫害があり、先住民である彼等を追い出してルーアンの大商人のための集会所及び財務や裁判を担う場所としてこのゴシック様式の建築物が作られた。中庭の地下にLa Maison Sublimeという古代ローマ時代のユダヤ人遺跡がある。この町にはユダヤ人迫害の歴史を辿る資料館もあるそうだ。

7−6−3 大時計台
 グロ・ゾルロージュ通りへ。狭い通りにカフェやブティックなどが並ぶ賑やかな歩行者天国。フランスでの初めての歩行者天国だそうだ。そこにある16世紀につくられたルネサンス様式の大時計。勿論修復されてはいるが、今も正確に時を刻んでいる。

7−6−4 マルシェ広場
 1431年5月30日にジャンヌ・ダルクが火刑に処されたところ。広場の中央にある近代的な建物は、ジャンヌの霊をなぐさめるための教会。広場前の通りにはお土産屋さんの中の一画にジャンヌ・ダルク博物館がある。
☆ジャンヌ・ダルク教会
 スレートぶきの屋根の教会の外観はモダンな感じで、内部にはサン・ヴァンサン教会にあったルネッサンス期のステンドグラスを見ることができる。前庭には、十字架が立っている。。

7−7 パリ着(1825)
 渋滞も殆ど無くスムーズにパリの町に着いた。
 セーヌ川、エッフェル塔、凱旋門などわかるものが早速目に飛び込んできた。とうとう花の都パリに到着だ。
 早く着きすぎて夕食の時間までありすぎると言うことで、しばらく自由時間となった。凱旋門近くでバスを下り、シャンゼリゼ大通りをぶらつく。「オー!シャンゼリーゼ」と自然に鼻歌が出た。
 が、歩いてみても特に面白いことはなかった。ブランドに興味のない我が家にとってはただの賑やかすぎるうるさい大通りに過ぎなかった。
 そこで、凱旋門まで戻ってきて、もっぱらそれを対象に写真を撮って時間をつぶした。
 街で目についたのは、二階建てで二階がオープンになっている観光バスだ。多くの街で見かけたものと同様だが、さすがはパリで頻繁に見かけた。更に言えば、その全ての背後の宣伝スペースは、この直後に開店が予定されていたパリユニクロ点の宣伝だった。ユニクロを着ながら、ユニクロの宣伝を撮った。

7−8 夕食(1922〜2040)
 夕食場所へは歩いて行った。凱旋門のすぐ近くだった。基本はビュッフェ形式のレストラン。大衆的な感じがする。我々は簡単なコースメニュー。団体客がよく利用するようで、ボーイなど片言の日本語をしゃべる。
・メニュー・・サラダ・チキン・デザート

7−9 パリ・ホテル着(2057) プルマン パリ リブ ゴーシュ 1514号室
 ワンクラス上のホテルという触れ込みだったので楽しみにしていたが、ビジネス用のホテルの感じだ。入口も団体用はコンクリートむき出しのホールで、フロントに人もいない。とてもホテルの入口とは思えないほど殺風景。
 朝食会場確認のためにフロント階に行くと、少し4つ星の片鱗が。
 部屋もたいしたことはなかった。特に高級感があるわけではない。これで4つ星?という感じだ。が、ドイツで、星というのはいかに適当なものかと言うことを経験しているので、たいした驚きはない。まぁ宿泊するのに最低限の条件を満たしており、文句を言うところはないのだけれども。
 連泊なので大まかな荷物の整理をして就寝(2210)。