8月3日(金) バクー  ゴブスタン(アゼルバイジャン)

モスクワ空港離陸(0010)−SU145:3時間15分−食事(0116)−ここよりアゼルバイジャン時間モスクワとの時差+1時間−着陸(0351)−バス発(0445)-ホテル着(0519)・・・ホテルにて休憩
ホテル発(1157)−昼食(1204〜1342)−ゴブスタン(1443〜1600)−カスピ海(1638〜1648)−ホテル着(1800)−夕食(1900〜)
                                            〈バクー泊〉

2−1 バクー
 今回はビジネスを利用したので、機内での体の具合はほとんど不自由を感じなかった。しかしこうした贅沢はそう何度もできるものではない。熟睡してバクーに着いたのは、午前4時に近かった。日本時間にするととっくに起きている時間だ。それから入国審査。割合に簡単に済んだ。そこで、たばこを吸った人がいて、罰金として45ドルも取られた。なかなか厳しい。荷物は無事に到着して1時間後にはバスに乗って空港を出発し、ホテルへ向かった。
 
2−2 ホテル
 我々を迎えに来てくれたバスは正直なところそうきれいなものではなかった。それでも人数が人数だけに、一人で2座席は占められる。朝まだきの道を走り、ホテルへは30分ほどで着いた。ホテルはグランドホテルヨーロッパ。その102号室だ。さすがに一流で、必要な物は全てそろっていた。水も1.5リットルが付いていた。が、とにかくまずは休むことにした。
 
2−3 朝
 幾度も幾度も目を覚ました。結局ごろごろとしていて、8時近くになった。今日の出発は12時なので、順さんはどうするかと思いながら一応意志を確かめようと、「朝食はどうする?」と聞いたら、「食べましょう」という返事だった。
 ホテル代に朝食は付いており7時から可能だったが、昨日は飛行機で、それもCクラスだったのでブロイラー状態だった。もともと貧乏だから、出てきたものを残すのは抵抗感がある。だから、かなりの確立で食べないで寝ているという答えを則は考えていたので、それは予期せぬ答えであった。
 ともかく階下に行き、朝食を食べる。ビュッフェスタイルで、自分たちの意思を可能な限り抑制して、最低限の食事にするように努めた。出発は12時だったので、その後のんびりと日記などを書きながら過ごした。

2−4 昼食
 バスは12時に出発して、最初に15分くらい走ってパンジャラというレストランの前で止まった。今回アゼルバイジャンでの夕食は2回あるが、両方ともホテルでとのことだったので、今回も昼食が一番のご馳走のように思えた。ホテルのレストランは、外人相手であるからけっこう手加減した料理が出てくる。地元のほうが、うまいに決まっている。しかしながら、のっけから出されたサラダなるものにはいささか驚いた。
 実はこのとき日本を通過していた台風5号の名称(ニックネーム)は、日本の順番で「USAGI」だった。だからというわけでもないだろうが、ウサギが好きそうなまっ赤なトマトやキュウリ、にんじんの葉のような葉菜類が切らずにそのままの形でドカッと盛り付けられて出されてきた。それからナスを煮詰めたようなサラダに、ロシアサラダと呼ばれている小さく刻んだ野菜をマヨネーズ和えしたものが出された。パンは黒いパンとナンのようなものの二種類出された。
 その後スープが出た。飛行機で飲んだのと同じような感じで、おそらくはボルシチかそれをまねした様なスープだった。メインはサージという地元の料理だそうだ。大きなやや中華なべ風の鉄板にいろいろな野菜(なす・ジャガイモ・りんご・マッシュルーム・トマトなど)と鶏肉と思しき肉などとパイ生地を何枚か畳んだというような感じのものをあげたものなどが炒め物のようにされた状態で提供され、それをボーイが小分けにしてくれた。小分けにしてもなお残っている状態で、鉄板の下には炭が入っており、保温をしていた。この暑い国で、さらに保温までして供されるこの食べ物が名物というのは面白いと思った。
 デザートはアイスクリームと紅茶。アイスクリームはかなり甘かったが、やや溶けかかっており、やや苦手な則には食べやすかった。ビールは3ドル也。
 トイレは個室で広かったので、順さんが記念に写真を撮ってきた。 最後の写真はレストランの外。窓というような意味で、このオーナーは日本食レストランも最近開いていて、その名は「MADO(窓)」なのだそうだ。

2−5 産油国アゼルバイジャン
 昼食後、カスピ海に沿うようにしていわゆるシルクロードを南下してゴブスタンへ向かう。バクー中心部ではやや薄黒い姿を見せているカスピ海も次第にやや黄緑がかった水色に変化してくる。カスピ海は30あまりの河川が流れ込むが、流れ出る川はない。大きさは37万平方キロメートルというから、日本の国土とほぼ同じ面積を占める世界最大の湖。しかしながら、周辺国の水源利用によって、年々その姿を縮小しつつあり、また汚染も進み、周辺国の問題、あるいは紛争の元となっている。
 ところで、アゼルバイジャンは旧ソ連、いや帝政ロシア時代からの産油国であり、バクー近郊のあちらこちらで古い油井を見ることができる。現地のガイドは、「連合国側が第二次世界大戦で勝利しえたのは、バクーの原油があったから」だと表現した。それほどに往時は世界の産油量のかなりの割合を占めていた。そしてなお、旧ソ連邦最大の産油国である。この国に連なるチェチェンをロシアが手放そうとしない理由はここにあるといっても過言ではない。
 さて道路沿いに露天掘りというのであろうか、古い映画に出てくるような、扇形のものが付いたポンプが人家の中に点在する。最もこうした形式のものは今日では枯渇が進み、その中心はカスピ海の中に移動した。カスピ海の中には、数多くのプラットフォームと呼ばれる油井と、その多くにそれに連なる油送管が海岸に伸びている。伸びていないものは古いもので、輸送船が横付けされるという。林立が目立つが、それでも今日では、枯渇が目立つためだろうか、深いものでは7000メートルまでも掘り下げているという。なお油質としては、カスピ海海面下より採掘しているものよりも地上からとれるものの方が良質だとのことだった。
 途中塩湖を通り過ぎた。広い湖がほぼ真っ白に塩で覆われていた。塩湖では製塩も行われているが、もっぱら工業用らしい。

2−6 世界遺産:コブスタン (1443〜1600)
 コブスタンは2007年6月に開かれた第31回の世界遺産会議で、日本の石見銀山やシドニーのオペラハウスなどとともに新しく世界遺産に登録された遺跡で、今日最大の観光箇所。実は則は、ひそかにこの旅行を決めた際に期待していたのだ。コブスタンが世界遺産登録されることを。それは、昨年のビストゥーンに味を占めたと言っても良い。
 イランのビストゥーンは我々の訪問直前に世界遺産に登録された。だから、2002年2004年と登録に待ったがかかったコブスタンがそろそろ登録されるはずだとの認識に立っていた。実際それだけの価値はある。

2−6−1 入口
 さてカスピ海沿岸を走るシルクロードを右に折れてしばらく走ると、突然前方に岩山が現れる。岩山と書いたがウルルのようではなく、岩山と言うよりは、大きな岩の集合体のような山と言うべきだろうか。その岩山に添うようにしてバスは少しずつ高度を上げ、小さな建物の近くで停車した。遺跡コブスタンの入り口である。
 未だ世界遺産に登録して間もないと言うこともあるだろう。日本の石見銀山のような騒ぎは微塵もなく、いたって静かな佇まいで我々を迎えてくれた。きょろきょろ見渡したが、まあ、当然といえば当然だろう世界遺産のせの字も世界遺産マークの一つもなかった。

2−6−2 博物館 (1445〜1510)
 さて最初に小屋といって良いほどの小さな博物館に入る。というよりも、遺跡の事務所にちょこっと併設されているだけのことにすぎない。原始人の生活や狩猟の様子などのジオラマなどがあるが、掲げられた写真もモノクロで、薄暗い部屋だった。
 ここで現地ガイド氏の説明を受ける。コブスタンはおよそ一万年前頃から人類が住み始めていたことが知られている。

2−6−3 洞窟の線刻画
 岩が滑りやすこと、蛇がいることなどの注意を受けてからいよいよ実際に洞窟と線刻画を見に行くことになった。

 上の岩に行くための階段を上っていくと早速牛の線刻画が見えた。といっても説明を聞いてそのつもりになって見ないと分からない程度の彫りだが。それからもマジシャンであるとか最も古いと思われる舟と親子の画とか、もっとも有名な踊り子達の画などを見ながら歩いた。
更に行くと、住居としていた洞窟があった。古い物では、紀元前8000年のものと考えられる母の洞窟と名付けられた物があった。そこには小さな穴が開いていた。そこに熱く熱した石を入れて肉などを料理して食べたのだそうだ。石焼きというのではなく石鍋のような物か。
 岩の上には台所と名付けられた所がある。穴がいくつか開けられているそこで料理をしたのかと思ったら、動物の血のため池だったのだという。それはやがて水のため池となった。
幸せの穴というのも見た。若い男女のうちの女性が無事に穴を通ることができると幸せな結婚ができるのだという。でも、誰も試しては見なかった。ちょっと小さすぎた。 
博物館へ戻ってパンフレットを買ってバスに乗った。

2−6−4 ローマ皇帝の遠征
 ローマ皇帝ドミツァノス(?)が1世紀にここまで来たということを書き残している岩があるというので帰りにちょっと立ち寄った。イミテーションが博物館にあったものだ。
  囲いでしっかりと守られおり鍵がかかっている。スリムな人は囲いの隙間から入ったが、われわれも、運転手さんの機転で(鍵を無理矢理あけて)中に入れることができた。ずっと近付いて目をこらしてようやく見える程度の文字であった。

2−7 テレビ取材
 遠征碑から帰路についたところで、バスが急に止まった。何事かと思ったら、現地テレビ局が取材を申し込んできたというのだ。あわててテレビカメラが設置され、何人かインタビューに答えてくれと言われて降りた。何故かその中に則がいた。物見高い性格だ。
 アゼルバイジャンの印象などを聞いていたようだ。残念ながら放送日には我々はこの国にはいないので見ることはできない。

2−8 カスピ海
 ちょっと時間を作ってカスピ海に行ってみましょうと言うことで、比較的海岸に近い道路端にバスは止まった。
 海と行っても実際は内湖で淡水かと思ってなめてみたが、少ししょっぱかったような気がする。
 遠浅という海では泳いでいる人もいて気持ちよさそうだった。

2−9 ホテル
 お天気が良ければカスピ海クルーズに行きましょう、ということだったが、風はなかったのだが雲なのかスモッグなのか見通しが悪い天候なので明日またチャレンジしてみましょうということでホテルへ直行。
 ホテルも2泊目。連泊はいい。今日も1.5リットルの水があった。外が暑いので、これは助かった。
 夕食はワイン21ドル也。