5.11月27日(火) マルグーシュ遺跡(ゴヌール・テペ) (曇りのち雨)
起床(0500)朝食(0600)ホテル発(0704)ミニバス乗り換え(0823)マルグーシュ遺跡(1035~1152)昼食(1200~1225)バス乗り換え(1420)ホテル着(1513)夕食(1900~2000)就寝(2100)
5-0 この日の主な訪問地
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5-2 マルグーシュ(ゴヌール・テペ)へ
ホテル発(0704)ミニバス乗り換え(0823)砂漠地帯(0925~)青空トイレ(0935~0940)
夜中から降り出した雨は、出発の時一時止んだように見えた。
今日は3時間程乗り物に揺られて、今回の旅行の楽しみの一つ、マルグーシュへ行く。
旅行会社によっては4駆に乗り換えていくのだが、今回は分乗と言うことになっていたので、どんな車になるのかと思ったら、全員でミニバスに乗ります、ということだった。
まあいずれにしろ今日は我々は一番前の席になる、と思っていたら、その理由も定かにされずに、何故か突然変更されてしまった。それも一番後ろに。後にして思えばこのとき騒げばよかった。
ホテルを出発してから、昨日昼食を摂ったレストランへ寄ってお弁当を積み込んだ。まだ用意が出来ていなかったらしく、かなり待たされた。その後またホテルの前を通過していくのだから、時間的にも無駄な使い方だ。40分程かかったのだから。このレストラン(ホテルも併設されている)、昨日の昼食といい、一帯やる気があるのかしら?と思われた。
5-2-1 ミニバス乗り換え(0823)
途中からまた雨になった。よりによって、とちょっと恨めしく思ったが、仕方ない。
出発はいつもの大型バスだったが、ミニバスに乗り換えることになった。これがひどいバスだった。窓がしっかり閉まらないために、冷たい風が吹き込んでくるし、座席の座り心地が悪く、おまけにぼんぼん飛び跳ねる。走る道路は、昔の日本のように、一応舗装はされているのだが、穴だらけのガタガタ道という状態だ。
たまりかねてnoriは一番前のガイドさんの隣の席へ移動した。
バスには現地ガイドさんも乗っていた。説明は、現地ガイド→英語ガイド→添乗員という体制での説明になる。その昔ウズベキスタンに行った時の、ウズベク語→ロシア語→英語→日本語という、伝言ゲームのような翻訳を思い出した。
5-3 マルグーシュ(ゴヌール・テペ)遺跡 (1035~1152)
ようやく遺跡に着いた。雨は相変わらず降っている。ぬかるみに時に足を取られながら見学が始まった。正しいかどうかは分からないが、温度計は7度を指していた。
紀元前7000年頃、今から9000年もの昔、ヒンドゥークシュ山脈から流れ出すムルガブ川の肥沃なデルタ地帯に人が住み始め、古代国マルグーシュが誕生しました。当時、この国が何と名乗っていたかは文字が無いため、わかりませんが、のちに古いペルシャの文献に「マルグーシュ」の名前がでてきます。さらに時代が下ると古代ギリシャ人たちはこの国を「マルギアナ」と呼びました。20世紀後半の発掘によって、マルギアナは当時アフガニスタン北部にあったバクトリアとも密接な関係があったことがわかりました。古代マルギアナは3000平方km以上の国土に78のオアシスを持ち、150の集落から成る国でした。マルグーシュの最盛期は紀元前16世紀から前13世紀までです。(以上、旅行会社「世界紀行」から)
紀元前2250~2300年頃、水不足に悩まされていたエジプトやメソポタミアから人々がこの地に移住してきた。当時マルグーシュはムルガブ川が流れており、人々が住むのに適していたからだそうだ。
アケメネス朝の時代、近くを流れるムルガブ川が流れを変え水の供給ができなくなったために、人々は町を捨て新しい町メルブへと移り住んだ。この時代を境に、ムルガブ川のほとりに栄えた都がマルグーシュからメルブへと変遷した。
今回訪れたのは、マルグーシュ国の首都だったゴヌール・テペがあった所になる。
17haの広さがあった。ゴヌール・テペというのは「茶色の丘」という意味がある。
マルグーシュには3つの時代があった。1つは王と人々がやってきて住んでいた時代・・・ここで訳すのが終わって、次の話題になってしまった。確かガイドさんは沢山話していたのに、どうもこの添乗員さん、適当に抜いて通訳する。というか、専門的なことが分からなくて訳せないのでは無いかと思う。そういうことが何度もあってイライラすることもあった。
5-3-1 市民の町
ゴヌール・テペの中央には王宮があり、当時は高さ20m、厚さ2mの城壁で囲まれていた。その周りに家来や兵士、一般の人々が住んでいた。その周りにも城壁があったそうで、王宮は二重の城壁で守られていたことになる。
各家庭には、火をおこしていた場所が2カ所ずつあることが分かっている。1つは料理用、もう1つは宗教のため。この地ではゾロアスター教が広がっていた。というよりゾロアスター教そのものがここで生まれたものではないかと考えられているそうだ。ただ、どうしてそう考えられるのかその根拠は説明が無かったので分からない。
noriが「ゾロアスター教では、調理用には直接火に触れないようにしたとのことです」という内容の話を聞いていたので、質問したのだが、訳せなかったのか、意思の疎通がうまくいかなかった。せめてこのくらいの知識は、予め仕入れてから添乗してもらいたいものだ。そういえば、マツダとゾロアスターの関係もこの人知らなかった。ちょっとなぁ!って感じた。
この町には冷蔵庫もあった。それは「世界ふしぎ発見」で知っていた。
5-3-2 ゾロアスター教
ゾロアスター教の開祖とされるザラスシュトラ(紀元前13世紀?~紀元前7世紀?)の名は、ここでは出てこない。ウィキペディアによれば、発祥の地は古代バルフ(現在のアフガニスタン北部)とされている。
旅行会社「世界紀行」によると『考古学的には世界最古のケシと大麻の痕跡がマルグーシュで発見されています。この飲料はゾロアスター教において広く使用されていたものです。「ソ連のシュリーマン」と呼ばれる考古学者で探検家のヴィクトル・シリアニディは、この場所に「善悪二元論」のエッセンスを持つ宗教、即ち後のゾロアスター教の発芽があると考えています。地球における最初の世界宗教の誕生です。マルグーシュでは4つの拝火教寺院の跡が発見されています。考古学者たちは、新興の預言者として北部アフガニスタンで侮辱され傷ついたツァラトゥストラ(ザラスシュトラのドイツ語読み)は、砂漠の中の道をマルグーシュまで渡ってきたと考えています。彼はここで最初の伝道を初め、「アヴェスター」の思想が生まれ、広まっていったと思われます。』
このくらいの解説があるとよかった。・・・というか、これまでの経験ではこのくらいはこの旅行社でも普通はする。我々はどうやら外れを引いたようだ。・・・というか、この町そのものはゾロアスター抜きには語れないのだから、そうした部分の解説はしっかりとすべきだ。
5-3-3 王宮
100m×120mの広さの王宮には人がやっと一人入れるくらいの狭い通路を通る。敵の襲撃に備えてのことだという。でも、壁の高さは2~3m。でもこれはたぶん現在の高さで、往時はもっと高いものだった可能性もある。今のは所詮暫定的な作り物だろう。最初の写真の狭間の位置も異常に高い。不自然だ。
排水管も残っていた。ハラッパ遺跡などでもそうだったが、やはり人々が快適な生活をするには水の供給と処理は欠かせない。他にも、火を焚いていたであろうと思われる場所や、灰を捨てた場所があった。たぶんここにあるカマド跡は、ゾロアスター教の祈りや託宣のために使われたのだろうと想像する。
王宮内には、会議室、控えの間、謁見の間などがあった。ここには木の柱を立てた痕跡が残っており、その上に屋根もあったようだ。
壁には窓はなく、表面はアラバスター(たぶんここでは石膏の意味かと思う)で覆われていたそうだ。灯りは蝋燭を使っていた。
壁の少しくぼんだ所には兵士が立っていた、というので早速noriも立ってみた。
控えの間と説明された所の角に玉の席もあった。控えの間にあるはずはないから、多分隣の部屋に来てしまったのだと思う。何しろ、あまりにも崩れが大きくて、部屋ごとの仕切りなどはないに等しいのだから。ここでは、玉座は中央ではなく比較的部屋の四隅の一つに近い場所に作られていた。これはこのマルグーシュを含む文化圏では一般的だったそうだ(こういうスタイルはメソポタミアと同じであったと説明された)。この玉座を見ても壁がもう少し高いもので無ければおかしいことは容易に想像できる。玉座の右に一段低い位置にも席があったが、これは皇后か皇太子の座る場所だろうか。ここからはマリーの博物館で見た長い杖も発見されている。
この部屋はドームになっており、三角形の煉瓦も見つかっている。屋根を強くするために、鎹ではないけれどもそのように両方からの力を強化するための建築法だったらしい。現地ガイドさんが地面に絵を描いて説明してくれたが、今ひとつよく分からなかった。というか、添乗員はどうもドーム型を想像して説明していた。しかしながら後でnoriがガイドに尋ねて分かったことだが、実はこの三角形のブロックは沢山見つかっている。いわばドームでは無くアーチの連続体であり、アーチ建築におけるキーストーンの役割をこの煉瓦ブロックは果たしていたと言うことらしい。スルーガイドからローカルガイドに質問してもらった答えだから間違いは無いと思う。今回は英語をしゃべる人はそう多くはなく、しかもしゃべる人もおとなしかったので、noriの単語並べ英語でも会話が成立していた点はまぁラッキーだったとも言える。
ここもアラバスターで囲まれていた。窓がないので部屋の中が明るくするためそうだ。
一通り王宮を見てから王宮の外へ出た。
5-3-4 王宮の外の町
こちらには先ほどと同じように住居跡が広がっている。
その中に、陶器を焼いていたという竈跡が残されていた。土で出来た竈は緑色に変色し、石のように固くなっていた。長い間火を焚き続けると、そのようになるのだそうだ。冬期に含まれるミネラル成分のせいかと聞いたのだが、そうではないという答えだった。いわば窯変のようなものなのだと思うが、釉薬をかけているわけでは無いから、不可思議だ(緑色の窯変は一般的)。あるいは炉の周りにアラバスターのような何かを塗っていたのかも知れない。興味は尽きない。
また、壁に壷のようなものが付きだしてあったが、これは6世紀の人たちの骨壺なのだという。何故、壁の、それもこんな風に高い所に?という疑問と共に、半信半疑。
台所と説明された所も殆ど形をなしていなかった。宗教的な火を焚く所もある。灰を落とすように工夫されていた。少し大きめの灰捨て場もあった。
町全てが何もない。ただ仕切りが何となく分かるだけだが、それでも魅力的だ。いろいろと想像をかき立てるからだ。その仕切りの上を歩くのだが、時々崩してしまう。こんな事でいいのだろうか、と思った。もう少しきちんとした保存法を考えないと、益々崩壊が進んでしまうのでは無いかと思う。
土器類がゴロゴロしていて、持って帰りたくなってしまう。
5-3-7 墓2
なかなか鍵が合わなくて手間取った。ここまで来る観光客は少ないのかも知れない。
豪族の墓だというここには、その人の持ち物などがあった。来世で困らないようにと必要なものは全て入れたそうだ。陶器、四輪車のタイヤ、馬と犬の骨などが見られた。ただ、遺骨は先ほどの所の方が形がよく分かった。
博物館で見たタイヤは輪郭しか残っていなかったが、ここのは違っているように見えるが、あれがそうですとのことだった。確かに4輪ある。これが実物の大きさなのだろう。まだ、ミニチュアで代行するようなことにはなっていなかったようだ。(博物館の展示では、周りは青銅製だが円盤の部分は木製だったように思う。それは基本的には朽ちているはずなのだが・・・。)
宝石の入っていた壷もあるが、中は空。残念ながら盗まれてしまったそうだ。
当人の遺体は、犬の遺体の下に埋められてあるとのこと。犬の下っておかしくないかと思ったが、番犬としての犬に守ってもらっているということらしい。ただ、そこまでの発掘はなされていないようだ。
noriがここで殉死の質問した。これは添乗員を通して。その答えだが、このように犬や馬は殉死させたが、夫人や家来など人は殺さなかったそうだ。妻は、妻で別の所に葬られたとか。そうだとすれば、それはそれで興味深いものがあるが、そこまで突っ込んで聞くのは恐れ多いので聞かなかった。
5-3-9 墓3
バスを降りて、少し歩く。ただ、歩く道があるわけではないので、遺跡の上を歩いて行く。この辺りも見応えのある遺跡だ。
ここから焚いた火が神様に届いた、という説明があったので、神殿のあったところなのか?ここは録音がうまく出来なかったのでよく分からない。また、雨がひどいので全くメモも出来なかったので、何が話されたのか覚えていないので、記録がない。
墓は建物の中にあったので、こちらはゆくっりと見ることが出来たが、やはりメモはないので、記録はない。ただ区画が狭くなっている。一つ一つの区切りに整理して、いくつかのものが入っていたというような印象を受ける。馬も一つの区画に収まっている。土器も意図的か、発掘してそのままなのか分からないが、かなり律儀に並べられている。
こちらにも馬の骨が見られるから、当時馬は重要な財産だったのだろう。壷も沢山あったことは書いたが、実は壷は外にもゴロゴロしていて、ほんとにこんな状態でいいのかと思ったが、まだ発掘中ということなので、なかなか手が回らないという所なのだろう。
5-4 昼食(1200~1225)
昼食は持ってきた弁当をバスの中で食べた。noriは東屋のような外で食べたかったようだが、雨がしとしと降る中、しかも寒いのでjunが拒否した。noriが何故そう考えたかというと、運転手やガイドはそちらで食べていたので、彼らが持っているコーヒーにありつけるかと考えたからだ。ずるがしこいヤツだ。
弁当の中身は、サラダ、ポテト、固いハンバーグといった所。
出発前にトイレ小屋に入った。二つあって、一つは床に穴の開いたもので、もう一つは見なかったが、洋式になっていたそうだ。洋式を用意しているのは、ここが見学地の一つになっていて、かなり頻繁に訪問者があると言うことだろう。この国なりの受け入れ体制といったところか。
5-6 茶会(1530~1610)
ゴヌール・テペから帰る途中、バスを止めて、添乗員がおやつを買ってきました、ということで急遽お茶会をしましょうということになった。
所が実際は誕生日の人がいたので、誕生会ということだった。途中の店でデコレーションケーキを買ってきたのだ。昨日のバザールでもかなり大きめのデコレーションケーキを売っていたが、その類だった。前日彼女と話していて、美味しそうでしたねと言っていたのだが、まさか実際に買ってくるとは思わなかった。それは昔の不二家のケーキといった風で、バタークリームこってりのケーキだった。
店の人に切り分けてもらって、コーヒーと共に頂く。
このケーキがこの後物議を実は醸し出すことになるとは分からなかったが、賢明なjunはバタークリームは食べなかった。noriはケーキの横のクリーム部分が大キズカラ二にていると言って、そこだけ食べた。しかしさすがに上の部分は残した。
5-7 部屋にて
その後、夕食まではしばらく時間が合ったので、部屋に戻って絵はがきを5枚作った。明日はこの国を離れるので、今日中に作って書いておかねばならない。
それにしても、今日は一日雨で残念だったが、我が家にして見れば行きたかった遺跡だったので、楽しめた。
まあ、それで人のことを判断するのもどうかと思うが、参加者の中で二人もパスした人がいたのには驚いた。一人は朝から不参加、もう一人は現地まで行っておきながら雨なのでバスで待っていた。最もこの二人は、最初から遺跡観光には似合わない人たちだった。博物館も面白くないと言っていたし、何故こんなマニアックなコースを選んだのか不思議な人たちだった。
雨なのに、外ではバーベキュー用の火が準備されていた。あそこで焼いたのが出てくるのでは叶わないなぁと思っていたが、夕食に焼いた肉は無かったので、杞憂に終わった。
5-8 夕食(1900~2000)
売店の所に、日本の旅行会社のシールが貼り付けてあったので、そっと、我が家のシールも仲間入りをさせてもらった。
夕食はホテルだったのでありがたい。
メニューは、プロフ(ピラフの元になった料理と言われているらしい)、旅行会社手作りのそうめん、デザートにコーヒー。
ワイン18ドルを飲む。ワインを頼むと、赤白1本ずつしかかないという。我が家を含めて二組希望だったが、相手側がどちらでもというので、我が家は赤を選んだ。白を選んだ方は、養命酒のような薄黄色の飲み物だったそうだ。我が家のは、期せずしてというか、昨日飲んだものと同一だった。