ストラスブール、コルマール、ボーヌ、ディジョン


5.2012年9月8日(土)
 ストラスブール、コルマール、ボーヌ、ディジョン(快晴)

起床(0450)朝食(0700)散歩(0743~0830)コルマール散策(1000~1150)昼食(1155~1250)ボーヌ散策(1620~1820)夕食(1836~1958)ホテル着(2047)就寝(2230)


5-1 朝

起床(0450)朝食(0700)

 今朝も会場は団体用の部屋。定刻になって皆がぞろぞろと集まりだしても、鍵を開ける気配はなかった。
 ようやく人が来て開けてもらい食事にありついた。といって昨日と内容的に変わる物では無い。どうも朝食の仕打ちだけは納得できないホテルだった。

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5-2 散歩(0743~0830)

 出発まで少し時間があったのでにホテルの前辺りを散歩しに行くことにした。
 すぐ前をトラムが走っているので、とりあえずトラムに沿って行って見ることにした。地図上ではこれで旧市街まで行けるはずだ。土曜日なので人の姿はちらほらとしか見えない。しかし、時間が有ると行っても旧市街の大聖堂あたりまで行くには時間が足りない。
 少しトラムに沿って歩いて行くと大聖堂の尖塔がくっきりと見えた。トラムの線路に立つと更にはっきりする。
 何枚か写真を撮って戻る途中、シナゴークらしい建物を見つけた。
 ホテル近くまで戻ると、広場で朝市が開かれていた。土曜市かも知れない。野菜、果物、花、魚、肉、チーズ、パン、漬け物等々内容は豊富だった。焼き鳥そっくりのものもあった。
 客は当たり前のように籠を持って買い物に来ていた。

france3_2282 08 1444.jpgホテルの前をトラムが走る
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5-3 コルマールへ

ホテル発(0900)

 しばらくは一昨日通った道を走る。土曜のせいか車が少なく空いている。大型車も見かけない。すいすいと走ることが出来た。が、それでもこの行程が無駄なように思える。
 トウモロコシ畑というお馴染みの風景の中を走って行く。
 ハングライダー(パラシュート?)が気持ちよさそうに青空を漂っていた。あとで写真を確かめると、なんと二人乗りだ。
 自由の女神を過ぎ、ワインたるのあるロータリーはコルマールへ近づいたことを示している。

france3_2348 08 1521.jpgホテル外観
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5-4 コルマール散策(1000~1150)

 コルマールへ着いたらすぐホテル・ベストウエスタンが目に付いた。これだけのホテルがあるのなら、ここに泊まれば良かったのに、と思った。そうすればかなり行程的に楽になったはずだ。
 インフォメーションセンターまで歩いて行って現地ガイドのバレリーさんと合流。この人、あまりにも薄着なのでビックリした。やはり身体のできが違う。
 この町は、フランスの素敵な町10の中に選ばれて入っている。人口約6万7千人。大戦の被害がなかったので木骨組みの建物や石畳の道など、ほぼ昔のままの町並みが残っている。
 まず、モノプリでトイレを借りる。丁度他の団体も入っていたので、時間がかかった。
 どうもこのガイドさんは、日本人のことを分かっていない感じ。時間配分もこのあと悪かったし、頻繁に携帯電話がかかあったりだった。
 noriはそれでも、トイレ騒ぎの間に、自由時間が有るだろうと、現在位置をガイドさんに聞いて、確認していた。最もこれは徒労に終わった。

5-4-1 散策1

 モノプリの前の広場に面してウンターリンデン美術館があった。
 ウンターリンデンとは、ドイツ語で菩提樹の下という意味。中世13世紀のドミニコ会派修道院を改造して、1853年に開館した。展示作品はピカソ、モネなど15~18世紀の絵画が中心で、その中でも、ドイツ人画家グリューネヴァルトの「イーゼンハイム祭壇画」が見物だという。自由時間に是非見たいと思っていたのだが、そんな時間は取れなかった。
 少し歩いて次にストップしたのは、頭の家と呼ばれている建物の前。よく見ると頭が沢山着いているところからそう言われる。典型的なルネサンス様式になっている。色が鮮やか。てっぺんに瓶を手にしたワイン樽職人のチーフだった人の像が建っている。この近くにワイン取引所があったためにこういう像が造られたそうだ。自由の女神を造った人の作。現在はホテル、レストランになっている。
 コルマールはアルザスワインの首都と呼ばれてきた。少し行くとアルザス地方で最もいい畑がある。フランスの中でも一番乾燥している地域で、このことがいいワインを作る条件になっている。

france3_2406 08 1724.jpgウンターリンデン美術館(入らない?!)
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5-4-2 アンシー

 向かい側の建物は以前は肉屋だった。飾り看板を見るとわかる。民族衣装を着た女性がアヒルを追いかけているが、ここはフォアグラの産地ということだ。豚に説教をしているのは、セントアントニーという肉職人の守護聖人ということだ。
 これをデザインしたのはこの地の有名な作家アンシー。てっぺんの風見鶏もこの人のデザイン。包丁を持って豚を追いかけているのにやはり風見鶏というのは面白い。
アンシーという人はフランス人でここ出身の画家だが、彼の時代はドイツだった。この人のこうした作品はほかにもたくさんある。
 次に見た飾り看板もそうで、アールヌーボー式の白鳥の飾り看板は、薬局だそうだ。
 その先の大聖堂広場の近くにも見られた。
 歩行者天国に入る。ここは25年前から行われているそうで、フランスでは早い方だ。ここには観光客が溢れている。土曜日のせいかもしれないということだ。
 ここの町並みは素晴らしい。これが昔のまま残された部分なのか。
 アルザス地方の特産品を売っている店を一寸覗く。我が家には関係ないのだが、仕方なく付き合う。更に歩いていると試食のマカロンを配っていたので、それは頂く。
 一寸道を外れて公園に行く。入り口にアンシーの胸像がある。これは、見たいという人のリクエストに応えて立ち寄ったものだが、関心のない者にとってはどうということない銅像だった。公園の中央には、ラップという人の像があった。

france3_2430 08 1729.jpgこの看板だけで物語になっている
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5-4-3 散策2

 この町で最も小さな家は、「ハエの箱」と呼ばれたりもする。17世紀初頭の家で、お金のなかった人が両方の家に頼んでその隙間に造らせてもらったのだとか。現在も女性(学生)が住んでいる。裏手に回ると、小さな入り口があり、その上の小さな窓のところが風呂場だとのこと。1階はなく階段を上った2階部分だけが居住空間だそうだ。
 大きくても話題になるが、逆でも観光スポットになる。
 この辺りは一等地とのことで、月の家賃は80㎡で700€位だそうだ。日本に比べるとお安い。

france3_2484 08 1746.jpg中央黄色い家の右の赤茶色がハエの家
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5-4-4 ドミニカン教会

 1289年、ドミニコ会修道士によって建てられたゴシック建築の教会。ドミニカン修道院の付属の教会。はじめの美術館もドミニカン派の修道院だったように、中世にはこの地区にはたくさんの修道院があった。
 外から見て黒く見えるところにはステンドグラスが入っている。
 祭壇に掲げられたマルティン・ションガウアー作「バラの茂みの聖母」が有名。説明の間に入ろうとしたら有料なのでやめた。
 現在は市の図書館となっている。
 ここの瓦も装飾瓦できれいだった。

france3_2500 08 1754.jpgドミニカン教会
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5-4-5 またもやアンシー

 プレッツェルというこちらのパンを象った飾り看板があった。このパン屋の1年前までの主人は現在日本へ行って店を開いているとのことだ。
 ここにもアンシーの飾り看板があった。周りにソーセージが付いている。今は洋服屋になっているが、昔は肉屋だったそうだ。店が変わってもこうして看板は残しておいてくれるらしい。
 絵はがきを売っている店の前でストップ。アンシーの作品を絵はがきにしたのを売っているというので、ここで15分間の買い物タイムとなった。
 が、我が家には関係ないので、その時間を自由と考えて少し先へ行ってみることにした。アンシーの絵はがきは、店先のを写させてもらった。

france3_2505 08 1754.jpgアンシーの作品
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5-4-6 サン・マルタン教会

 少し行くと広場があった。そこに面して教会があったので入ってみた。
 1234年に建立が始められ1365年に完成した美しいゴシック建築。内陣には、23席の聖職者席があり、中世時代には司教座聖堂参事会員を迎えていた。現在の参事会教会の名は、かつての名残。
あまり時間がなかったので、とりあえず教会の名前も知らずに写真だけ撮った。内部は質素な感じだったが、外観は素晴らしく、やはり装飾瓦が見事だった。
 ところが、買い物タイムが終わった後、この前の道を通った。
 広場は大聖堂広場という。この周りの建物も素晴らしかった。
 外観を見ながら教会の裏側の方へ回っていった。歩きながら説明があった。
 そちら側からだと屋根が更によく見えた。太陽の光加減が良く装飾瓦が映えていた。こういう瓦はハプスブルク家の時代によく使われたのだそうだ。
 この教会はカトリックの教会だが、後ろに見える銅を吹いた屋根の教会は元々はプロテスタント教会だった。今はやはりカトリック教会となっている。
 屋根の端にコウノトリの巣があった。今は空。今年は8月18日に去って行ったのだそうで、来年は3月頃にまた来るのでしょうということだった。どうやら記録を取っているらしい。
 道を挟んで教会の向かい側のバルコニーのある建物は、昔はここで裁判が行われたりした建物。
 その横の狭い道を進んでいった。アーケードになっているところでは市が開かれていたとか。

france3_2526 08 1759.jpg赤色砂岩がきれいだった
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5-4-7 彫刻家バルトルディの生家

 バルトルディは、ここで生まれたが、パリで建築と絵画を学び、生涯の殆どはパリで過ごしたそうだ。1886年にフランス政府からアメリカ政府に贈られることとなるニューヨークの自由の女神を作った人で、その原物などを収めた博物館となっている。
 広場にあるのも彼の作品。丸いのは地球だとか。
 そこを出て進むと商人通りといい、商人が行き来していた通りに出た。
 家のコーナーに木彫りのおじさんがいる家があった。飾り看板といい、町作りにいろいろと工夫してあるのが面白い。それだけ余裕のある生活をしていたということかも知れない。
振り返ってみた町並みも綺麗だった。1500年初頭の家屋が並んでいる。

france3_2582 08 1813.jpgこの人は大作がお好き?
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5-4-8 旧税関

 中世時代コルマールの行政・経済の中心地として、輸出入製品に税金をかける場所だった。今はアーチストなどの展示会場になっている。建物の右側は1480年建設のゴシック様式、左側は1575年建築のルネサンス様式。
 やはり屋根瓦に特徴がある。
 今は窓辺に花がきれいに飾られているが、12月からはクリスマス関係の装飾になり、この広場ではクリスマス市が開かれる。
 そこには八角形の噴水がある。シュレンディーの噴水という。彼の名前を取っているそうだが、どんな人なのかは不明。ブドウを手にしているから、ワイン職人?かと思ったが、刀を差している騎士のようでもある。うるさく質問している人も、ここでは質問してくれなかった。
 この辺りも皮なめし職人のいた地域となり、屋根がその干し場になっていた。

france3_2630 08 1824.jpg屋根瓦の美しい配列
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5-4-9 市場

 市場へ来るとちょうどフェスティバルが行われるという日で、アルザス地方の民族衣装を着た男女がいた。農家の伝統的な踊りをするダンサーだとのこと。帽子に特徴があるそうだ。
 ラッキーということで、皆さん代わる代わる写真を撮っていたが、我が家は中に入ってみることにした。
 中に入ってみると思ったより大きく、明るく、様々なものが並べられていた。ここは常設の市場なので、いつでもこれだけの物が揃っているのだろう。
 パン、野菜、果物、チーズ、肉、お菓子、花など何でも揃う。 
 そこを通って昼食場所となっているプチヴェニスへ向かう。

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5-4-10 プチヴェニス

 この辺りは昔漁師の住まいだったところ。この辺りには番地という物がないので、家の色で区別していたのだとか。ガイドさんの言葉を借りれば「我が家はピンクだよ」「うちはブルーだよ」ということになるらしい。
 ラウハ川が流れている。その川に沿って歩いて行く。
 ピザのような物を焼いている屋台を見る。生地の上にチーズやベーコンを乗せてオーブンで焼いていた。特に珍しい物では無いが、オーブンを車に積んできていて目の前で焼いてくれるというのが珍しかった。2分くらいで出来るそうだ。
 町並みも綺麗だったが、川沿いの風景も素晴らしい。
 小舟のクルーズもあった。

france3_2674 08 1835.jpg橋の上で地図を広げる観光客
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5-5 昼食(1155~1250)

 カブーサンピエールという川沿いの店に入る。ここでガイドさんとはお別れ。
 中に入ると家具や調度品に目を惹かれた。
 前菜はトタトフランベ。アルザス地方の郷土料理だ。さっき、屋台で焼いていたのはこれだ。ピザと同じように出てきたのを、1人2切れずつ頂く。美味しかった。
 メーンは白身魚のフライ、ポテト人参などの野菜添え。これは普通。
 レモンシャーベット。口直しに丁度良かった。さっぱりしていて美味しい。
 昼間なのでワインは無し。
 食後、店の前の川沿いの景色を撮る。
 ここでこの町の観光は終わり。ここはもう少しゆったりと観光したかったし、自由時間も欲しかった。この町に泊まっていれば良かったのに、とまた不満が口をついて出てくる。
 また、日本のガイドブックには、映画「ハウルの動く城」のモデルとなった町で、具体的にその家なども出ていたのだが、全くそれには触れず。その辺の情報も入れておくと日本人は大喜びなのに。
 そんなこんなで消化不良のまま、バスに乗り込んだ。

france3_2742 08 1947.jpgお店はとっても洒落ていた
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5-6 ボーヌへ

バス発(1255)WC休憩(1443~1500)

 相変わらずトウモロコシ畑の中を走る。もうすっかり終わったと思っていたトウモロコシだが、散水機を使って水を撒いている様子を幾度も見かけた。ただ枯れるのを待っているわけでもないとすると益々この先の用途が分からない。
 しばらくすると今度は酪農地帯に入った。日本と同じような、餌のロールがゴロゴロしていた。
 と、不思議な物体を発見。砂の上を走る列車?
 途中料金所を2カ所通過した。ETCのような物は無く、クレジットカードを使ったりしているので、通過するのに時間がかかる。
 トイレ休憩を過ぎるとしばらくは同じような農村風景が続く。やがて、ボーヌが近づいている事を示す看板が見えた。
 この道路はこうした標識が多く目に付いた。
 やがてブドウ畑が広がる。そうここもワインの名産地なのだ。

france3_2748 08 2011.jpgトウモロコシ畑の横をバスは走る
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5-7 ボーヌ(1620~1820)

町に入ったと思ったらすぐに寿司屋が目に付いた。漢字で寿司屋と書かれていたのだが、理解できる人が何人いるのだろう。
 城壁と堀が見える。その向こうに見える民家の煙突が連なっていて面白い。どこかで同じような物を見たことがある。
 この町の起源は、この地に出ていた涌き水を求めて古代ガリア人が住んだことに始まる。ブドウ畑が並ぶ丘の下を通った伏流水が、ちょうどこの地で沸き出している。地下にはネゴシアンがワインの保管用に造ったカーヴが網の目のように通っており、中世にはワインの集散地として名を高めた。11月にはブルゴーニュ最大のワイン祭り「栄光の3日間」がボーヌを中心に3日間にわたって開催される。
 駐車場で、日本人ガイド、ひさこさんと会う。我々が今日宿泊するディジョンから来たのだという。
 この町は人口は2万2千人くらいだが、観光で訪れる人は40万人にもなる。確かに病院前の広場は人でごった返している。

france3_2828 08 2317.jpg聖ニコラ門(かつての城壁の一部?)
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5-7-1 オテルデュー(1634~1740)

 1443年、ブルゴーニュ公国フィリップ善良公の宰相ニコラ・ロラン夫妻が私財を投じて建てた施療院、貧民救済院である。
当時まだ百年戦争の最中で、一般市民の生活は苦しかった。ために医者にかかることが出来ない人が大勢いた。この病院はそういうボーヌの市民を救おうとしてに私財をなげうって造った物で、完成には15年かかった。
 が、初めて患者を引き受けたのは1451年のこと。それから1971年まで現役の病院として使われていたというからすごい。現在病院は別の所に移動した。
 病院の運営費は500年以上の間、諸侯から寄贈されたブドウ畑でできるワインの収益で運営していた。ただ、かつて1300haもあったブドウ畑は、現在では58haまで縮小されてしまった。
 屋根は天然素材のスレートを使用している。これは最近修復した物なので、綺麗に見える。

france3_2862 08 2330.jpgオテルデュー
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5-7-1-1 中庭
 中庭へ入ると、黄色と茶色を基調にした菱形模様の屋根が見える。素焼きの瓦に釉薬をかけて2回焼いた物で、ブルゴーニュ独特の模様である。
 瓦は、当時ブルゴーニュが支配していたベルギーのフランドルから輸入したもの。
 現在の物は当時の物では無く、20世紀に大がかりに修復したもので、約100年たっている。中世の頃のはもう少し大きな瓦だった。
 黄色・黒・緑・赤の4色を組み合わせてある。これはここ独自の物では無く、ブルゴーニュ地方では民家などでも見ることが出来る。
 病院は2階建てだが、我々は1階部分を見学する。

france3_2893 08 2340.jpg中庭の屋根瓦だけでも一見の価値あり
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5-7-1-2 貧しい人の大病棟
 最初にできあがった貧しい人々用の大部屋。お金を払えなかった人々を受け入れた部屋だそうだ。
 15世紀の形のまま。赤いカーテンや赤いベッドもそのまま。
 天井は丸天井で飾りが施されている。壁のところにある小さな顔は当時のボーヌ市民のお金持ち達の顔。中には動物の顔に変化しつつあるような物も有り、おもしろおかしく皮肉っぽく作られている。
 男女同部屋で、人数が多いときには一つのベッドに複数で寝ていた。伝染病の人は入ることが出来なかったようだが、原則どのような人も受け入れた。町の医師が治療に当たった。
 病人の世話は、この町のあちこちにあった修道院からシスターがここに来てしていた。彼女らは病院の中央からではなく、壁側から患者の世話に当たったとのこと。このシスター達は薬や治療法の勉強をして、やがて各地へ巣立っていったということだ。
 創始者の絵のコピーがある。本物は、ルーブル美術館にある。ヤン・ファン・アイク作「宰相ニコラ・ロランの聖母子」で、聖母マリアと向かい合っているニコラ・ロラン。一般の人が聖母マリアと同じ画面に同じ大きさで描かれた最初の作品として知られている。
 同じところに写っているもう一つは板絵で、観音開きになる。これで見ていると6枚の絵だが、開くと9枚の絵になる。その写真は礼拝堂の所にあるので後で見る。これは板の表と裏に描いたもの。革命後、19世紀初頭にルーブル美術館が修復したときに、剥がして表と裏とが見られるようにした。本物は後で見ることが出来る。ここにいる2人もニコラ・ロラン夫妻。
 中央部分は食事場所になった。食卓を並べて、両方から患者が集まって食べた。多いときには120食分作ったそうだ。
 奥の部分は礼拝堂になっている。ミサの時にはベッドからでも参列できるようになっている。奥さんの方の遺体はここに眠っている。ニコラ・ロランは故郷に埋葬されたが、フランス革命の時に教会も遺体もバラバラにされて行方不明になってしまって分からない。中央のステンドグラスの下の左右の跪いている男女は、ニコラ・ロラン夫妻。それぞれの頭の上に天使がエンブレム(家紋)を掲げている。これがここで売り出しているワインのラベルとして使われている
最後に、さっき表を見せてくれた祭壇画は、開くとこういう絵になります、と示してくれた。最後の審判の場面になっている。ここでは天国と地獄が見られる。宝石を持っているのは、大天使ミカエル。この本物が後で見られるというので楽しみだ。

france3_2903 08 2342.jpg奥にチャペルがある
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5-7-1-3 その他の部屋
 中庭を通って次の部屋へ行く。雨が降っても濡れないで移動できるように、2階部分がはみ出して作ってある。
 そこはシスター達の作業室で、パンを作る以外のことはここで行ったそうだ。
 次は特別室。お金を払った人たち、つまり金持ちの病棟だ。部屋は狭いが先ほどの大部屋にはなかった暖房設備があるため。世話をするシスターの数が多い。大きな掛け布団もある。壁画や天井画もあったり雰囲気が良い。食事も個々で採れた。これも差別化の一つだろうが、面白いのはベットの中央に紐が降りている。これは病人が起き上がる際に補助として使ったのだそうだ。
 この横に観光客用のトイレがあったので行ってみると、まあ綺麗なこと。思わず一枚。さすが元病院。
次の部屋は、病室として使われていたところを資料室としてある。模型を見ると、今と同じ形であることが分かる。見学できない部分は併設している老人ホーム。そこでは今でも暮らす人々がいる。
 中世のタイルや瓦の実物が展示してある。1枚1kgくらい。地方によっては鱗形も見られるが、この地方の物は長方形になっている。見えるところは釉薬をかけて綺麗に仕上げている。
 下を見ると川の流れが見えるようにガラス張りになっている。ここは川の上に建てられている。上の方には井戸が有り、下の方では汚水をそのまま流すことが出来るようになっている。
 17世紀の手術道具なども展示されている。まだ麻酔のなかった時代にも手術をしていたそうで、縛り付けて手術しているイラストがある。
 次の部屋は台所。竈以外は新しい。
 また中庭を抜ける。そこには井戸があった。
 次は薬局へ行く。途中、柵の向こうに老人ホームが見えた。日向ぼっこしているのか、老人が見えた。日本の老人が自分たちの老い先を思いながら、フランスの老人を眺めたというわけだ。ちなみに非常に安い料金で(つまり年金で支払いが可能な程度で)入れるのだそうだ。幸せな老人達である。
 薬局にある薬は、ここで作った独自のもの。薬草などから作っている。薬棚を見ると、動植物など自然の物を使っている。

france3_2956 08 2354.jpg軒先が連絡通路
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5-7-1-4 祭壇画「最後の審判」
 サン・ルイの間にある「最後の審判」は、先ほどの礼拝堂にあったもので必見。油絵で、細部まで描かれている。これはニコラ・ロラン自身がロジェ・ファン・デル・ヴァイデンに制作を依頼したもので、8年の年月をかけて制作された。この細密画は、ゴシック様式絵画の主要な作品のひとつといわれている。
 正面の金の部分が開いた部分になる。そして、この板絵を閉じていくと、右側にある凸の字場面になる。開いた絵は、ミサの時にしか見られなかった。
 正面の絵の方が混んでいたので、始めに右側の方から見ていくことにした。
 左右にいるのがニコラ・ロラン夫妻。ニコラ・ロランが50才ころの絵だそうだ。奥さんとは27才年の差があり、3度目の結婚となる。やはりそれぞれの家紋を持っている。上が受胎告知のテーマ、下が聖人。槍を持っているのが聖セバスチャンで、騎士の守護聖人。鈴を持っている髭の老人は聖アントニオスで、医者の守護聖人。
そこまで話して、正面へ移動。
 この絵は最後の審判と言って、天国と地獄の絵。中央の天使が持っている天秤に乗っている人は同一人物。死後いったん復活してこの天秤にかかり、天国か地獄かどちらへ行くか審判されると言う事を表している。天国の人は左、地獄の人は右。天国には花が咲き、人々の表情は穏やかで肌色もいい。ところが、地獄の方へ行くと褐色の肌をした男女が、怖そうな、恐れおののいたような表情で助けを求めている。
 向かって左の聖母マリアとその向かいに洗礼者ヨハネ(グレーのマントを羽織っている人)がいる。この人物が、一番描き込まれた人物像だと言われている。やせ細った足や衣のひだなどを見るとよくわかる。顔にふわっと蓄えられた髭の表情なども克明に描かれている。
 沢山の人が並んでいるが、左側から4番目の人物、カメラ目線でこちらを見ている人、これがこの絵の作者自身だと言われている。その左隣、王冠の男性がフィリップ善良公。
 中央の天使は豪華な衣装を着けて孔雀の羽を持っている。その頭上にある宝石の球体に血を流しているキリストの足が乗っている。
 背景が平たく描かれているのは、ルネサンス以前の絵で、遠近法がないのもこの時代の特色。
 ここから、大きなルーペで部分を大きく拡大してみる。面白いことをすると思うが、細密画なので細かいところまでよく見て欲しいという管理者の気持ちなのだろう。
 初めは天使の金色のブローチ部分。真珠やルビーなどの宝石が見られる。マントの縁取りの真珠も描かれているのが見える。
 次は天国の女性の足下。白や赤の小さい花まで描かれている。フランドルで描かれた絵。
 この絵はやはり圧巻というしかないだろう。工芸品の域を超えている。

france3_3030 09 0012.jpg全体(照度の低い部屋で解像度は勘弁)
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5-7-1-5 タペストリー
 馬のタペストリー。これもブルゴーニュ大公国、フランドルで作られた毛織り物。馬の足が切れている。聖エロアの話が元になっている。蹄鉄を治そうとしていた男が神様に、馬の足を切れば楽に作業が出来ると言われたので、そのようにしたら元に戻らなかったという話がモチーフになっていると言うことだ。
 ただ、聖エロアという名が出てくるのにこの話ではおかしいと思っていろいろ調べてみると、彼については金銀細工師や鍛冶職人の守護者として人気があり、その腕前に関して多数のエピソードが伝えられているとのこと。
 例えば、この絵に関する物では、「暴れ馬の蹄鉄を交換する際に馬から脚を取り外して作業し、また元通りに取り付けたという話が有名」とか「悪魔が馬に乗り移って蹄鉄を打ちに来たので、その一脚を切断し、それに鉄床をつけて懲らしめた」とかいう話を見つけた。
左側に立っているのは聖母子像。マリアがブドウの房を持っているのがボーヌの紋章として使われている。
 他にも守護聖人、聖アントニウスのタペストリーなどがある。
 ピエタ像、ワインの試飲用の銀の器もあった。
 最後は土産物屋を通る。買い物をする人もいたが、我が家が夫妻の紋章の入ったワインのラベルを写真に撮っておしまい。
 ワインはここで作っているのではない。ブドウ畑を所有していはいるが、それを農家に作ってもらい、競売にかけその収益を病院が受け取るようになっているそうだ。

france3_3065 09 0024.jpgこれも照度の低い部屋で解像度は勘弁
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5-7-2 散策(1740~1830)

 それから町を散策することになった。
 まずノートルダム教会に行き、外観だけ見る。12世紀からこの場所に教会があった。鐘楼は16世紀の物。ここの瓦はちょっと鱗形の物を使っている。彩色瓦を使っているが、緑色の物は新しい。
 教会の横を抜けるとブルゴーニュ大公の館に出た。14~16世紀の建物が今はワイン博物館
となっている。古くからのワイン作りの歴史や、昔のブドウ圧搾機や樽、ワイン差しなどさまざまな道具を展示している。小さな門のような所を出ると「オテル・ド・ドュック・ブルゴーニュ(大公の館)という案内板?があった。こちらが表?
 そこから石畳の道になる。各地で見られる道だが、歩きにくい。そしてここも道路の中央には雨水を流す溝が付けられていた。極楽通りといわれる通りを歩いて行く。教会の近くには往々にしてこういう名前が付けられる。
 ワインを欲しいという人がいたので、店を紹介するということになってそちらへ立ち寄った。カーブを見学できるところがあるので、見学もしましょうということだ。そこはかつては修道院の中の教会だったそうで、確かにその名残が見られた。カーブは地下にある。砂利の上に樽が寝かされていた。オテルドューのワインもこのように保管され、樽ごと競売にかけられ、その後瓶詰めされて売られるのだそうだ。この町の下には至る所にカーブが有り、従ってワインショップも多く販売しているが、試飲というのはないそうだ。2人程ワインを買った人がいた。
 それから通りに出るとニコラ・ロランのだまし絵のあるホテルセントラルがあった。窓からニコラ・ロランが病院の方を指さしている絵だ。ちゃんと横に奥さんもいた。
 カルノー広場に出る。この周りにはカフェやレストランが沢山あり、飲食店街となっている。ワインと共に食の町としても名を馳せている。この辺りが一番賑やかなところとなる。
 市役所の一画でダリの展覧会が行われている。塔も市役所の一部。
 ぐるりと回って再びノートルダム教会に来た。今度は中に入る。パイプオルガンが流れていた。どうやら練習中らしい。パイプオルガンは殆どの教会で西側入り口の上にある。
この教会は12世紀はじめに建てられた教会。のちに増改築されたものの、全体的にはロマネスク様式を色濃く残す。祭壇の横にある木製の黒いマリア像は町の守護神とされる。11世紀に作られたもので、教会が出来た後に他から持ってこられた。ガラスのケースに入っているので、やや見づらい。正面から見るとふっくらした感じがするが、横から見ると結構鋭い顔つきに変わって見えるそうだ。彩色された跡がうっすらと残っている。
 聖母マリアの一生を19のシーンに描いた絹とウールのタピスリーが見もの、と事前調査の解説書にはあったが、それについては話はなかったし、眼にも触れなかったので、別室保管かも知れない。
 これでこの町の観光は終わり。駐車場へ戻った。途中熱気球が見えた。この近くに基地があるそうで観光客を乗せて20分くらい回るのだそうだ。

france3_3085 09 0040.jpgこの町にもあった ノートルダム教会
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5-8 夕食(1836~1958)

{3184.3186.3188.3190.3194}

バス発(1830)

 すぐ近くのホテルのレストランで夕食。
 前菜はフォアグラパテ。いまいちの味だった。
 コック・オ・ヴォン。肉に味が染み込んでいて美味しい。相変わらず肉は軟らかい。しかし、パスタが多すぎ。
 デザートは洋なしの赤ワイン煮。これまた美味しい。
 ワインは赤のボトル(750ml) 21€

france3_3184 09 0142.jpgワインのお供になった前菜
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5-9 ディジョンへ

バス発(2001)

 もう薄暗くなってしまった。夏場ならまだまだ明るくて観光も出来る時間なのだが、この時期は仕方ない。
 料金所もすっかり暗くなった。

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5-10 ホテル <ソフィテル・ラ・クローシュ 211号室>

ホテル着(2047)就寝(2230)

 ホテルに着いたときにはすっかり暗い。町の様子も殆ど分からない状態でホテルに入った。
ベッドは小さめなのが二つ。ただ、角部屋なので部屋自体はやや広い感じがした。洗面所も広くて明るく使いやすい。勿論バスタブ有り。何とバスローブやスリッパまである。ミネラル水がサービスされていた。インターネットもOK。なのにスーツケース置き場はやはり一つしかないので、テーブルをそれに当てた。

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