2.2012年9月5日(水) パリ、ランス、エペルネ(濃霧、曇り後晴れ)
起床(0340)朝食(0605~0650)ホテル発(0834)オジェ(1108~1200)昼食(1258~1415)ランス(1418~1600)モエ・エ・シャンドン(1640~1755)ホテル着(1810)夕食(1857~2022)散策(2022~2040)ホテル着(2040)就寝(2130)
2-2 オジェへ
ホテル発(0834)WC休憩(0948~1005)
バスは個人名で座席指定されていた。一人2席取れるので余裕。が、我々のところは前から3番目だったが、ちょうどカーテンの集まるところで見通しが悪いので、後ろへ移動した。
バスが動き出すと、フランスの地図が配布される。その後延々とフランス事情やコースについての説明がなされた。この添乗員さんは非常に細かい説明をしてくれる。ただ、今回のメンバーは複数回、それも相当数フランスへ来ている人たちばかりなので、一寸くどいかなという気もしないでは無い。
1時間一寸走ってWC休憩をとる。向かい側にオートグリルがあったが、階段で道路を越えなければならない。出発時刻になってもドライバーさんだけが来ない。これがフランス式ということで、こういうことについては先ほどの説明でさんざん言われた。
しばらく行くとブドウ畑が広がる。この辺りもワインが造られているようだ。
大きな町を通過した。どうやらエペルネと思われる。今夜はここに泊まるのに。
ここのノートルダム教会では、あの大地真央が結婚式を挙げたのだそうだ。旦那がものすごくシャンパンが好きだということらしい。
2-3 オジェ(1108~1200)
ブドウ畑を見ながら進んでいくとようやくオジェに着いた。
バスは町の広場の前で停まった。
バスが停まると後はご自由に散策してください、と、放り出された。というか、この村の情報がなさ過ぎ。おまけに頼みの綱のnoriのアンドロイドもどういうわけかGPS電波をうまく取ってくれない。
というわけで地図もないので適当に歩く。目立つのはやはり村の教会。初めに教会へ行ってみたが、中に入ることはできなかった。
道ばたや家の壁、窓にきれいに花が飾られている。この点では噂通りの町と見えるが、かような町はヨーロッパでは多い。これと行って著しい特徴は見いだせない。
中にこった形に整えているものもあったが、それが特にこの村だけという物では無く、これまでにも、これから先も何度も目にしたので、特にこの街を選んで散策する程のことは無いのにと思った。時期的様相も加味しなければならないものの、はっきり言ってくる程のところでは無いように思った。オジェオジェと噂ばかりが先行して一人歩きをしているのかも知れない。
町には我々以外に観光客らしき人など一人もおらず、静かなたたずまいだった。そんな中にワインの製造所と思われる建物がたくさん見られた。ブドウ畑も広がっていたが、実はまだ熟していなかった。今は熟すのをじっと待っている時期なのだろう。
目を上の方に向けると、看板や風見鶏がいろいろと工夫されていて面白いので、それらを見つけて歩いた。この方が面白かった。
ようやくに尋ね当てたインフォメーションも閉まっていて、この時期観光シーズンでは無いと実感した。バスのところに戻ってくると、そこの広場で開かれていた朝市がもはや片付けを始めていた。広場横にある幼稚園らしきものの子供の声だけがむなしくあたりに響く。
帰り際、市庁舎横の公衆トイレを使わせてもらったが、一つしか無くあまり綺麗では無かった。
2-5 昼食(1258~1415)
サーモンのサラダ、ビーフシチュー、ワッフルが、フランス初めての食事メニュー。
サラダは他にも小エビなどが入っていて、いわゆる海鮮サラダというところか。美味しかった。
ビーフシチューは、牛肉の煮込みがきしめんのようなパスタに乗っているもの。肉自体は柔らかくよく煮込まれていて美味しかったが、いかんせんスープがほとんど無い状態なので、パスタに味がしみこまず、絡ませることもできず、美味しくなかった。
デザートのワッフルは非常に美味しかったので、ぺろりと平らげた。ワッフルも軽く仕上げられていて、上の生クリームの甘さも控えめでちょうどよかった。
ワインはロゼの375ccを二人で飲んだ。4、5ユーロ。ただ、ここの店は奥にビールタンクなどもあり、現地の客のほとんどがビールを飲んでいたので、それがここの売り物なのかもしれない。
2-6 ランス観光(1418~1600)
ここから現地ガイドさんが付く。英語ガイドなので、添乗員さんが通訳する。ただ、今回のメンバーの年寄りたちは結構語学が豊かで、中にはフランス語ペラペラの人までいて、直接ガイドさんと話している。ただ、一人をのぞいてガイドさんの説明の邪魔になるような話しかけはしないので、知性の豊かさも感じた。
まず町の説明があった。
現在20万人が住んでいる。
かつてはローマ帝国の一部であったこともあり、シーザーもここを訪れているそうだ。
498年にこの地でフランク王国を統一したクロヴィスが洗礼を受けて以来、シャルル10世まで25人のフランス王が戴冠式を行った町である。
町の中心にある噴水は、1906年に作られた。第一次世界大戦で、ドイツによってこの町の6割、この噴水以外の部分はほとんど破壊された。1920年から再建が始められ、全国から400人もの建築家が集められてそれに当たったが、急速な再建のため町の統一感というものは無い。
第二次世界大戦でもドイツ軍に占領され、被害を受けたが、1945年5月7日にはこの街でドイツ降伏条約が調印された。
付いていくのがやっとという早さで歩いていたが、突然休憩。有名なお菓子や「FOSSIER(フォシエ)」で買い物タイムとなった。他の人は買いあさっていたが、我が家は試食のみで、店の前のトラムの写真などを撮って待った。
目の前にノートルダム寺院が見えた。遠目にも雄大に見える。ノートルダム寺院とは、聖母マリアに捧げられ、名付けられた教会堂で、この名を冠した教会は世界各地のフランス語圏の都市に建てられてきた。ということであちこちで耳にする。
ようやく買い物も終わってそこへ向かう途中に、ギリシャ神殿風に4本の柱を持つ裁判所や、その隣の劇場をサッと見る。ともに、19世紀の建物だそうだ。
更に遠目に、道路の中央に建つルイ15世の立像が見えた。
2-6-1-1 ファサード
ファサードは3つの部分からなる。黒い部分はオリジナルのもの。
ここにはたくさん像が見られるが、それぞれ1体約3m、3tもあるそうだ。
左がイエスキリストの門という。微笑みの天使もいる。修復前の頭が落ちている写真が世界に配信されたことにより人気が高まったのだそうだ。ただ、ガイドさんにとっては説明する程重要とは考えなかったようで、素通りしようとしたのを、メンバーによって指摘され引き返して解説することとなった。
中央が聖母マリアの門。入り口の中央には、イエスを抱いたマリアがいる。
右側が最後の審判の門。その上の部分にある4人の像は、左からセントジョン、イエスキリスト、マドレーヌ(マグラダ)のマリア、聖ペトロだそうだが、説明を記録しているうちに先へ行ってしまったので、確信して写真を撮ることが出来なかった。
中央一番上の彫刻群の中央、手を組んでいるのがクロヴィス王。その隣に王妃がいる。クロヴィスは、キリスト教の洗礼を受け、ランスの司教から正式に王冠を授与された。以来、フランスの歴代の王たちにとって、ランスのカテドラルで戴冠式を行うという慣習が成立したわけで、ここに鎮座している意味もわかる。
また、彫像には色が塗られていたと思われるとのことで、確かにその名残が見られる像もあって、赤や緑などがうっすらと見えた。
像の首が落とされているものがあるが、これは宗教革命のときに革命分子によって行われたとのこと。やはり偶像崇拝と捉えられたそうだ。イスラム教徒だけでは無かったのだ。そういえばモーゼの時もそうだったような。
それら彫像以外にも繊細な植物模様が施されていて、一つ一つ見入っていると何時間でも過ぎてしまうようだ。
2-6-1-2 内部
しかし内部にも見るものはある。ガイドさんが先を急ぐ気持ちも分かるような気がする。
中に入るとその大きさが実感できる。全長138.7m、身廊の天井の高さは38mもある。内部は13世紀に80年くらいかけて造られた。
建物を支えるように太い柱が並んでいるが、これらも彩色されていたと思われるそうだ。
初めに作られた部分は前半分、ロープの張られているあたりまでだったとのこと。その奥のところで戴冠式が行われた。1825年、シャルル10世が戴冠式を迎えるときに、祭壇や燭台を寄贈したのだそうだ。なのに、彼が最後の戴冠式をあげた王となってしまった。
入り口の方を振り返ってみるとバラ窓が綺麗に見えた。が、ステンドグラスはそれだけでは無く、周りが、ほとんどステンドグラスである。
右回りで側廊を回ってそのステンドグラスを見ながら内陣の方へ向かった。一番奥にはシャガールのものがある。
そこからまた、先ほどとは反対側方を戻ってくるとジャンヌダルクの像があった。こちらは女性らしいものだった。
また、藤田礼拝堂の内部の絵もあったので、写しておいた。本物のところは撮影禁止なので、参考までにと思ったからだ。
2-6-1-3 ステンドグラス
ゴシック建築と言えばステンドグラス。そのステンドグラスだが、当初のステンドグラスは残念ながらほとんど現存していない。第一次世界大戦のさなか、1914年9月19日、大聖堂は空爆により大きな被害を受けた。だから今見ているのは、その後修復されたものだ。
入り口あるバラ窓のうち、下のバラ窓は、1939年のもの。上の大きなバラ窓と中央のギャラリーは第一次大戦の後のもの。ギャラリーには王の行いが表されている。
バラ窓の両側に像が彫られているのは珍しい。これらは初めから壁を彫って造られていたもので、こういう形式はゴシック教会として初めてのものであるとのこと。入り口にバラ窓があるというのも同様にゴシック教会として初めてのものだそうだ。
入り口から右の側廊を進んでいくとブドウを収穫している様子のものがある。これは1954年にいくつかのシャンパン会社が協力して作らせたもの。ブドウの収穫やワイン作りの様子が描かれている。王の戴冠式のために、シャンパーニュ地方のワインが用意された。ワイン業が発展した事への感謝の気持ちなのだろう。
一番奥にあるのがシャガールの作品で、1974年に造られた。それにしても伝統ある教会にシャガールとは、と一寸驚きだが、それだけ認められていたということだろう。シャガールの青が、冴え渡っている。
3連になっていて、3連の左側がイエスの家族が主題。3連の中央がイエスと聖書が主題で、右部分が新約聖書、左部分が旧約聖書となっている。3連の右側が聖レミ(黄色い衣)やシャルル7世(緑の衣)、ジャンヌダルク(白い)、ピンク色がこの寺院、さらには歴代の王などこの町に関わりのある人達が描かれているそうだ。
その上にあるステンドグラスは1240年代に作られたオリジナルのもので、戦争の度に外しておいたそうで、被害を免れたとのこと。何故それだけだったのかは分からない。避難が間に合わなかったのか、避難先も被害に遭ったのか、聞きそびれた。
2-6-2 トー宮殿(1520~1535)
ノートルダム大聖堂を裏側からも見てみましょうと歩き出した。するとすぐ横にあったのがトー宮殿。それに全く触れずに進んでいくので、とにかく急いで写真だけ撮った。これもせっかくの世界遺産の一つなのに、と思ったが、遅れてしまうのでゆっくりと見ることはできなかった。
トー宮殿は、1498年から1509年に建造された大司教の館で、国王の戴冠式の際には期間中の国王の御座所としても使われた。現在は、戴冠式で使われた宝物や修復前の大聖堂の彫刻などが陳列された国立博物館となっている。
裏側へ出たときにようやく、大聖堂に隣接しているのがトー宮殿ですと説明があった。庭がきれいに整備されていた。
大聖堂側に小さな礼拝堂が造られていた。
ただここへ回ってきたのは、あくまでも大聖堂を見るため。ということで、ここでも記念撮影をした。
2-6-3 フジタ礼拝堂(1545~1600)
大聖堂のすぐ先からバスに乗ってフジタ礼拝堂へ向かった。
パリで活動した日本人画家・藤田嗣治が、友人でもありカトリックに改宗した際の洗礼親である、シャンパンで有名なマム社の社長であったルネ・ラルーのためにつくった礼拝堂で、壁一面を覆うフレスコ画は、藤田が80歳のときに制作したもの。
本当はこの日は休みの日なのだそうだ。どうしてこういうコーズ取りになるのだろうと不思議だったが、偶然なのか、開いていたので、ガイドさんが交渉して入れることになった。しかも入場料はいらないという。これも不思議なことだ。我が家は事前調査不足でそれを知らなかったが、知っている人もいて大喜びしていた。だが、本当に大喜びすることなのか?
フジタの描いたフレスコ画は、noriに言わせると、イエスの表情が彼独自の子供の表情と一緒だとのこと。noriはキリストまでフジタ顔していると言っていた。でもうなずく人は少なかった。賛成しかねたからなのか、そもそも知らないのか。確かに西洋人の描く、これまで見てきたイエスやマリア、使徒達の表情とは明らかに違っている。あくまでも自分の絵にこだわっていたことが伺える。ただ、junに言わせると表情がきつい、とのことだ。
それらの絵の中にしっかりと自分と奥さんも入り込んでいた。
また、広島と長崎をイメージしたという骸骨の描かれたステンドグラスもあった。
結果的に見られたから良かったが、開いていなければ塀の外側からと言うことだったのだろうか。それを見学というのは、あまりにもあまりにもでは無いのか。こういう所が、今回のコース作成者の詰めの甘さである。大手なのだから、もう少し品質管理を徹底してもらいたい。
2-7 エペルネへ
今日の宿泊先エペルネへ向かう。最初の予定では、ランス宿泊だったのだが、ホテルが取れないとのことで、出発直前になってここに変更された。そのために3千円が返却となったが、他の人ともやはり世界遺産の町に泊まりたかった、3千円では済まないよねなどと話した。
途中、目に付くものを撮影した。その中に偶然、ローマ遺跡の一つであるマルスの門が写っていた。これはあることが分かっていたので、意識して探していたせいもあるが、ラッキーだった。というか、教えてくれよなぁ・・・って感じかな。
戦争犠牲者慰霊碑のようなものもあった。この地方はドイツと国境を接し、近現代以前にもしばしばある時はドイツある時はフランスといた状態だった地方で、第一次再二時世界大戦でも多くの犠牲者がたぶん出たことだろう。
エペルネが近づくにつれ、周りはブドウ畑一色になった。
2-8 モエ・エ・シャンドン(1640~1755)
モエ・エ・シャンドンといえば、「ドン・ペリニヨン」。といって飲んだことは無い。時折ドラマで、ホストクラブでのシャンペンタワーで見るだけの酒だ。
オーヴィレール修道院のドン・ペリニヨン修道士が、美しい気泡が出る現在のシャンパン製法を生み出したとされている。あくまでもこれは伝説といったたぐいだろうが、実際には町勢のおちてきたこの地方を、新しい製法で救ったというところが真実か?
モエ社がオーヴィレール修道院を購入して以来、修道院はその管理下にあり、「ドン・ペリニヨン」はモエの最高級ブランドになっている。
そこで今日は試飲が出来る。今日一番のお楽しみだ。入り口を入るとまずはドン・ペリニヨン修道士の像があった。
中に入ると日本人ガイドによる解説で案内がされた。まずは貴賓室や歴代の社長の肖像画などが紹介された。家系図やオーヴィレール修道院での収穫の様子やワイン造りを洗わすステンドグラスなどもあった。9月8日頃から収穫が行われる。
会社としてかなり広い自社畑を持っていてブドウを作っているが、それだけでは足りないので、契約農家からもブドウを買い付けているそうだ。それで業界一といわれる生産高を誇っているとか。
それからカーブと呼ばれる地下室へ行く。
このカーブにも面白い歴史がある。紀元前、ローマの属州だったこの地方に土木工事好きなローマ人たちは町を建設した。そのために、この地方の地下に眠る良質の石灰岩を大量に掘り出し、そして石を掘り出した後に残った洞窟が、シャンパン貯蔵にとって理想的なカーブに生まれ変わったというわけだ。
中は寒いですから防寒具をといわれ、確かにガイドさんもそのような服装をしていたが、思ったほど寒くはなかった。まずはインペリアルギャラリーとなっている、1743年より前に彫られた一番古い部分に行く。それからワインセラーについて更に説明を受ける。
このワインセラーはシャンパン地方では最大のもので、全長28kmにも及んでいる。中には2階建て、3階建てになっているところもある。1807年にナポレオン1世が訪れているので、インペリアルギャラリーと名付けられたそうだ。
それから、シャンパンになるまでの行程が説明された。ブレンドが命のようだ。ヴィンテージものは特別な部屋に展示してあるので、見せることは出来ないのだそうだ。
セラーには沢山の瓶が並べられてしっかりと管理されていた。瓶の前の数字などは本数やブレンドの状態などが記録されている。1810年にナポレオンから贈呈された昔のタルも記念物として展示されていた。今は中は空だが、ポートワインが入っていたのだそうだ。
保管期間中に出る澱はシャンパンにとっては味わいを出すために貴重なものだというが、飲むときには口当たりも良くないので熟成期間の後には取り除くことになる。興味深かったのは澱を取るための職人が今でも5人程いるということ。毎日瓶を回転させて6週間で澱を集め、取り除く。彼らは、伝統を守るために存在しているのだそうで、熟練者は一日5万本を回転させることが出来るとのこと。ただ、ヴィンテージものや大きい瓶は手作業でやる必要があるとのことで、存在価値もあるらしい。
現在はその作業は機械化されているのだが、6週間かかるところを1~2週間という短期間で効率よく出来る。それでも手作業と何ら変わることの無いシャンパンが出来るのだという。確かにそう言わざるを得ないだろう。
最後にドン・ペリニヨンの瓶を見せてもらった。見るだけだ。メンバーから埃がいっぱいで日本人には一寸、という声もあったが、ガイドさんは出荷するときには綺麗にしますよと応えていたが、何故そんな質問をするのだろうと思った。また、壁にも埃がいっぱいでぶら下がっているところもあったが、そんな環境もシャンパンには大事だと説明されて、顔をしかめる人がいて不思議だった。
最後に試飲。イケメンのソムリエさんが注いでくれた。結構な量で驚いた。美味しかった。
2年半寝かせたシャンパンで、世界で一番売れているというシャンパンだそうだ。
2-9 ホテル <レ・ベルソー 23号室>
ホテル着(1810)
この街はそう広い町では無く、道路も狭いので、バスがホテルまで付けられないと言う。仕方なくモエ・エ・シャンドン前からスーツケースを引いていくことになった。これまでにもこういうことがあったが、その場合、ホテルから迎えの小型車が来たのだが、今回はそんなことも無かった。
途中の道は石畳なので、スーツケースの車がそれに引っかかったりして、スムーズに動かない。かなり難儀だった。
中央に石の塔が建っているパブリック広場(共和国広場)を横に見て、ようやくホテルに着いた。
小さなホテルで、ポーターもいないので、各自で荷物を持って部屋に行くことになったのだが、エレベーターも荷物を持った我が家が乗ったら他の人は乗れないという小ささだった。
部屋も小さい。ベッドも小さい。洗面所も小さい。それでもバスタブがあるからいいと思ったが、後で聞くとそれもない部屋もあったそうだ。荷物おきに苦労した。
インターネットはつながるようだが有料なのでやめた。後日、添乗員さんに聞くと、かなり高かったそうだ。
確かにこれで3千円返却では割が合わないかも知れない。
2-10 夕食(1857~2022)
ホテルから歩いて近くのレストランへ行く。実は宿泊したホテルのレストランは有名らしい。ミシュランにも出てくる。ということで高くて食べられないのだろう、といいながらの移動だった。
レストランは共和国広場のロータリーに面してあった。太ったおばちゃんのいる、普通のレストランだった。家族でやっているのかな、という雰囲気だった。
メニューは、前菜、チキンとパスタ、デザート。
ワインは隣の席の人が飲んでいたボトルが安そうだったのでそれにした。5、5ユーロ。ハウスワインのようだが、これで十分だった。
周りには現地の人が数組いたが、その人達の食べる量の多さにビックリ。一人分で日本人なら4人くらいで十分ではないかと思えるほどの量だった。体が大きくなるはずだ。
チキンは大きいが、味は淡泊。麹につけるのを教えたいなどと話しながら食べた。
2-12 部屋にて
ホテル着(2040)就寝(2130)
部屋に戻って、入浴したり明日の準備をしたりしてから就寝。朝早かったせいもあって、すぐ眠りにつく。