8月4日(土) バクー滞在(アゼルバイジャン)

ホテル(1025)−炎の山(1105〜1120)−拝火教神殿(1202〜1250)−昼食(1325〜1430)−モスク(1452〜1530)−市内散策(1537〜1740)−カスピ海クルーズ(1810〜1840)−ホテル着(1907)−夕食(1930〜)
                                            〈バクー泊〉

3−1 朝
 則は例によって朝早くから日記を書き始めた。しかしながら、このアゼルバイジャンは回教国とはいえ盟友がトルコ(だいたい人種的にも近い関係にあるということだ)であることからも分かるように、アルコールに対して寛大な国だ。従ってアルコールに抵抗感はない。それがたたって、回教国とはいえ日記が毎日書けるわけではない。朝まだき、少しずつ書くのはそのためだ。そういえばアザーンの声も聞こえない。
 6時に順さんも起床した。頭が痛いという。彼女がそう申告するからには、相当痛いのだろう。イランの時のことまた則の頭をよぎる。とりあえず風邪薬を飲むようにした。そして7時少し前に階下のレストランに行く。少し前だったが、入れてもらえた。内容は昨日と変わりがないので、同じようなものを食べるしかないが、品数はあるので、不満はない。
 
3−2 炎の山 (1105〜1120)
 かつてシルクロードが通っていた道を通って炎の山へ向かう。かつてチンギスハンも通っていますという説明を聞くと、歴史は今に続いていることを実感する。シルクロードを通ってバクーを通過した古今東西の面々は皆この光景を眼にしたのだろう。
 炎の山は、要するに地下の天然ガスが燃え続けているという地点だ。思ったよりも勢いよく炎を上げていて驚いた。物好きな則はその上を行ったり来たりして、山の行者気分を味わっていた。更にはティッシュを燃やして熱いなどと子供じみたことまでやってはしゃぎ廻っていた。この炎の脇を往時のシルクロードは通っていたらしい。
 この炎が燃えている様子から「アゼルバイジャン」という名が付いたらしい。アゼルバイジャンとは炎(ペルシャ語でAZARと書くらしい)の国というような意味で、その昔からこの地は天然ガスが地上に噴出していたらしい。
 ともあれ、こうした炎の存在が古に拝火教を生んだのだろうと思う。拝火教の発祥の地イラン(ペルシャ)はここからそう遠くはないところにある。
 
3−3 油田
 バグーへ戻る道々、周りには無造作といえるほどに石油の採掘場が見られた。住宅のすぐ横にもあって、安全性が心配になるほどだ。無造作といえばガスだか石油だかはんぜんとはしないがパイプラインも地上に何の防御もされずに何本も縦横無尽に続いている。
 その採掘の鉄のやぐらが一面に広がる所まで来るとバスは止まった。バラハネオイルという会社の所有だというそこで、しばし撮影タイム。一般の人がすぐ側に近づけるというのも何とも不用心なことだ。
 と思っていたらそこへ一台の車が来て、現地ガイドと激しくやり合っている。あとで聞くと、オイルを盗みに来たのかと思ったようだ。やはりそういう輩もいるらしい。しかし、石油を盗むやつが日中堂々バスで乗りつけたりはしまい。?!である。

3−4 拝火教神殿 (1202〜1250)
 昔は女人禁制だったという敷地に、今は我々観光客も平気で入ることができる。既に信者はなくただこの建物を管理する人がいるだけらしい。それでも、ゾロアスター教の人にとっては聖地の一つで、今でも時々インドから巡礼者が来るという。というのも、かつてここを再建して運営していたのはインドの人たちだったからだそうだ。
 まずは中央の拝火壇に行った。以前はずっと燃え続けていた炎も、今は人が来たときにだけ火をつけるという、ほとんど観光用。昔は石油を使っていたというが、今はガスを使っている。建物自体にもパイプが通されていて、中央だけではなく建物の四隅からも炎が上がっていたのだそうだ。その炎も一ヶ月に一度香木を燃やすことで浄化していた。その炎の壇に上がれたのはマグ(=火を扱う人の意)と呼ばれる人で上から下まで白装束に身を包んだ特別な人たちだけだ。このマグというのがマジシャン、つまり呪術師という語の語源だというのだが・・・。
 次に周りを取り囲むようにして建てられている部屋を見て回った。修行をしたり死を迎えたりする部屋があり、かなりリアルな蝋人形が当時を偲ばせていた。ちなみに、やはり鳥葬を行っていたのだそうだが、その場所は離れた所にある。方法は、どうやらイランと同じようだ。(写真右で、中央やや右よりの小さなまどから死を迎えた人間に食事を供し、三日たっても食事が摂られなかったら死と認定したらしい。左の部屋は死人を清めた部屋。)
 ここでの撮影料一人3ドル也。けちって則だけとする。
 先にも述べたようにこの拝火教寺院は、現在では通常時には使われていない。しかしながら、現在もインドなどにいる拝火教徒にとっては巡礼地の一つになっており、彼らが訪れたときには聖地として宗教機能が一時復活するらしい。もっともこの地の拝火教は発祥の地である隣国イランからもたらされたものではなく、一旦イランから中央アジアに伝わったものが環流してきたものであり、イランのそれとはずいぶんと様相を異にする。アズラマズダ神がいない(この地での拝火教のシンボルは放射状に幾つもの線が引かれた円形の形をした太陽マーク・・・写真→)。
 ここでも卍模様(写真↑)を見ることができた。卍(Swastika)模様の薀蓄は、また別の機会に譲りたいが、要するに新石器時代からある人類普遍の模様の一つだ。特に卍の中に●(ドット)が描かれているのはインドの影響か?

3−5 昼食
 拝火教寺院を後に小一時間かけてバクー市内へ戻る。
 食事をした場所は地下にあり、レストランというよりも、夜はパブになるそちらの方の雰囲気の店だった。昼食はまたてんこ盛りの野菜から始まる。チーズやスープ、鶏肉の煮込んだものなどを食べた。
 今回は各食事毎に水がついたので、この頃になると水は十分に供給されており、暑い中の旅行ではあったが水の心配をしなくてよく、大変に助かった。

3−6 モスク
 シーア派のセヒドラムモスクへ行った。別名トルコモスクと言っていたが、トルコと仲良しのこの国らしい。何故トルコと仲良しかというと、かつてこの国がイギリスに攻められた時に、オスマントルコがそのイギリスを撃退してくれたからなのだそうだ。
 トルコの国旗も高々と翻り、その前には、その時の死者の慰霊碑が並んでいた。また慰霊碑の前にはこのときの戦役でなくなった兵士の名前が刻まれていた。
  中は丁度祈りが行われていて直接には入ることができなかった。ただ、写真はダメという条件で、2階にある女性の祈りの場から見ることができた。一番下の写真はモスク内部の天井の写真。注意される前に写したもの。非常に簡素なデザインが特徴的だ。
 さて二階の女性の信者の中には、観光客のわれわれに愛嬌を振りまく女性もいた。それにしても祈りをささげる人たちの平均年齢は非常に若かかった。このことは宗教を異にするとはいえ、隣国グルジアのキリスト教の教会でも同じだった。ソ連傘下にあった旧体制のもとで育った年配の人たちよりむしろ新体制のもとで育ちつつある若者たちの方がむしろ信仰心は高いということのようだ。これはこれでまたまた考えさせられる事実だった。宗教がないと人間は生きられないということか。

3−7 巡礼者の小道
 そこから歩いて巡礼者の小道へ行った。1990年1月20日のソ連侵攻の際に殺害された人たち147名を弔った殉教者公園墓地だ。戦車で踏みつぶされた人もいるという。
1992年以降のそれは、アルメニアとの紛争の犠牲者。当たり前といえば当たり前かも知れないが、皆、20歳前後の若者達ばかりだ。
 いずれも氏名のはっきりしている人は写真付きで祀られている。お墓には造花できれいに飾られているものもあった。周りにはアカシアの木に白い花が咲き乱れていた。
 殉教者の小道の先には近代的な慰霊塔があり、ここでも炎が燃えていた。それにしても、この後いくつか体験するわけだが、こうしたものを見ると、言い知れぬ個人の小ささを感じさせられる。白黒善悪の判断が鈍る。

3−8 市内散策 (1537〜1740)
 少しだけバスで移動して、そこからは歩いての市内散策となった。地下道を通って道を横断することになったが、その地下道の中にバグー市の紋章が描かれていた。
 地上に出てまずは入口になっている門から旧市街地に入った。旧市街地は城壁で囲まれているので、いくつかある門からでないと中に入ることはできない。この壁だが外から見ると7〜10メートルくらいあるのだが、内側からは数メートルの位置にある。城壁内部が一段高いところに作られている感じ。だから門を入るとすぐに坂を上ることになる。敵への備えを重視した造りになっている。

3−8−1 シルヴァン・シャフハーン宮殿
 階段を少し上ってシルヴァン・シャフハーン宮殿へ行った。一応の説明を受けてから中に入る。中庭で少し休んだあと礼拝堂へ入る。キリスト教の影響が残されているそうだが(アゼルバイジャン地域はかつてキリスト教エリアであったが7世紀以降イスラム化された)、どのような部分なのか確認しきれなかった。明かり取りの窓がきれいだった。
 その後、奥方の部屋、裁判所兼会議所(ディバハナ)、地下牢、ワイン醸造所、ミナレット、霊廟、トルコ風呂(蒸し風呂)等を見て歩いた。
 ここも撮影料がかかった。撮影料3ドル也。
  宮殿は比較的質素な佇まいだ。トルコのような華やいだものはない。内部は博物館のようにもなっているが、宝物は既にここにはない。宝物といえば、ここにはカスピ海にかつてあった島にあった要塞(地震によって水没した?)の一部が湖底より引き上げられて展示されていた。独特の模様(文字か?)が力強く彫られていた。

3−8−2 散策
 そこからまた町中へ出た。本来窓である部分からつき出したベランダのある家屋群(ここでもペルシャの影響か?)やもう一つの門などを見ながら歩いていると、道の両側にキャラバンサライがあった。
 その中の一つ、右側の中に入ってみると、そこはバザールのようになっていて小さなお店がいくつか並んでいた。喫茶店もあった。でも、われわれや店の若い男の子の目は、それらよりも可愛い女の子に奪われて、盛んにシャッターを切っていた。
  ところで、バクーの旧市街は中東のそれよりはゆったりと作られているように感じられた。というのも自動車も十分に往来が可能だからだ。城門も車が往来可能だ。これは戦闘機能(篭城とか)よりも町の機能をより重要した造りなのだろうか。ここいらあたりは聞きそびれてしまった点だが、この地が比較的安定した地域であったのではないかとも想像されたのだが。

3−8−3 乙女の望楼
 このバグーで一番の名所が乙女の望楼だろう。遠くからも見えていたが、近付いて見上げてみると大きい。今は新しい街に囲まれているが、昔はここから海に飛び込んで命を落とした乙女の伝説があるようにすぐ目の前まで海岸線だったということだ。
 なにがしかのお金を払うと上に上れるというので当然われわれは希望。自分で払っても良いと思っていたのだが、現地の旅行社が支払ってくれるというので、結局ほぼ全員が上ることになった。地面から数えて丁度140段(順の実測・・・物の本によれば135段)の階段を上ると上に着く。が、途中には人一人が通るのがやっとというくらい狭い所もあるので、下りてくる人とのすれ違いが順番待ち状態で結構時間がかかった。
 上からは周りが一望できる。風も心地よく、やはり上るのをお勧めする。
  乙女の望楼は地上から見ても結構高い望楼であることが分かるが、この後のクルーズで海上に出てみると更にその高さが実感できた。

3−9 カスピ海クルーズ (1810s〜1840)
 旅行社から日本で渡された予定にはなかったことなのだが、急遽カスピ海クルーズが計画された(前回のツアーでも入っていたらしい)。昨日もチャレンジしようとしたのだが、あまりにも天候が悪くて断念していたのだ。
 実はバクーは風の強い町という。強風でクルーズが出ない日もあるという。実際バクーは風の町という意味らしい。
 少し順番待ちをして早めに乗り込んだ。やはりわれわれのねらいは前のデッキ。その通りの場所を確保していよいよ出航。穏やかな海上を滑るように進んでいくが、海面には油が浮いていて必ずしもきれいとは言いがたい。30分程度なので湾内を1周する感じだ。解説があるわけでもないので、自分たちで景色を、といっても街の高いビルなどを見つけて楽しむだけだ。 あまり大騒ぎして乗り込むほどの物ではないなあというのが正直な感想だ。ただ、地元の人にとっては暑さしのぎとデートの場としては良いかも知れない。
 添乗員氏情報では前日の予報では41℃の最高気温といわれたが、雲が薄くたれ込め、時に少し雨模様であったせいで、猛烈な暑さではなく、強烈な太陽を浴びることもなく、そして午前中はバクー名物の強風にあおられたが、午後は比較的穏やかな風になり、夏期の観光としては絶好このコンディションではなかっただろうか。
 帰港前には乙女の望楼を遠望することができた。


3−10 ホテル
 19時過ぎにホテルへ戻ってきた。今日で3泊目になる。連泊なので荷物整理が楽だったが、明日は飛行機での移動となるため真剣に整理しなければならない。
 ここは今回の旅で、部屋にまでインターネットの端子が来ていた唯一のホテルだった。しかしながら、速度は定かではないが、LAN接続が24時間で約10ドル(写真左側)、ダイヤルアップで約4ドル(写真右側)と現地事情を考えると結構高かった。
 夕食もホテル内で。ワインフルボトル21$也。赤だと昨日と同じのしかないというので、それではと白を注文。