8月11日(土) クタイシ(グルジア)

ゲストハウス発(0930)−バグラティ大聖堂(0940〜1015)−ゲラティ修道院(1110〜1220)−昼食(1245〜1335)−歴史民族博物館(1440〜1603)−バザール(1605〜1645)−ゲストハウス着(1700)−夕食(1900〜)
                                            〈クタイシ泊〉

10−1 朝
 朝は普通に起きたが、順は食欲が無くて朝食をパス。食事会場にも行かなかった。余計にみんなを心配させることになるかも知れないが、無理は禁物と出発まで休んでいた。
 今日は結構見どころがある所へ行くのでイランの時のように休みたくはないのだ。
 写真はこの日人気だったホットケーキ。人気だったからか?翌日の朝もまた出た。

10−2 出発
 今日は市内観光ということでコース的には楽だ。出発も9時30分と遅い。
 大型バスは今日も頑張ってハンドルを切り返しながら出発した。
 
10−3 バグラティ大聖堂 (0940〜1015)
 聖堂の名は建設者であるバグラット3世にちなんでいる。1003年に建設され、1691年にオスマントルコによって破壊された。1951年から修復を始め、2001年完了。とはいうものの殆どが崩れたままで、入口の所を再建した程度のようだ。当時のままに再建するには、技術的な問題があるというようなことも言っていた。
 今も立派に教会として活動し、ここの人たちにとっては大事な教会だという。
 外から見るとふつうの教会のように見える。形もスマートで何ら遜色はない。では入りましょうと言うことで入口へ向かう。ここにはレリーフが部分的に残されていて、見事だった。これは当時のままなのだそうで、再建されたときに上手にはめ込んで修復がなされている。いろいろと面白いのがあるでしょ、と言われたが、確かにはっきりと形が分かるまま残されていた。
 中にはいるときに、半ズボンの男性二人が入ることを拒否された。短パンではなく膝が隠れる程度の長さなのだが、それでも駄目だという。ズボンを下ろせば、等と冗談も言ったが、結局は入れなかった。
 中は入ってビックリ。天井がない。周りの壁だけがかろうじて残っている状態だ。従って祭壇を遮るしきりの壁もない。つまり普段なら見ることができない祭壇が人の目にさらされている。でも、ロープできちんとしきっていてその中には入ってはいけないと言うことになっていた。ちょっとでも近付くと管理しているお兄ちゃんにすぐに注意される。この兄ちゃんたち、実は半ズボン。特別に司祭様から許可をもらっているからいいのだと言うが、これって変。袖の下をつかませれば良かったのかね、などの話も出た。
 その兄ちゃんたち実は土産物屋もやっている。兼ねているのかも知れない。そこで則はめざとくDVDを見つけて購入。18ラリだが、お釣りがないというので、2ラリのキリストとマリアの描かれたペンダントも購入。

10−4 ゲラティ修道院(1110〜1220)
 12〜13世紀、クタイシ近郊の丘の上にたてられたゲラティ修道院は、修道院の主聖堂、聖ゲオルギウス聖堂、聖ニコラウス聖堂、修道院付属の王立学校、鐘楼などからなり、当時のグルジアの学問の一大中心地であった。
 バスはまず、全体が見られるところでストップしてから駐車場へ向かった。その周辺には数軒のおみやげ屋さんがあって、ここが一大観光地であることが分かる。
 中に入るには、大門はあいていないので、木戸のような小さな入口から。

10−4−1 主聖堂
 まず目に飛び込んできたのは大聖堂。なかなかきれいな形をしている。整っているといった方があっているか。中では丁度ミサが行われていた。日常のミサではなく、ひとつのイコンから液が出る奇跡が起こったのでそのための祈りをしているのだという。ということで中は撮影禁止ということだった。これは非常に残念だった(でも則はミサの後しっかり撮影していた)。ここの正面のマリアのモザイクはとても有名なものだからだ。しかし、代わりに普段なら絶対にあいていない祭壇の扉が開いていて、奇跡のイコンを見ることができた。

10−4−2  聖ニコラウス聖堂
 ここは特に説明もなく通り過ぎた。小さめの教会だ。

10−4−3 学問所
  右の写真。入口には本を開いたようなレリーフがあって、学問所であることを示している。が、中にはいるとここも天井がなく壁だけの建物であった。オスマントルコに破壊されて以後食堂として使われていたのだそうだ(16世紀)が、その時には天井はあったろうに。

10−4−4 ダビデ四世の墓
 バグラティ大聖堂はダビデ四世の存命中には完成を見なかった。彼は1125年に没。建築途中だったこのここに埋葬されることを望んでいたという彼の墓は、彼の息子によって実現され、足下にある。つまりは床と同じ高さになっているので、踏んでしまうことになる。
 彼は今でも敬愛されているらしく、花が供えてあった。また、我々が写真を撮っているときに花を持って訪れた家族もいた。そんなところを単なる観光の対象としているのにちょっと気が引けた。
 当時周りは装飾されていたようでかすかにその名残が残されている。鉄製の門はエジプトから略奪してきた当時のものだと言う。

10−4−5 聖水
 鐘楼の下に聖水があるというのでそれを飲みにいった。冷たくて気持ちがよいのか地元の人も並んでいた。勿論則は飲みましたよ。

10−4−6 聖ゲオルギウス聖堂
 主聖堂がゆっくり見られない代わりにこちらを見ましょう、と行ってみたが、あいにくと鍵がかかっていて中に入ることができなかった。いつもは開いているというのだが、ミサのせいかもしれない。
 主聖堂と同じような造り同じような装飾になっているのだそうだ。これまた残念。
 そこでしばらく自由時間になった。するとあきらめきれない則は、小さい方のカメラを無理矢理隙間に差し込んで写真を撮った。

10−4−7 結婚式
 丁度そこへ結婚式の行列が来た。さすがにこのときには門は開けられていた。
 どうも結婚式というものは花嫁はきれいだが花婿はぱっとしない。このペアもそんな感じだった。女性は友達もきれいだった。

10−4−8 再び主聖堂(事件だぁ!〜神の怒りじゃぁ!第一弾!)
 まだ集合まで時間があったので、何とか主聖堂内部の写真を撮れないかとまた戻ってみた。外側ならいいだろうと写していると、我がグループの人が中で写真を撮っているのを見つけ、聞いてみるとミサが終わったからいいのだという。ラッキー。
 そこで遠慮なく撮らせてもらった。正面の青色のマリアとミカエル・ガブリエルはモザイクで、335の破片と1500もの色を使っているのだそうだ。このマリア、慈悲にあふれたいい表情をしている。
 他にも周りのフレスコ画などを撮っていると先ほどのカップルも入ってきた。どうやらここで式を挙げるのかな、と思っていると突然大音響。お祝いの爆竹でもならしたのかと思ったら、何と、天井からフレスコの破片が落ちてきたのだ。丁度我々のグループの人たちの真ん中へ。幸いなことに誰にも当たらす事なきを得たが、毛のない人や花嫁に当たったら大変な事態にもなったろう。

10−5 昼食 (1245〜1335)
 メニュー的にはあまり変わりはない。野菜サラダ、スープ、フライドポテト、ハチャプリ(チーズだった)、肉とマッシュルームの煮込み、マッシュルームの鉄板焼きなど。
 則も順も相変わらずの体調なので、沢山は食べられない。ビールも自粛。順は焼いたマッシュルームを3つほど食べた。一方食い意地だけは残っている則は一応全種類少しずつ食べた。

10−6 郵便局 (1410〜1440)
 切手が欲しいというので郵便局へ行った。簡単に手にはいるのかと思っていたら、これがそうではなかった。
 土曜日のせいなのか中は真っ暗といってもいいほど暗い。カウンターに一人だけ座っているので、まずはそこへ行く。切手が欲しい旨を伝えると、奥の切手係に電話をする。つまり切手はカウンターには無いということだ。が、奥には誰もいなかったらしく自分で行くことになった。それに添乗員さんやらみんなもついていった。
 その間、カウンターの中に入って写真を撮ったり自由気ままにしていたが、なかなか戻ってこないので我々も奥の部屋に行った。すると希望通りの切手がないというので大騒ぎをしていた。ようやく手に入れた切手は、記念切手。日本に出すためには9枚も張らなければならないという少額の切手ばかり。
 張るときにも大騒ぎして貼り付けたが、無事に着くのかどうか大いに不安。

10−6ー1 郵便局 (後日談)
 無事に届くかどうか不安だった絵葉書も今回旅行した三カ国の中ではグルジアからのものが一番早く届いた。というか、2007年9月9日現在グルジアからしか届いていない。二日に分かれてはいたが、グルジアから出した12通の絵葉書はすべて届いた。従ってどんな形で到着したかを示すことができる。左は則が順に出した絵葉書。日本への料金は3ラリ(3LARI=300補助通貨TETRI)だが郵便局には前述したように少額の10TETRIと80TETRIの切手しかなかったので、80*3+10*6=300TETRI=3LARIという9枚の構成となる。3LARIは邦貨では約200円程度。ちなみにこの金額は他の二カ国に比べてべらぼうに高い。確か他はこの半分以下だった。高いだけあって、日本に一番早くかつ正確に届いたということなのだろうか。
 さてとにかく金額面だけが明示されていればよいということで、上の写真のように張り、余った切手の絵柄部分は裏面に折り返して張った。これでよいのだという。日本に無事に到着した絵葉書の裏面に折り返して張った部分を剥がして拡大したのが右の写真。見てわかるように切手の図柄自体も結構きれいなものだけに、惜しい気がする。とにもかくにも大きな金額の切手もほしいところだ。

10−7 歴史民族博物館 (1440〜1603)
 1912年に開設されたという博物館には、この地方の生活用品、衣装、イコンなどが展示されていた。石器時代から鉄器を作る辺りの用具を見ていると日本でも見かけるようなものばかり。腕輪や石臼なども、結局人間が考えつくものは始めは皆同じということか。人型や半身半獣の姿なども世界で共通している。
 この頃則はお疲れのようで、椅子に腰掛けてうつらうつら。
 最後に特別室のイコンを見た。5世紀のものが最古だそうだが、撮影は禁止。
 下の写真はタマリ女王の絵。実際は1メートル×2.5メートルくらいの大きなもの。

10−8 バザール (1605〜1645)
 則の大好きなバザール。何とかお土産をゲットできないかと真剣に探し歩く。まずは1階を一通り見て歩く。果物や野菜、肉など日常の食品が並べられていた。則はヘーゼルナッツを試食していた。順は肉屋のおじさんに写真を撮れといわれて写してあげた。それからヘーゼルナッツの入った長いお菓子を4本買った。計5ラリ。
 ついで2階へ行った。ここにはチーズの山があった。チーズ屋のおばさんがチーズを袋に入れているので写すとそのチーズをくれた。どうやらやはり写して欲しかったようだ。そこでもう一度きちんと写して見せてやると、もっと大きな袋に入れたチーズをくれた。できたてのようなのだが、正直困ったなあと思っていたら、添乗員さんがゲストハウスのお土産にすれば、と言ってくれたので帰ってからそうした。
 則はこのチーズを買いたいと言ったのだが、順は持ち帰っても保存に困ると言って承知しなかったら、薫製のチーズがあった。いい臭いもしていたので、これならよしとゴーサインを出した。

10−9 ゲストハウス
 市内観光だけだったのでもどるのが早めで、丁度我々の部屋を片付けている途中だった。メスティアのゲストハウスでは全くそんなことはなく、使ったタオルもそのまま、ゴミ箱もいっぱいのままだったのに、そして、ゲストハウスはそんなもんですよと聞いていたのでそのつもりだったのに、ここではタオルまでも代えてくれていた。
 これから部屋数も増やし、それぞれにトイレバスを付けるつもりだと言っていたから、ホテル並みを目指しているのかもしれない。
 夕食時には、クタイシ最後の夜ということで買い込んでおいたワインを飲むことにした。実は最初の夜にも飲んだので、ここでは2本目になる。あとの1本はメスティアで飲んでいるので、これで在庫一掃。最後の1本になる。飲もうという気になるほどに体調は回復してきている。
 ただ、この日は停電を起こすほど風がものすごく強くて、2階のテラスではなく急遽1階での夕食となった。お嫁さんがいないので、おじいちゃんおばあちゃんがよく働く。特にテーブルの設定などではおじいちゃんが大活躍だった。

10−10 夜
 強い風は一晩中収まらなかった。途中また停電があった。それでも風の向きが部屋と平行に吹いているので、全く部屋の中に風は入らず穏やかだった。気温は下がっていて、折角の扇風機も止めて寝た。