ストラスブール、リクヴィル、エギスハイム、ストラスブール


4.2012年9月7日(金)
 ストラスブール、リクヴィル、エギスハイム、ストラスブール(快晴)

起床(0300)朝食(0635~0700)リクヴィル(0940~1100)エギスハイム(1130~1210)昼食(1336~1450)ストラスブール散策(1250~1825)夕食(1830~2010)ホテル着(2035)


4-1 朝

起床(0300)朝食(0635~0700)

 レストランへ行ってみると、団体用のレストランは別のところだという。こういう変更があっても、今回の添乗員さんはあらかじめ会場で待っていてくれるので混乱は無い。よく出来た人だ。
 朝食会場は団体用の部屋で、現地旅行会社の名前で指定してあるので、他の団体はしばらくウロウロしていた。内容はパン、ハム程度の寂しいもの。サービスも良いとはいえなかった。
 ロビーに日本のポスターが貼られていた。近日中に日本のフェスティバルがあるらしい。

france3_1274 07 1325.jpgリフトのカゴの中で記念撮影
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4-2 リクヴィルへ

ホテル発(0830)アルザスワイン街道(0925~)

 バスはまず初めの観光地リクヴィルを目指す。
 しばらくは、道の両側にトウモロコシ畑が続く。未だに何のための畑か分からない。
 コルマール近くまで行ってからワイン街道に入る。
 その名前の通り、見渡す限り一面のブドウ畑。この辺り、アルザスワインの生産地なのだ。ワイン街道沿いにはいくつもの小さな村があって、今日はその中の二つ、リクヴィルとエギスハイムを訪れる。
 ただ、通過したコルマールには明日来るのだから、ここでも無駄な行程だ。ストラスブールに連泊するためにこんな行程になったのか、コルマールには適当なホテルが無いからなのか分からないが、かなり時間的には無駄をしていると思う。
 畑では葡萄畑の灌漑用の施設もいくつか目にすることが出来る。更に遠方に目をやれば、畑の向こうから立ち上がる丘の上には転々と城か要塞か砦か、そういったたぐいのものが見える。この地方の複雑な歴史を物語っているようにも思える。
 どこかの町に入ると、瓦が綺麗な家が目立つようになった。装飾瓦というのだろうか、ハンガリーで見て感激したものと同じようだ。
 その村を過ぎてもまだまだブドウ畑は続くが、こちらのブドウは熟した紫色をしていた。

france3_1287 07 1557.jpgトウモロコシ畑
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4-3 リクヴィル(0940~1100)

 リクヴィルは、アルザス地方で一番最初に要塞化した町で、1000年に村が創立して以来、公爵の城下町として栄えた。16世紀中世時代の木組みの街並みが今でも残っている。
 この街は花のコンクールで二つ星をもらっている。
ひときわ高く見えるドルデーの塔は、高さ25mの見張り塔で、1291年に建設された。
 村の入り口に新古典主義の村役場がある。1789年に旧市役所が解体され、1809年に建築されたもの。やはり赤色砂岩が使われている。その間を通って村に入る。そこが、メーン通りの「ドゴール将軍通り」だ。
 しばらく左右をキョロキョロしながら町歩きをする。木組みの家が並んでいる。看板も面白い物が沢山見られた。
 中でも目立ったのは、1561年に切妻壁の建物をつなげて建設された6階建てで、高さは25mあるという、アルザス地方で一番背の高い木組みの家の一つ。 
 お土産屋さんがずらりと並んでいる。マカロンやクグロフ、プレッツェルなども当然のように沢山並んでいる。それと共に多いのがコウノトリの人形。今はその時期で無いので実物は見られない。ここは訪れる人も多く、一大観光地という感じ。それだけにトイレも充実して何カ所かに設置されていた。
 しかし石畳の狭い道を車も通行するので、ボンヤリとは出来ない道だ。
インフォメーションセンターで、添乗員さんが地図を手に入れて配ってくれた。それによると1291年に造られた城壁と1500年に造られた外側の城壁の輪郭が良く分かる。

リクヴィル地図.jpg
リクヴィル俯瞰図(グーグルパップより)


france3_1336 07 1637.jpgHOTELというのは市庁舎の意味
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4-3-1 ワイン試飲(0955~1008)

 ここは、リースリング、ピノ・グリ、ゲヴュルツトラミネールなど、古くからワイン作りの村として知られる。ということで、観光の初めはまずワインの試飲。
 1848年からの家族経営の醸造所。
 この地方で出来たブドウを使って作ったワインを3種類、試飲させてもらった。飲みきれないときには床に直接捨てていいということだ。床はそのようになっていた。
 初めは、シューネブルクというこの近くの丘の名をつけた2007年物のリースリング。ドライタイプ。美味しかった。18€。10度くらいに冷やして飲むと美味しい。これはアルザスワインの王ともいわれる。魚介類に良く合うということだった。
 次は、ローゼンブルグというやはりこの地方の丘の名を付けた2010年物のピノ・グリ。ミディアムドライ。13€。
 最後は、ゲヴュルツトラミネール。フルーティーな甘口で、フォアグラに合うそうだ。20€。 
 ボトルの形は細身の背の高い瓶になっている。なで肩のドイツの白ワインと同じようなボトルの形だ。ドイツに比べて辛口ワインが多く、香りが良いのが特色。まだ日本では数が少ない。ボルドーなどと違って、ブレンドではなく単一品種っで醸造出荷される。したがってブドウの品種がワインの名称になっている。白ワインが6種類、赤ワインが1種類が代表格になっている。やはりこの地方は白ワインがお勧めだそうだ。
 我が家はしっかり3杯飲んだので、気持ちよく散策へ出かけた。
 ちなみに、あとから来た日本人の団体(JTB?)もこの穴蔵に吸い込まれていった。

france3_1371 07 1653.jpg試飲&直売所
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4-3-2 散策

 ここから自由時間なので、撮影ポイントを探しながらメーン通りの「ドゴール将軍通り」を行く。
 ワインを飲んだときにつまみが無かったので、プレッツェルというこちらのパン、1.5€を買って食べる。岩塩が振ってあるという解説本を見ていたのだが、これはそうではなくむしろ甘い感じがした。
 そこからとりあえず、内側の城壁の出入り口に当たるドルデーの塔まで行ってみた。見張り塔だったというが、今は綺麗に花で飾られていた。
 その先にあるのが、ポート・オートという町の一番高いところにある門。城壁を強化するにあたって、13世紀末から1500年の間に建設された。二重の重たい木からなる扉、ヨーロッパ一古いとされる落とし格子によって、敵の侵入を防いでいた門だ。
 そこが最後なので、引き返すことにした。表から見るとあんなに綺麗だったドルデーの塔も、裏から見ると何ということのないただの塔だった。
 戻りがてら、店の前でマカロンを眺めていたら試食させてくれた。緑色の珍しいものだった。(写真は前掲)
 この頃になると地元民相手の市場が町の中程に出来上がっていた。
 それから郵便局へ行って切手10枚購入。ここで昨日作った絵はがき2枚出した。それでもまだ少し集合までは時間があったので、また戻って2人の写真を撮った。
 そんなことをしているとようやく集合時刻になったので、駐車場へ行った。バスは、11時3分にそこを出発した。

france3_1386 07 1710.jpg本当のは岩塩が点いている
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4-4 エギスハイム(1130~1210)

 ブドウ畑の中を30分も走ると次の目的地、エギスハイムに着いた。
 ここは、8世紀のローマ教皇、聖レオン9世の生誕地。4世紀にローマ人が初めてぶどうの苗をこの地に植えてから、アルザスワインの発祥地でもあり、現在では多くのワイナリーを抱えている。ブドウ畑の広がりを見れば、さもありなんと思う。城を中心とした城下町でもあった。
 中世時代には、要塞をかねた城壁が二重に村と館を囲んでいた。16世紀以降、民家が城壁を背にして建つようになり、広場を中心に同心円状に民家が広がるようになった。
 また、ここは2007年に花のコンクールでグランプリを取っている美しい町で、至る所、花で飾られている。
 駐車場からはメーン通りをシャトー広場まで行って戻ってください、とのことですぐに自由散策となった。
 まず観光案内所へ行くと、日本語のパンフレットがあった。それを頂いてとにかくシャトー広場を目指した。

france3_1471 07 1814.jpgどちらを見ても葡萄畑が広がっている
エギンスハイム地図.jpgエギンスハイム俯瞰(グーグルマップより)
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4-4-1 泉

 1557年建築の、歴史的建造物に認定された泉。泉は宗教的な意味あいから、八角形に造られている。
 家だけではなく、ここの周りも花で飾られている。どこまでも花で追求する町のようだ。

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4-4-2 シャトー広場

 旧市街の中央に位置し、ルネサンス様式の美しい建物や聖レオン9世の泉、聖レオン9世の礼拝堂、エギスハイム伯爵の館が並んでいる。
この広場を中心に、木組みの家々が広がっている。
 綺麗な風景なので、多くの観光客がカメラを構えていた。なのに、地元の営業車が泉のすぐ前に停まったので、ブーイング。それでも当人は全く知らんぷりだ。多分いつものことなのだろうが、さっきのリクヴィルといいお土産屋さんが沢山ある割に観光客に対する配慮は見られない。まあ、生活あっての観光だろうということは分かるが。
 広場の中心にある聖レオン9世の泉は、1834年~1836年にかけて建設されたもので、アルザス地方でも有数の大きさを誇る。ためられた水の量は実に8万リットル。この村出身の教皇レオン9世の像が泉の中央にたっている。
 このレオン9世とはどういう人かというと、1002年にここの伯爵家に生まれ、1049年に第53代ローマ教皇9世となった人。教会改革を進め、1053年にノルマン人勢力に捕らえられ翌年死亡した。1087年に聖人として認められたという。これだけの経歴を持っていれば、確かに地元の誇りだろう。

france3_1520 07 1838.jpg記念撮影
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4-4-3 聖レオン9世の礼拝堂

 8世紀のエギスハイム城のあったところで、聖レオン9世の生家であり、その跡に、1888年~1894年にかけて建築されたネオ・ロマネスク様式の礼拝堂。正面にはレオン9世の像がある。つまりここは、聖レオン9世に捧げられた礼拝堂だ。
 隣接する伯爵の館共々屋根瓦が美しい。入場が無料だったので、参拝してきたが、内部は質素だった。

france3_1521 07 1839.jpg正面ファサード
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4-4-4 サン・ピエール・エ・ポール教会

 11世紀の建築。元はロマネスク様式で建てられた教会だが1220年にゴシック様式で改修がなされ、ロマネスク様式と初期ゴシック様式が混在している。見事なタンパンも残っているが、オリジナル部分は黄砂岩の鐘楼だけである。
 ここで注目すべきは多色の木造彫刻「開く聖母マリア」。高さわずか120cmの小さな像だ。胸の部分が観音開きになっていて、そのなかに聖像が描かれている。13~14世紀のこの像はアルザス地方独自のもの。
 なかなかこの教会の場所が分からなくて、人に聞いたりしてようやくたどり着いた。事前に調べていったのには、お金を払うと明かりを付けてくれるとあったのだが、人がいなかったので暗い中で写真だけ撮らせてもらい、お礼の気持ちで絵はがきを買った。
 戻りかけてから、出会った人たちにこのことを教えてあげた。

france3_1534 07 1851.jpg開く聖母マリア
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4-5 ストラスブールへ

バス発(1213)

 山の上に建物が見えたので、後で添乗員さんに聞いてみるとやはり砦でしょうということだった。
 ロータリーのモニュメント。花だけで無くその土地の特色を表すブドウや自由の女神などもある。そう、自由の女神が見えてくればストラスブールの町だ。このモニュメントはおそらくこの土地の出身でニューヨークの自由の女神を作成したバルトルディに由来するものだろう。

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4-6 昼食(1336~1450)

ストラスブール着(1322)

 バスを降りて、歩いて昼食のレストランへ向かう。レストランは、プチフランスと言われるところにあるというので、そこまで町中を楽しみながら歩く。
 川沿いにあったレストランは花いっぱいに飾られたすてきな雰囲気のレストランだった。ただ、我々の席は、川に面した部分ではなく室内だったので、一寸残念。
 前菜はフォアグラ。1780年にこの地で作り出された料理だそうだ。つまりこの地がフォアグラ発祥の地であるとのこと。それにしては、あまり美味しくなかった。やや臭みが感じられた。トーストが添えてあったので、それに乗せるようにして食べるのだろう。
 メーンはビーフ。よく煮込まれていて、味が染み込んでいた。どうしてこうも柔らかくしてしまうのだろうと思えるくらいに柔らかく溶けるようだった。大量のポテトと共に出てきた。
 デザートはアイスクリーム、といっていたがシャーベットだった。暑かったので美味しかった。
 ワインはnoriが気持ち悪いというので無しにした。どうも風邪気味だと言うことで薬を飲んだのが行けなかったようだ。ワインの入れ物が素敵だったので、写真だけ撮らせてもらった。
 ここで現地ガイドのカトレーヌさんと会う。今回、現地ガイドさんは昼食までとか、昼食からとか、昼食を契約に入れないようにしっかりしている。

france3_1585 07 2019.jpg旧市街は川で囲まれている
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4-7 ストラスブール散策(1450~1825)

 ストラスブールの人口は45万人。町のみでは25万人。我々がいる所のプチフランスは、小さなフランスという名の付いたエリア。
 この町は2000年ほど前にローマ人によって築かれた。ヨーロッパの十字路と言われるくらい重要な町に通じる道路が交差する所にあるので、道の町「ストラスブール」といわれるようになった。アルザスの中心都市として、中世から今日にいたるまで交通の要所として繁栄してきた。
 10世紀の後半から1681年までこの街はドイツ領だった。その後1871年までフランス領になり、それからまた、第一次世界大戦が終結する1918年までドイツ領になる。またまた1940年まではフランス領になり、1945年の第二次世界対戦終了までドイツ領であった。1945年フランス領になる。このようにドイツとフランスに挟まれて国が変わるということがたびたびあったという歴史がある。
 こうした歴史を経て、ヨーロッパ議会の開催地であり、またEU関連の沢山の施設が置かれている。
 ストラスブールは川の分岐合流によって形成された巨大な中州に旧市街がある。分岐する先端で、イル川は水門で4つに分かれ、また一緒になる。これは14世紀に作られたが、運河では無い。(←とガイドさんはこう言ったが、後のクルーズの解説では、運河といっていた。) 1本のイル川である。このイル川は2km先でライン川に合流する。
 塔は、32ある。初めの塔はドイツ時代14世紀にフランスから守るために見張りの塔として造られた。この街には城壁はなく、イル川が自然の城壁のようになっていた。その後、1681年にはフランスになったのでドイツから守るために2度目の工事がなされた。

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ストラスブール地図.gifストラスブール地図(グーグルマップより)

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4-7-1 プチフランス

 川沿いに木組みの家が並ぶ町並みが並ぶプチフランスは、フランスの中世の町並がよく保存されている地区で、木組みや切妻など、この地方独特の様式の家々が並ぶ。この木組みの家は16世紀から17世紀のアルザス地方の典型的な建築だ。
 しかしながら、それ故にこの地域をプチフランスと呼ぶわけではない。フランスとはパリの言い換えだと思えば良い。ドイツに近い(あるいは一時期はドイツそのもの)この地域にあるが、ここはまたライン川沿いにあって交通の要衝であったが故であろうが、性病もまたパリなみにはやっていた都市だった。それ故に名付けられた。
 リクヴィル近くの石切場から切り出された赤色砂岩で造られた2階が飛び出した家が見られる。これは16世紀には、1階の面積で税金がかかったので、こういう造りになっている。貧しい人たちの家は屋根や壁に装飾もなく単調になっている。
 高さのある建物には勿論エレベーターなどないので、家賃が安く今は主に学生達が借りて済んでいることが多いようだ。この街には大学がある。
 イル川が4本の水路に分岐したこの一帯には、かつて革なめし職人や漁師、粉屋などが暮らしていた。特に皮なめし業は、血なまぐさい職業なので、大聖堂からは離れた場所に置かれた。屋根のすぐ下のところに出入り口のある家の屋根が皮の干し場になっていた。19世紀まで続いていた。

france3_1646 07 2205.jpg木組みの家々
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4-7-2 水門

 水門は開閉式になっている。左右に開くタイプで船を通すのだそうだ。つまり水門のあちらとこちらでは水位が違っている。と写真を見せて説明が始まったときに丁度クルーズ船がやってきたので、それを見ましょうということになった。
 船が来るとまず7分くらいかけて水位を上げる。水門の隙間から水が入り込んできて、確かにどんどんと船が上がってくる。目の前でこうした動きを見るのは面白い。
 水位が十分に上がると前の水門が左右に開き、船が前進するというわけだ。前の方ばかり見ていたので確かではないが、多分後ろの水門は閉まったのでは無いかと思う。
 その先に橋が架かっていて、ぶつかると思ったら、その橋も動いて船を通していた。
我々が後で乗る船はこのタイプ。ガラスの屋根、クーラー付きだとのことで、涼しいのは有り難いが、屋根付きは写真が撮りにくい。

france3_1661 07 2212.jpg端の奥は水門で区切られ水位が低い
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4-7-3 町歩き

 以前は病院だった建物が、今まではレストランになっている。これはプチフランスとの相関で、主に性病対策の病院であったに違いないと思う。
 住所表記がされているが、それはフランス語、アルザス語の2カ国語で表記されているそうだが、どちらにしても読めない。アルザス語はドイツ語に近いそうだ。
 道路にテーブルの並んだ店が沢山見られるが、こちらの人はこうしたスタイルが好きだという。それも陽の当たる方の店。つまりは時間によって店の繁盛ぶりが変わってくるということだ。
 勿論ワインを扱っている店もある。そこでガイドさんによるアルザスワインについての説明があったが、試飲をしたときに聞いたことと重なるような内容が多かった。
 そんなところに突然子供達の騒ぐ声が聞こえた。学校があるのだという。今週から始まったそうだ。幼稚園は3才から6才まで。3才から週13時間はフランス語、13時間ドイツ語で学習する。この地方の人は歴史的なこともあって、この2カ国語を話せるそうだ。小学校から上はこの2カ国語で授業する学校にするかどうかは各家庭で選ぶそうだ。英語は高校生になってからとのこと。それでも最近は英語を話す人が増えているとか。
 遠くにノートルダム大聖堂の尖塔が見え、トラムも走っている道路に出た。20年前からトラムが走っているので、車は少なく自転車が多い、エコの町であるということだ。が、この自転車、結構日本並みで歩行者にとっては危ない感じがした。
 大きな百貨店もあるそうだ。夕食のレストランもあった。
 ここは、グーテンベルク通りだ。

france3_1691 07 2221.jpg病院跡
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4-7-4 グーテンベルク広場

グーテンベルグはドイツ生まれだが、1434年にストラスブールに移り住み、ルネサンス三大発明の一つ、活版印刷術を実用化し、新・旧約聖書を初めて印刷した。
 広場の真ん中には、旧約聖書の一節「そして、そこに光があらわれた」を得意げに広げた彼の像が立っている。
 その横にメリーゴーランドがあって、子供の遊び場となっていた。

france3_1737 07 2244.jpgグーテンベルク像
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4-7-5 大聖堂 (1545~1613)

 砂岩の外壁を特徴とする高さ142mの尖塔を持つ大聖堂である。現存する大聖堂は1176年から1439年に建造されたゴシック建築の傑作。
 現地では、パリのノートルダム寺院に敬意を払って、ノートルダムは付けず単に大聖堂という。
 塔は片側一つのみ。右側にも付ける計画だったが、崩れる危険性があるということで途中で取りやめになった。工事を始めた頃にはその危険性まで考えが及ばなかったそうだ。

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4-7-5-1 正面
 正面には、3つの入り口がある。中央の扉は閉じられており、左側が入り口、右側が出口となっている。
 それぞれの部分のタンパンはやはり彫刻でびっしりと埋められている。
中央タンパンの彫刻は4層になっており、下から三層が13世紀の作品。四層目は近代の修復品。
 最下層は左から、「キリストのエルサレム入城」「最後の晩餐」「ユダの接吻」「マルカス兵の耳を切る聖ペテロ」「ピラトの前に引き出されるユダ」「鞭打ち」。
 二番目の層が左から、「茨の冠を付けられたキリスト」「十字架の運搬」「十字架に付けられるキリスト」「十字降下」「キリストの復活」。
 三番目の層が左から、「ユダの首吊り」「地獄から飛び出す化け物」「アダムとイヴ」「イエスの足もとにすがるマグダラのマリア」「使徒たち。イエスの傷に触れる聖トマ」。
 四層目は「昇天」。
 事前に調べた資料にはこのように説明がなされていたが、聖書の話に精通していない我々にとっては、チンプンカンプンな部分が多い。

france3_1758 07 2251.jpgチカラズ良さを感じるファサード
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4-7-5-2 内部
 中ではカメラOK、フラッシュもOKということだ。
 中に入ると賛美歌?が流れていた。ミサでも行われているのかと思ったら、テープのようだった。
 始めに15世紀の説教台の前で止まって説明があった。そこに司教が飼っていたという犬が彫られている。こうまでされる犬というのは、相当可愛がられていたのだろう。現代のように家族同様と捉えられていたのかも知れない。その犬の鼻を左手でなでると長生きできるという。更にいいこともあると聞いて、皆順番に触った。鼻は黒光りしていた。
 入り口の大きなバラ窓は19世紀のもの。見事な輝きを見せていた。

france3_1767 07 2254.jpg内部もこれがゴシックという佇まい
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4-7-5-3 天文時計
 ナポレオン時代の精巧なからくり時計。16世紀に造られた物だ。ガイドさんはそう説明したがウキディアでは、<最初のものは14世紀に作られたが、現存するものは18世紀に作られた。>とある。高さは18m、8階建て構造になっている。毎日12時半には、上部キリストの前を12使徒が行進し、ニワトリが歌うというが、この時間では見ることが出来ない。
 代わりに6~18時までは15分おきに動く部分を見ることになった。
 そろそろ動く時間だというのでそちらへ行った。既に多くの人が待っていた。なるべく壁際に立っていた方がよく見えるそうだ。ガイドさんがお金を払って明かりを付けてくれた。
 上の方、2段になって窓が開いているところがある。下の方には骸骨が見える。その左右にも2体の人物がいる。その右側の子が動くという。少しだけ動いようたが、これだけ?というくらいあっけなかった。この動く人物は、15分ごとに、始め赤ん坊、次は少年、そして大人、最後は年寄りが現れるようになっているそうだ。骸骨は毎正時に動くという。 また、時計の横に2体ある天使のうち、左側の天使が動くというので、目をこらしてみていたが、こちらは分からなかった。鐘を鳴らすらしい。音だけは聞こえた。 
 これが終わるとまた照明が消えて暗くなってしまった。
 この時計は公式の時刻だけでなく、日時計やカレンダーがあって、曜日(それぞれ伝説の神で表現する)、月、年、黄道十二星座、月の満ち欠けや、いくつかの惑星の位置まで示す。これは真夜中に動く。ただし、何故かは知らないが、ここではグリニッジの時間を取っているのだそうだ。時差が30分あるという。(国間としては1時間の時差)

france3_1780 07 2257.jpg正面右手の部屋にある巨大なからくり時計
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4-7-5-4 天使の柱
 時計正面には、13世紀に造られたゴシック彫刻の名作。最後の審判の様子が表現されているというが、正直、最後の審判というと、秤と天国と地獄絵しか思い浮かばない凡人にはこれら天使達の柱のどこがそれなのか分からなかった。
 彩色の名残が少し見える。
 もっとよく見ていたかったが、照明が消えてしまうと殆ど見えなくなってしまうので、数枚写真を撮るのが精一杯だった。

france3_1787 07 2258.jpg天使の柱
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4-7-5-5 再び周りに眼を
 イベントが終わったので、もう一度全体に目をやる。椅子に座ってガイドさんの話を聞く。
ここには石と木で造られた教会があったが、12世紀に火災で焼失。すぐに同じ場所に再建した。ロマネスク時代のものなので、壁が厚く重たい感じがして、窓も1つしかなく聖堂の中は大変暗かった。その後13世紀に身廊、側廊がゴシック様式で造られた。前方がロマネスク後方がゴシックという事になった。その後、表のファサードが造られた。それから塔を造った。今日の形になったのは15世紀半ばということになる。
 ゴシックでは窓が沢山造られ明るくなった。天井も高くなった。ステンドグラスも沢山入れられ明るくなった。確かに、1階も2階も壁ではなくステンドグラスになっている。13世紀に作られたステンドグラスは王が主題、14世紀のものは聖書の話になっている。
 カトリックなのでパイプオルガンがある。これは、18世紀のもの。
 正面の主祭壇には、イエスを抱くマリアがいる。
 正面祭壇にもステンドグラスがある。その左右上下にはフレスコ画がある。
 側廊天井にも絵が残されている部分があった。

france3_1814 07 2304.jpg観光客もここは多い
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4-7-5-5 外へ
 もう少しゆっくりと見ていたかったが時間に限りがあるということで外へ出た。
5€払って外にある入り口から329段の石段を登ると、高さ66mの塔に上ることができるそうだ。市街のパノラマは勿論、天気がよければ、遠くヴォージュ山脈やフォレ・ノワール(黒い森)まで見ることができるので、自由時間にどうぞと案内された。
 これからイル川クルーズ。今日楽しみにしているものの一つだ。お土産屋さんの間を通って行く。

france3_1861 07 2313.jpg再びファサード
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4-7-6 イル川クルーズ

乗船場着(1615)乗船(1623)クルーズ(1630~1733)

 船着き場には既に行列が出来ていた。ガイドさんが切符を買っている間に乗船が始まってしまったので、我々はしばらく待たされることになった。ここでガイドさんとお別れ。
 ようやく乗り混んだ。自由席なので、左右の端の席に陣取って、それぞれの風景を写真に撮ることにした。でも、ガラスのカバーがなされているのであまりいい写真は撮れないのが残念。
それぞれの座席にレシーバーが有り、日本語の解説も流れるのでこれは有り難い。以下は解説の中からの抜粋。現地の人の日本語なので、良く聞き取れないところもあったが、分かるところを中心にまとめてある。これらの解説と写真は必ずしも一致しない。
○クール・デュ・コルボーホテル。旧市街の歴史的建造物に指定されている建物。
○コルボ橋を通る。かつては拷問のための橋だった。体罰を行ったり古くは汚物の中に沈められたりしたが後には水の中に変わったとか。16世紀になると姦通罪を犯した女性が対象となったそうだ。
○アルザス博物館は、16世紀の貴族の館だった。
○14世紀に建てられ、その後増築、修復がなされた旧税関がある。この辺りがかつての港だった。
○金を取っていた頃の灯り取りの付いた家。ブルジョア達は屋根裏部屋を大きく作り、そこに穀類などを保存していた。
○サントーマ教会。美しいゴシック建築の一つ。元々はフランク王の屋敷跡に建てられたアイルランド人の修道院だった。ストラスブールはアイルランド人の僧侶によってキリスト教化された。現在ではプロテスタントのカテドラルと見なされている。その前にはプロテスタントの神学校もある。
○昔イル川には洗濯場があり、上流の方は上流階級の洗濯女が、下流では一般の洗濯女が洗濯をし、たまに上流から高級な衣服などが流れてくるとその引き上げ賃として高く要求したのだそうだ。
○また女性の水浴び場も有り、少年達が塀の穴から覗きに来ていたとか。
○プチフランスには、16世紀、性病を治療する病院があった。そのためにプチフランスと呼ばれるようになった。その頃性病はフランスの病気といわれていたからだ。要するにその当時、ここはフランスではなかったということだ。
○中世以降イル川はここで4つの運河に分かれる。そのうちの3つは水車の動力に使われていた。この周辺には水と空気を必要とする皮なめしの職人が集まった。屋根を見ると所々開いている所があるが、そこになめした皮を干していた。
○4つめの運河は船の運航に使っている。上流に行くためには水門を通る。下流の門が閉まると上流の門の下の仕切り弁が開いて水が入ってくる。5分間で36万リットル水が入り水位が上がり、通行が可能になる。
○今は埋め立てられてないが、以前は堀が町の中心部、今の市庁舎の辺りを通っていた。
○4つの支流にまたがっている屋根付き橋まで来た。二つの塔が聳え、その間に橋が架かっている。これは、13世紀に河川を制御し防御を強化するために設けられた。塔は橋で結ばれ、銃眼が付いている。大砲のための開口部もある。屋根付き橋と呼ばれるのは、昔は、悪天候に備えて屋根が付いていたからで、この屋根は人を守るのではなく別のものを守るためだったそうだが、肝心なその部分は聞き取れなかった。
○要塞の名残、ヴォーバンの堰と呼ばれているところは、1678年から1700年にかけて造られた。この堰の下のアーチの中に、鉄柵と鉄門があって、敵が来るときには閉められ、南側を洪水状態にして攻めてこられないようにした。1870年直前には、大砲に備えるために土を盛って高くした。1967年に展望台に整備された。ここでぐるりと回転した。
○これから北に向かって飾り城壁の堀に沿って進んでいく。
○堰の向こうに見えるガラス張りの建物は近代現代美術館。
○水門を通って水位の低い下流へ行く。この水門は、1869年に造られ19世紀終わりに放棄されたが、1983年から再使用されるようになった。
○右側に18世紀囚人の塔と呼ばれた死刑執行人の塔が見える。囚人はガレー船に乗せられる前にここで訓練させられた。1792年の請願書によると、囚人には寝るための藁も与えられなかったそうだ。
○飾り城壁の堀は13世紀に造られた。1831年に修復されている。しかし、1840年頃、水路交通のために取り壊された。
○聖ヨハネ教会は1477年に自分たちの修道院を追われたサンマルコのドミニコ修道会の修道士達によって建てられた。1944年に爆撃を受けて破壊されたが、1965年に以前の姿に修復された。17世紀にはこの建物は、エルサレムの聖ヨハネ騎士修道会に属していた。1725年にはここでルイ15世の結婚が協議された。
○今は近代的ビルが並んでいる一帯は、第二次世界大戦以前はユダヤ教の教会とナポレオン三世指揮の駅があった。その駅は1884年以降市場として使われていた。現在はホテル、ショッピングセンターが入っている。マルシェ橋は昔の駅を偲ばせるもので、左手の壁には、昔鉄道の駅があったことを偲ばせるパリ、フランス東部の市などの紋章が付いている。
○パリ橋は1852年に開通したパリ・ストラスブール間の鉄道を記念して名付けられた。
○木々の向こうに見えるのはライン宮殿。これはウイルヘルム1世によって建てられた。共和国広場は市民の憩いの場となっている。
○オペラハウスが右側に見える。ここではワグナーが指揮をしたこともある。
○木組みの家も見える。木組みの家は簡単に解体して運べるので、アルザスでは不動産ではなく動産として登録される。
○新しい町を通って欧州議会に向かう。
○ヨーロッパの機構群のある地区へ入ってきた。まず、歩道橋の間から欧州議会の施設が見える。1952年に創設され、その後も加盟国を増やし、現在27カ国からなる。近くには40カ国以上も参加する欧州評議会や欧州人権裁判所も置かれている。
 日本はヨーロッパではないので正式メンバーデーにはなれないが、評議会にはオブザーバーとして参加しているので、日本総領事館がある。
 半円形のガラス張りの建物は欧州議会の拡張に合わせて造った物。
○1991年にヨーロッパの国が集まって設立したテレビ会社もある。
○ロアン宮がある。ここは、ストラスブールの司教侯たちの館だった建物で、18世紀の古典主義様式の典型。設計はヴェルサイユ宮殿の礼拝堂を手がけたことでも知られるロベール・ド・コット。結婚のためにフランスへ来たマリーアントワネットが、フランスで最初に泊まった館。内部には貴重なコレクションを収蔵した3つの博物館がある。
 これでクルーズは終わり。中身の濃いクルーズだった。解説は良く分かったが、それと目の前のものとがなかなか結びつけられなかったのが残念だったが、十分楽しめた。

france3_1871 07 2330.jpg写真は全て硝子越しの為見難くてごめん
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4-7-7 自由時間(~1825)

 船を下りてからしばらく自由時間となった。1時間近くあると思っていたのだが、トイレに行くという人が何人かいたので時間を取られた。船の中にもあったのだからそこで済ませておけばいいのにと思ったが、年寄り集団では仕方ないのか。
 結局30分ちょいしかなかったので、また、体力的なこともあって、いつもなら高いところ大好きなnoriも今回は塔に上らないというので、大聖堂で時間を過ごすことにした。
 中に入って、天文時計の動きをもう一度見たいと思ったが、これはかなわなかった。誰かコインを出さないかなとも思ったが、そういう奇特な人はいなかったようで、真っ暗で殆ど見えなかった。説教台にいって、2人で交互に犬の鼻を触ったりした。
また、大聖堂を背後にして右手には、ストラスブールで最も美しいと言われる、75枚の窓と豪華な装飾を持つ15世紀4階建てのカメルツェルの家と言うのを見る。ルネサンス様式の建物だそうだ。
 それから、集合場所のグーテンベルク広場へ行く。そこから夕食のレストランは歩いてすぐ。

france3_2192 08 0101.jpg記念撮影
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4-8 夕食(1830~2010)

 今日はフランスの料理。
 まず手始めはアルザスサラダ。地元のサラダというところか。巨大なソーセージがのっている。 メーンはシュープルントと言った。キャベツの上にソーセージや豚肉をのせて蒸し焼きにした料理。またもやソーセージだ。どうしてこうもかぶるのだろう。とは言いながら美味しかった。
 そしてデザートは、クグロフ。クグロフ型に入れて焼いたケーキ。観光地で目にしていたものだ。ようやく口に入った。ただ、思っていたより甘かった。
 ワインはマスカットのワインを飲んだ。(だが写真がない・・・)
 食事のあと、夕闇に包まれた町を後にしてホテルへ向かった。

france3_2246 08 0131.jpgトラムが通るとおりに面した角の店だった
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4-9 ホテル <メルキュール・パレ・デ・コングレ 103号室>

ホテル着(2035)就寝(2200)

 明日はまた移動日なので、スーツケースの荷作りをしなければならない。大まかに仕上げてから就寝。
この部屋にはキングサイズのベッドが二つある。ということは広い。洗面所も広くて使いやすい。勿論バスタブ付きで、インターネットもOK。電気は多くて部屋は明るいのだが、電源になるコンセントの数は少なかった。