4.11月26日(月)アシハバード マリィ メルブ(快晴)
起床(0330)ホテル発(0505)空港着(0515頃)搭乗(0635)動く(0650)離陸(0701)着陸(0735)空港発(0810)メルブ(0850~1110)バザール(1156~1245)昼食(1255~1350)マリィ博物館(1359~1500)ホテル着(1514)ホテル発(1853)夕食(0701~2030)就寝(2130)
4-0 この日の主な訪問地
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4-1 朝
起床(0330)ホテル発(0505)
今日も朝一番の出発ということで早い。何でこんな日程になるかと言えば、一つにはウズベキスタンの観光も入れざるを得ないという事情+ウズベキスタン航空のフライトスケジュールが週一便であると言うことによる結果だろう。週一便だから旅程は7×A+1日の行程になるから、8日間の次は15日間になってしまう。アシアナ便などの利用もあろうが、これもウズベキスタン側旅行社との関係で難しいのだろう。古のJALパックの感がある。
というわけで、3時半には起きて、最終の荷物チェックをした。今朝はホテルで用意された弁当を持って行く。
内容的にはあまり期待できないが、無いよりはいいだろう。バスに乗り込むと早速、1人分を2人で分けて食べた。この時間だと無理矢理詰め込む感じで、食欲が湧かない。(まぁ贅沢な言い分であることは分かっているのだが。)
4-2 空港にて
空港着(0515頃)待合室(0525)
空港に着くとまず初めに建物に入るのにセキュリティーチェックがある。航空券を持っていない人間はこの先は入れない。ここで、noriのスーツケースが引っかかった。開けというので開いたのだが、何が引っかかったのか全く分からなかった。係員が手に取ったのは懐中電灯。まさかそれが分からなかったわけではあるまいが。次にプリンターの箱をさして何かと聞くので、プリンターと答えるとそれでOK。結局何も見つけることは出来ずにOKとなる。(モニターでチェックして指示する人と、実際に探す人の連携が悪いから、探す人も面倒って感じだったのが幸いだったと思う、結果何も探し得なかった。)
そこから50mも行かない所にまたもやセキュリティーチェックの所がある。なんでやねんという感じだ。ここで今度はjunのスーツケースが引っかかる。これまた開けというので開いたのだが、結局何も出てこず、OKとなった。
電池かとも思ったが、それなら手持ちのバッグにも入っているし、なんだか訳の分からないチェックだった。
ここで、先日の搭乗券を見せて硬券を手に入れる。(硬券軟券・・・鉄ちゃん鉄子まるだしだ)といってもこの硬券、ナンバーが手書きされていただけで意味は分からない。団体の人数確認なのか?この数字は同行の人は一続きだったようだ。
それから待合室へ向かう。ここでもまたセキュリティーチェック。今度は難なく通過。やれやれである。
待合室はここも綺麗だった。例のごとくjunがトイレに行って搭乗券の写真を撮ってきた。ここのトイレ、一時、junは閉じ込められて、現地の人と一緒にドアを開けるべく奮闘した。綺麗だが、作りはいい加減と言うことだろうか。
その後時間が有ったので、残りの弁当を食べた。
4-3 機内にて <T5-127 9AB>
搭乗(0635)動く(0650)離陸(0701)食事(0720)着陸(0735)
飛行機までは歩いて行った。3-3の並びの座席は指定。全員が座ると飴が配られた。
離陸してすぐに今度は軽食が配られた。チーズのみのサンドイッチと、コーラを頂いた。離陸時にはまだ外は暗く(ぶれててゴメン、写真は下段左。)、こうした時間にも需要があるのだと感心する。食べ終わる頃になるとようやく日が昇って外が明るくなってきた。
放送では、マリィの気温は-1℃だとのこと。(トルクメン語、英語、ロシア語の放送があったと思う。)着陸時に大きな河が見えた(これもぶれててゴメン・・・何しろ隠れて取っているので)。
4-6 メルブ(0850~1110)
もう着きますよ、といわれて外を見ると、それらしき遺跡が見られるようになった。
メルブは、中央アジア最大の遺跡で、トルクメニスタンで最初の世界遺産に登録された遺跡だ。
紀元前6世紀から、アケメネス朝ペルシャの支配下にあるオアシス都市として繁栄した。当時は、「マルギアナ」と呼ばれていた。「マルギアナ」の遺構は、円形の城壁で囲まれた「エルク・カラ」。
その後、セレウコス朝時代をへて、前2世紀~後3世紀のパルティア時代に、「エルク・カラ」を北辺に組み込んだ方形に近い「グヤウル・カラ」が築かれた。城壁に囲まれ、十字に交差する道路で街区が造られていた。(冒頭の地図の青い線で囲んだ部分が「グヤウル・カラ」、それに接するようにある黄色しシミのような部分が「エルク・カラ」。拡大してみてもらうとよく判る。)
その外側にも、楕円形に近い形に城壁がめぐっていた。(冒頭の地図で赤い線で囲んでいるのがそれで、一番新しい、「スルタン・カラ」。)
メルブ遺跡は勿論世界遺産であり、我々はよりいっそう関心の度合いが高く見学したが、更にここに関心を示した理由がある。それはメルブには、紀元後1世紀頃に仏教が入ってきたと考えられ、城壁の南東すみに、仏寺跡とみられる遺跡があるということだ。8.5cmの仏像の座像と土器に入った経文が発見されている。仏教は世界宗教の一つに数えられているが、仏教の西側への伝搬は現在の所、ここが西の果てと言うことになっているからだ。
7世紀に西方のアラビア半島からイスラームが勃興し、ササン朝を滅ぼすと、メルブはアラブの支配下になった。
セルジューク朝(1038年~1194年)時代になると、「グヤウル・カラ」の西に接して概ね楕円形の「スルタン・カラ」が築かれた。このころ、メルブが最大の栄華を誇ったとされ、数万冊の蔵書があったという図書館が8つあり、天文台も築かれた。
1097年、セルジューク朝のスルタン・サンジャル(位1118~1157)がこの地方を支配するようなると、彼はメルブに自らの宮廷を置き、セルジューク朝の東部全域の首都となった。
サンジャルの廟もこの「スルタン・カラ」のほぼ中央に建てられた。
12世紀末も、ホラズム・シャー朝支配下の重要な都市として繁栄を続けたが、1218年に、チンギス・ハーンの要求を伝えた特使を殺害したため、1221年に、チンギス・ハーンの末子トルイ率いるモンゴル騎馬団が復讐のために攻め込んで、100万人を数えたという住民を皆殺しにした。その後、メルブの町は廃墟と化し、二度と復興しなかった。(チンギスによる現代史以前の史上最大の虐殺とも言われているらしい。)
4-6-1 大キズカラ (0850~)
カラというのは要塞という意味で、こちらが女性用、小さい方(後述、小キズカラ)が男性用だったという。
7世紀のササン朝時代、アラブ人によってスルタン・カラの城外に築かれた。セルジューク朝時代まで使われた豪族の居城だそうだ。
ここが、乙女の要塞と言われるのは、ガイドさんによるとモンゴル襲来の時に、乙女がここに立て篭もり、モンゴルの手に落ちる前に自決したから、だそうだ。まぁこういった話はよく諸説あるから、他にも諸説あるようだ。
壁の高さは20m近くあり、かつては2階建てで17もの部屋を持ち、屋根もあったと考えられている。32本(16×2)の柱のある壁は波形をしているが、これは強度を増す造りなのだそうだ。下の方には矢狭間が見られる。ボツボツと穴が開いているのは、モンゴル軍に攻撃されたときの物だそうだ。
現在は1階部分は砂に埋もれ、壁は崩壊している。モンゴルの攻撃にも地震にも耐えたそうだが、自然の砂嵐などには勝てなかったようだ。
現在修復中で、中に入ることが出来なかったが、ここは外側の印象が強い所だけに、それは青空にも恵まれてばっちり見えた。
※復元想像図リンク先:http://heartland.geocities.jp/zae06141/merv2.htm
4-6-4 アサブ族の墓(0919~)
アサブ族というのは、ムハンマドと共に生きた7世紀の人のことだという。左側の廟がジファリ(Jifari)という人のもので、右側の修復中なのがブレイダー(Buraid)という人のもの。ジファリはメルブ最初のイマーム(指導者)になった人で、ブレイダーはムハンマドの戦友で、戦いの際、旗を掲げて戦ったことで有名な人とのことだった。
これらの廟は15世紀に建てられたが、1890年に崩れてしまったので、その後、修復した。この頃は、ティムールに支配されていた時期なので、ウズベキスタンと同じような模様になっている。緑の布がかけられているのは聖人の墓。緑色は、イスラム教徒にとって神聖な色となっている。
かつてはこの周辺に多くの人たちが墓を作ったが、世界遺産に指定されてからは禁止になった。
4-6-5 グヤウル・カラ(0935~)
グヤウル・カラはアレキサンダー大王の時代の総督だったセレスク(?)によって紀元前 3世紀頃造られ、パルティアを経て、ササン朝(3~7世紀)まで使われた。 冒頭の地図で、青い線で囲った部分がだいたいそのエリア。
バスを降りて城壁がよく見える所まで行きましょうと言うことで、小高い丘を登った。足下が滑るので注意しながら上って行く。
敵の攻撃を防ぐために壁は一辺1.2kmのほぼ正方形に造られていた。
目の前の壁は、いくつもの断層をみることができる。ここは、3人の王によって築かれたもので、一番左がセレスク王、右側が次のパルフィア王、その後ろ側にあるのをササニア王が造ったそうだ。そう説明されたが、名前がこれで正しいのかどうかも含めて、それらの王がいつ頃の人でどういう立場だったのかは不明。少しへこんだ所で兵士は見張っており、矢を放ったそうだ。弓を射るための穴もあるとのこと。ただ、足下が不如意なので、そちらの方に気がいってしまって、壁の判断が良く分からなかった。が、ガイドさんが写真を見せてくれたので、それで何とか想像する。
イスラム教が広まる前にこの辺りまで仏教が伝わってきて、仏塔もあったそうだが、今は全くその面影はないとのこと。せっかく仏像などが発見された場所なのだから、何とか出来ないかと思ったが、考えてみればここはイスラムの国だった。(下から二段目の右側の写真に、ストゥーパが描かれているのに注目してもらいたい。)
そんなことを考えていると下をラクダの群れが通って行った。遠くにはこれから行く「エルク・カラ」の城壁が見えた。
4-6-6 エルク・カラ(~1009)
メルブ最古の場所で、アケメネス朝ペルシア(紀元前6~4世紀)の時代のもの。小高い丘になっている。円形のカラの真ん中にはゾロアスター教の神殿があって、平らなところは邸宅跡。40haの広さがある。
バスで麓まで移動。ここからが大変な上りになる。城壁の1番高いところは34mもある。ただ、頑張ってそこまで行かないと、全体の様子が分からないというので、何とか上り切った。そこが見張り台だったとのこと。確かに、そこからは360度の眺望がきき、城壁が輪のようになっているのが良く分かる。またそれが、グヤウル・カラの城壁へと続いている様子も良く分かる。
麓の、今は白く見える道は、当時は川だったそうだ。これも敵から守るための壕の役割を果たしていたそうだ。
4-6-9 スルタン・サンジャル廟 (1157~)
トルコ系の王朝、セルジューク朝もメルブを都とした。最後の王、スルタン・サンジャールがここに眠っている。修復の援助をしたのが現在のトルコ共和国。その記念碑もあった。先祖つながりと言ったところだろうか。
廟は、27m四方のほぼ正方形をしている。ただ、床は正方形だが、柱の上の部分はアーチを出すため曲面となっている。
高さは39m(当時はもっと高かったらしい)。遠くからもよく見えたため、キャラバンサライの目印にもなっていたそうだ。
外壁5m、基礎6mという堅牢なもので、後のモンゴル軍の破壊や地震にも奇跡的に耐え抜いた。ただ、彼の墓は、モンゴルが攻めてきたときに安全な所(ここから北に100kmの所)に移したのでここにはないとのこと。確かに中はがらんどうとしている。
このスルタン・サンジャールには、「鶴の恩返し」と同じ内容の伝説がある。后から出された条件を破ってしまったため、后は去って行ってしまった。実はこの后は天使だった。ただそのときに、モスクを造って窓を開けておけばそこから会いに来る、と言い残したので、天井に窓が開けられているというものだ。そこから差し込む光が反対側に映って光るように見えた。
受付の所で珍しくガイドブックを売っていたので10ドルで購入。
4-7 バザール(1156~1245)
前回のバザールが買い物時間が足りなくて気を遣ったのか、予定にないバザールへ行くことになった。が、ここでもお土産にするようなものは無い、要するに普通に買い物をするバザールだった。
中央の建物の二階は、ウエディングドレスのショップだった。貸衣装などというものはたぶんないだおるから、皆オーダーメイドなのだろう。建物の中にあった肉屋は、完全に他と仕切られており、衛生面での配慮が行き届いていると感じた。
何かあればと思っていたのだが、日用品ではどうしようもなく、フラフラしながら食べ物屋さんのおじさんに呼ばれるままに店に入り、写真を撮ったりした後、そこで売っている餃子のようなものを食べた。熱々で美味しかった。熱が通っているので大丈夫だろうというjunのお許しが出たので、noriが買った。1ドル出したら、一つかと聞かれたので、二つと答えたら二つくれた。相当ぼられたのか、あるいはまぁまぁだったのかは分からない。ただ言えることは、これはこれでよかったが、その後直ぐに昼食だと言うことを忘れていた。
4-9 マリィ博物館(1359~1500)
メルブとマルグーシュ遺跡からの出土品や民族衣装等が展示されている。内部の撮影は8ドルなので、noriだけにした。
解説が付くのかと思ったら、初めから自由にどうぞと言うことだった。ホテルが目の前なのだから、これなら先にチェックインをしてくれれば、それこそ時間を気にせず自由に楽しめたのにと思った。中には、つまらないからと最初からバスの中で寝ていた人もいたのだから。
まあそれはいいとしても、何も解説がないというのも困ったものだ。書かれている文字が読めない、部屋にいる女性に聞いても英語が通じないので、何も分からない。
仕方ないので、とりあえずnoriは写真だけ撮って、junは気がついたことをメモにとって、ということをした。ただ、その両者がどこで結びつけたら良いのか、難しい。
1階は前大統領と自然に関すること、2階はメルブとマルグーシュに関すること、というのは分かったので、金の手すりの階段を上って2階へ行った。
・農耕の様子。農作業や織物の様子など。
・結婚式の様子など。
・笛や琵琶のような楽器類
・土器、石器、貝の装飾品など
・マルグーシュの陶器。おおきい。
・紀元前2000年の壷。人や蛇の絵が描いてある。
・大きな杖、壷など。墓からの出土品。口のあるのは水差し?
・馬の骨も墓から。
・面白い人型。これらは何を意味するのだろう。沢山並んでいた。これらも墓からの出土品らしい。紀元前3000年頃と書かれていた。平べったい像で、子供が作る粘土の人形のようだ。造りは単調だが、皆腰回りが大きい気がした。
・ゴヌールの模型。こうしてみるとかなり分かってきているらしい。
・紀元前2~3世に頃の棺?
・壁の?装飾も見られる。動物の顔らしいものが見える。
・印章が沢山並んでいる。平べったい形のタイヤのようなものが殆どだ。
・銅の壷が登場する。ただ小さいものなのでこれも副葬品か。
・メルブの陶器になると彩色が施されていた。
・金属の壷も出てきた。
・丸い小さいのはティムール時代のコイン。
・メルブの模型
とにかくこんな調子で時間いっぱい使った。当然解説書もないので、よくは分からないまま、不完全燃焼で終わってしまった。
4-10 ホテル<マルグシュ 108号室>
ホテル着(1514)
中央が吹き抜けになっていて、周りを囲むように部屋が設計されている。我が家はエレベーターの丁度反対側辺りの部屋になった。
連泊のホテルなのだが、シャワーのみでガッカリ。それもシャワーのノズルが壊れている。これは言うとすぐに交換してくれたので、素早い対応にむしろ驚いた。部屋はやや狭い感じで、スーツケースを置くのが大変。例によってテレビやらテーブルやらを動かして使いやすいように変えた。
目の前が先ほどのマリィ博物館。
この日は荷物の整理をする必要も無かったので、写真の整理をして絵はがきを11枚作成した。
4-11 夕食(1900~2030)
ホテル発(1853) ショー(2000~2015)
夕食は近くのレストランまでバスで出かけた。1850集合
今日は民族音楽付きというので、それなりに楽しみにしていたのだが、連れて行かれたのは地下室のような、コンクリート打ちっ放しのような部屋。ここで食事も摂る。客は我々の団体のみ。しかも向かい側の壁は大きな鏡になっているので、変な感じ。
サラダ、スープ、バーベキュー、アイスクリーム、コーヒー。今日はゆっくりしているのでビール4ドルを飲もうかと思ったら、ワインのボトルが17ドルだというのでそちらに変更。不味いという噂だったが、結構いけた。と思ったら、この国のではなかった(後から調べてみるとモルドバのワインだった)。
そのうちに民族衣装を着た男女が来て踊り始めた。女性が3人男性が2人の小さなグループで、音楽はテープだった。それに合わせて3曲踊り、4曲目は客を巻き込んでの踊りとなった。といっても、今日は朝早くてみんな疲れていたので、無理矢理引っ張り出された女性が一人だけ踊りに付き合った。
時間にしてたった15分程のパフォーマンスでサッサと引き上げた。これらの踊りがどんなときに踊られるのかとかの解説も全くなく、終わってしまった。
これが?わざわざ民族音楽をお楽しみください、と謳っていた内容?がっかりだ。
しかも最後に出されたアイスクリームは、今買ってきたばかりという用に、スーパーの袋から出された棒アイス。少し溶けかかっていた。
いい加減なレストランだったが、こんな物に金を払っている旅行会社もどうかと思う。
4-12 ホテルにて
ホテル着(2038)就寝(2130)ホテル着(2038)就寝(2130)
熱いくらい暖房が効いていて、でも部屋で調整できるタイプではないので窓を開けて寝た。それでも寒くはなかった。