7.11月29日(木)タシケント みぞれ時々曇り
起床(0500)朝食(0700)ティムール広場(1014~1030)地下鉄乗車体験(1035~1137)ホテル着(1145)昼食(1200~1300)日本人墓地(1320~1342)ナヴォ劇場(1358~1410)ウズベキスタン歴史博物館(1412~1540)ムスタキーリク広場()チョルス・バザール(1635~1730)地元スーパー(1755~1815)夕食(1830~1910)空港着(1930)出国(2014)最終セキュリティー(2110)
7-0 この日の主な訪問地
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7-1 朝
起床(0500)朝食(0700)
朝起きたら、目の前のティムール広場が白くなっていた。
noriによると今日の天気予報は、一日雨。最高気温4℃とのこと。部屋にいると全く感じなかったが、夜はかなり冷え込んだのだろう。
今日は歩いての観光が多いので,気が重くなってしまう。その上今日は深夜までの長丁場の日程だ。
一通りのことをしてから朝食へ行く。広い会場のはずだったのだが、そちらが他の団体で使われるというので急遽、先日と同じ会場になった。が、ちゃんとガイドさんがその前で待っていて教えてくれたのでウロウロすることはなかった。この辺りもこのガイドさんはきちんとしている。
ビュッフェスタイルで、内容も先日と同じだったが、今日は卵料理人がいたので、焼いてもらった。またトースターも置かれていたので、久しぶりにトーストを食べた。
部屋へ戻ってから、帰国用に最終荷作りをした。
7-2 ティムール広場(1014~1030)
ホテル発(1008)
荷物を全てバスに積み込んでから歩いて部屋から見えていたティムール公園へやってきた。地下道の入り口には警官らしき人が立っていた。
みぞれが降っていた。タシケントでも初めての雪だと言うことだ。
ティムールは、サマルカンド南部のキシュ(ウズベキスタンのシャフリサブス歴史地区)で生まれた。ティムールはチンギス・カンの築き上げた世界帝国の夢を理想としていたとされ、外征を繰り返した。勢力を拡大すると、さらにホラズムとウルゲンチも攻略した。1370年に中央アジアにティムール家の権力が確立し、ティムール家による支配が行われ、これをティムール朝(ティムール帝国)と呼ぶ。サマルカンドが14世紀中頃からティムール朝の首都だった。
ウズベキスタンで発行されている500スム紙幣の裏面に騎馬像が描かれている。それがこの像だそうだ。1000スムにはティムールの歴史博物館が描かれている。
要するにこの国にとってティムールは英雄なのだ。シャフリサブスとサマルカンドとここタシケントに彼の像がある。
が、この公園が現在のようになったのは、独立後だとのこと。ソ連時代は別の像が建てられていたそうだ。当然その中にレーニンの名前が出てきたが、マルクスの名前も出てきたので、首をかしげてしまった。彼の像が立っていると言うことは他の土地では耳にしたことがなかったからだ。他にも社会主義のスローガンなども掲げられていたそうだ。
ホテルと反対側が参道だったそうだ。参道という意味がよく分からないが、彼のイメージとしては浅草の仲見世らしい。道の両側に店が沢山並んでいたのを整備したようで、今やタシケントのブロードウェイだと言うそうだ。ずうっと歩いて行くと国会議事堂にぶつかり、更に行くとタシケントを出て行ってしまうとか。
更にぐるりと回ると塔が二つ立っているが、この道はサマルカンドまで続いていた。ティムールの時代、ここが出入り口の門だった。右側だけ残っていたので、それに合わせて左側も作ったのだそうだ。
7-3 地下鉄乗車体験(1035~1137)
ソ連時代の1970年代に造られた。朝の6時から24時まで動いているそうで、均一料金。どこまで行っても一日乗っていても変わりはないとのことだ。電車は4両編成。時々身分証明書、我々ならパスポートチェックがあるので肌身離さず持っていることが必要とのことだ。
また、駅には同じデザインはない。それぞれ各駅にテーマがあり、内装はメタルの彫刻、ガラス、プラスチック、花崗岩、マーブル、陶磁器、石膏などが使用され、一駅一駅特徴のあるデザインが施されている、と言うので、それが楽しみだ。が、残念なことに撮影は出来ない。エレベーターの所にも、構内にも、それらしき人がいる。
地下へ行ってまずは窓口で切符を買う。700スムだ。切符と言ってもゲームセンターのコインのような,プラスチックの軽いものだ。これを回し使いしているようだ。ガイドさんがまとめて買ってくれた。おつりがピカピカのコインが来たので、ガイドさんはみんなにそれをプレゼントしてくれた。太っ腹。
切符を買ってドアを開けて中に入る。早速そこの係員にパスポートの提示を求められた。ガイドさんが自分の身分証明書を見せると、我々はOKということになった。
改札口でコインを入れるとレバーが動くのでそれを押して入る。地下鉄はドアが閉まるのが早いですから気をつけてくださいと注意を受けたが、エスカレーターもかなり速い。
最初の駅は、アミールティムール(amir temur xiyoboni)駅。上の広場と同じ名前だ。天井がアラバスター(石膏)製で、正方形を5つ組み合わせて星形のような模様になっている。ティムールの時代にから続く模様で、ティムールの時代を現している。
次の駅は、ムスタキリク(mustaqilliku maydoni)駅。独立広場と同じ名前。天井は派手な模様が施されており、更にシャンデリアで飾られている。柱はアラベスク(モスクによく見られる幾何学模様)で上部の方は彫刻で一杯だ。壁は大理石の平面で赤や茶色白などの色が見られる。駅全体が明るい雰囲気だ。
いつ電車が来るのかは時計を見れば分かるとのこと。前の電車が出てから何分すぎたという時間表示なのだそうだ。大体4~6分おきに来ているそうだから、それで自分で判断するわけだ。難しい見方だ。この間隔は通勤時間でも日中でも同じだそうだ。
次はパフタコル(Paxhtakor)駅。綿花のモザイク模様が壁を飾っている。こういう雰囲気を崩さないために、宣伝とか売店はないのだそうだ。そういえば、電車の中で、junは席を譲られた。この国では年上の人にはそうするのが当たり前なのだとか。
次は歩いて乗り換えだ。エスカレーターで下りるときにその正面には石和で見るような貴石画が壁一面に見られた。そこに彼の肖像画も見られる。
着いた所はアルシェリナヴォイ(Alisher Navoiy)駅。同じ構内だと思うが駅名が違っている。ナヴォイと言う中央アジア一帯で有名な詩人の名を取っている駅だ。壁には彼の作品が彫刻されている。有名だといういくつか紹介してくれたが、申し訳ないことにさっぱり分からなかった。天井はクーポラのようだ。その一つ一つに貴石画で違った花模様が施されていた。ここはすごい贅沢だ。
次はウズベキスタン(uzbekiston)という駅だが、通過。電車の中からは、天井はアーチのようになっていて、壁に一筋の模様が見えた。
一つ駅を飛ばして着いたのは、kosumonavtlarl駅。プラネタリウムのような天井が素晴らしいです、と言うように天井には豆電球が沢山並んでいた。が、これが点灯するのは特別な日だけとのことで、この日は暗いままだ。この駅のテーマは宇宙。開発に携わった学者や歴代の宇宙飛行士が円形の中に一人ずつ収められて並んでいる。レオノフ、ガガーリン、テレシコワなどがいた。ロシア人が多いが、これを造ったのはソ連時代だ。ウズベクで一番速く乗り込んだジャニベコフも当然いる。神話の中からイカルスなどもいる。宇宙に関している話ということなのだろう。
また同じルートを通って,元のティムール駅へ戻った。
記念にコインを入手した。
7-4 昼食(1200~1300)
ホテル着(1145)昼食(1200~1300)
いったんホテルへ戻る。と言っても既にチェックアウトしているので、ロビーで昼食開始を待つことになった。つまり、昼食はこのホテルで、ということになっていた。
確かに朝食を予定していたホールでは,行事が行われるらしく、それらしい衣装を着た女性がいた。
我々のレストランは階上。眺めがいい。noriの記憶によれば、前回来たときには、ここは外国人なら金を払えば酒が飲めたレストランだったという。今ではどこでも自由に酒を飲むことが出来るようだ。その意味でも開放されてきたと言うことが言えるかもしれない。
メニューは、ポテトサラダ、チキン、ご飯、クッキー。スムが余ったので、ウォッカを飲む。3,000スムを3杯。これまで飲んだ中で、一番美味しかった。
7-5 日本人墓地(1320~1342)
予定にはなかった日本人墓地に連れて行ってくれることになった。ここは来たことがなかったので,有り難い。国の所有だそうだが、管理人がいて世話をしてくれているという。
門をくぐると小さめのモスクがあった。その先が墓地になっている。
現地の人の墓は、土饅頭のもあったが、これまで見てきた地味なものとは比べものにならない程自己主張されたもので、墓に肖像が刻まれていたものも多く見られた。こういう習慣はソ連時代からだそうだ。
その奥の方に柵で囲まれて日本人墓地があった。ここには79名が眠っているとのこと。派手な墓碑は見当たらないが、一人一人の区画があり、その氏名は、鎮魂という碑に刻まれていた。それを見ると日本各地から招集されていたことが分かる。
奥の方には、墓地名と人数が日本語で記されているものもある。ここの他にも墓地があるというのようだ。中央の大理石の所には、それらの所の土を持ってきて埋葬しているのだそうだ。いかにも日本的な考えだと思う。日本人が関与しているのかも知れない。2003年に専修大学の佐竹という教授のゼミがここへ来ているそうだ。ガイドさんによるとここだけでは無く他の墓地にもお参りに来ている人がいるとのこと。そうと知っていればお線香でも持ってくればよかったと思った。
これらは第二次大戦後50周年を記念して整備されたようだ。「永遠の平和と友好の碑」というのにそのようなことが書かれていた。
このような遠い所で亡くなるのはさぞ無念だったろうが、こうして墓が残され時々祀ってもらえるのは、遺骨を放置されている人たちに比べれば何と有り難いことかとも思う。
その横にはやや小さめだが、ドイツ人の墓地もあった。彼らもまたこの地までおくられ、無念の最後を迎えたのだろう。
戻り際に葬列と出会ったが、葬列に従っていたのは全て男性だった。ガイドに聞くと、こうした場には女性は参加しないのだそうだ。そんな話を前も聞いた気がするが、実際に遭遇したのは初めてだった。
7-6 ナヴォイ劇場(1358~1410)
この劇場は、1946年に完成した。タシケントでは一番古い劇場だ。現在修復中ということで、一部カバーがなされていた。
タシケントに抑留されていた旧日本兵達が強制労働で建てた建物で、1966年の地震の際にもびくともしなかったと聞いていたが、どうやらそうではなかったようだ。今回のガイドさんもそのような説明はせず、ただ日本人か一部携わったという程度の話だった。(実際問題基礎工事に加わったわけではなく、内外装の段階で参加したらしい。生き残った日本人の証言もある。)
今回再訪するので調べた結果が上記の通りなのだが、それでも日本語の説明板は昔のまま残されていたのが懐かしかった。
中にはいくつかのホールがあって、サマルカンドというホールは青、ブハラはシルク模様になっているとか、ヒワは木彫りなどホールによって工夫されているとのことだ。
その前の噴水も1924年のタシケントで一番古いもの。そこに面しているタシケントパレスという有名なホテルの前身は、金持ちのユダヤ人の持ち物だった。劇場はバザールだった所で、中心街だった。
7-7-1 古代
はじめにジオラマで現在の位置を確認した。ウズベキスタンの中央辺りでは昔からゾロアスター教が栄えていたが、ヨーロッパ方面からはキリスト教が、インド方面からは仏教が入ってきたので、ここには色々な人たち、色々な宗教が混じっていた。この辺はトルクメニスタンのメルブを見学したが、ほぼ同様の状況だろう。古代宗教は互いに寛容であったことが、歴史を通じて学べると言うことは重要なことだ。
それから2階へ行き、古代の展示を見る。
恐竜や原始人の像、打製や磨製の石器類、狩りの様子などの展示がなされていた。銅鏡のようなものも見られた。
テルメズの様子を絵で見る。現在は、アフガニスタンとの緩衝地帯にあるため行くことが出来ない。ウズベキスタンの南端、アムダリヤ川北岸のテルメズにはカラ・テパ遺跡(2~7世紀)というものを日本人の加藤九祚という人が中心になって発掘を進めているそうだ。カラテペ遺跡からは、大型ストゥーパ(仏塔)を発見された。これは玄奘三蔵が見たという伽藍の一つと考えらているそうだ。クシャン時代の仏教遺跡はいくつもあるが、その中でもカラ・テパは最大のものという。
キリギスとの国境近くのフェルガナ盆地で見つけた双頭の蛇は、お守り。始めがあるけど終わりがないという事でお守りだったそうだ。よく分からない。
ウズベキスタンではゾロアスター教の遺跡が沢山見つかっているそうだが、この座っている女性もその1つで、Ossuary=骨壺(鳥葬の後などに骨を収める)。ここでも添乗員さん英語力を発揮して、Ossuaryという名の骨壺だって説明してくれちゃった。紀元前1世紀のもの。
7-7-4 その後
2~3千年前のソクディアナ王国(サマルカンド)の資料。絵や出土品、小さな人型、壷、装飾品、戦闘の彫り物など。
ブハラの方へ向かう途中にガラフシャという宮殿があった。5~7世紀の赤いホールという遺跡で、本物はロシアの博物館にある。ただ、この遺跡に関して,ネットなどで調べても分からなかった。
ゾロアスター教の骨壺を集めたナウスという墓は、小さいオスワリをいくつも一纏めにしている。
7世紀以降はアラブ人が入ってきて、イスラム教とゾロアスター教の戦いになり、11世紀に完全にイスラム化する。その間はずっと戦いが続いていた。ウズベキスタンに2冊あるというコーランのコピーのうちの1冊がここにはあった。
ここからは、割合に歴史的にはっきりした時代となってくる。
モンゴルを打ち負かしたティムールの絵が、壁一面にある。
またインドやイランで見たような、天文台の模型もあった。このあたりに来るとイスラム文化の面目躍如という感じがする。
更に上の階へ行く。
それ以降の近代史には、ロシアの侵入、ロシアとして第二次大戦に参加、などが写真とともに紹介されている。目を覆いたくなるような写真も見られる。
大地震の様子やアラル海の環境問題なども紹介していた。
独立後のウズベキスタンという現代史。ここまで来るとカラーの写真も多く産業や世界とのつながりを表す物になっている。日本の天皇との写真もあった。
7-7-5 自由時間
その後自由時間になったので、もう一度仏教遺跡のものをみたいと思ってそこへ向かうと係員からストップをかけられた。理由も分からず、他のルートから行ってみると、何らかの撮影をしていた。そちらの邪魔になるからということらしい。
それでも、我々が見たい所にはかからないようなので、音を立てないように静かに見て回った。
目に付いたものを次から次に撮影したので、時代的なものは不明確。それにしても、パキスタンでもそうだったが、異文化を尊重して保存するというのも、平和になった証拠だろうと思う。
この頃から調子を崩している人が出始め、話題に上るようになっていた。
終了して出るときに丁度日本語を学んでいる学生の一団と一緒になった。上手な日本語で積極的に話しかけてきて、写真を取り合ったりしていた。
7-8 シャラフラシドフの公園
それから向かいにある公園を見た。丁度黄葉した木々が見られて綺麗だった。
そこへ着く前に右を見ると、朝ティムールの像のあった公園が見えた。ブロードウェイの道が続いているのがよく見えた。結構近くをグルグル回っていたことを知った。
シャラフラシドフという人はソ連時代にウズベクの代表だった人だそうだ。ここに非常に面白い建物があるので見てみましょうということで行ってみた。18,19世紀の建物。帝政ロシアのロマノフ家がここに住んでいた屋敷だったそうだ。現在は建築として保存されているが、会議などにも使われたりすることもあるとか。
7-9 ムスタキーリク広場(1555~1615)
そこから歩いて広場の方へ行った。途中、大きな噴水があったが、夏には噴水の広場といわれるように噴水が上がるらしい。また、ここでは12月25日から大きなクリスマスツリーが飾られ賑やかになるのだとか。一瞬、えっ?と思ったが、クリスマスは日本と同様、今や宗教に関係ないお祭りになっているということか。
少し先に白い大きなゲートが見えた。ここからがムスタキーリク広場。
ゲートの上にはツルがいる。こちらでは幸せの鳥なのだそうだ。
そこをくぐり抜けていくと目の前には大きな「子供を抱いた母の像」が見えてくる。母親は地球を、子供は新しい国を表現しているのだとか。更に上の地球にウズベキスタンが彫られている。これは独立したときに造られた物で、それまでここにはレーニンの像が建てられていた。
そこから更に歩いて行くと、第二次世界大戦の戦没者記念碑へ行ける。道の両側には戦没者の名前が刻まれたいたが、本のページのように捲ってみることが出来るようになっている。
そこにも戦争へ行った我が子を思う母の像が立っており、その前に永遠に燃え続けているという「平和の火」を見つめている。
共に子を思う母親の姿だが、前者は腕の中に我が子がいるのに対し、後者は年老いて愁いを帯びた表情になっている。
この国がやはり戦いで傷つき、いま平和を求めていることが何となく伝わってきた。静寂な空間だった。
7-10 チョルス・バザール(1635~1730)
それからバザール。これははじめからコースに入っていたバザールだが、どれほど大きなものかと楽しみにしており、こでお土産を買い込もうと思っていたのだが、行ってみたら全く予想外だった。
建物へたどり着くまでの路上には色々な物が売ってあったのだが、建物の中は違っていた。
大きいことには違いないが、日常的な食物を売っている市場だったからだ。確かに庶民の台所だった。これではお土産になりそうなものは見つかりそうも無い。しかも既に日が落ちで暗くなりかかっているのだが、裸電球がチラホラある程度で、商品がよく見えない状態だ。
それでも、ドライフルーツを買おうと探して歩いた。まず2階へ上がってみた。ここはもう殆ど商品が見えない。それでも目をこらしてとりあえずは乾燥イチジクを探した。
殆ど客がいなかったせいもあって、彼方此方から客引きがよってきて、腕を捕まれたりしてふりほどくのが大変だった。一応あるにはあったが、とても買う気になるような物では無かったので、下へ下りてウロウロしていた。
時間が有るので再び二階へ。そこでお兄ちゃんにとうとう掴まってレーズンを1kg買い込んだ。
その後は階下に降りていくと、またまた陽気な兄ちゃんに掴まってお茶を買った。
それでもスムが大量に余ってしまった。
すっかり暗くなった頃に集合時刻となった。
7-11 地元スーパー(1755~1815)
スムが余っているので、とにかくそれを使うことだけを考えて、結局一番手頃なチョコレートにした。2,800スムのを12枚買い込んだ。
ところでウズベキスタンのこの時の通貨の状況だが、1000スム札が流通している札の殆ど。邦貨でこの時約40円。2,800×12だから1000スム札が34枚必要だ。買い物に来ている客は皆1000スム札の1センチくらいの厚さの束を持っている。レジには一般的なレジスターとともにそれに連動した1000スム専用札束数えマシーンがあって、皆あるったけの1000スム札を渡す。札束をダーッと機械が数えて、残りを客にレジの人は返すという寸法だ。高額紙幣はあるのだが、流通はされていないに等しいらしい。この国に来てみた面白い風景で、これはスーパーに来ないと見ることはできなかっただろう。
7-12 夕食(1830~1910)
メニューは、スープ、サラダ、ケバブ(2種)、クッキー。パンがおいしかった。やはりウズベクのパンは美味しい。
スムが余ったのでウォッカを飲む。4000スムだったが、不足していたら、6000スムに1ドルを足せばよいということだった。要するに1ドルが2000スムという計算か。
ここでトルクメへのビザ代が2ドル戻る。結局ビザ代は65ドルということだった。旅行本にも67ドルという記載はあるのだが、このあたりの事情がさっぱり要領を得ないし、ビザの団体割引があるわけじゃあるまいし、不可思議だが、取られるのでは無いのだから、皆文句は無い。
7-13 空港にて
空港着(1930)出国(2014)最終セキュリティー(2110)
レストランから空港まではすぐだった。
その入り口でガイドさんとお別れ。チエックインまで付き合ってくれるのかと思ったが、中には入れないそうだ。
まずはいつもの通り、セキュリティチェックを受ける。それから、おもむろにスースケースを広げてお土産類を中に入れる。我々一団が皆スーツケースを広げている光景は、見ている人にとっては面白いものだったろうと思う。
それから団体チェックインかと思いきや、個人というので少し混乱した。が、めでたく通路側の隣席をゲット。
その後は税関審査。何事も無く通過。結局、細心の注意を払って持ち金を記入しても、一切確認すること無くサインするだけで終わってしまった。 そして出国もあっけない程簡単に済んだ。
そのまま搭乗ゲートに向かったが、そこでまたセキュリティチェックがある。所が、この前にあった免税店で買い物をしたいという人が何人かいたので、しばらく待つことになってしまった。どんどん時間は過ぎ人が通り過ぎていくので、たまりかねて我が家が並び始めると、ようやく皆がその列に付いた。
この最終チェックは思いの外厳しく、一人一人が5mほど離れたカウンタでパスポートをチェックされる。その後のセキュリティでは靴や上着、時計、ベルトなど全て身から取り外す。これで時間がかかった。それなのに、リュックに入れた水は難なく通過してしまった。
そのまま先へ行こうとしたら、待っていろというのでしばらくまた待つことになった。無駄だよなあとブツブツ言いながらも一応は待っていた。
ようやく揃って搭乗ゲート、B3へ向かったが、場所が分からずウロウロした。noriがめざとく地下にあることを見つけて、添乗員さんに教える始末だった。それから我が家はすぐにそこへ行ったのだが、そこは待合室も無くコンクリートの寒々しい場所だった。そのせいか他の人はここには来ず、上の方にいたようだ。そこにも免税店が2カ所あったので、買い物をしていたのかも知れない。
ようやくゲートの係員が来た。その人は先ほど、我が家に搭乗券を渡してくれた人だった。カウンターの仕事やらここの仕事やら掛け持ちでやっているようだ。