8月7日(火) グダウリ ウプリスツィ ゴリ クタイシ(グルジア)

ホテル発(0800)−ウプリスツィ(1052〜1200)−昼食(1235〜1345)−ゴリの城塞(1355〜1400)−スターリン博物館(1410〜1520)−ゲストハウス着(1840)−夕食(1930)
                                            〈クタイシ泊〉

6−1 朝
 朝が早いのは我が家の定番だが、この日もその通りで、早起きした二人は外へ散歩にでもと思って玄関を出たのだが、野良犬が2頭もまつわりついてくるので、狂犬病に恐れをなして早々と部屋に戻った。このうちの1匹は昨日我らの仲間の一人を噛んでいる。さほど大きな傷ではなかったがやはり心配だ。
 それからしばらくして食堂に行ってみたが、これまた一番乗りだった。昼間は非常に暑いが、朝晩は涼しくて気持ちがよい。
 
6−2 戻り道
 昨日来た道をムツヘタまで戻り、それからゴリへ向かう。ただひたすら走るだけだ。昨日通った川の合流点を過ぎ、アナヌリ要塞を過ぎ、途中から右に曲がってようやく、ゴリに着いた。
  ゴリの街はかなり大きな街で建物も高い物が並び、初めてきちんとしたサッカー場も見かけた。が、今日始めの観光はここではなく、ここより少し先のウプリスツィになる。バスは更に先を目ざして進んだ。
 
6−3 ウプリスツィ(1052〜1200)

 ムトゥクワリ川のほとりの岩山にある、洞窟都市遺跡。紀元前1世紀頃から人が住み始め、12世紀にはアラブの侵攻で修道士が殺害されたという。更に地震で破壊されたりしたが、13世紀にモンゴルの侵攻で滅亡するまでその歴史は続いた。シルクロードの隊商の拠点にもなり、最盛期には5,000人もの人が住んでいたというが、遠目には蜂の巣のように見える。
 入口は3つあるというが、我々が入ってのは東の入口。そこには売店が2店出ていて、何と日本語のパンフレットを売っていた。3ラリもしたが、飛ぶように売れた。
 かなり足下が滑りますよ、と注意されながらその岩山を上っていく。確かに雨で濡れていたらかなり困難な登りになるだろうと思われるような、結構急な岩を上っていく。
 そうして始めに着いた所は貧乏人の家(写真上↑)、だそうだ。シンプルな洞窟だった。それでも貯蔵庫などを備え付けていた。バザールだったという道を通って次に金持ちの家(写真左←)へ行った。確かに部屋数も広く、天井には飾り付けもされていたようだ。後には劇場として使われたそうだ。
 その後もパンを作っていた所や貯水池、メーン通りなどを歩いて行った。刑務所というのもあって、罪人を立ったまま入れておくのだという縦穴があった。
 タマリ女王のホールというのもあった。タマリという女王がここに住んでいたというのではなく、12世紀頃グルジアの発展に貢献した女王の名前を勝手に付けたらしい。いつ誰が付けたのかはガイドさんも知らないことだった。女王のホールというだけのことはあって、右手にはワイナリー、左手にはベーカリーなどを備え持っていた。
 面白かったのは薬屋。薬棚があるでしょ、だから薬屋です、という説明に何となくそう思ってしまう自分がおかしかった。
 それから古代都市を見た。昔は墓だった所の上に住居を造ってしまい都市を形成した所だという。ずっと下の川沿いに作られた街を見下ろす形で見ることができる。それも丁度いい具合に開いた岩の穴から見ると面白い。
 地面に開いた大きな穴はゾロアスター教の生贄の井戸。メキシコで見たセノーテのような物か。落ちないように蓋がしてあった。
 教会は二つあって、まずは5世紀の物という岩穴の教会を見た。祭壇があることから教会と言えるのだそうだ。もう一つは10世紀の物で、こちらはきちんと教会の形をして建てられている。中も今風に作られており、きちんと管理されている(三番目の写真:貴族の家の上の方に見える教会)。
 この後自由時間になったので、もう一度あちこちを見ながら写真を撮って廻った。
 思ったよりもインパクトのある遺跡だった。これもいずれ世界遺産になるのではないかと予測させるに十分値する。

6−4 昼食
 それからまたひたすら元へもどる。昼食はゴリの町まで戻って摂ることになっていたからだ。
 城塞のすぐ近くにあるレストランの庭先での昼食となった。
 サラダがたっぷりと出てきたのはこれまでと同じ。次のパンが今までとちがっていた。ちょうどブーメランのような形をしていて、しかも今焼きたてなのでとても美味しかった。ただちょっと大きすぎた。それからハチャプリ。すでにお馴染みになった料理だ。が、ここのは美味しかった。もちろん2ラリ也のビールも美味しい。
 その中でも特筆すべきは、はじめて出たヒンカリ。大きな餃子のようなものだ。そのために則はわざわざラー油を持ってきたのだから。一応食べ方は調べていたので知ってはいたが、みんなの要望でガイドさんが食べ方を教授することになった。
 まず上の方を開けて、そこからスープを飲むこと。次に皮と中身を食べる。続いて順も食べてみた。なかなかスープをこぼさないように飲み干すことはむずかしかった。でも美味しくて、皿はすぐに空っぽになった。ヒンカリはこの回だけだった。もっと食べたかった料理だ。
 その後はデザート。スイカだけではなくリンゴや洋なしも出た。帰りにもう一度ここで食事をするという、しかも今度はカバブというので、皆大喜びだった。
  帰り際に、そのパンを作り焼く所とカバブを焼く所を見た。一つ一つが手作りなのだ。

6−5 ゴリの城塞
 少し先に城塞があった。小高い丘の上に築かれていて、そこまで上ることはできなかったが、概観は見られた。写真だけ撮ってすぐにの出発となった。
 このすぐ横がかなり大きなバザールになっていて、車や人で賑わっていた。
・(日本語版有為キーペディアより)「ゴリ」とはもともと丘を意味し、町の名は付近に今も残るゴリ砦に由来する。砦は7世紀ごろより史料で存在が確認される。考古学的調査により、砦はすでに紀元前3世紀から紀元前2世紀ごろにはあったと推定されている。
 ダヴィト4世(在位1089年-1125年)によって町が建設された。

6−6 スターリン博物館 (1410〜1520)
 かつて栄光を誇ったスターリンも世界中でその像があるのはここゴリだけだそうだ。ゴリが生誕地と言うことで、ソ連崩壊の時に壊されかかったのを守ったのだそうだ。権力者というものは時代が過ぎればむなしいものだと思う。(写真左←:母・本人・父の写真)
 が、ここにはそのスターリンの功績がたくさん並べられていた。と言ってもその殆どが写真なのだが。ただ、それらを見ても実際にどんな功績を挙げたのかはよく分からなかった。はっきりしているのは第二次大戦の時のソ連の指導者で、北方領土の問題の張本人だと言うこと。素直に讃える気にはならない。
 他にもデスマスクや専用列車、生まれた家などが展示されていた。2枚目の写真は生家内部。彼の父親は靴職人であった。左下にベットが見えるが、そこで3人寝ていたという。この写真に見える範囲で炊事をしかつ食事をしたと言う。 きわめて質素な作りだ。勿論貸屋。父親が営む靴の工房は半地下部分にあったという。厳しい父だったらしい。

6−7 パンの村
 それからは今夜の宿泊地、クタイシを目指しての長旅となる。
 帽子の時もそうだったが、ある地点まで来ると同じような店が軒を並べている。
 その始めはパンの村と称していたが、パン屋さんがずらりと並んでいる。と言っても、店を構えているのではなく自分の家の玄関先で自分の家で作ったパンを売っているというようなものだ。蜂蜜を入れた自然の甘さが売り物なのだそうだ。上の写真のパンは看板用のもの。奥の黄色くみえるのが窯で、ここで焼いている。
 ガイドさんが買って食べさせてくれたが、まあふつうのパンだ。ただ、ナンのようなものとはちがって、要するに我々の言う所のパンなので、こちらの人にすれば珍しいのかもしれない。 相当数店舗があって商売が成り立つのだから、結構有名なのだろう。

6−8 陶器の村
 途中籐篭の店も並んでいた所もあったが、そこはパスして陶器を並べている所で停車。
ずらりと同じような陶器が並べられていた。素朴な素焼きでそれぞれに少し模様がある程度で色は皆同じ茶色だった。ふらふら見ながら歩いていると、ちょうど良いジョッキが見つかったので思わず購入した。ワインを購入してあるので、マイグラスにっするのに丁度よいと思ったからだ。3ラリだったが、2つということで5ラリにまけてもらった。実際の値段ははいくらなのか分からないがマァ良いことにしよう。
 またふらふらしていると、マジックペンで素焼きに模様付けをしているのに出会った。これにはビックリした。なるほどこれならまさに手作り、二つと同じものがないわけだ。面白いと思ってカメラを向けると、おばさんも得意げに見えるようにしてポーズを取ってくれた。

6−9 スイカ買い
 次はスイカの買い出し。スイカはここに限らずどの道を走っても山積みになっている。いまはこのスイカとメロンが一番の商品らしい。ここで、ガイドさんと店の人がいろんなやりとりをして交渉成立。これはいずれ我々のおなかにはいる。
 他にメロンを買ったりする人もいたが、我が家は見てるだけ。

6−10 クタイシのゲストハウス
 途中で水も買い込んで、ようやくゲストハウスに着いた。ゲストハウスというのは、要するに民宿のようなもの。家族単位で家を開放していると考えればよい。従って、ホテルのようにバストイレ付きというわけではなく、数室で共同使用となる。
 前回の時には、これでかなりもめたらしい。始めからそう書いてあるのだから文句を言う方がおかしいと思うのだが、大名旅行の感覚から抜けきれない人たちがたくさんいるということか。また、前回は、3軒に分かれたというが、今回は大きな家で1軒だけですべて済むというので、添乗員さんにとっては良かった・・・のか悪かったのか。
 バストイレは共同使用と書いたが、ここではツインの部屋にはそれが付いていた。ラッキーだった。バスはシャワーだけだが、それでも自由に使えるのはいい。ただ、面白いのは、シャワーとトイレが全くしきりのない一部屋にあること。シャワーを使うと部屋中が水浸しになってしまう。従って、ビーチサンダルは必需品だ。
 部屋は至ってシンプル。ベッドがあるだけだ。スーツケースは床に置いたまま開け閉めをすることになった。
 そんなことをしているうちにこの家の可愛い女の子がいたので写真を撮ってあげた。

6−11 夕食
 夕食は全員そろって2階のテラス。そこへ行く前にさっきの女の子の写真を印刷しておいたので、そこにいた女の子に写真と日本からのお土産を渡した。喜んでくれたようなので良かったと思って食事を始めた。
 メニューは、サラダにスープ、肉団子のようなものだった。ビールは1本3ラリ×2。
 すると、女の子の母親と赤ちゃんが来て、チラチラとこちらを見る。きっと写真を撮って欲しいのだろうということで、早速撮ってあげた。この写真も印刷をして渡してあげた。

6−12 熱帯夜
 食事の時から暑くてたまらなかったのだが、夜は更に暑くなった。窓も入口のドアも開けっ放しで寝たのだが、どうにもならず、則は枕を持って2階のテラスへ行き、そこで寝る始末だった。
 順はひたすら「心頭滅却すれば火もまた涼し」と夢想国士の心境で何とか部屋にとどまった。それにしてもこの暑さには参った。
 涼しさを感じられるようになったのは、翌朝3時過ぎだった。