1.トルクメニスタンの位置

turkmenistan map2.png
 さて最初にトルクメニスタンの位置を確認しておきたい。図は日本語版wikipediaからの引用。トルクメニスタンは国土の西側はカスピ海に面している。したがって、対岸のアゼルバイジャンのバクーなどからの航路もあると言うことだ。北側から時計回りにカザフスタン、ウズベキスタン、アフガニスタン、イランが囲み、そして9時の方向にカスピ海があるという寸法だ。国土は48.8万㎡だから日本の37.8万㎢よりかなり大きい。日本に更に北海道と九州を加えたくらいの大きさだ。しかしその国土の8割は沙漠であり、全体的のも砂漠気候になっている。
 ところで我々はかつてウズベキスタンに行ったことがあるのだが、改めてトルクメニスタンの地図を見ると、ブハラ、ウルゲンチ、ヒバの諸都市はトルクメニスタンの直ぐ隣と言ってもよいましであることを知った。特にヒバは国境の街でもあった。更に言えば、今回行った世界遺産の町クフナ・ウルゲンチはウズベキスタンにあるウルゲンチの元々の街であって、アムダリヤ川の流れが変わったために放棄された街であり、クフナの意味はOLDで意味するところは旧ウルゲンチとも言われる街であった。
 いまだもって、我々も行った日本のこうしたツアーが何故に面倒なウズベキスタンからの陸路入国という方法を採るか不明ではあるが、かかる意味からすれば、ウズベキスタン側からの入国はそれなりの意味を持っているとも言えるかも知れない。

2.何故にトルクメニスタン

 トルクメニスタンにも世界遺産が3つ現在のところある。だから世界遺産訪問のために行ったことは言うまでもない。おかげで、これで313の世界遺産を訪問したことになった。今年はこれで世界遺産探訪は終わりだが、目標の333にかなり近づいてきたように思う。数としてはその残数は1割を切り、数年後には達成の見込みがついた感がある。
 しかしながら、今回は今ひとつ遺跡見学が含まれていたから、参加したツアーを選んだのだ。それはバクトリア・マルギアナ複合(正確さを欠くかも知れないがツアーではマルグーシュを使っているので、以下こう読み替える)遺跡の一つゴヌール・テペを訪問するからだった。そこは拝火教を信じる人たちの国であって、チグリス・ユーフラテス文明とインダス文明の中間に位置する絶妙な場所に存在した。
 先走る人たちの口からは、世界四大文明に匹敵するとか、第五の文明とか言うフレーズが聴かれ、遺跡をこよなく愛する我々の浪漫はいやが上でも醸成されていった。もちろん将来的には何らかの形で、マルグーシュ関連遺跡が世界遺産に登録されることだろうが、まだまだ確定的な要素が少なく、固定的な評価を得るには時間が必要だろうから、指定はかなり先になるだろう。

3.中央アジアの変容

 ソ連から独立して比較的間もない頃に、我々はウズベキスタンを訪れた。実はこの観光の思いでは、noriが帰国してから入院騒ぎを起こすというハプニング付きだったので、かなり印象深い旅行だったので、古い話ではあるがかなり頭の隅にいくつかのエピソードが残っている。
 だいたい直行便というものが無く、インチョン経由でタシケントに入った。タシケントに入った時の感度は今でも忘れられない。中央アジアのオアシス都市くらいに思っていた我々の目にまず入ってきたのは、夜の着陸直前のおびただしい光の瞬きだった。タシケントは大都会だった。・・・まぁこう書いていくと思い出話になるから止めるが、この時の観光が如何に大変だったかという意味であと一つだけ触れさせてもらいたい。それはガイドについてだ。時にウズベク語のガイドが来ると大変だった。ウズベク語からロシア語、ロシア語から英語、そして添乗員が英語から日本語に訳してくれた。我々が質問をすればその逆にガイドに伝達される。長い道中も時間をもてあますと言うことはあまりだから無かったように記憶している。
 ところが、ウズベキスタンには流ちょうに日本語を操るガイドがいた。これまでいくつかの国を旅行してあった日本語のガイドの中で一番早口だった。彼に言うと、それでも今回は時間に余裕があるからゆっくり目にはしているという。少なくともウズベキスタンでは言語の障壁は無く観光できた。観光という産業が明らかに成長してきている姿を見た。
 また奇しくも今回タシケントで泊まったホテルは、かつて訪れた時と同じホテルであったが、大きく様変わりしていた。明るくなった!パーティーに来ている女の子は殆ど超ミニスカートの子ばかりだった。夏に訪れたにもかかわらず、寒々しくてシャワーさえ浴びなかったが、もはやそうした心配は全くいらなかった。
 勿論トルクメニスタンにおいてはいくらか違いはあるが、オイルマネーならぬガスマネーで潤っている国だけあって、発展著しいのはウズベキスタンを凌いでいた。考え方の違いなどはあろうが、明日にはこうした国々が再び世界の表舞台に出てくることになるのでは無いかという、予感すら感じられた。

4.ちょっと残念だ合ったE旅行社

 今回の旅行に使ったのはE旅行社。かつてメキシコに行った時にはさんざんだったが、それを例外とすれば我が家では比較的に高い評価を得ている旅行社だった。値段が安かったから飛びついたような部分もあるが、添乗員が訪問先についての知識を持ち合わせなさすぎた。いや、これは会社としても無かったのだろう。この地方のダイナミズムな変遷を描きつつ、旅をしてくれるという風は無かった。「だからこの遺跡を訪れるのだ」という、ポリシーが感じられなかった。
 結論的に言えば、安いツアーはやはり安いツアーだけのことはあったということだろうか。得手不得手があると言うことなのだろうか。S社はそのサイトを見ても、この地方の解説などで数歩先に行っている。こうした会社を選ぶべきだった。我々もまだまだだと、自身をなじった。
 これからはもう少し、訪問先とその実績などを検討材料に入れなければならないというのが、今回の旅の反省点だった。E社は最近20~30万円台のツアーを多く作ってる。この数字には燃油代も含まれているので、顧客ニーズとはいえ、かなりの縮減を図らないとならない数字だ。このシリーズには手を出さない方が賢明かも知れない。
 ツアー中の食事も、現地旅行社の責めに帰する部分もあろうが、えっ!こんなところで食べるのと思うような場所があった。よそのパーティーの席の端っこで、バンドがギンギンに演奏しているそばで食べさせられた。ホテルの中での食事が少なかった。前回の韓国旅行の再現のようだった。また食事内容も、基本中の基本のメニューさえ出てこないものがあった。(トルクメニスタンで)
 それから健康への配慮が欠如していたように思う。旅の後半、国境越えの日に我々が把握しているだけでも5人が体調を壊していた。noriもやや危なかったから、参加者の半分以上が問題を抱えていた。その前日夕方こちらの名物のピラフを食べたが、これが綿花の油だったせいかもしれないが、かなりの確率でその日誕生日の人を祝うために添乗員が購入してきたケーキのせいではないかと思っている。そのケーキは昔我々が子供の頃よく食べた不二家のケーキ、そうバタークリーム一杯のケーキだった。添乗員に後から、「あれはリクエストして作ってもらったのか」と聞いたら、「いや、出来合いのものを買ってきました」と言う、大胆な答えだった。ケーキのせいではないかもしれないが、町中で出来合いを買ってくるのは、いかがなものだろうか。もう少し健康に留意した行動を社員教育として、徹底してもらいたいものだ。
 そしてこれはブルガリアの時もそうだったのだけれど、奇しくも添乗員の名字が同じだったのだが、両者とも英語力が我々よりは遙かにあったものの添乗員の基準からすればあまり無かったことだ。現地ガイドの話していることの半分も訳さない。自分の予め持っているデータと同じことをガイドが言う時には訳すが、そうでないと訳さない。訳せないのか。小キズカラの説明は、ガイドは一生懸命話しているのに、添乗員の翻訳は殆ど無かった。添乗員の役割は運行管理だと行ってしまえばそれまでだが、あまりにも貧弱な人材が投入されている感じだった。(もちろんE社にも、帰国子女の如く英語でまくし立てる添乗員に会ったこともあるけれど。)

5.お金さえ払えば自由ではあることは理解しているつもりだが

 今回のツアーは総勢添乗員を含めても12名だった。コンパクトで、適当な数だ。普通のツアーと違っていたところは、添乗員の彼女を含めてようやく男女同数になるというくらいに、男性比率が高いツアーだった。
 最初そのことを聞いたときに、これはやはりマニアックな人たちが多く参加するのだろうなぁと思っていた。ガイドが話している途中に割り込まれるのは困るが、質問時間に彼らが発する問いは、感心させられるものが多い。
 ところが、そうした人は皆無だった。なんと、noriが一番多くガイドに接近する人だった。
 極端に言えば、遺跡を見るのがつまらないという比較的若い女性の参加者がいた。ゴヌール・テペに参加しないという比較的若い男性がいた。もちろん、だからといって旅程そのものが影響するわけでは無いのだから、問題点として指摘するつもりは無いが、今回のコースは遺跡を取ってしまったら、半分以上は無くなってしまうようなコースなのだから、どう考えても、何のための旅行なのかとまか不思議だ。その女性の方は、イスラム圏では飛行機に乗る時には女性を先に乗せるのだと我々に解説してくれたし(そんなことは無いと思ったが)、また同じくその男性の方は中央アジアはこれで制覇だと豪語していた。実際彼のパスポートは増補されていたから、言葉に嘘は無いと思われた。彼に遺跡はイマジネーションの世界だと言うと、大笑いしていた。不可思議だった。
 何度も言うように、これは文句では無い。ただまか不思議で理解できないと言うことを言いたいだけだ。歳をそれだけ取ったと言うことなのかも知れない。

6.国が理解できない

 今回の旅で、トルクメニスタンの一端でも学べたかと言えば、あまりそうした感動が無い。添乗員の理解力不足や、同行者の探求心の欠如も手伝って、トルクメニスタンという国を、旅行前より鮮明に描けるようになったかというと、必ずしもそう胸を張れない。
 移動が長かったし、旅も点と点を結ぶだけの形だったからだ。やはり一週間足らずの滞在というのは、問題がある旅行なのかも知れない。
 少し前までは、中央アジアの北朝鮮と揶揄されてきたトルクメニスタンであり、まだまだその前大統領の影響がそこここに残っているおとは、街々に金ぴかの像が残っていることからして理解は出来た。しかしながら、例えば、世界で永世中立国と言えばオーストリアとスイスと答える人が多いだろうが、トルクメニスタンも国連での承認を得ている。これはこの国が置かれている状況と無縁では無いが、こうしたことの一端も垣間見ることは出来ずじまいだった。
 ニヤゾフ色がもっともっと後退した暁に、レーニン像がニヤゾフ像に変わったように、ニヤゾフ像が平和のシンボルなどに置き換わった頃、未だこの世に長らえていたのならば、再訪してみたいと思う。