8月9日(木) メスティア  ウシュグリ村 (グルジア)

ゲストハウス発(0800)−ウシュバ山撮影(0810〜0815)−ウシュバ山撮影(0840〜0855)−愛の塔(0938〜0945)−カーラ村(1015〜1032)−ウシュグリ村散策(1112〜1215)−昼食(1220〜1325)−ラマリア教会(1325〜1335)−ウシュグリ村散策(1335〜1430)−鉱水(1702〜1721)−民家(1735〜1825)−ゲストハウス着(1830)−夕食(0930〜)
                                    〈メスティア泊〉(分宿)(手荷物)

8−1 朝
 明るくなると起きるという何とも健康的な生活をしている。涼しくて気持ちのいい朝だ。これが一日続いてくれると良いのだけれど、たぶん今日も暑くなるのだろう。
 ところで、順は昨日の気持ちの悪さが残っている。一方則の方もお腹は回復していない。二人そろって具合が悪くなるのは初めてのことだ。
 朝食は卵焼きとパン。二人とも卵焼きとパンを少々食べた。この頃になると他にも体の変調を訴える人が何人か出始めた。
 
8−2 出発 (0800)
 それでも全員そろっての出発となった。出発は、7時30分の予定がジープがそろわないために30分ほど遅れた。添乗員さんはこうした時間が一番嫌だと言っていた。日本人の秒刻みの生活の方がひょっとしたら異常なのかもしれない。
 今日は我が家は二人のみ。荷物をゆったりと車の中に開いておけるのでラッキーだ。
 写真は待っている間暇だったので、昨日の運転手さんと記念写真。
 
8−2−1 ウシュバ山 (0810〜0815)
 走ってすぐに撮影タイム。ウシュバ山がよく見えるというのでストップ。昨日とは形のちがう山が見えた。別名「馬の鞍」というそうだが、二つの峰からそう付けられたらしい。確かにはっきりとその形が見えた。間に白く残る残雪も見られた。
 実はこの頃から順は気分が悪くなっていたのだ。が、どこがどうというわけではなく、昨日の疲れかなと軽く見ていた。立っているのが結構つらかったのだ。

8−2−2 ムンラヒ村
 遠目にたくさんの塔が見えてきた。目的のウシュバ村かと思ったらそうではなく別の村と運転手が教えてくれた。
 こんな山奥に、それもしっかりした道もないところによくぞ造ったものだと感心する。 道は全く舗装されていない砂利道。所々に穴も開いているしでこぼこだ。左側は無理に山を削ったようになっていて何時石が転がり落ちてきてもおかしくないような崖、右はすぐ下を雪解けの急流が流れている川。スリル満点だ。

8−2−3 ウシュバ山2(0840〜0855)
 またまたウシュバ山を撮影するためにストップ。確かにここからは塔の村とウシュバ山の両方が見える。なかなか素晴らしい風景だ。
  そこでみんなで写真を取り合う。運転手さんたちにも入ってもらったりしながら大いに盛り上がった。空も青空、言うことはない。写真は一番の人気者だった左の運転手さんと、右は今日の運転手さん。写真の関係で村の姿は見えないが、ウシュバは分かるだろう。

8−2−4 イパリ村 (0920〜0930)
 ここも塔のある村だ。要するにこの一帯にはどこにでも塔があるということなのだ。これは実際にここに来てみないと分からないことだった。
 ここでは、村を上から俯瞰するように見たわけだが、丁度次に行く「愛の塔」の入口のような村で、望遠で見ると子どもたちがターザンロープのような遊びを家の軒先から吊り下げて遊んでいたのが印象的だった。

8−2−5 愛の塔 (0938〜0945)
 またストップだ。今日は目的地に着くまでにこうしてちょこちょこストップしている。今度は何かと思ったら、川縁にあるたった一つの塔の所だ。愛の塔(ラブタワー)というのだという。愛し合う男女にまつわる話が伝えられている。女の父親が結婚を許す条件として1日で塔を築いて見せよ、と言ったのに対して見事青年がこの塔を造ったのだという。そこで付いた名が愛の塔。よくある話だ。

8−2−6 カラ村 (1015〜1032)
 3つの家族のみが生活している村で、この3家族とも親類だとのこと。若い人は都会に出てしまって老人しか住んでいないのだそうだ。いずこも同じだなあ。聖バルバラを祀ったツミンダ・バルバラ教会があるが、これは個人の持ち物だそうだ。折良くおばあさんがいて、鍵を開けて中を見せてくれた。10世紀にできたバジリカタイプの教会で、中にはフレスコ画とイコンが残されていた。手入れもしていないだろうに、フレスコ画は色遣いが分かるほどの保存状態だった。イコンの一番古いのは4世紀のものだそうだ。
 そこから見える山頂にも教会があった。トリ・イケ教会と言い、2週間前には祭が行われたそうだ。どのような祭が行われたのか分からないが、かつては生け贄を捧げたりしていたのだそうだ。添乗員さんのメモには12世紀から14世紀の巡礼教会と記されていた。

8−3 ウシュグリ村 (1112〜1450)
 目的地のウシュグリ村が見えた。気持ちが高まったときにまずは全体が見えるところで写真タイム。運転手さんもこっちがいい、とかポイントを教えてくれたりしていろいろな写真が撮れた。
 ここが今日の最終目的地だ。そしてこの場所こそが、則が一番来たかった、「旅程」にだわった所だ。実際にはアジアに属するとされることが多いが、別名ヨーロッパ最後の秘境ともいわれている。

8−3−1 シハラ山 (5,068m)
少し行くと今度はシハラ山の撮影ポイント。ちょうど駐車場の所から川向こうに見える。グルジアの最高峰だ。最初雲にまたまた隠れていた山頂だったが、次第に雲が移動し幸いにして頂上がよく見えるチャンスに恵まれた。丁度ウシュグリ村も入ってなかなかいい絵になる。

8−3−2 博物館 (1145〜1215)
  そこから歩いて近くの塔の一つへ行く。ここも鍵がかかっていて管理人が来てから入れるようになっている。鍵は幾重にもなっていてかなり厳重だ。中は博物館になっていて、ウシュグリ村で使った武具や飾り物、イコンなどが展示されている。イコンが三つあって写真は1枚につき10ラリだというのでみんな止めた。だんだん人口が少なくなって、教会を維持できなくなったりしたものをここ一ヶ所に集めているらしい。
  中は真っ暗で、則の懐中電灯が大活躍だった。狭い階段を上っていく。3階まであるのだが、順は2階でダウン。もう動けなくなって窓枠に座って皆の帰りを待つ。ここは暗い分涼しくてそれが良かったようだ。少しは動けるようになって順は自力で外へ出た。2階と3階は博物館になっていて、民具などが展示されていた。最初の写真は3階の写真。次のは3階の窓から外を撮った写真。

8−3−3 昼食 (1220〜1325)
 再びジープに乗って聖マリア教会の庭で昼食。手頃な大きさのランチボックスと添乗員さんの作ってくれたおにぎりが配られたが、順は全く手を付けなかった。則もおにぎりを二つだけ。その分、水はよく飲んだ。さいごにデザートとしてスイカが配られたが、順はそれは美味しいと言って二つも平らげた。則は食べず。
 その後時間があったので、添乗員さんが広げてくれたシートの上で横になった。これも良かった。ずいぶんと体が楽になった。一種の熱中症ではないかと判断した。

8−3−4 聖マリア教会 (1325〜1340)
 丁度運良くここを管理しているというおばあさんが孫娘と来て鍵を開けてくれた。前回は入れなかったから運がいいと言っていたが、一人3ラリ取られるのだから商売として成立させているのだろう。ただこの入場料も旅行会社の方で払ってくれた。写真もOK。
 ここには、イコンや12世紀のフレスコ画が残されていた。前の教会よりも保存状態はだいぶ良い。

8−3−5 村内散策
 聖マリア教会は村を見渡せる高いところにあるので、ここから駐車場まで歩いて下りていくことになった。ジープは先にそこへ行って待っている。
 歩き始めるとリンドウの花が咲いていた。やはり高いのだ。そこから村の道を歩いて行く。間近に塔が見える。石の積み方など興味深かった。
 順もどうにか駐車場までたどり着いた。が、この頃にはだいぶ回復してきていた

8−4 鉱水 (1702〜1721)

 一路メスティアを目指して出発。同じ道をたどる。
 途中、ミヘイル・ヘアギアニー(グルジアの有名な登山家)の記念碑があるところへ立ち寄り、また鉱水を汲みに行った。写真はその記念碑で、ピッケルと上の方に虎のような動物が見える。彼の動物の爪のような握力を象徴しているらしい。
 今回は岩の間から流れ出る感じで規模も小さい。前のより飲みやすいということであったが、あんまりお勧めはできないかな。

8−5 民家 (1735〜)

 民族博物館になっている民家と塔を見に行った。
 まずは民家を見せてもらった。天井は木組みだが、床や壁は石造りだった。日本でいう土間のような感じで、中央にはこれも囲炉裏と自在鍵のようなものがあった。その周りには家族が座れるような椅子があったが、一つだけ家長が座る立派な椅子もあった。
 壁際にはぐるりと家畜の餌場としての部屋があり、小さな窓から顔を出して餌を頬張るのだそうだ。牛用は大きく、羊用は小さくと工夫されていた。つまり家畜と共同生活をしていたのだ。と言っても日常的にこの部屋にいたのではなく、ここは台所ということだ。囲炉裏と思えたところはやはり火を使うところで、鉄板の上には石を乗せて焼くのだそうだ。そうして部屋を暖める役目も果たす。上の鹿の角のような所に肉をぶら下げて薫製にするという。祈りの部屋もあった。
 では日常はどこで生活をするのかというと、夏は3階、冬は2階だそうだ。夏は涼しく通気性の良い階上へ、冬は暖かくということで、動物の体温も暖房に利用して、動物の上の段に寝ていたらしい。よく考えられていることがわかった。
 ここでは19世紀まで実際に生活していたのだそうだ。

8−6 塔(〜1825)

 次に併設されている塔に上った。この頃には順の回復も順調で上まで行く気力も出てきていた。
 まずは外付けの狭い階段を2階まで行く。それからが大変だった。人一人がやっと通れるような狭く急なはしごを上って5階まで行くのだ。段の高さも一定ではないため結構怖かった。
 ようやくあがった部屋も狭い。小さな窓から外を眺めるが、特に景色がいいということもない。それもそうだ。これはそんなことのために造ったのではなく、自分たちを守るために造られたものなのだから。ここで何枚か写真を撮って下りることとなったが、それからの方が大変だった。
 上るときは上だけ見ていれば良かったのだが、下るときには下を見すぎると危ないしといって見なければ段が分からないし、恐怖体験だった。手を付きながらようやくのことで下りきった。確かにこんな状況で梯子がなかったら絶対に上れないだろうと思う。が、ここで生活するのも苦しい。
 なお前述した中国に存在する塔との差違だが、こちらではあくまでも塔は見張りや戦闘時のものであったらしい。つまりここで生活をしていたわけではなさそうだ。したがって中国の1階は家畜の住居が主ではあるが、ここでは倉庫等の役割しか果たしていないらしい。

8−7 夕食 (1930〜)
 ゲストハウスには18時30分に戻ってきた。夕食まで少し時間があるので、一番にシャワーを使わせてもらった。この辺り、メンバーに恵まれていて、みんながどうぞと言ってくれる。おかげで順はその後少し横に慣れたので有り難かった。
 夕食はまたここで。他のゲストハウスの人たちも集まって始まる。
 メニュー的には変わりはない。サラダとハチャプリ(今日は中に豆が入っていた)。あまり食欲はなく、それでもビールはしっかりと飲んだ。
 夜は昨日のこともあるので始めから窓を閉めて寝た。