8月20日(木)  トゥール〜モン・サン・ミッシェル

起床(0500)朝食(0650)トゥール・ホテル発(0758)昼食(1220〜1305)モン・サン・ミッシェル(1325〜1600)モン・サン・ミッシェルホテル着(1620)夕食(1800〜1950)散策(2000〜2230)就寝(2310)



6−1 朝
・起床(0500)朝食(0650)トゥール・ホテル発(0758)
 今日も早く起きた。夜が明けて明るくなってくるとボチボチ散歩をしている人たちがいた。夕べは暑くて眠れなかったそうだ。我が家は快眠。
 朝食も大体我が家が一番くらいに行くのだが、今日はその前に行っている人たちが何人もいた。やはり、皆さん寝れなかったのだろうか。ただ、今回のメンバーはみな元気で、大体朝食開始時刻には集まる。これは最後までそうだった。朝食は、ハムとチーズ、クロワッサン、ヨーグルトだけだったが、まあこんなものだろう。

6−2 道々
 今日はnoriが一番楽しみにしているモン・サン・ミッシェルへ向かう。4時間くらいかかるというが、待ち遠しい気持ちが大きい。
 バスは、放牧された牛や、ひまわり畑、トウモロコシ畑の中を通り抜けていく。
 途中トイレ休憩のところで、ガレットというお菓子を購入する。添乗員さんのお薦めと言うこともあって、店にあった殆どをみんなで買い占めてしまった。プーラールおばさんのガレットなのだそうで、モン・サン・ミッシェルのお土産になるのだが、そちらでは缶入りのしかなくて、それもないときもあったりするので、ここで購入した方がいいですよ、と言うことだった。我が家も結構買いましたよ。(後日談:これは美味しかった。)
 この辺りはノルマンディー地方ということになる。北方バイキングのノルマン人が侵攻してノルマンディー公国を作った地方になるが、ノルマンディーというと第二次大戦を思い出す。
 海岸線には、洗練されたリゾート地や静かで素朴な港町があり、内陸部には農園が広がって、美しい牧歌的な田園風景を堪能することができる。酪農が盛んで、カマンベールなど、日本にもおなじみのチーズが作られる。このチーズは、熱を加えていないので、どんどん熟成し、柔らかくなっていく。手で押してその柔らかさを確かめながら購入するのだそうだ。勿論試食も出来るようになっているとのこと。残念ながらその機会は持てなかった。
 また、この辺りでは気温の関係でブドウが出来ないので、ワインを造ることが出来ない。代わりにリンゴを作ってそれから酒を作っている。アルコールは3%程度。シードルという。この話を聞いて、昼食時は絶対これにしようと決めた。

6−3 昼食(1220〜1305)
・メニュー・・オムレツ・鶏肉・アップルタルト
・飲み物・・シードル(500cc)6.5ユーロ
 もう目の前にモン・サン・ミッシェルが見える。この頃一寸雨が降り出した。昨日までの猛暑からは考えられない天気だ。モン・サン・ミッシェルでは傘は差せないというので、何とか止んで欲しい。
 そこへ行く前に昼食。名物のオムレツだ。ここのオムレツは泡立てオムレツ。大きく作ったオムレツを6つに分けて盛りつけてくれた。ふわふわしているが中身は空っぽ。口の中に入れるとふわっと消えて無くなる。見た目の大きさほどお腹にたまるわけではない。
 モン・サン・ミッシェルのオムレツは「プーラールおばさんのオムレツ」と呼ばれて大人気。本当の店はモン・サン・ミッシェルにあるのだが、それを模してこの周辺の店でも出しているというわけだ。巡礼者に短い時間で栄養のあるものをあげたいと考えられたものらしいが、体力的に弱ってきている彼らには良かったかもしれない。

6−4 モン・サン・ミッシェル(1325〜1600) 220 214
 食事の後いよいよお目当てのモン・サン・ミッシェルだ。サン・マロ湾上に浮かぶ小島に築かれた修道院である。カトリックの巡礼地のひとつである。
 運良く、雨も止んできたので、これなら大丈夫そうだ。

6−4−1 モン・サン・ミッシェルの始まり
 もともと先住民のケルト人が信仰する聖地であった。708年、アヴランシュ司教オベールが夢のなかで大天使・ミカエルから「この岩山に聖堂を建てよ」とのお告げを受けたが、悪魔の悪戯だと思い信じなかった。2度目もまた信じなかった。ついに3度目に大天使はしびれを切らし、今度はオベールの額に指を触れて強く命じたところ、翌朝、オベールは脳天に穴が開いていることに気づいて愕然とし、大天使ミカエルのお告げが本物であると確信してここに礼拝堂を作ったのが始まりである。
 その後増改築を続け、13世紀にはほぼ現在のような形になった。
 サン・マロ湾はヨーロッパでも潮の干満の差が最も激しい所として知られる。潮の満ち引きの差は15m以上ある。このためかつては多くの巡礼者が潮に飲まれて命を落としたといい、「モン・サン・ミッシェルに行くなら、遺書を置いて行け」という言い伝えがあった。
 百年戦争の期間は島全体が英仏海峡に浮かぶ要塞の役目をしていた。18世紀末のフランス革命時に修道院は廃止され1863年まで国の監獄として使用され、その後荒廃していたが、1865年に再び修道院として復元され、ミサが行われるようになった。
 1877年に対岸との間に地続きの道路が作られ、潮の干満に関係なく島へと渡れるようになった。が、これによって潮流をせき止めることとなり、100年間で2mもの砂が堆積してしまい、急速な陸地化が島の周囲で進行し、島の間際まで潮がくることは滅多になくなりつつある。そこで、かつての姿を取り戻すべく地続きの道路を取り壊し、代替となる新たな橋がかけられることが計画されている。

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6−4−2 モン・サン・ミッシェルへの道
 今日泊まるホテルの前を通過した頃から、バスは渋滞に巻き込まれる。狭い道に車が集まるのだから仕方がない。車道の横や下の道を歩いている人も多数いるが、そんな気分になった。時間があったら是非歩いてみようと思った。
 だらだら走っていながら、いい撮影ポイントだという所では下車した。写真で目にする姿を目の当たりにすると感激もひとしおだ。鐘楼と、尖塔の上の彫刻家エマニュエル・フレミエによって製作された、剣と秤を持つ金のミカエル像が見える。
 今現在は水はかなり引いている状態だ。この後満潮が来るのでその比較が楽しみだ。
 それから駐車場へ車を止めて、いよいよ歩いて中に入る。

6−4−3 グランド・リュ (大通り)
 入口を通って2つめの門をくぐると、「プーラールおばさんのオムレツ」の店がある。作り方も見られるようになっているので、後で見る事にして王の門(跳ね橋)をくぐった。
 ここからの道は、グランド・リュという大通りなのだ。入るとすぐに郵便局があった。そのほかにも、土産物店、レストラン、ホテルなどに挟まれた道は狭くてはぐれないように着いていくのがやっとくらい人であふれていた。とてもお土産物に目を配る余裕など無かった。道も徐々に上りになっていく。
 ジャンヌ・ダルクの像があるサン・ピエール教会まで来ると少し歩きやすくなった。そこから更に少し上ってようやく修道院の入口へ着いた。
 そこには長蛇の列が出来ていた。それでも今日は空いている方で、昨日は、先ほどのサン・ピエール教会の辺りまで行列が出来ていて、待ち時間が2時間もあったそうだ。一瞬、ぎょっとしたが、ガイドさんはその列を無視するように先へ進んでいく。団体の入口は別になっているそうだ。我々は待つこともなく中に入ることが出来た。

6−4−4 干潟を見る
 場内に入り、石の階段を上っていく。まずは一番上ですよ、という所へ向かった。
 途中、階段の横に給水口があった。モン・サン・ミッシェルにもかつては奇蹟の泉があった。やはり大天使が現れ、この泉は喉を癒すだけでなく病気をも治す、と言ったそうで、実際にこの水を求め多くの病人が来たともいわれている。また重要な水源として4つもの貯水槽がかつてはあったが、残念ながら今では泉は枯れてしまっている。
☆ソー・ゴティエ (小さなテラス)
 目的地に着くとそこからは目の前に潮の引いた干潟が見える。歩いている人たちが大勢いた。馬に乗って闊歩している一団もいた。この人達は勝手に歩いているのではなく、ガイドツアーというのに参加しているのだそうだ。危険な場所やら潮の状態があるので、個人で行くのは危険だという。そう言えば、突然エンジン音のようなものがしたと思ったら、レスキューのボートがある一団に駆けつけているのも目撃したので、そうなのだろう。
 振り返ると鐘楼とその先の大天使ミカエル像が見える。太陽に輝いて眩しい。
 それからこの修道院の造りの移り変わりがわかるように模型で展示された部屋を見てからいよいよ修道院内部へと向かった。

6−4−5 修道院へ
 まず西側テラスへ出る。風が心地よい。以前はここにも建物があったそうだが、今は広場になっている。その足元の石にイニシャルがかかれているが、これはこの仕事に携わった人たちのものだと言うことだ。自分がどれだけ仕事をしたのかがわかるように彫ったらしい。
☆教会
 11世紀に作られた古い礼拝堂の上に造られた。身廊はロマネスク様式、内陣は15〜16世紀に建設されたフランボワイヤン・ゴシック様式。当時はタペストリーなどで飾り付けられていたが、18世紀の革命で全て略奪されてしまった。ただ、15世紀のミカエル像だけが残された。大きなパイプオルガンがあり、その下に地下礼拝堂(サン・マルタン地下礼拝堂)があるそうだ。
☆ラ・メルヴェイユ(驚嘆する所)
 空中庭園ともいわれる珍しい中庭の回廊。その支柱はイギリスのパーベッグ島から取りよせた大理石でできている。通常は1列の支柱だが、2列に並び、しかも前後にずらして配置されている。柱のアーチ部分の花模様などのレリーフは残されているが、人物像は顔が破壊されてしまっている。天井は木造で、船底のようだ。
 修道士はここを歩きながら瞑想したのだという。
☆食堂
 5mの高さを持つ狭く細長い食堂。光が細長い窓から差し込む。
 天上の丸底は、ノルマンディー地方に上陸したバイキングの船底技術を用いたもの。僧院建築としては大変めずらしい。一日一食で、献立はスープとパンのみ、極たまに、鶏肉を食べたとか。その食事の間、朗読をする人のくり抜きがあったのは以前他で見た物と同じ。
☆モンサンミシェル始まりの伝説のレリーフ
 3階から2階へ下りる階段の途中、踊り場の所にあった。司教オベールと夢に出てきた大天使ミカエルのレリーフ。大天使の顔は、やはり革命時に壊された。
☆貴賓室
 天井は交差リブで支えられているリブヴォールト。柱は細めで柱頭には葉のモチーフが彫り込んである。部屋は9つある窓のお陰で明るい。大きめの暖炉が二つある。左側が貴族用で右側が修道士用。ここでそれぞれの食事を用意したそうで、貴族用のほうが豪華なものを作ったそうだ。13世紀の中頃から16世紀の終わりにかけて多くのフランス国王が修道院長からもてなしを受けた。
 ここには北側の壁に旨く隠されるようにしてトイレもついていて、それも珍しいとか。ただ、今は当時の装飾は失われているため、部屋自体はガランとしてただ広いだけだ。
☆サン・マルタン地下礼拝堂
 南の袖廊の土台となっているロマネスク様式の礼拝堂は、1030〜1040年頃に建てられて以来、一度も変化を受けずに残されている。ただ、装飾は残されておらず、装飾するのに使われたと思われる木の型枠の板の痕跡が着いているだけである。厚い壁をくりぬいた半円アーチの小さなまどからかすかに光が入ってくる。
☆大車輪
 この車輪は、外から食料や機材を運び込むための大型の滑車として使用していた。修道院が牢獄として使われていた時代、囚人用の食物を上階に運搬するために設置されたもので、中に囚人を6人入れてハムスターの車輪のように回すのだそうだ。ここに置いてあるのは、中世の工事現場で実際に使用されていた器具を復元したものである。
☆聖ステファノ礼拝堂
 旧修道士墓地に直接つながっている。11世紀に屋根が付けられ、12世紀に納骨堂が造られた。13世紀には交差リブを使ったヴォールに作り変えられた。
 この部屋は看護室と墓所の間に位置し、死者のための礼拝室だった。
十字架の台座にアルファ・オメガ(A・Ω)のレリーフがある。全ての物の始まりと終わり。アルファは生を、オメガは死を意味する。
 15世紀には「悲しみの聖母像」が置かれた。ここで臨終の修道士が横たわっていたのだろう。ただ、これもキリストの顔が潰されている。
 10世紀に造られたという一番古い教会は、ドアが閉ざされていて入ることは出来なかった。ここは講師付き見学のみ公開される。ということで先へ進む。
☆散策の間
 11世紀末に造られた細長い部屋。始めは簡単な天井だったが、12世紀に5本の円柱によって支えられる交差ヴォールトに変えられた。しかし数年後、このロマネスク様式の交差ヴォールトは現在のように造りかえられた。ロマネスク様式の壁にゴシック様式のヴォールトをかぶせるという最も古い例である。
 13世紀まで回廊の役割を果たしていたと考えられていたが、はっきりとはわからない。19世紀に散策の間と名付けられた。
☆騎士の間
 三列の太い柱によって4つの身廊に分けられている。騎士の間でありながら、装飾などは貴賓室に比べて豪華になっている。柱の台座のあちらこちらに真珠の形をした装飾なども見られる。やはりここにも2つの暖炉とトイレがある。
 この部屋の名前は、ルイ11世によって創設された聖ミカエル騎士団に由来する。聖ミカエル騎士団の団員は年に一回、ここで会合を開くこととされていたが、実際には、歴史上、そのような会合はここでは一度も開かれてはいない。実際には、写字室として用いられており、多くの僧侶が、この部屋で自らの時間の大部分を費やし、極めて貴重な写本を書き写し、装飾を施す作業に従事する部屋だった。革命後使われなかったために、本が傷み殆どが駄目になり、現在、その一部がアヴランシュの図書館に残っている。
☆大天使ミカエル
 キリスト教徒はミカエルを、ラファエル、ガブリエルとならぶ三人の大天使の一人であるとする。ミカエルは守護者というイメージからしばしば山頂や建物の頂上にその像がおかれた。ルネサンス期に入ると、ミカエルは燃える剣を手にした姿で描かれるようになった。ミカエルの役目は、死者が天国か地獄かどちらへ行くか決めること、選ばれし者を天国の門へ連れて行くこと、天国の門を守ることの3つがあるそうだ。
 ミカエルの名を日本に伝えたのは宣教師ザビエルで、カトリック教会における日本の守護聖人もかつてはミカエルであるとされた。これはフランシスコ・ザビエルによって定められたが、のちにフランシスコ・ザビエル自身が日本の守護聖人とされている。
 思わぬ所で思わぬつながりがあるものだ。

6−5 モン・サン・ミッシェル・ホテル着(1620) ディーグ 42号室
 ホテルはこの上もない好条件の所に建っている。何しろ、モン・サン・ミッシェル対岸のホテルの中でモン・サン・ミッシェルに2番目に近いのだ。
 残念ながら部屋からモン・サン・ミッシェルを望むことは出来ないが、一歩外へ出れば目の前に広がっている景色を楽しむことが出来る。
 すぐ近くにスーパーマーケットがあるのも嬉しい。部屋に入って一通りの整理をしてからすぐに買い物に出かけた。水を買ってから、またモン・サン・ミッシェルの姿を見に少し出かけた。先ほどのスーパーでワインを買った人が、それを持ったまま来ていたのがおかしかった。

6−6 夕食(1800〜1950)
・メニュー・・サラダ・ラム(煮込み)・チョコレートムース
・飲み物・・余りにも高いので止めた。
 ホテルのレストランからはモン・サン・ミッシェルがきれいに見える。最高のポジションだ。そこで食べたラムは、このモン・サン・ミッシェルの羊。というのも、最近緑化が進んできて、そこで羊を飼っている。そこの草が塩分を含んでいて羊の肉を美味しくしているというのだが、食してみると羊臭さが残っていて、日本人の口には一寸合わないかなという感じがした。

6−7 散策(2000〜2230)
 食事の後、二人でモン・サン・ミッシェルへ再び出かけた。20時が満潮時だというので、それを見たかったのだ。特に今日は大潮なので十分期待が持てる。寒くなってきたので、ヤッケを着て出かけた。
 車に乗っているときに歩いてみようと思った道は既に水の中。車道のすぐ下までが海になっていた。すごいと思ってモン・サン・ミッシェルを見ると、海に浮かぶ島の姿になっていた。
 近づけば近づくほど海面の高さの様子がよくわかる。駐車場だった所も海の中。勿論我々が乗ったバスの止まっていた所も海の中。島の中に入った入口も海の中。当然だが、昼間散策していた人たちがいた干潟の姿はかけらもない。
 島の中には王の塔の所から入ることが出来るので、そこから暗くなりかけた町を楽しみに入った。中で何人かツアーの人たちに出会った。
 サン・ピエール教会までフラフラ歩いて行ってみた。昼間ほどの人はいないのでゆっくりと店なども見る事が出来た。「プーラールおばさんのオムレツ」の店は混んでいて、行列が出来ていた。ということで作っている所も見られた。少しずつ水が引き始めていた。
 日が落ちでそろそろライトアップもされそうなので島の外へ出て全景を撮ることにした。少ししてからボチボチと灯りがつき始めた。たっぷりとその光景を楽しんでから、少し歩いては振り返り、少し歩いては振り返りしながらホテルまで戻ってきた。もう既に道は真っ暗だった。
 ホテルの入口は既に施錠されているので、部屋の鍵で開けて入った。部屋の鍵が入口のマスターキーを兼ねているのも面白い。

6−8 就寝(2310)
 冷えた体を温めてから就寝。