8月22日(土) パリ滞在

起床(0510)朝食(0630)出発(0835)エッフェル塔(0848〜0857)ルーブル美術館(0920〜1103)セーヌ川クルーズ(1134〜1236)昼食(1256〜1410)免税店(1434〜1515)ベルサイユ宮殿(1528〜1645)買い物(1710〜1815)夕食(1835〜1940)ホテル着(2006)就寝(2200)



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8−1 朝
・起床(0510)朝食(0630)出発(0835)
 パリはそれほど気温が上がらず寒い感じなので、朝からヤッケを着ていく。
 朝食は6時半と言うことだったが、少し早めに行っても大丈夫だった。これまでよりは少しメニューが多かった。それを持って4つ星というか。

8−2 エッフェル塔(0848〜0857)
 ガイドさんと一緒に回る。今回も日本人だ。かなりのベテランさんにみえた。
 まずはエッフェル塔に行く。1889年のパリ万国博覧会のため、鉄の高架橋の専門家ギュスターヴ・エッフェルによって建てられ応高さ約320m。鉄の総重量7000t。完成当初はパリの美観を損ねたと批判も多かったが、今は「鉄の貴婦人」と言われるほど、称賛を集めている。確かにすらりとして上品だ。
 ガイドさんが、朝早いので人が少なくいい写真が撮れますよ、と撮影ポイントに連れて行ってくれた。確かに下から上まで誰にも邪魔されずにきれいに写すことが出来た。エッフェル塔の下にはたくさんの人がいたが、上に上るために待っている人たちの行列だ。

8−3 市内巡り
 その後バスで市内巡り。特に降りたわけではないので、写真も全てバスのガラス越しに撮っている。
☆凱旋門
 パリの象徴的な建造物の一つ。この凱旋門を中心に、シャンゼリゼ通りを始め、12本の通りが放射状に延びており、その形が地図上で光り輝く「星=etoile」のように見えるので、この広場は「星の広場(エトワール広場)」と呼ばれていた。但し、現在この広場は「シャルル・ド・ゴール広場」と名称が変更になっている。
 「凱旋門」とは戦勝記念碑である。前年のアウステルリッツの戦いに勝利した記念に1806年、ナポレオン・ボナパルトの命によって建設が始まった。ルイ・フィリップの復古王政時代、1836年に完成した。ナポレオンは凱旋門が完成する前に既に死去しており、彼がこの門をくぐったのは1840年にパリに改葬された時であった。凱旋門には、ナポレオンの戦勝を祝うレリーフがあり、それぞれの勝利の様子が描かれている。「1792年の義勇軍の出陣」という女神が義勇軍を鼓舞している、通称「ラ・マルセイエーズ」のレリーフもある。
 凱旋門の下には、第一次世界大戦で戦死した無名兵士の墓が納められている。第二次世界大戦ではナチス・ドイツのパリ占領に際してナチス・ドイツ国旗が掲げられ、ヒトラーが戦車で凱旋した。
 凱旋門の上には有料だが、上ることができる。
☆コンコルド広場
 パリの中心部、チュイルリー公園とシャンゼリゼ通りに挟まれて位置する。当初ルイ15世の騎馬像が設置されていたため「ルイ15世広場」と呼ばれていた。その後、フランス革命の勃発により、騎馬像は取り払われ、名前も「革命広場」に改められた。革命期には、ルイ16世やマリー・アントワネットの処刑が行われた場所でもある。1795年、現在の「コンコルド広場」という名前で呼ばれ始める。
 なお、広場の中心部には、エジプトのルクソール神殿から運んできたオベリスクが置かれている。

8−4 ルーブル美術館(0920〜1103)
 ルーヴル美術館のコレクションはもともと王室のコレクションである。特にフランス・ルネサンスの担い手ともなったフランソワ1世は、経済復興と王権強化のため、書庫などとして使われていたルーヴル宮を、1516年再び王の居城に復活し、イタリアや国内各地の芸術家、人文学者を招いた。その中にレオナルド・ダ・ヴィンチがいた。その後、革命を経て1793年、王室コレクションを展示する美術館に生まれ変わる。ナボレオンの時代には、遠征先のイタリア、エジプトなどから数多くの戦利品が運びこまれ、世界最大級の美術館への道に拍車をかけることとなった。
 所蔵品は古代オリエント、古代エジプト、古代ギリシア・ローマ、彫刻、絵画、デッサン、美術工芸の7部門。
 こんなに広いルーブル美術館だが、鑑賞時間は1時間しかないのでたいした期待は出来ない。地下の駐車場でバスを下りて進んでいくと逆さピラミッドの所へ出た。天気の良さもあってきらきら輝いて見えた。
 いよいよ入場だ。いつもなら長蛇の列だというが、今日は土曜日のせいで空いているのだという。それと時間も早かったのが良かったのだそうだ。並ばずに入ることが出来た。
 まずは舞踏会を開いたりしたという大広間を抜けてミロのヴィーナスへ向かう。

8−4−1 ミロのヴィーナス
 1820年4月8日に小作農であったヨルゴスによって、オスマントルコ統治下のエーゲ海のミロス島で発見された。ギリシア神話におけるアプロディーテーの像と考えられている。高さは202cm。材質は大理石。思ったほどの混雑はなく、いろいろな角度から写真撮影が出来た。

8−4−2 サモトラケのニケ
 ギリシャ共和国のサモトラケ島(現在のサモトラキ島)で発掘された勝利の女神ニケの彫像である。最初の発見は1863年で、胴体部分が見つけられた。それに続いて断片と化した翼が見つかった。断片は全部で118片にのぼる。その後復元された像は1884年にルーヴル美術館の『ダリュの階段踊り場』に展示された。右腕は1950年に発見され、ルーヴル美術館に保管されている。大理石製で高さは328cm。

8−4−3 イタリア絵画の部屋
○サンドロ・ボッティチェリ「三美神を伴うウェヌスから贈り物を授かる若い婦人」や「聖母子と少年聖ヨハネ」など。
○レオナルド・ダ・ビンチ「岩窟の聖母」「聖アンナと聖母子」「洗礼者聖ヨハネ」の3作が並んでいた。他に勿論「モナリザ」。モナリザは別格で1室が与えられていた。しかもここは日本テレビの援助でクーラーが入っている。さすがに人が多い。
○ラファエロ・サンティ「聖母子と幼児聖ヨハネ
○ヴェロネーゼ「カナの結婚」。ルーブル最大の絵画。中央で楽器を弾いているのが本人だとか。ヴェネツィアのサン・ジョルジョ・マッジョーレ修道院のベネディクト会修道士たちは、彼らの新しい食堂を装飾するために、この巨大な絵画を1562年に注文している。ガリラヤのカナで、婚礼の祝宴に招かれたキリストは、そこで最初の奇跡を成し遂げるというあの葡萄酒の話。1798年ナポレオン軍が戦利品として持ち帰った。

8−4−4 フランス絵画の部屋
○「ナポレオンの戴冠式」ジャック=ルイ・ダヴィッド作。ナポレオンの戴冠式典の記念に制作された。同じものがベルサイユ宮殿にもあるが、左の方にいる5人の妹のうち、一人の洋服の色が違っている。ナポレオンを崇拝し、宮廷画家として彼を讃える作品を数多く描いたダヴィッドは、ナポレオンが退位に追い込まれると、フランスで生活することができなくなり、ベルギーに亡命した。
○ウジェーヌ・ドラクロワ「民衆を導く自由の女神」1830年7月、国王シャルル10世の政策に反発したパリ市民が蜂起する。シャルル10世は退位してルイ・フィリップが即位、7月王政がはじまる。この作品はその革命の様子を描いたもの。
 他に「サルダナパロスの死」。アッシリアの王サルダナパロスが、敵の手に落ちるよりもと女性や側近達を虐殺し宝物を燃やしたという、バイロンの悲劇に由来する。
○「メデュース号の筏」テオドール・ジェリコー作。1816年6月、アフリカのセネガルに向かっていたメデューズ号が難破し、救命ボートに乗れなかった150人の乗客は筏を作って漂流するが、12日後に救出されたとき、生存者はわずか15人。ジェリコーはこの悲惨な事件を描くために生存者に話を聞いたり、病院や死体置き場で死体をスケッチしたそうだ。
○他の作品では、「グランド・オダリスク」「ヤッファのペスト患者を訪れるボナパルト」などが印象に残った。他にたくさんあったが、やはり見切れない。それでもこれがけたくさんの作品を見られるとは思っていなかったので大満足だ。

8−4−5 その他
☆彫刻の部屋
 ちょうどこの部屋に鳥が入り込んだと言うことで、その追い出しに必死で部屋が閉鎖されてしまった。後ろ姿だけだが、ミケランジェロの奴隷像をちらりと見た。
☆天井画
 どの部屋も上を見上げると天井の装飾が素晴らしい。やはり宮殿だっただけのことはある。素晴らしい。
☆自由時間
 グルリと一回りして出発地点に戻ってきたようだ。今度は逆さピラミッドだけではなく上向きのピラミッドも見た。その後、本を購入してここの見学は終わり。次はもっとゆっくり時間をかけてみてみた。今回の入場券は1日券と言うことなので、たった1時間ではもったいない。

8−5 セーヌ川クルーズ(1134〜1236) 221
 暑い日差しの中、クルーズ船に乗る。ガイドさんは左側がベスト、と言っていたので、うちのツアーの人は全て左側に乗った。船は混載船でかなり大きく、他にも大勢乗って来たが、半分くらいは空席だ。この様なクルーズ船はかなり多く、何艘もあるのだからそうしたものだろう。
  利用したクルーズ船の会社。説明書によると
『「1949年創業。老舗のセーヌ川クルーズ会社です。会社名であり商標名である「バトー・ムッシュ」はいまやセーヌ川クルーズの代名詞にもなっています。バトー・ムッシュは、アルマ橋から出発。コンコルド広場、オルセー美術館、ルーブル美術館の脇を通りながら、シテ島へ。ノートルダム寺院が横から後ろからと、さまざまな角度から楽しめます。サン・ルイ島を過ぎてからUターン。エッフェル塔とシャイヨー宮を 左右に眺め、自由の女神像を廻って再びアルマ橋に戻ります。」』
というものだ。
 右に左にそれらが次々に現れては後ろへ消えていく。ただ、どういう訳か、最後はショートコースになっていて、自由の女神の所までは行かなかった。
 解説は英語やフランス語、中国語などと共に日本語もあった。それをいいタイミングで聞くためには後半の席がいい。

8−6 昼食(1256〜1410)
・メニュー・・・ミックスサラダ・ムール貝・デザート(ワッフル)
・飲み物・・・白ワイン(500cc)8,8ユーロ
 とうとうムール貝にご対面だ。前に現地の人が食べているのを見て「食べたい食べたい」と言っていたnoriの願いがやっと叶う。鉄鍋に山盛りに入れられたムール貝はjunのには45個も入っていた。それを教えられたように貝の殻を使って身を取り出して食べた。もうみんな無口。食べるのに夢中だった。

8−7 免税店(1434〜1515)
 お約束の免税店。が、我が家は興味がないのでフラフラ。

8−8 ベルサイユ宮殿(1528〜1645) 222
 1682年、フランス王ルイ14世が建てたフランスの宮殿。工事だけでも約50年の月日をかけ、狩猟小屋だった館を一代でほぼ今日ある宮殿の姿にまで変貌させ、宮廷文化の全盛時代を築き上げた。建物の設計はルイル・ヴォー、室内装飾はシャルル・ル・ブラン、造園はアンドレ・ル・ノートル。完成させたのは、ジュール・アルドゥアン・マンサール。
 ルイ14世没後も、ルイ15世、そしてルイ16世と王妃マリー・アントワネットにより、新たな建築、改築、模様替えが繰り返された。フランス革命後のナポレオンによる修復も歴史の一つとして忘れてはならない。彼の修復がきっかけで、離散していた調度品、絵画が元に戻されたからこそ、中世の栄華を今もなお、このヴェルサイユで体感できるのである。
 ルイ14世は完成を待ちきれずに建設を開始して20年後にはここを宮殿として移ってきた。1000以上もの貴族がおり、その召使いたち4000人以上もいたという。ルイ14世は当時の平均寿命の約2倍も長生きして76歳まで生きた。ために、息子や孫たちは先に亡くなり、ルイ15世は曾孫に当たる。このときに、ルイ14世が世界各地に広げた領土の殆どを失う。それは、ルイ15世が政治に全く関心を示さず、女遊びにうつつを抜かしていたためだ。金庫は空っぽ、といわれるほど散在し、そのつけがルイ16世の時に訪れた。その妻マリーアントワネットとともに、今のコンコルド広場で時をおいて断頭台の露となった。
 ベルサイユ宮殿では、「大ベルサイユ」計画のもと2003年から17年かけて改修工事が進められている。宮殿内の大回廊「鏡の間」は工事を終えた。

8−8−1 入口の門
 宮殿すぐ前の門。18世紀末のフランス革命勃発時に消滅したこのロイヤルゲートも2年がかりで復元された(2008年7月完成)。フランスの建築家ジュール・アルドゥアン・マンサール(Jules Hardouin-Mansart)の手がけたこの門は500万ユーロ(日本円で8億4千万円)もかかり、仏国内で論争を巻き起こした。
 門の幅は80m、15tの純鉄製で、10万枚の金の葉で装飾されているバロック式のびっくりするような金ピカの門。
 この後中に入る。ここも団体用は別入口で、予約時間前に入ることが出来た。個人はやはり並んではいることになる。

8−8−2 王室礼拝堂
 ヘラクレスの間が混んでいたので、まずはそこを通り抜けて次の部屋へ行った。
 ここはルイ14世が崩御する5年前の1710年につくられた部屋。1階は一般市民や宮廷の召使が参列する席があり、2階は王室一家の席があった。 
 1770年5月16日、ここで王太子ルイ(後のルイ16世)とオーストリア・ウィーンからやってきたハプスブルク家のマリー・アントワネットの結婚式が行われた。

8−8−3 ヘラクレスの間
 ここは王室礼拝堂が完成するまで、礼拝堂として利用されていた。壁にはルイ14世の時代にヴェネチア共和国から贈られたヴェロネーゼの傑作「パリサイ人シモン家の宴」が飾られている。
 天井には「神々と強大国を従わせるヴェヌエス」のフレスコ画があり、ヘラクレスは、バットのようなものを持っている。


8−4 その他の部屋
 この宮殿にはこの他にもたくさんの部屋がある。それら一つ一つについては書きれないので、以下簡単に回った部屋について順番に記録する。
☆ヴィーナスの間
 多色大理石が使われている部屋。中央に「ローマ皇帝に扮したルイ14世」の像が飾られている。
☆ダイアナの間
 ベルニーニ作のルイ14世の肖像画
☆マルスの間
 当初、衛兵の間であった。ルイ15世の肖像画
☆マキュリーの間
 王の寝室。ベッドと時計は14世紀のもの。ルイ15世と王妃の肖像画。ルイ14世の遺体もここに安置された。
☆アポロンの間
 謁見の間。ルイ14世に仕えた宮廷画家イアサント・リゴーの描いた「戴冠式の衣装をつけたルイ14世の肖像画」。

8−8−5 戦争の間
 ルイ14世が執務室として利用した部屋。壁にかかっているレリーフは「オランダ戦争」に勝利したルイ14世を讃えている。ルイ14世を讃えるレリーフもある。
 1672年、ルイ14世がオランダに宣戦布告して「オランダ戦争」が始まり、この戦いでフランスはオランダ、スペイン、神聖ローマ帝国を敵にまわして戦った。ルイ14世は自ら先頭に立って軍隊を指揮して数々の勝利をおさめ、1678年にオランダ戦争が終結したとき、フランスは多くの領土を獲得し、ルイ14世の威光はヨーロッパ中に知れ渡った。

8−8−6 鏡の回廊
 ルイ14世がパリからヴェルサイユに宮廷を移した1682年から4年が過ぎた1686年に完成した。1870年、プロイセン軍(ドイツ)は、普仏戦争でフランス軍を破り、パリを占拠した。1871年1月18日、プロイセン王ヴィルヘルム1世はこの鏡の回廊でドイツ皇帝の戴冠式を行い、自らの国をドイツ帝国と改めた。 
 1919年6月28日、第一次世界大戦を終結させるためのヴェルサイユ条約の調印もこの鏡の回廊で行われた。
 鏡の間は長さ73m、幅10.5mの回廊。アーチ窓と同じ大きさの鏡が17枚ずつ向き合っている。鏡は鈍い光を放っているが、それよりも天井のシャンデリアの方が輝いている様に見える。勿論天井の絵も捨てがたい。シャンデリアや天井画とともに室内の豪華さを演出しているのは、彫像や燭台。窓側、鏡側に並ぶ燭台は黄金の女性像が抱えている。鏡はその光景を映し、夜はかなり明るくなったろう。窓からは庭園が眺められる。
 さすがにここは人が多くて、ガイドさんにくれぐれも迷子にならないようにと言われていたのに、junは写真を撮るのに夢中で勝手に進んでしまい、その迷子になってしまった。レシーバーから聞こえるガイドさんの声と説明を頼りに何とか探し当てたときには胸をなで下ろした。

8−8−7 以降回った部屋
 とにかく多すぎで、これ以降は詳細ギブアップ。
☆牛眼の間
 1701年に作られた控えの間。宮廷人達はここで王の寝室に入る許可を待っていた。王の着替え等全て一つずつ順番に担当するため150人からの召使いがいた。
☆王の寝室
☆閣議の間
☆平和の間
☆王妃の間

8−8−8 王妃の寝室
 この部屋は、フランス革命によって王室一家がヴェルサイユ宮殿を去った1789年10月6日の状態で保存されている。中央にはマリー・アントワネットが使用したベッドが置かれている。出産もこの部屋で行ったのだという。勿論このベッドではなく横にそれようのを置いたそうだが。
 宮殿で使用されていた家具類はフランス革命の際に暴徒たちに持ち去られてしまったが、このベッドは、アメリカのオークションに出品されていたところを買い戻すことができたそうだ。

8−8−9 王妃控えの間、あるいは会食の間
 王室一家がこの部屋で食事をした。この部屋には女流画家ビジェ・ルブランが描いたマリー・アントワネットの肖像画が飾られている。1枚目は1787年に32歳の王妃と子供たちを描いた肖像画。一番右にいる王子は世継ぎだったルイ・ジョゼフ。彼は1789年6月に亡くなり、中央にいる赤ちゃん、ルイ・シャルルが世継ぎとなる。彼が後のルイ17世だ。ベッドには誰も描かれていないが、この年に1歳で亡くなった次女を暗示しているそうだ。一番左にいる王女は長女マリー・テレーズ。彼女はフランス革命後も唯一生き延びて72歳で天寿をまっとうした。もう1枚の肖像画は1788年に33歳の部屋でくつろぐ王妃を描いたものだが、この1年後にフランス革命が勃発した。

8−8−10 戴冠の間あるいは王妃付き衛兵の間
 ダヴィッドが描いた有名な「ナポレオン1世の戴冠式」の絵画が飾られたことから「戴冠の間」と呼ばれることもある。この絵はルーブルのと全く同じ絵だ。他に、皇帝の衣装を着たナポレオンの肖像画や「アブキールの戦い」を描いた絵画、「鷲の軍旗の授与」が飾られている。

8−8−11 庭園
 中の見学が終わって自由時間になったので、庭に出た。ただ、庭は別料金になるので、柵の外で写真を撮るだけだ。

8−9 買い物(1710〜1815)
 今回はパリ三越での買い物となった。が、免税店と同じなので全く興味がわかず、また、monoprixへ行った。思ったより近くて安心したが、売っている物は前回の店と大して変わらなかった。が、せっかく来たので何か一つと思って、一番いいと思うものを購入した。勿論姪の子のものだ。
 帰り道少し迷ってしまったが、時間が早かったので慌てることなく三越に戻った。写真は三越近くのオペラ座。

8−10 夕食(1835〜1940)
・メニュー・・・エスカルゴ・ビーフの赤ワイン煮・デザート(リンゴタルト)
・飲み物・・ビール(330cc)6.3ユーロ×2
 本場のエスカルゴ。こんなものかという感想。

8−11 ホテル着(2006) プルマン パリ リブ ゴーシュ 1514号室
 連泊なので、いい加減にしておいた荷作りを本気でやる。結構パンパンになってしまったので、必要でないものはビニール1枚に至るまで削減。そんなことをしてようやく就寝(2200)。