6.2012年9月9日(火)
ディジョン、ソミュール・アン・オーソワ、モンパール、ヴェズレー、ディジョン(快晴)
起床(0400)朝食(0630)散策(0700~0815)ソミュール・アン・オーソワ(1010~1130)昼食(1210~1335)フォントネー修道院(1351~1505)ヴェズレー(1636~1735)夕食(1935~2110)就寝(2330)
6-2 散策(0700~0815)
出発まで少し時間があったので、散策に出かけることにした。
外はようやく開けてきた頃で、まだすっきりとした明るさではない。
その昔ブルゴーニュ公国の首都として栄えた町。それだけに見るべき物も多いのでは無いかと期待した。ここには泊まるだけで観光はないので、自分たちで調べなければならない。
そこで見つけたのが「フクロウの道」という物。道路にフクロウの標識が埋め込まれていて、それをたどるとこの町の見所へ行けるのだという。ということでそれを探しながら行って見ることにした。観光協会が開いていれば、フクロウの道の案内図をもらえるそうだが、残念。
ホテルを出るとすぐ目の前に、ギヨーム門がある。もとは城壁があったようだが19世紀に崩れ、門だけが残ったらしい。
そこからまずはノートルダム教会を目指すことにした。そこに「幸せのフクロウ」がいるからだ。教会の壁に彫り込まれていて、左手でなでると幸せがやってくるそうだ。
ただ、そこへ着くまでにもフクロウに誘導されて、いくつかの建物を見ることが出来た。
6-2-1 ノートルダム教会
13世紀のゴシック様式、ブルゴーニュ建築の傑作と言われている。
正面の上方に張り出した怪物の彫刻がそれぞれ特徴的で面白い。ガーゴイルかとも思うが、3段になっているのだから、雨樋とは考えにくい。
てっぺんにある仕掛け時計の「ジャックマール」は、当時フィリップ豪勇公(1363~1404)がフランドル戦争を加勢したディジョンの人々に健闘をたたえて持ち帰った時計。その時計はジャックマールと名づけられ、時を経て家族像が追加され、一人だったジャックマール像から4人家族の鐘つき時計となったそうだ。
正面をしばらく楽しんだ後、横へ回ってフクロウとご対面。地面に9という数字を書いた大きめのフクロウがあった。この番号、22番まであるそうだ。
皆が撫でるためだろう、かなりすり減っていた。そこでそれぞれで触った。
ディジョンに唯一残る13世紀のステンドグラスや11世紀から町の歴史を見守る黒いマリア像が見どころだそうだが、早すぎて中に入ることは出来なかった。
6-2-5 教会
ホテルを目の前にして左折。
ここにもフクロがいたからだ。その指示に沿って進んでいくと、教会があった。
始めに眼に入ったのは、サン・ベニーニュ大聖堂。尖塔がそびえる14世紀のゴシック様式の聖堂で、もとは伝道者聖ベニーニュの墓所に11世紀はじめに建立されたベネディクト派修道院だったところ。
丁度修復中で、覆いが掛けられているので、全容は見られなかった。
後ろ姿もすらりとして、なかなか威厳の感じられる教会だった。
その裏手にも小さな、比べると質素な教会もあった。
この頃先にも書いたが、急にポツポツと来たので、天気雨だとは思ったが、出発の時間のこともあり戻ることにした。この朝の散歩で、半日観光した気分だった。
戻る途中で運転手さんに会った。これからおそらく駐車場にあるバスまで行くのだろう。今日も一日よろしくという意味を込めて、朝の挨拶をした。
6-3 ソミュール・アン・オーソワへ
ホテル発(0903)
ホテルへ戻って出発準備をした。といっても連泊なので、楽。
ほぼ予定通りにホテルを出て、まずは美しい村を目指す。
途中、やはり教会があったり酪農地帯を通ったりと、もうすっかりお馴染みになったフランスの風景を見る。
今日訪れるフォントネー修道院やソミュール・アン・オーソワの立て看板が、目的地に近づいていることを知らせてくれた。ちなみに、ヨーロッパではだいたいこの茶色と白を基調としたイラストが高速道路などに見られる。これも車窓を眺める楽しみの一つだが、何せ高速で走っているので、うっかりすると見落とすし、そうでなくてもなかなかカメラに納めることは難しい。
6-4 ソミュール・アン・オーソワ(1010~1130)
バス着(1010)
川が、外側と街とを完全に隔離し、張り出している断崖を囲むように、まわり込んでいる。町へ入る通路は、川に架かった石橋だけという自然の要害になっている。それだけに、様々な勢力が触手を伸ばした。
8世紀にはシャルルマーニュ大帝が、11世紀にはベネディクト修道士会の修道院が、13世紀にはブルゴーニュ公が手に入れていた。
14,15世紀には町を囲う城壁と、そのところどころに18本の塔が造られたが、現在は4つのみが残されている。
ブルゴーニュの4代目のシャルル突進公がナンシーの戦いで亡くなった直後に、フランス王ルイ11世が侵入し、治めるようになる。その13年後の1602年、時のフランス王アンリ九世が砦を取り壊すよう命令を下した。
この町も自由散策ということでバスを降りると開放された。そこでまずは観光案内所へ行って地図を手に入れた。しかし、このコース以前の催行はなかったのか?といぶかしく思う。地図のコピーが、多少不鮮明でもあれば、事前に村散策の計画も立てられるというものだ。それに不思議なのは、観光案内所に行って地図をゲットしようと人々もしないことだ。普通地図は必須アイテムだから。
6-4-3 塔
この村における一番の見物はやはり塔だろう。
教会から出るとその塔が見えたので、地図に沿って、そちらへ向かった。
始めに見た塔は、オルレ・ドール塔。「金で縁取りした」という意味で、造ったばかりのころ、矢を射るために使った銃眼に、銅ぶきをした鉛を貼りつけていたため、この名がついたそうだ。
高さは44.3mあり、下から見上げると、レンガ造りの壁はヒビが入ったり、一部が削り落ちたりしている。
次はゲヘナの塔 (ジェエン塔)。ゲヘナの塔は四つある城塞の主塔の一つで、以前は郷土資料館として内部が公開されていたようだが現在は非公開。崩れかけた壁に顔のような物が彫られていたが、不明。
ゲヘナの塔の横から、我々が渡ってきたジョリ橋が見えた。以前はも少し下まであるいは完全に下まで行けたようだが、現在は通行禁止になっていた。なお、ジョリ橋にはフランスとドイツ国旗および五星紅旗が掲げられていた。この一週間ぐらい後にベルギーを華国鋒が訪れたことに関係しているのかも知れない。
6-4-4 城壁へ
次は一番奥の城壁跡へ行って見ることにした。
勿論途中で目に付くものは写真に納めた。
城壁のあったところは公園になっていた。何の表示もなければ、記念碑のような物も無い。ただ、下を覗いてみると城壁のような物が見える。
その下に川でも見えればなおのことはっきりするのだろうけれども川も見えないので、期待していたような風景は得られなかった。この丘の上にはどうも病院のような建物が建っているらしい。だが非常に静か。
これで終わり?と思うとこの町は面白くないなあ、と思いながら、元来た道を戻っていった。
ゲヘナの塔の所に絵看板があったが、これは何なのだろう。
そこから少し行くと、脇へそれる石畳の道があった。どこへ行くのだろうと思って、時間もあること出しそちらへ行ってみることにした。
6-4-5 パノラマ
石畳の先に小さな門があった。そこから先は急な階段になっていた。下まで行くのはしんどそうだったが、とりあえず行って見ることにした。それが大正解だった。というか、上から眺めてもしたが見えないのだから、下から上を見上げてはどうかという発想の転換だ。
この風景が見たかったのだ・・・と思った。
残り二つの塔が、川向こうに並んで立っている。左がマルゴ塔(カササギ塔)、右がプリゾン塔だ。川に架かる眼鏡橋のピナール橋を入れたりしながらしばし楽しんだ。他の人にも教えてあげたいが、上まで行くのは大変だし、皆さん、どこにいるか分からない。結局最後まで、ここに来る人はいなかった。
もったいない。せめてこの辺りまで添乗員さんが連れてきてくれるとか教えてくれるとかして欲しかったと思う。
6-4-6 集合場所へ
途中で誰かに会ったら教えてあげようと思ったが、誰にも会わないうちに門の所まで戻って来た。何人もが門の近くにあるカフェで休んでいた。確かに上だけなら時間をもてあますだろうと思う。町並みも、木組みの家がそうあるわけで無し、花々が飾ってあるわけでもない、要するに塔を見る以外に何があるのだろうと思えるような町だったからだ。
門を出たところのカフェにも人がいた。要するに、この町にトイレはありませんから、カフェでコーヒーなどを飲んで借りてください、と始めにいわれたせいだろう。が、noriはちゃんと公衆トイレがあることを知っていて、我が家はそこを使った。少し汚かったが、使えないほどのこともなかった。どうも、今回は訪問先の情報を十分に旅行社が把握していない感じがする。
6-7 フォントネー修道院(1351~1505)
バス発(1342)
バスに乗って10分程度で、フォントネー修道院に着いた。
ここは1098年に創設されたシトー修道会の一つとして聖ベルナルドによって1118年に創建された。フォントネー修道院は、現存する最古のシトー会修道院である。
清貧、質素を厳格に守る修道士たちが生活していたこの修道院は、人里離れた森の中に建っている。最も多いときで、200名を超える修道士がいた。
修道院では、近隣で採れる鉱物を用いた製鉄業や冶金業が発達した。1269年には王国修道院となり、ジャン2世、シャルル8世、ルイ12世らも寄進を継続した。しかし、王家の利益となるように、それまで行われていた修道士達による修道院長選挙の廃止が強制されたことで、修道院の凋落が始まった。18世紀には、修道士たちは資金的な遣り繰りに窮した。
そしてフランス革命時、修道士は12人になっており、1791年には、修道院は敷地ごとクロード・ユゴーに売却され、以降100年ほどの間、製紙工場に転用されていた。
更に、エリー・ド・モンゴルフィエの手を経て、1906年にはリヨンの銀行家、エドゥアール・エイナールの手に渡った。彼は1911年までかつての修道院の姿を取り戻させるべく修復工事を行い、製紙工場も解体した。フォントネー修道院は現在でもエイナール家の私有物ではあるのだが、主要部分は観光客にも公開されている。
参考までに付記すると、19世紀、シトー会に改革運動が起こり、厳律シトー会の修道院は 男子のものを トラピスト修道院、女子のものを トラピスチーヌ修道院と呼び、日本では函館に設けられている。
入り口の所には石の十字架があった。ここから現地ガイドのイザベルさんが付く。
ここには日本語のパンフレットがあったので、かなりそれを参考にしてまとめた。
6-7-1 前庭
入り口から前庭に入る。全体が見渡せる。
質素な修道院で建築物もシンプル。壁などにも彫刻や彩色がなされていない。
祈りに集中できるように、不要な物はすべて省いたのだそうだ。
ベネデクト派の修道院。この宗派はその後いくつかに分かれたが、主なものは、二つ。一つはクリュニー派、そしてもう一つがこのシト-派。どちらもブルゴーニュ地方で誕生した。この修道院はシトー派に属するものだった。
ここが修道院として機能していたのは、フランス革命前までである。フランス革命の時にすべての修道院は解体された。が、その後の努力があって、当時の修道院として保存状態が良いので、1981年に世界遺産に指定された。
6-7-2 修道院付属教会(聖堂)
1139年から1147年に十字形の設計に基づいて建築されたロマネスク様式の教会である。長さ66m、高さ16.7m、幅8m。広い聖堂内はがらんとしており、何もない。本当に見事なくらい何もない。これでも修道院の重要な祈りの場だったとは信じられない。
床部分は今は砂利になっているが、昔は石灰岩が敷かれてカバーされており、椅子もあった。調度品も置かれていたそうだ。当時の床の様子は、祭壇の方で見られる。
中央で二つのエリアに分かれ、奥は僧侶、手前は僧侶でない人(まだ僧侶になっていない人やここで働いている人など)の祈りの場だった。修道士は1日7回祈った。
壁には装飾がない。壁や柱の色は彩色ではなく切り出したままの石の色。自然の色を活かしているそうだ。祈りを重視した結果がこれで、視覚より来る必要以上に想像をかき立てる物はすべて排除した。
左右や正面にステンドグラスがあるが、これはオリジナルではないが、よりオリジナルに近いように復元してある。これまで見てきたステンドグラスのように聖書の物語ではなく、幾何学模様だった。
入り口は西側、奥の祭壇が東側になる。北側の扉口には聖母子像がある。13世紀後半の物ですよ、ということだ。
祭壇の周りの所は石灰岩の床になっており、中にはタイルも見られる。床全体がこのような感じになっていたと考えられるそうだ。タイルには綺麗に植物の模様がある。12世紀の頃はこのような物は無く、13世紀になってから装飾したらしい。
正面にある彫り物は14世紀の物。この頃になると装飾されることが出てきたようだ。
石棺の蓋、があるが、この教会建立のためにお金を出した人の物。ここの側廊の地下に埋葬されていた。他にも領主や騎士達が埋葬された。僧侶達はここに埋葬されることはなかった。僧侶の墓地は、聖母子像の後ろのドアから出たところにある。
6-7-3 共同寝室
聖堂の南側の階段を上ると、2階が僧侶の宿舎となっている。ちなみに共同寝室を支える一階部分は中央が通路になっていて、左側が集会室、右側が写本作業室になっている。
15世紀に火災に遭った後、15世紀後半に出来た物で、船体をひっくり返したようなアーチ型天井の部屋になった(こうした建物はしばしば船大工が関係しているがここはそうなのかは不明)。オーク材で出来ている。戒律は、個室を認めておらず、50人くらいが藁を敷いて雑魚寝していた。初期には、修道院長もここで寝ていた。
修道士達は、昼だけではなく、朝に夜に祈りを捧げるため、聖堂の近くで修道服を着たまま休んでいた。だから、直ぐに聖堂に入れる場所に作られたのだろう。
南側の窓は今のようにガラスが入っていなくて、木の窓で、開閉できるようになっていた。つまり、今よりは暗かったと言うことが想像できる。
北側の窓から見ると17世紀のフランス式庭園が見える。元々はそこは畑でハーブや薬草を育てていた。修道士は肉は食べない。魚やワインは口にした。
6-7-4 回廊
各回廊の長さは、36~38mある。回廊の周りには部屋がある。しかし、ここは単に移動のためばかりではなく、瞑想の場でもあった。
聖堂では徹底的に排した装飾であるが、柱に少し飾りが見られる。柱頭にも植物の模様などが見られる。質素とはいってもそれなりに飾りが施されていたわけである。色もある。これは14世紀になってから色が使われるようになったので、その頃の物と思われる。
また、大きなアーチの各中央に円柱を1本立て、2連の小アーチを挿入している。これは実用性に基づくわけでもなければ、構造的に必要なわけでもない。回廊を美しくするための装飾である。
ここには、高い塔は造りたくなかったので鐘楼がない。代わりに鐘をつるす部分が作られ、鐘を鳴らすための紐が下りている。聖務を知らせたりする時のに鳴らされた。
6-7-5 集会室(ミーティングルーム)
付属教会を別とすれば、修道院生活の中で最も重要なものである。ここではベネデクトの戒律の一章を朗誦したあとに共同体に関する決定がなされた。日々、修道院長からの指示、また講話がなされた。扉はなかった。この中は2つの小さな部屋に分かれていた。
修道士達は、一切話をしてはいけないが、ここでだけは話すことが出来た。
天井は典型的なゴシック式で、見事なアーチを描いている。この上は大部屋になっているので、この柱で2階を支えている。ゴシックというと天井が高いものだが、ここの場合は支えるという方に主眼が置かれているので、低くなっている。年代は不明だが色が見られる。
柱は太い柱の周りに細い柱が付けられていて、調和が取れて美しい。
12世紀の頃には50人程の修道士がいた。
隣に小さな典礼準備室が付属している。
6-7-9 鍛冶作業室
13世紀末に建てられた建物で、農耕、牧畜、山林整備など、自給自足の修道院生活に必要な物は殆どここで作られた。ここは天井が高く13.5mもあり、隣の部屋は更に高く作られている。作業室でも柱には装飾がしてある。
壁に沿って流れる川を利用して、大きな水車を設け、動力源としてふいご、溶鉱炉を駆使して水準の高い溶接技術を誇っていた。
こちらの部屋は今は展示室になっていて、水力を利用していた様子が分かるように模型などが置かれている。他にも復元された道具が置かれている。
ここで作業していたのは、修道士もいたが、外から雇った人たちもいた。
ここにいた修道士は、男性だけで、女性用のそれは別の所にあった。日本でも、トラピストとトラピスティヌスが函館にある。そういう感じだろう。
6-9 ヴェズレー(1636~1735)
ヴェズレーも美しい村に指定されているようだ。
ということでここも散策するのだが、バスを降りたとたんに自由となる。
ということで、まずは観光案内所へ行って地図を手に入れた。そんなに広い町ではなく、最大の見ものである聖マドレーヌ寺院へ行って帰ってくるだけのことだ。駐車場からそこまでほぼ一直線に参道が続いている。
でも、最終日程表にはこの教会には◎印が付いていて、これは入場観光の意味だと思うのだが、勝手に入ってきなさいということなのか、そこでの説明は無い。ちょっと不満に思うところだが、足が悪くてみんなと共同歩調が取れない人がいるので、その人に合わせていると時間が足りなくなってしまう可能性もあるので、我が家は良いことにして先を急いだ。何しろ1時間しかないのだから。言ってしまえば、添乗員さんも言っているように、行程管理の添乗員の責任と言うよりは、行程作成側の責任と言うことになろうか。
6-9-1 聖マドレーヌ寺院
ヴェズレーの修道院 は、858年(または859年)、先ず丘の麓のノートルダム教会堂の建つ現在のサン・ペール村 に建立されたベネディクト修道会の女子修道院(尼僧院)がその前身と理解されている。
その後873年、女子修道院が北の海から侵攻して来たデンマーク系ノルマン人(ヴァイキング)により破壊されてしまう。時を置かずして、女子修道院ではなく、カロリング朝様式のベネディクト修道会の男子修道院を建立したとされる。
その際に、修道士の一人がマグダラのマリア(サント=マドレーヌ)の聖遺物を持ち帰るためにプロヴァンス地方のサン=マクシマンに派遣された。
878年には、ローマ教皇ヨハネス8世によって、正式にヴェズレー修道院が認可された。その後、マグダラのマリアの聖遺物を公開し、それが様々な奇跡を起こしたとされる。これによって、巡礼者が押し寄せ、ひいてはサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路に組み込まれることになった。最盛期のヴェズレー修道院には常時500人もの修道士が活動していたと言われる
1096年から1104年に内陣も翼廊も新築した。1120年に大火災に見舞われたあと、身廊も建て直された(1138年に完成)。豊かな財政力を背景にロマネスク様式を採用した増改築を行い、参拝者が必ず目を留める大聖堂の入口、あるいは内部の装飾に力の限りを尽くすのである。今日見ることのできる大聖堂の基本構造は12世紀の増改築の時期に遡る。
が、1279年にヴェズレーへ持ち去られたはずの聖遺物と称するものがサン=マクシマンで発見されたことで、凋落の一途をたどった。
その後、1790年にはフランス革命の中で、革命政府からの「修道院解散令」を受け、ヴェズレーの修道院も破壊と崩壊の運命を辿り、大聖堂は教区の教会となる。建材調達のための石切り場と化し、自慢のティンパヌムも酷い有様だった。1819年にはサン=ミシェル塔に落雷があった。
そして1840年、ようやくフランス政府の予算投入で荒廃した修道院の大規模な修復が始まり、1876年に完成し、1912年に再び巡礼の拠点となった。
正面階段近くの広場の路面には、遠く1700kmの彼方にあるスペイン西北部、「聖地サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼」の出発点を示す、青銅製の帆立貝の飾りプレート(道標)が埋め込まれている。この飾りプレートは巡礼ルートとなった村のメイン通りにも点々と残されている。
6-9-1-1 タンパン(入口部分)
タンパンとは ギリシア建築に由来し、切妻の三角破風の部分のテュンパヌムという名称が フランス語になったもので、ロマネスクでは 扉口上の 半円アーチで囲まれた部分をいう。
聖マドレーヌ大聖堂の正面中央入口の上部のタンパン彫刻「最後の審判」は、19世紀に行われた大修復作業(1840年~1859年)で作られたもの。やはり左が天国、右が地獄となっており、その表情には明らかに違いがある。秤を持っているのは、大天使ミカエルなのだろうが、ここでは扱いが小さい。その秤に乗せられている人の表情もリアルで面白い。
そこからなかに入るともう一つのタンパンがある。
洗礼者ヨハネが立つ中央柱の上に、キリストを中心にした「聖霊降臨」の構図が描かれ、神の祝福を受ける さまざまな生き物が彫刻されている。ロマネスク彫刻の最高傑作の一つと言われる。周りの生き物の中に、蟹座や牡牛座を表す物もあるというので、探して何とかこれと思う物を見つけた。
中世の頃には、洗礼を受けていない人の立ち入りはこの玄関間まで、「聖霊降臨」の図像を眺めることはできたが、この奥の身廊への立ち入りは洗礼を受けた信徒のみが許されたとされている。
6-9-1-2 中に入る
玄関間の扉口は3か所の構成である。タンパン彫刻「聖霊降臨」を仰ぎ見る大型の堂々たる中央扉口は大聖堂の身廊へ、そして入口上部に小規模なタンパン彫刻が施されたやはり12世紀前半の左右の扉口からは各々南側廊と北側廊へと続く。
中は思ったよりも明るい。それは側廊から直接光が差し込むのと共に、内陣が大きく光を採り入れているからだ。ここの部分はゴシック様式で造られている。
身廊の天井は、横断の模様があり、メスキータを彷彿とさせる。
また、他の教会と違って目に付くのは、南北の側廊には15本の木の十字架が配されていること。平和十字軍のヴェズレー巡礼が1946年のマグダラのマリアの祝日である7月22日に赦しと平和への祈りを込め14本の木の十字架を背負いヴェズレーに結集したときに、近くの野営部隊で捕虜となっていたドイツ兵数人が行列への参加を願い出て15番目の十字架が急遽実現したそうだ。それは、北側廊に祀られていた。十字架の前に「1946年平和十字軍 ドイツ人捕虜の十字架」と題した説明書があるというのでそれを頼りに探したのだが、誰に聞いてもこれがなかなか分からなかった。それでも何とか、たどり着くことが出来た。
それから、柱や柱頭など、目に付いたものを写真に撮ってそこを後にした。
6-12 ナイトツアー(2115~2205)
ディジョンは上の写真のディジョンの看板を見てもわかるように、観光名所の多いところだ。だがこの町の観光はない。それはさすがにどうかと言うことで、特別ナイトツアーということで添乗員さんが計画してくれた。
夜の町を楽しみましょう、という程度のナイトツアーだ。
とりあえず、大聖堂を目指すことにした。
大聖堂はほのかに灯りがあって、何となく分かるが、もう少し明るくライトアップすればいいのに、と思った。
それでも、柔らかい光で、いい雰囲気が出ているのも確かだ。例のフクロウのところで、皆大喜びで写真を撮っていた。
結局、朝歩き回って様子が分かっているnoriが道案内役を務めることになった。というか、そう仕立てられた感じだった。
旧ブルゴーニュ公宮殿は、さすがに綺麗にライトアップされていた。広場の噴水も色分けされていた。
そこでしばらく過ごしてから、ホテルへ戻ってきた。こうして長い一日も終わりを告げる時間が近づいた。
6-13 部屋にて
就寝(2330)
部屋に戻ってから、寝る準備、荷物の整理と共に、帰国便のJAL自動チェックイン手続きをした。来るときもそうだったが、空きが少なくて希望の所がなかなか取れない。今回も見た時点では、通路側の2人席は1カ所しかなかった。その最後の一ヶ所をゲット。あぶなかった。