2.11月24日(土) タシケント クフナ・ウルゲンチ アシハバード(快晴)
起床(0330)朝食(0415)ホテル発(0500)空港着(0520)離陸(0720)着陸(0905)空港発(0933)国境着(1030)出国完了(1105)入国完了(1240)クフナウルゲンチ(1445~1608)空港着(1805)離陸(1955)着陸(2045)空港発(2110)夕食(2125)ホテル着(2220)就寝(2350)
2-0 この日の主な訪問地
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2-1 朝
起床(0330)朝食(0415)ホテル発(0500)
今日は忙しい日だ。朝飛行機に乗って、観光してまた飛行機での移動になる。効率が良いのは有り難いが、荷物が不自由だ。
朝かなり早いのに、ホテルの方で朝食を出してくれるというので、有り難い。それもおざなりなものでは無くて、ちゃんとしたものだったので、なおのこと。ただ、キューリやトマト、チーズハムなどで、今朝調理したものというものは無かったが、それでも暖かいところで温かい飲み物もある。ジュースも数種類揃えてあった。
ホテルを出るときに、滞在証明書を渡された。これをなくすと面倒なことになるというので、パスポート入れにしっかりとしまった。
2-2 空港にて
空港着(0520)待合室(0545)
空港についてもまだ夜は明けていない。
建物の入り口でセキュリティチェックを受けた。これだけでパスポートの提示をする必要は無かった。中は明るくて暖かく、綺麗だった。ここも団体チェックインなので、添乗員は大変だろうが、我々は楽だ。
それから待合室へ移動する。そこへ行くためにまたセキュリティチェックを受ける。コートは着たままでいいというので、この点は楽だ。所がここで、添乗員さんが引っかかった。何事かと思ったら、イヤホンガイド用に持ってきた乾電池が引っかかったらしい。そこで、それを全員に分けて持ってもらうことにした。
待合室で、今度は出国用の税関申告書を書いた。この金額が少なくなっている分には問題ないが、多くなっていると追求されるらしい。ただ、我々は昨夜遅く着いたのでお金を使っておらず、全く同じことを記入するだけだった。
待合室には自動販売機があった。コインしか使えないので、古い札を持ってはいたが役に立たなかった。椅子も沢山あって暖房も付いているので快適だ。
トイレもあったので、junがそこで搭乗券の写真を撮ってきた。こうしたことがこの後のjunの役目となった。トイレは新しくとても綺麗だった。
2-3 機内にて <HY 1051 2AB→4AB>
バス乗車(0643)搭乗(0646)動く(0710)離陸(0720)着陸(0905)
バスに乗って飛行機へ向かった。プロペラ機だった。(故にジェット機より圧倒的に遅かった!)
一応座席は指定されているのだが、自由席の可能性が大きいということなので、出来るだけ早めに乗り込んだ。指定された席が窓のないものだったので、別の席へ移動した。CAに確認したところフリーシートだということだったので、問題は無かった。他の人も次々に好きな席に座ったが、これといった混乱もなかった。2-2の並びの席は殆どが埋まった。
最初は寒かったが、暖房も効いて暖かくなった。離陸すると夜が明けてきて徐々に明るくなってきた。
離陸してしばらくするとジュースやコーラ、水といったものだけだけれども、飲み物のサービスがあった。
着陸が近づくと下は茶色の世界だった。そこに流れる川が光っていた。
飛行機からはタラップを降りた後は歩いて建物に向かった。風が冷たく寒かった。ターミナルは比較的新しいが、ターミナルに入るまでに歩いた「たたき」は、補修だらけだった。ターンテーブルが一つあるくらいの小さな建物で、暖房もなかったので寒い中で荷物の出てくるのを待った。吐く息が白かった。ただ、現地の人は殆ど預けていなかったようで、荷物は存外早く出てきた。
2-5-1 税関にて
まずは事務所へ行って手続きをすることになる。既に多くの人が並んでいた。噂通りだなあ、横入りされないように並ばなくちゃ、と思っていたら、何と我々がその横入りをした。ガイドさんがサッサと事務所へ行って一つしか無い窓口の係員に何と話したのか分からないが我々の手続きをまずすることになった。
並んでいる人は何も言わずにじっとそのまま、並んでいる。申し訳ないと思いながらも早く手続きが済むのは有り難いと思った。税関申告書は昨日の分と今日新たに書いた分と2枚とも提出した。
全員が済んで、ここでガイドさんとはお別れとなる。
2-5-2 出国審査
これで出国が終わったわけではなかった。ガタガタ道をスーツケースを引いて次の建物に行くと、そこで最終のパスポートチェックがなされて、出国の判子がもらえる。ウズベキスタンのビザの上にオレンジのスタンプの二個目が押された。これでようやく出国となる。
が、その手続きも手作業で、一人一人に時間がかかった。それでも1時間内に終わったのだから良しの部類か。
そこからまたガタガタ道を少し行って、バラ線の囲いの外へ出た。ここから緩衝地帯となる。マイクロバスが待っていたのでそれにスーツケースと全員が乗り込み、緩衝地帯を走り抜けた。
2-6 トルクメニスタン入国
入国(1115)事務所(~1240)バス発(1245)
マイクロバスは、バラ線囲いの前で止まり、我々はそこからまたスーツケースを引いてガタガタ道を歩く。
ゲートでパスポートのチェックを受けて中に入る。ゲートから先に見える建物までは百数十メートルはあった。
ここでビザを取るわけだが、寒空の中で待つのかと思ったらちゃんとした建物があった。ウズベキスタンには悪いが、こちらの建物の方が立派だった。
そこに、トルクメニスタン側のガイドさんが来ていて、ビザを取るのを手伝ってくれるようだ。我々はパスポートと手数料の67ドル(後で1ドル、またその後に1ドルで、合計2ドル戻ってきた)を預けて、手前の部屋でしばらく待っていることになった。そこには一人の係員がいて閑そうにしていたのだが、後から、我々が抜かしてしまった人たちが来て入国関係の書類を書くのを手伝ったり教えたりして結構忙しくなった。やはり必要な人だったのだ。その人達は書き終えると手続きに部屋に入っていったのだが、我々はずうっと待ちぼうけだった。
この間に、手続をしている人の子供が二人いたので、お菓子を渡そうとしたが、そっぽを向かれた。しかし親か祖父母かは目ざとかった。彼らにもらってこいとの指示を出した。結局子供は受け取ったのだが、哀れなのはそれまで持っていたお菓子だ。放棄されてしまった。
また待っている間に、noriのGPSのメモリーが一杯になっていたのに気がついたので、パソコンを持ち出して、古いデータを削除した。
そうこうしているうちに、ようやくビザが取得できたので、一人一人入国審査を受ける事になって、順番に部屋に入っていった。この手続きは極簡単だった。
それからセキュリティチェックを受けて無事全員入国することが出来た。
2時間くらいは覚悟してくださいといわれていたが、結局、1時間半もかかってしまった。だから出国から数えると、都合2時間ちょっともかかったことになる。
2-7 クフナ・ウルゲンチへ
WC休憩、弁当積み込み(1305~1313)
しばらくして、トルクメニスタン側の国境の町タシャウズへ入った。国旗をあちらこちらで見ることができたが、かなり複雑な国旗だ。世界的に見ても複雑な国旗の方らしい。日本は○を書くだけだから、小学生でも簡単だが、この国の子供は国旗を書くのは値編だろうと思った。
タシャウズの町で昼食の弁当を積み込むためにレストランに立ち寄った。ついでにトイレも借りる。
空港はかなり綺麗だったが、ここ辺りまでその事は浸透していないようで、まあ普通のトイレだった。使うのをためらうほどでは無い。
一つしか無いので時間がかかりそうと、そこで弁当を広げようとしたら、添乗員さんがかなり急いでいるようで車の中で食べてくださいというので、仕方なくそれを持って車へ向かい、中で食べることにした。
人数が少ないけれども、この時のバスは中型だったので、やや窮屈な思いをしながら食べた。その弁当は巨大ハンバーガーのようだった。ビッグマックに負けていない程の大きさだ。
他にサラダも付いていた。全部は食べきれなかった。
それからまた同じような風景の中を進んでいった。ウズベキスタンからトルクメニスタンに変わっても、基本的にはそう変化は無かった。
ただ道路の両側に白いものが目立った。noriは丁度現地ガイドの後ろだったので、聞いてみた。その白くなったところは塩分が浮き上がったところなのだそうだ。かつては豊かだった土地も徐々に塩害に犯されていると感じた。
そうこうしているうちに、クフナ・ウルゲンチが近づいてきた。
2-8 クフナ・ウルゲンチ(1445~1608)
最初の観光は、クフナ・ウルゲンチ。
アムダリヤ川沿岸にあり、かつてはシルクロード最大の都市。中央アジア一帯からペルシャまでを治めたホラズム・シャー朝という王朝の都で、12世紀から13世紀初頭にかけてがその黄金時代であった。
しかし、1221年、中央アジアへの進出したチンギス・ハーンによる攻撃で徹底的に破壊され、滅ぼされた。1231年には旧市の傍にウルゲンチが再建され、モンゴル帝国のもとで早々にホラズムの復興が始まった。その後、チンギス・ハーンの長男ジョチ一門のウルス(所領)の領有に帰した。モンゴルが内紛状態に陥ると、ホラズムもスーフィー朝として復興したが、1370年代には、アムダリヤ川の流れが北に変わったことにより、自然による都市の破壊が始まり、町は放棄され、北には新ウルゲンチと呼ばれる都市が新たに建設された。スーフィー朝は、1380年にティムールによって征服され、時代は既にティムール朝の時代へと変わっていた。
ここには現在、歴代のホラズム・シャーの王や后の廟、中央アジアで最も高いクトゥルグ・ティムールのミナレットなどが残っている。
冷たい風が吹く中、バスを降りて早速観光が始まる。カメラ代2ドル支払う。
2-8-1-1 クーポラ
ここの屋根は実は2つのドームになっている。こういうのは中央アジアではここだけのものだとか。いわば大小二つのお椀をひっくり返したような二重構造になっているというのが、ガイドの話を翻訳した添乗員の話だった。しかしそれならば内部のドームは階上にあがらない限り見えない、何とも意味不明の構造になってしまうと思われた。どうもその形が想像できないので、後でnoriが聞いてみると(今は見えるが昔の人は内側のドームは外側からは見えなかったのか?)、外側の部分は内側のをすっぽりと覆っているのではなく、腰の部分を撒くように囲んでいるということらしい。外側は壊れているが、内側はしっかりと残されている。二重にした甲斐があったというものだ。青いタイルはオリジナルのものだ。
しかしながら、この解釈が正しいかどうかは判然としない。というのは、外観を見てその構造はガイドの説明は一応理解は出来たが、でもこの二重構造の中側のドームの高さがあまりにも低い。おそらくは外側と同様に美しいモザイクでカバーされていたとは思うが、よほど遠くから見たとしても、たかだかちょこんと見えるに過ぎないと思われる。その効果がまだ判然としないところが残った。
そこで帰国してから調べた。そしてこの謎は解けた。この構造は、外側のドームを内側のドームが支えているという構造になっていると言うことなのだ。そして、非常に特徴的だとガイドは言ったが(と添乗員は訳したが)、かなり一般的な構造体であることが知れた。つまり、ここでも外側のドームは基点よりも上に少し行くと外側に張り出していおり、それから収束している感じが見て取れる。その外観はさぞかし美しかったろう。つまり、構造的必然性から来る二重構造クーポラ(Double-shell Dome)なのだ。この部分については、こちらの論文が参考になった。
この点からしてみても、まだまだトルクメニスタンという国の観光は立ち後れているかもとを感じた。
2-8-1-2 内部
始めに目に飛び込んでくるのは、天井とその周りの様子だ。幾何学模様がドーム全体に描かれている。ここは勿論だが下の窓にも全て意味があるという。
一番下の4つの窓は、四季を表し、その上の12の窓は12の月を、その上にある24の窓の内開いている窓は昼間の12時間を、閉まっている窓は夜の12時間を表しているのだそうだ。そして天井には365個の星が輝いているというわけだ。当時の天文学の知識が活かされている。こういった世界は、ある意味イスラムの独壇場だった。
とにかくそのタイル芸術の美しさは、筆舌に尽くしがたいものがあった。悲しいかな、ガイドにしても、添乗員にしても、そして同行の人たちもそのことに対する言及力が無かったことだ。こうしたてんでも、今回にツアー選びは我々の失敗だったように思う。
昔は2階に続く階段もあったが、今は危険と言うことで閉鎖されている。
入り口の正面に見えたトレベク・ハニムが眠っているという半地下の扉の入り口にスカーフが巻かれていた。結婚の願いを込めて巻いていくのだそうだ。ただ、現在、廟に妃の遺体はないとのこと。戦争の時にどこかに隠されたそうだが、それ以降はっきりしていないらしい。
壁の煉瓦は、上の方の色が濃い部分がオリジナル。タイルも当時のまま残されている。こうした修復方法は西洋的なものを感じ、ここがヨーロッパ人の援助が入っていることが想像された。
2-8-2 セイエル・アフメット・ピュール・モスク
ここは全く資料がない。というより、事前に目にしたどの旅行記を読んでも出てこない。なので、この名前で正しいのかどうか、つまりうまく聞き取れたのかどうか、自信は無い。とりあえずは、ガイドの説明をそのまま書くことにする。
「この人は16世紀の人で、この建物自体は2001年というごく最近建てられたもの。といってもそのときが創建ではなく、壊れたので再建したということ。神聖な場所だ。彼の墓が中にある。庭にも、この周りにも沢山の墓があるが、殆どに墓碑はない。亡くなった後は地球と一体化するという考えで名前など彫らないが、最近は付ける人が増えた。」
トレベク・ハニム廟までの間にも小さな墓が沢山見えている。誰かが「じゃあお墓参りなどしないんですか?」と聞いていたが、無視されてしまったのは残念だった。
その後偶然見つけた旅行記(http://www.geocities.jp/fukuda_shasin/centralasia4.htm)には「クフナ・ウルゲンチ黄金期12世紀の王の墓」と書かれていたが、それ以上調べる術はない。
石が積まれているのは、良く作物が実るようにとの祈りの気持ちが込められているという。不思議な感じだ。
2-8-3 クトゥルグ・チムール・ミナレット
14世紀にジョチウルスのホラズム総督クトゥルグ・ティムールによって建設された中央アジアで最も高いミナレット。16世紀の地震により、先端部が折れてしまって、元々67mだったものが先端が崩れて今は58mになってしまった。昔その尖塔の最上部は金色のクーポラだったとか。塔の基底部は直径が12m、外周が35m。地下部分には9mの基礎柱があるそうだ。心なしか上部が少し傾いているようにも見えるが、目の錯覚か?
周りの壁は、きれいに煉瓦の模様で飾られている。コーランの一説とおぼしき紋様や装飾タイルなどが今でもはっきりと残っている。
もともとは併設する金曜モスクのミナレットで、モスクとつながっており、その入り口が高い部分にある。つまり、2階部分でつながっていた。そこから145段の階段を上って礼拝の時間を知らせた。現在はそのモスクもなく、従って上ることもできない(というか、ピサの斜塔状態で登るのははばかられる)。
敷地内には、これをつくった際に利用した煉瓦を焼く窯(を再現したもの)や清めのためのものと思われる貯水槽もあった。
2-8-4 スルタン・テケシュ廟 (在位1172年 - 1200年)
クフナ・ウルゲンチ最盛期、ホラズム・シャー朝時代の王の廟。一辺が18.5mの正方形をしている。手前の壁は修復されたものだが、入口の上部、錐になっている色の濃い部分はオリジナル。現在も修復中とのことだが、かなり前の旅行記を読んでも同じ姿だった。長い間修復が進んでいないのではないかと思われる。
こうした形は珍しい。ブルーのタイルが印象的だ。現地の人は、ブルータイルモスク、ブルードームパレスなどと呼んでいるそうだ。この青色は平和を象徴しているのだとか。
昔は図書館とマドラサ(宗教学校)だったそうだ。スルタン・テケシュは、学芸を好んだ人で、そういう面でも国を発展させたという。
今は、この廟の中は空で、彼の墓は、廟の中ではなく外側にあった。何故だろう。まさかこの巨大な構造物が動くわけも無い。
2-8-5 クルクモッラーの丘
12世紀の神学校跡のある丘。今は何も残っていない。当時は4000人の学生が学んでいたそうだ。
西遊によると「クルクとは40、ムッラーとはイスラム教の聖職者の意で、モンゴル襲来の時に、この丘で40人の聖職者が祈って、大地が割れるという奇跡が起こったと言われています。この奇跡のためか、現在のクニャ・ウルゲンチは現地の方々の聖地になっており、お墓も沢山あります。」とあるが、ガイドさんは、40人の聖職者という意味で、40というのが縁起のいい数であったり、多い数を表すのに40というのをよく使っていたりするだけで特に意味は無い、と説明した。
2-8-6 イル・アルスラン廟 (在位:1156年 - 1172年)
スルタン・テケシュの父親の廟。1172年に建設されたものでオリジナル。ホラズム王朝最初の建物だそうだ。彼の墓はこの中にある。
廟はそれほど大きくなく、四角い本体の上に角錐形の屋根になっている。その屋根には青いタイルが施されている。てっぺんが波の模様のようになっている。これはいい日もあれば悪い日もあるさという浮き沈みを表しているのだとか。その下のラインは青と黄色の煉瓦で模様を付けられたアラジャという魔除けの模様になっていて、敵から守るという意味があるそうだ。
建物の正面に飾りが付いているが、側面には窓があるのみで、この建物全体では7つの窓がある。
2-11 首都(アシハバード)空港にて
空港発(2110)
飛行機を降りると歩いて建物に向かった。もうすっかり暗くなっているのでかなり寒い。建物の中は暖かいことを期待していったが、入るとすぐに一つだけあるターンテーブルに着いてしまった。小さなもので、これが首都の空港?と思ったが、国内線だからか。
待たされるかと思った荷物もすぐに出てきたので、有り難かった。
空港からのバスも大型でゆったり座っていくことが出来た。
2-12 夕食(2125)
バス発(2214)
まずは夕食ということで、レストランへ向かった。レストランに向かう途中に結婚式を挙げるか、揚げたばかりのカップルが写真撮影をしているのを見た。
この国は電気代はかからないというので、町がもっと明るいかと思ったが、それほどでもなかった。何故かと思ったら、けばけばしいネオンサインなどがないためだ。ただ、ビルは殆どが電飾飾りをしている。
夕食のメニューは、サラダにチキンの煮込み。説明ではチキンソテーということだったが、これはどう見ても煮込みだろう。デザートはフルーツの盛り合わせ。飲み物は、コーヒーか紅茶だ。
そこからようやくホテルへ移動となった。
同行の方が教えてくれたのだが、この国の豊かさを象徴していると思うので撮影したのだが、道路の縁石まで大理石だった。これには驚いた(こんな直ぐに壊れるところに天然石は普通使わない)。
2-13 ホテル<アカルティン 704号室>
ホテル着(2220)就寝(2350)
朝5時にホテルを出発したのだから、長い一日だった。
手続きが済むまでソファーに座って待っていた。そこの絵がアハルテケと思われる馬だったので、やはりこの国の人にとっては大事な存在なのだと思った。
部屋は綺麗で気持ちよかった。バスタブも大きい。タオルも柔らかで、トイレットペーパーの質も良かった。おまけに予備まで置いてある。ただ、冷蔵庫はあったのだが、お湯のセットがない、ネットもつながらない、コンセントの数が少ない、荷物を置くところがないなどやや不足の面もあった。(中段右の写真にスーツケースが写っているが、これは早く荷物が欲しかったのでポーターをキャンセルしたため。)