3.11月25日(日) アシハバード アナウ ニサ(曇り後晴れ)
起床(0530)朝食(0650)バザール(0901~1030)アナウ(1056~1114)国立博物館(1145~1300)昼食(1320~1405)ニサ(1440~1525)アハルテケ厩舎(1611~1710)トルクメンバシィ・ルーフ・モスク(1755~1815)夕食(1855~1950)ホテル着(2025)就寝(2230)
3-0 この日の主な訪問地
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3-1 朝
起床(0530)朝食(0650)
昨日遅かった割には朝はほぼいつも通りに起きた。
荷物の整理などをしながら朝食の時間まで過ごし、下へ下りていった。
そうそう、是非書いておかなければならないのは、エレベーターのこと。何と定員4名なのだ。係員がいる前でわざと6人乗り込もうとしたら、下ろされてしまった。大きさも0.5畳よりやや小さめくらいで普通のものだと思うのだが、何なのだろう。でも、日本でも大事故が起きているのだから、まぁここではそれにした方が良さそうだと考えた。
まだレストランが開くのには早かったので外で写真を撮ってからロビーへ戻ると、もう開いているということなので、食事にした。
天井が高く広いスペースでゆったりしているレストランで、品数もビュッフェでそれなりに揃っていた。
今日の出発は少しゆっくりめなので、部屋でのんびりした。外はまだ完全に明け切っていないし、寒いので散歩に出る気にもならなかった。
3-2-2 絨毯売り場
ここにはいくつもの店が並んでいた。初めの一画は、屋根付きの長屋のような建物の下にずらりと並べられている。
それぞれ区画があって、大きなものから小物まで、種類も多かった。
こちらが興味を示していると、売り手のおばさんが寄ってきて説明をしたり他のを見せてくれたりもしたが、押しつけがましくはなかった。
次の一画は1軒の店のように壁で仕切られていたが、売っているものは、先ほどの所と大差なかった。
こんなものを敷く部屋がないのが現実だ。いや、その前に持って帰れない。
地面一杯に広げているが、雨が降ったら商売にならないなあと思ったが、雨は少ないか。
3-2-3 動物売り場
これまで見てきたバザールとは違ってここには動物売り場もあるというのでそちらへ向かった。が、ここで行方不明者が一人出た。買い物好きなおじさんで、多分勝手に店に入って買い物をしているのだろう。しばらく待ったが来る様子もないので、この広さでは探しようもないのだが、ガイドさんが一応戻って探しに行くことになった。そこで我々は勝手に動物売り場を見ていることにした。このおじさん、結構海外旅行をしているようだが、それでも突然に買い物スイッチが入る。
さてさて、ここはすごかった。
初めは山羊売り場。こんなに沢山いて、と思ったが、結構台車に積んで買って帰る人も多かった。どうするのかと聞いたら、乳を取ったり毛皮を取ったり食用にしたりするのだという。
他にも牛やラクダ、鶏がいた。母親の乳を飲んでいる子ラクダまでいて、ちょっぴり感傷的になったりもした。
ようやく行方不明者が見つかったのだが、既に予定時間をオーバーしていた。それでも自由時間はお約束なので作らないといけないということで20分だけということになった。この広さでそれだけではあまりにも足りないので、我が家は諦めて動物を眺めていた。半数が同じようにしていた。行方不明になったおじさんはまだ買い足りないのか、駆け足で売り場の方へ向かっていった。
そのままバスへ向かうというので、我が家が楽しみにしていた入り口付近の小さな店へは行くことが出来なかった。
その、バスへ向かう道はまだ動物売り場の敷地だったようで、ずらりと羊を乗せたトラックやらライトバンが並んでいた。その数物すごい。それぞれが売り場になっているようだった。
3-3 アナウへ
そこからアナウへ向かった。
道路は良く舗装されていて走りやすい。どんどん道の両側には砂が増えてくると、砂の飛散止めらしきもの見えた。風が吹くと、それも砂嵐などが来ると大変だろうが、そんな中での生活のためには努力が欠かせない。
途中小麦博物館が見えた。そのことを添乗員さんにも教えてあげた。小麦は、綿花や天然ガスと同じく、トルクメニスタンにとっては重要な産業ということで、この辺りには小麦畑が広がっているらしい。今はその時期ではないので全く分からない。
少しすると電車が走っているのを見つけた。この国は線路網は発達しているようで何度も踏切を見つけたが、なかなか走っている姿は見られなかったので、貴重な出合いだった。
やがて、遠くにアナウ遺跡が見えてきた。
3-4 アナウ(1056~1114)
バスを降りるとまずはトイレ。ここはアラブ式で臭いも強かったが汚くはなかった。
アナウには、新石器時代(紀元前3千年前)から人類が定住していた形跡がある。アメリカの調査団によって1904年に発掘調査が行われ、彩文土器や世界最古の小麦も発掘され、農耕生活を営んでいたことが伺える。中央アジアでは最初に発掘された遺跡である。
チムールの時代、15世紀あたりに“バガバット”の名で記録に現れた城塞都市で、竜の装飾が施された、美しいセイット・ジュマール・アッディン・モスク(SEYIT JAMAL-AD-DIN MOSQUE)で知られていた。
鮮やかな青のタイルで覆われたモスクは、1948年の地震で倒壊してしまったが、今も地元の人々の信仰を集めている。
このことはすぐに分かった。モスクの入り口の所の、墓の周りをグルグルと回って祈っている人たちがいたからだ。その人達の邪魔にならないようにモスクに入った。こちらの墓は、セイットジュマール・アッディンに仕えた人のもの。
といっても崩れいてるので残っているのは2本の柱のようなものと、その前にある青い布をかけられた墓。セイットジュマール・アッディンのものだそうだ。人々はここの周りも回る。3回程回って祈りを捧げるのだそうだ。
裏に回るとやはり崩れている煉瓦の間にヘアピンやら布が置かれていた。ヘアピンは結婚願望、新しい家を買うと鍵、子供が生まれるとおもちゃなど、そういう報告もする。お礼なのだろう。
形はなくなっても精神は生きて続いているということか。
ところで、このセイット・ジュマール・アッディンというのは、このモスクを作った人の父親の名だそうだ。建築の父といわれ尊敬された人だとのこと。
また、龍の模様がある。何故ここに龍の模様があるのかはいくつもの説があって、どれが本当なのかは分からない。添乗員さんによると二つの説があるということでその1は「龍を助けた少女が龍の恩返しを受けた」、その2「女王の治世化の時代困ったことがあると鐘楼を鳴らすと助けてくれるという定めがあったが、あるときそれを鳴らしたのは龍自身だった。龍の片割れが罠にかかってしまったので助けを求めてきた。そこで女王はすぐに助けてあげると龍は感謝の気持ちで国を守った。」
でもやはり中国の影響は免れないのではないだろうか。
帰り際に振り向くと、先ほどの祈りの人たちが広場にあった椅子に腰掛けて、また祈りだろうか、捧げている姿が見られた。
帰国後見つけた資料から。(http://www.kufic.info/architecture/anau/anau.htm)
トルクメニスタンのアナウにある Jamal al-Din という名の神社の複合体
この神社複合体(Shrine complex)はアブル·カシム・バーブルの治世中、1447年から1457年の間に建設された。この複合体は二つのミナレットと二つのドームとを持つものであった。入口の上部には、青地に黄色の二つの大きな龍が描かれた複雑なモザイク作品がありました。しかし、1948年にこの地方に巨大地震が発生し、この神社はがれきと化しました。ドラゴンなどの改宗されたモザイクは、今は12㎞離れたFine Arts Museum of Ashgabatに保管されています。
最後から二番目の写真はモノクロの実写。ArcNetのページからの引用。胴体がくねっているのが何となくわかる。
また最後の写真は、アラブ首長国連邦のBrian McMorrow氏のサイトからの引用で、アシハバードの国立博物館の模型展示の写真。かろうじて龍がどのような状態であったかが分かる(クリックして拡大表示してください)。なお、モザイクが保管されているとされるFine Arts Museum of Ashgabatに関する資料は、現在見つけ出せていない。
3-5 アシハバード市街地域(1117~1140)
途中植林がなされているところを通った。この国では一人1本の植林という事を行っているそうだ。何年か先はまた違った風景が見られるようになるのだろう。
市街地に入ると、ガイドさんが次から次へと建物の説明をしてくれるが、それを通訳してから我々の耳に届くので、慌てて撮った写真が一体何なのか、なかなかつながらないが、順番に列挙してくと・・・
・コペットダム山脈。この国で一番高い山があり、その向こうはイランになっている。
・白い建物は大学といっても、ここのビルは全部といっていいくらい皆白だ。
・独立の塔。ここではちょっとだけ停車してくれた。
・図書館、コンサートホール、博物館などの入ったビル。
・アイスホッケー場。
・黄色いドームは大学(最後の写真・・・医学校らしい)。
等々、書き切れない撮りきれない。
3-6 国立博物館(1145~1300)
博物館の正式名称は「サパルムラット・トルクメンバシュ名称国立博物館」と言い、1998年に完成。3階建てになっているが、主な見学場所は2階に固まっている。
写真代が20ドルもするので、noriだけが写すことにして、junはもっぱら記録取りと分担した。入り口でコート類は脱ぐように言われた。寒いのにと思ったが、暖房が入っていたようだ。しかしながら、ポーチなど持ち込む荷物は何とも言われなかった。
3-6-1 館内へ
入ると高い天井で吹き抜けになっていた。ガラスから差し込む光が明るい。
内部はここの学芸員が説明に付いた。エレベーターで2階へ行く。前大統領の部屋は一階にあるが、それらは省略だった。我々と後から来た軍人さんの一行をを除けば、観覧者よりも博物館員の数の方が多かった。
3-6-2 石器時代~
打製石器や磨製石器の並べられたケースを見る。狩りの道具。これは世界中どこでも同じようなものが見られる。形もほぼ同じで、人はここから出発したようだ。
ジェトンという紀元前6千年の農耕文明が起こった。そのケースには、釣り針などもあった。楽器の一部もある。
中央部分には女性の半身像があるが、この頃から銅が見られるようになった。穀物をすりつぶすためのものもある。
壷には、線や動物などの模様が見られた。
アルティンデペ(=金色の要塞)という文明は、地図の□の所で起こったそうだ。神殿も見られた。馬車や印章があった。人型もあった。
3-6-3 マルグーシュ
マルグーシュ遺跡の一つの立体図があった。城壁が二重になっていて、中央に王宮があった。王宮の壁の外に市民が住んでいた。これはこの後見学に行く。
マルグーシュでは農耕が行われており、麦の穂を表した物や骨で作られた羊、壷などの発掘品が並んでいた。さらには墓からの出土品というアラバスター(方解石)で作った器や化粧入れ、山羊などもある。
当時既に車輪が作られていたそうで、しかも4輪馬車用。中は木製だった。他の文明では車輪があったと言っても2輪車だったが、ここだけは4輪車が造られていたのだそうだ。
腕を組む女性の姿は、沢山見つかっている。豊穣を願って作られたとか。
杖は王のもので、権力の象徴だったそうだ。
デメノスというゾロアスター教の神殿の模型図を見ると、窓がない。中央部分で火を焚いたそうだ。その神殿の図と出土品が次に示されていた。人と動物の一体化した壷や、骨の彫り物などが見られる。
次のケースには、石のコインや人型などがある。
王の墓からの出土品には金の器や装飾品、宝石などがある。銀もあったが、金製品が多かったそうだ。やはりこの時代から、王は王と言うことだ。
3-6-4 ニサ
入り口に始めにあるのは、アレクサンドル大王の勢力図。イスタンブールの複製画があったが、良く目にする遠征の時の戦う姿だ。この辺りもその影響下にあったと言うことだろう。
紀元前323年に象牙で造られた物は、アレクサンダーを表している。
ワインの器の一部やガラスのものまであった。ケンタウルスはギリシャの影響だろう。
ミトラダテス王の(パルティア王、在位紀元前171年- 紀元前138年)頭像の一部もある。これは言われてもなかなか想像するのが難しい。髭の一部らしい。
当時もワインを作っていたようで、大きな保管用の壷があった。
一番の注目はビーナス。ミトラダテス王の娘ではないかといわれているが、ニサのビーナスと呼ばれることもある。両腕は途中から無いが、髪や布を押さえているのではないかと考えられるのだそうだ。髪は分かるが布はどんな風に?と像の前でいろいろ考えてみたがあまり良く分からなかった。
ギリシャのヘルメットもあった。このことからもギリシャの影響があったことが伺える。こちらはヘルメットよりも壮観な顔つきの方が印象に残る。
旧ニサの王の住居の模型がある。ここには宝物庫やワイン貯蔵庫があった。ドームのある方がゾロアスター教の神殿。中央はやはり火を焚くところがあり、2階部分にはギリシャ風の彫像が並べられていた。 、
新ニサは一般市民、商業地域だったそうだ。
当時の建物の壁の一部があるが、彩色されているのが分かる。色は4色くらい使われていた。
他に、マスクやアクセサリー、銀と銅のコイン、小さな4つの像(天馬、女性、女神、鷲)などがあった。
そして一番、目に付くのがリュトンの数々。1948年ソ連によって発掘された。象牙を丸々1本使っている。なるほど、その形になっている。これまでにも象牙でないリュトンを見ていたが、これを見て多くの金などの金属で出来たリュトンの形が何故こうした角笛状のものだったのかが分かったような気がした。
その先の彫刻には、やはりギリシャの影響で、ギリシャ関係のものが多い。
上の口からワインを注いだが、これらは飲むために使われたものでは無いとのこと。では、何のためのものなのだろう。このリュトンというのもギリシャの影響だそうだ。
西遊によると、「パルティアはギリシャ文化を好み・・・リュトンはワインを入れて飲んだとも、聖水を入れて神殿に撒いたとも言われています。」ということだ。
3-6-6 自由時間
少しだけ自由時間があったので、もう一度マルグーシュの辺りから回って見た。
印象的なものをもう一度写真に撮ったりしているときに、noriが仏像を見ていないのに気がついた。
そこで、見張り番の女性に聞いたがらちがあかないので、1階へ行っておばさんに聞いてきた。それでも見つけられないでいるとそのおばさん、2階までやってきて連れて行ってくれた。
良かった。首はないが、メルブが仏教の伝わった最西端だという証拠の仏様にお目にかかれた。しかし、これを説明しないガイド&添乗員って一体何なんだろうと思う。少なくとも添乗員は、説明をすべきだ。不勉強にも程がある。
また、聖人に混じって先の大統領がピカピカの姿で並んでいるのが、何とも・・・。
これで時間いっぱいだった。
3-9 ニサへ(1405~1440)
また、市街地を走る。
メインストリートという所には、官庁街となっていた。大統領府の近くは撮影禁止だった。
平和の塔や、会議場、博物館、大学などが並んでいた。
町の出口には金ぴかの像が建っていた。これも前大統領?
ただ、今回は建物だけではなく、洗濯物を干している家や買い物をした人、バス停で待つ人、道の掃除をしている人など、生活している人の姿が見られた。
一般の人の家は必ずしも白ではなかった。中には半地下なのか地下室なのかを備え付けているアパートのようなものも多く目に付いた。まさか、シェルターということはあるまい。
3-10 ニサ(1440~1525)
紀元前3世紀に、アレキサンダー大王が遠征にやって来てこの地はアレキサンダー大王に支配されてしまったが、彼の死後、彼が征服したアジア諸国はギリシャ系のセレウコス朝になった。やがてアム川上流のギリシャ人がバクトリアを、遊牧イラン人のアルサケスがパルティアを建国し、ホレズムと合わせて、3つの国に分かれた。
ここニサはそのパルティア王国(アルサケス朝)初期の首都として機能していた。王の建造物群のあった旧ニサと民衆の居住地区であった新ニサとから構成される2つの遺丘で、いずれも城壁に囲まれている。我々が見学するのは旧ニサの方。変形の五角形の城壁に囲まれている。
パルティア王ミトラダテス1世(在位紀元前171年 - 紀元前138年)によってミトラダトケルト(ミトラダテスの砦)と改称されたこともあった。
王の間には、4本の柱と一段高くなっている玉座跡が残っている。
現地ガイドについて見て回った。
3-10-1 日干し煉瓦の町
撮影料が2ドルかかる。入り口で2人分を支払う。
そこから長い道を歩いて行くと、オールドニサがある。殆どが崩れている、いわば泥の塊のような物に見える。
五角形の城壁には、見張り台もあり、中には貯水槽や倉庫もあった。イタリアとロシアが発掘調査を続けている。
城壁の外、入り口のすぐ近くの所には博物館を建設中だそうだ。でも、既にここからの発掘品は国立博物館に展示されているから、内容はどのような物になるのだろう。
門をくぐると狭い通路になっていた。入った所に墓穴があったが、暗い狭い穴でかなり深い。ここからアクセサリーなどが見つかったそうだ。
道路の壁の煉瓦はオリジナルが残っている所もある。壁にフレスコ画も描かれていて、少しだけその名残りが見られるというが、殆ど分からない。
ところどころに狭間のような物が見られたが、これは灯り取りのための物なのだという。
テラスに出る。柱の土台のみが残っている。ここには家根も付いていたそうだ。当時のままの壁が残っている。
それからゾロアスター教の神殿の跡に行く。入り口が3つあり、11~13mの壁で囲まれていた。中央には火を焚く所があり、祈りの場だった。2階の部分にはギリシャ風の像が建っていた。国立博物館にあった絵だ。
隣に祈りの場へ行くための控え室があった。ここはイタリアが発掘した所で、土が盛り上がって山のようになっている所には柱が立っていた。
2つめのテラスは、あまり段差がはっきりしないが階段があった。やはり盛り土の所には柱が立てられていた。壁の下に少し装飾の名残が見られる。パルティア王のデザインのある銀や銅のコインはここから発掘された。
3-11 アハルテケ厩舎(1611~1710)
アハルテケは、トルクメニスタン原産の馬の品種。国章にもあしらわれているほど、この国の人にとっては誇らしい馬のようだ。
スピードと長距離の持久力で知られ、現存する最古の馬種のひとつと考えられている。
アハルテケを最も明白に定義付ける特徴は、鮮明な金属光沢のある金色の河原毛に代表されるように、その被毛の自然な金属光沢である。
その馬を見るために、厩舎の一つを訪れた。
ハンガリーの牧場を連想したのだが、狭い庭のような所で行われた。準備が出来るまで、お茶の接待を受けた。牧場主のトルクメ語を英語にそれを日本語にという通訳だ。
牧場主によると、トルクメ人はアハルテケを食べたり殺したりは絶対にしない。死んだら人と同じように埋葬するとのことだ。
この牧場には35頭いるが、ここだけではなく、砂漠の方でも飼育しているそうだ。
牧童が馬を連れてきて紹介が始まった。
最初は2才の茶毛。人が乗って曲芸のようなことをするのではなく、紐を付けて自分の周りを走らせたりするやり方だ。確かにすごいパワーを感じた。走ると速い。
次は1才のメスで白毛。スマートで大人しく、触らせてくれた。
3番目は栗毛で、光沢が良かった。元気で走ったり立ったり寝たりして楽しませてくれたが、そのうちに紐を振り切って逃げ出してしまって一騒動となった。夢中で逃げていく姿、速いこと速いこと。入り口の扉を閉めるなどしてようやく捕獲。
4番目は2才の黒毛。3番目と同じように立ったり寝たりする。寝るのはどうやら砂を身体に付けているようだ。
5番目が黒系の茶。4才の雄だ。これもすごい元気だった。
そこへレースを終えたという馬が戻って来た。競馬馬のように飾りを付けていた。
最後は初めて乗馬姿が見られた。あれほどの暴れ馬のようだが、人が乗るとちゃんということを聞く。さすがにうまいものだ。
それで終わり。肌の光沢、艶っぽさが見られた。
最後に見送りを受けて別れた。
3-12-2 モスク
このモスクは、前大統領の命令で造られ2004年に完成したもの。この地が彼の生誕地だったからだそうだ。
ここに入るには、女性はスカーフをし、カメラは勿論荷物も一切持ち込み禁止と事前調査の旅行記には書かれていたのだが確かに撮影は禁止だが、カメラの持ち込みは自由だったし、他のことも一切お構いなしだった。ただし、中に入るには靴を脱がなければならないが、これはここに限ったことではない。
中は広い。床も綺麗で、裸足になることに何ら抵抗はない。その床中央部には八画の星形がある。窓は48個あるが、これは1948年の地震の年を現しているという。
使用されている大理石はイタリア製、ドアの木枠はモロッコ製、シャンデリアはフランス製と外国製の物を使用している。
世界で四番目に大きいモスクで、ここには2万人もの人が入ることが出来る。それはいつものことではなく、ラマダンの最終日など特別なときに集まってくるのだそうだ。
丁度18時の礼拝が始まる時間になったので、人が次々に入ってきた。我々は早々にそこを出た。
3-12-3 バスルーム
次にバスルームへ案内しましょうということで付いていくと、モスク左脇から地下の方へ入って行った。
バスルームというからハマムのような所かと思ったら、身を清める所だった。水道が沢山並んでいた。それが何と自動栓だった。
そこでガイドさんが洗い方を実践してくれた。
まず手を洗う→口を濯ぐ→鼻を洗う→顔を洗う→耳の穴を洗う→耳の後ろを洗う→頭を洗う→首を洗う→足を洗う
それらをそれぞれ3回ずつ行う。
なかなか大変だ。それから祈りの場へ行く。神社でお参りをするときに身を清めるのと同じだが、こちらの方が大変だ。
トイレもあったが女性専用というのはなく、共通のを使わせてもらった。女性はそれほど来ないということだが。