9月16日(火) ケルン−アーヘン−ボン−ケルン

ホテル発(0925)(1025)アーヘン(1200)(1320)昼食(1420)(1440)ケルン大聖堂(1540)(1620)ベートーヴェンハウス(1640)ボン散策(1830)夕食(2020)(2045)ホテル着

1.朝
 朝と言うべきなのか、noriは3時には目を覚ました。それから日記を書いたり、今日行くアーヘンとケルンとボンの説明書を読んだりした。以降noriは帰国時まで大体この時間前後に起床する毎日だった。さて5時半には目覚ましが鳴った。これは日本にいても同じ時間。いつものように健康チェック(血圧・心電図・血糖値)を計った。今回は体温計を忘れてきたのにここで初めて気がついた。
 6時半になったので階下の食堂へ、朝ご飯を食べに行く。きっちりと種類があるスタイル。添乗員氏が前日説明したとおり、それぞれがかなり塩分が濃い。体の構造が違うのだろうが、この濃さが続くとかなり応えるだろうと思う。食堂では我々がツアー客の中では一番だった。
 ここで今回のツーアメンバーの紹介をしておこう。添乗員氏はHさん。あと我々を含めて4組の老夫婦。大体我々が添乗員氏を除くと一番多分若い。というか推定するにほとんどは一回りほどは違う感じがする。

2.アーヘンへ
 9時半出発なので、感じとしては皆早く来るだろうと考えていたが、案の定、定刻前に揃った。揃ったと行っても、先にも行ったように総勢8名。添乗員氏と運転手を含めても10人。今日からいよいよ旅本番。我々は一番後ろが好きなので、最後尾に乗ろうと企んでいた。後ろに勇んでゆくと、声がかかった。昨日一番後ろだったから、今日は一番前だという。ここの会社は今回初めての利用なので、頑張ってもなんだと思ったので、ありがたく一番前の席に(正確には前から2番目の乗客としては一番前の席)に座った。実は一回の移動は今日はあまり長い距離ではない。
 バスはケルンの町の朝の渋滞(というほどのものではない)を抜けると、アーヘンを目指した。目的地はアーヘンの大聖堂。ドイツの世界遺産第一号の聖堂だ。というか、最初に世界遺産が始まった時に指定された12の遺産の内の一つだから、元祖世界遺産とも言うべきもの。
 アーヘンの町の、大聖堂に近い辺りにバスは停まった。

3.アーヘン大聖堂180
 アーヘンの町で目指すのは、大聖堂。町は細々としており、大型バスでない我々の方が、旅程上はきついが(性能的にそう速度を出すのは危険だし居住性が悪い)、小回りがきく分より目的地の近くまで行ける。通りに有名な菓子、プリンテンがあった。一年中ここだけは売られているというクリスマスバージョンのものもあった。アーヘンは初めに大聖堂が出来て、そこから発展したというパターンの町。まぁ門前町都市でも言うべきだろうか。

3.1 アーヘン到着
 今日の出発が9時半と遅いのには訳があった。アーヘンの大聖堂の開場時間に合わせたためだ。我々の到着した広場は丁度正面ファサードと対角線に位置する場所にあったので、半周する形で大聖堂に向かった。大聖堂とこれまた世界遺産である市庁舎として使われているかつての宮殿の跡の建物の間の広場には移動遊園地が来ていて、観覧車などがあり、大聖堂や市庁舎の全景を撮影するのを阻害していた。これからも見えることだが、こうした世界遺産などの前に不躾な物が置かれている場合というものが散見された。ここいら辺りはどうにかしないと、そのうちに観光客の減少につながるのではないのか。広場がそこしかないという理由なのだろうが、そもそも移動遊園地など許可がなければ設置出来るはずもなく、国や地方政府の姿勢なのではないだろうか。それ故であろうか、景観に絡んで、ケルンでもドレスデンでも世界遺産剥奪問題が起きている。
  さてだいぶ時間があったらしく、しばし写真タイムとなった。それからガイドさんを紹介された。大きながたいの男性だった。さぞかしビールを飲むのだろうと添乗員氏が聞くと、彼はビールはやらないと答えた。最初に、金属製の模型を使って全体の姿を説明してもらった。模型で、この聖堂の中心は八角形のドームが中心であることがわかる。その部分が9世紀、初めに造られた。
 この当初の部分の設計図の一部はWikiPediaで公開されている。図のクリックで拡大する。

3.2 八角形のドーム
 その八角形のドームへと入場する。ここはこの建物群の中でも一番古い部分になる。ここから様々な建物が周りに造られて、今の大聖堂を形づくっていった。もともとはカール大帝の宮殿の付属の礼拝堂だった部分。
 大聖堂の中には入場料を払わなければ入ることが出来ないらしい。
 最初に天井モザイクを必死になって写真に収めた。
 ところでこのドームの内陣には、1200年前のものは3つ残っている。それは2階のテラス(の一部)、2階の柱(の一部)、そして天井。このドームは全体が外から見ると二段ロケットのような会場で、外側に大きな八角形の回廊とも言うべき部分を持つ建物があり、更にその中心にドーム天井をいただく建物が載っかっている形式になっている。
 その回廊とも言うべき部分の周りのモザイクは120年から130年前のもので、現在では、一部きれいに洗浄して、その部分は元の色つまりは往時の輝きを取り戻している。


3.3 シャンデリア
 1165年に寄贈されたもの。当時のヨーロッパでは最大のもの。直径が4mもあるので、支えるのが大変で、蝋燭は1周分しかない。今から見ればかなり質素なものだが、往時はそれなりのものであったことだろう。この円形のシャンデリアは、noriに中東の巨大モスクなどで見られるモスクの中心にあるそれとの類似を想像させた。

3.4 ステンドグラス
 我々は更に内陣に入った。ここは一般の人(単なる入場料?)とはゲートで隔離されたエリア。
 このステンドグラスは1465年に作られた。当時は大きいガラスを作る技術がなかったので、小さいガラスを組み合わせて25mもの高さにした。1000平方メートルもある。そしてかつてはそれ故に、アーヘンの「ガラスの家」と呼ばれていた。
 第二次世界大戦で壊されたために、今のものは、戦後に造られた物。原画が分からないので、新たに作成した。やはりステンドグラスの淡い荘厳な光は宗教的な雰囲気の演出に相当役を果たしている。しかしながら、どうしてこうも教会が破壊されいるのかは、この後ドイツ旅行中ずっと疑問だった。爆撃目標に教会の尖塔は格好のものだっただろうが、爆撃するその撃手もまたキリスト教徒ではなかったのか。異教徒の日本を攻撃するのとはだいぶ違ったはずではなかったのか。

3.5 フレスコ画
 ステンドグラスの周りなどの周囲の壁にはフレスコ画が描かれている。かなり剥離されてしまった部分もあるが、未だその色は褪せていない。フラッシュ撮影は禁止にすべきものと思うが、自由に撮影が出来た。
 古いものは一部に600年位前頃に作られたというが、目の前にあるのは400年位のものとのこと。

3.6 カール大帝の棺
 これが残されているからこの大聖堂の価値が高いともいえる。53パーセントくらいの骨が残されて入っているという。樫の木(オーク)に金のメッキをしたもの。
 カール大帝の墳墓が発見され、そこから遺骨を運んできたらしい。ゲルマン人の身長からすればかなり小さめのそれは、そうした理由によるものなのだろう。

3.7 宝物の箱
 エルサレムからの贈り物の箱を納めている箱。当方の三博士に由来するものが収められていると言うことだ。聖地からの贈り物ということで大事にしている。真偽のほどはわからないが、これ故に巡礼も増えたことだろう。
  箱の意匠は、キリストを抱くマリアなど、4人の聖人聖女が四方に彫られている。

3.8 説教台
 1600年頃のもの。ハインリヒ2世による。象牙細工はコンスタンチノープルから持ってきたカップをはめ込んである。それが王権の象徴だと言うことだ。そのほか宝石がいっぱいだった。この台は、現在でもクリスマスなどの時のミサで使われている。
この説教台、有名なものらしく、WikiPediaでも例示に使われている。

3.9 2階のカール大帝の椅子
 それから中心部分のエリアを離れて、我々はこれまた一般の人たちが入れない、つまりはガイド付きの人でなければ入れない、二階部分に上がった。階段を上がるとすぐに石で出来た大きな玉座があった。当時のもので、全く修復されていないという。損傷が激しい上に、装飾がない(残っていない?)
 ずいぶんと昔から、おそらくは創建当時からここにある。それ故に、カール大帝の椅子と推定されている。大理石製で2000年前にエルサレムから運ばれたと言うが、そう言うわけで真偽のほどは定かでない。
 ただここで最も重要なことは、この椅子に神聖ローマ帝国の皇帝31人と12人の皇女が座った。そして30人の皇帝の戴冠式もここで行われた。
  それ故に、このドイツの辺境都市アーヘンはその歴史の中で大きな意味を持っている。同時にこの大聖堂も。それ故の世界遺産第1号の栄誉を手に出来たわけである。

3.10 おみやげ
 他の人たちはのんびりと帰ってきたが、我々は集合場所近くに早々と移動した。そのわけは、プリンテンを購入するためだった。プリンテンはクッキーとパンの中間くらいのもので、その上に砂糖やチョコレートなどで作られたものが塗られている。形状や大きさは様々だが、先に書いたようにここではいつでもクリスマスで、ハートなどの形のもの標準的なものに並べて売られていた。買い物をして店を出たところで、ようやく外の人たちが戻ってきた。バスは集合時間だった45分をとうに超えて、出発した。

4. 昼食
 アーヘンでの観光を終えた我々は、再びケルンへ戻る。ケルンの町は大きい(人口でもドイツで5本の指に入る)ので、高速道路から直結する新市街から旧市街へ向かうのにかなり時間を要した。旧市街のケルン大聖堂がかいま見える位置にある場所でバスを降りた。
 レストランはビアホールのような所で、そこで食事。気のせいかも知れないが、以降も食事はほとんど夜はビアホールといった風情のところが多かった。
 メニューはロールキャベツ牛肉のソース添え、アイスクリームベリーのせ、ビール(1.65×4)。ロールキャベツの大きさには皆びっくり。ビールは小ぶりのコップで、とても一杯で済ませられる量ではなかった。聞けばそのサイズしかないらしい。
 レストランの天井は往時のビア樽の破片を組み合わせてレイアウトしていた。栓の部分もそのままで、面白いデコレーションだと思った。

5.ケルン大聖堂181
 ケルン大聖堂は元々はロマネスク様式(ガイドさんはこう説明したが実際は4世紀に遡れるとも言う)の教会があったが、当方の三聖人(博士)の骨を持ち帰ったことで、それにふさわしいものをということで建て替えた。フランス軍が攻め入ってナポレオンの指揮下に入った時代に建築は中断され、中で寝泊まりやたき火などもされたらしく、そうとうに荒れた状態の時代もあったようだ。完成は600年あまり後のことだった。第二次世界戦ではアメリカ軍との激戦の地域になったが、大聖堂は奇跡的にその姿をとどめた。
 尖塔前広場でしばらくガイドさんを待ってから、入場した。ガイドは現地で結婚したらしい日本人の女性。

5.1 ステンドグラス
 第二次世界大戦の時、保護のため隠されていたもの以外は破壊され、新しいものになった。戦闘が激しさを増してきていることは、分かっていたためだろう。教会の宝を守ろうとする市民の手によるものだろう。
5.1.1 ルネサンスの家
 「ルネサンスの家」と呼ばれるステンドグラス。これは新しく造られた物で、左側にペテロの一生、右側にイエスの木が描かれている。イエスはその頂点にある。
5.1.2 ゲルハルト・リヒターのステンドグラス
 数年前に作成された抽象的な模様のステンドグラス。これは左右が対称になっている。抽象画のようなそれは、ゲルハルト・リヒター作で、古代のステンドグラスで使われていた72色を使って作成された。
 細かく見ると、大きな二組の3列のガラスがあるが、中央部を除く左右に列二組は、それぞれがミラーイメージになっており、その二組の参列の中央部の左右一列ずつもまたミラーイメージになっている。ここから宗教的な瞑想が導かれるのを期待したのだろうか。
 これは出来た当初から宗教的であるか無いか、など様々な論争があり、その論争は現在もなお収斂はしていない。
 (たとえば、http://ryoji.sakura.ne.jp/mt/archives/2007/09/post_170.html)

5.2 床のモザイク画
 最初のロマネスク教会の様子を表している。ヒルデボルトの教会とも言う。この形を見ると「ロ」の字形のようにも見える矩形の建物であったことがわかる。
 中央にいるのはカール大帝(ヒルデボルト大司教とする資料もある)。いずれにせよ今のそれとは大きく異なり、小さく質素なものだったと伝えられていることを示している。

5.3 古い十字架像
 ナポレオン時代の荒れた教会にあったもの。974年頃の樫の木を使って制作されている。伝説では、976年にゲロ大司教から大聖堂に寄贈されたもの。つまりゴシック以前のビザンチン時代のもの。
 ビザンチン時代のものというのは、穏やかな顔と開かれた足、その足に残る4つの穴でそれが分かるとのこと。現存するヨーロッパ最古の記念十字架。これがかなり古いものであることは伝説としてもともとあったが、近年の炭素年代測定法で、その伝説が正しいことが証明されたという。さすがドイツ人解明をしないと気が済まないらしい。
 それを取り巻いている祭壇は後世のもので、バロック様式。

5.4 三賢人の棺
  この教会の最大の宝物ともいうべき物。1164年に十字軍がミラノから持ち帰った。三賢人の骨が入っている。聖書に由来する預言者などが描かれている。カメオなどの宝石類で飾られている。
 こういったものは、いかに巡礼者を多く集めるかというような面での役割が当時は重要だったらしいことは、アーヘンと同じだ。この部分だけは、厳重にカプセルの中に入り、しかも柵の中に鎮座しており、それ故にこの宝がいかに大切なものかが伝わってくる。

5.5 再びステンドガラス
  このころになるとガイドさんの足が速くなってきて、ついて行くのに苦労する。理由は後述。
 三聖人の棺の後方の正面一番奥に飾られているステンドグラス。「バイブルの窓」といわれる。一番古いもので、左側に旧約聖書と右側に新約聖書の話が対比されて描かれている。
 知識がないので良くはわからないが、こうした新旧の聖書の対比というものは、よく行われるものなのであろうかと想像する。文盲率の高かった時代においては、日本でも同様にかような絵解きが必要であり、それが今日まで宗教絵画のモチーフとして伝統的に伝えられてきて様式化されているのだろう。それにしてもうまく、同様の自称をまとめ上げたものだと感心する。

5.6 マリアの祭壇画
 シュテファン・ロッホナー作で聖母マリアと町の守護神が描かれている。1445年頃の作品。我々は教会の左側廊から入ったが、中心部を過ぎて右に折れて少しゆくとそれはある。
 ケルンの伝説が描かれている貴重なもの。右側がローマ軍の意に反して自らもキリスト教徒であった鎮圧軍が討てないと言うことで殉教したそのことを、左側はやはり聖女が苦しんだときに100人とも1000人とも言い伝えられる援軍が来たというような話(正確でなくてすまない)が描かれ、今日のケルンの繁栄がもたらされたことを描いたもの。

5.7 新・旧パイプオルガン
 古いものと新しいものがある。聖歌台が狭すぎたために新しいものに造り変えた。新しいところまでは、エレベーターでいける。これによって、ドーム脇の古い、戦後まもなく作られた方は結果的に見向きもされなくなった。新しいパイプオルガンの聖歌隊の座席は、旧来の場所では遠いと言うことで、オルガンのある反対側に近代的な形で作られた。

5.8 教会尖塔部分前の広場
 我々の到着が遅かったせいだろうか、大聖堂の見学が押し気味だった。それまでは自由にガイドできたのだが、今は、ガイドがライセンス制になった上に、一回の見学時間と一回の見学時間に入場できる集団の数が制限されたという。それ故に若干の駆け足になったらしい。時間のルーズさは小集団でも変わらないところがある。ここでガイドさんとお別れ。
5.8.1 ケルンの古地図
 ケルンの都市が城壁で囲まれていたことが描かれている。この時代はいずこも城壁で囲まれていたと思われる。その説明版の横に、この時代の門が再現されてあった。昔の石材を使ったものと思われた。
5.5.2 十字花
 尖塔前の広場には十字花という物が置かれている。これだけでも結構大きな石像物であるが、このものと同じものが大聖堂の塔の一番上に乗せられているという。修復を記念して実物大のものが置かれたらしい。
 この十字花の台座部分には各国の言葉でこの十字花の解説がある。日本語のものもあった。「大聖堂の塔の先端部(原寸大模型)大聖堂完成(1888年)を記念して制作 高さ9メートル50センチ 幅4メートル60センチ」とあった。

6.ベートーベンハウス
 今度は方向を逆にボンへと向かう。ベートーベンの生家を見学にゆくからだ。日程的に非常にタイトだ。最初からこのペースは年配者にはきついだろう。
 さてベートーベンの生家は現在は記念館として使っている。ベートーベンの生い立ちからの一代記にまつわる遺物や関係者の肖像画など共に、ここで22歳まで生活した、その頃を中心に展示されている。非常によく出来た日本語のガイディングレシーバーがある。それを聞きながら丁寧に回っていたら、危うく集合時間に遅れてしまう時間になった。解説の中には重複した説明もあったが、ベートーベンの逸話などがかなり詳しく解説されていた。またその頃の音楽が実際に聞くことが出来るようになっていて、素人にも懇切丁寧に説明をしているものだった。それ故に、本当に時間が少なくて、残念に感じられた。ちなみに、ワタされた日本語のパンフレットにも同様に細かく解説が書かれていた。
  内部は写真撮影禁止なので、外に出てあわてて中庭の写真を撮った。

7.ボン散策
 あらかじめ知らされていた日程では、「ライン河畔の散歩道」となっていたが、ボンの市街地を散策しながら最終的にレストランまで歩いた。皆元気だったが、noriは疲れて全体から遅れがちだった。



7.1 マルクト広場
  最初に市場を訪れた。屋外の市場で、物価的にはよく分からなかったが、市内のそれよりは安いと言うことで、主に農作物を中心としてにぎわっていた。果物やソーセージなどがあったが、販売単位が大きく買えなかった。八百屋は日本と変わらない品揃えだった。
 他と同じように、市の開催を許可する塔と広場に面して市庁舎があった。

7.2 ボン大学
 それから少し歩いてボン大学の庭を散策した。広い草原や、木陰などがあって、ゆったりとした時間が流れていた。ここだけがキャンパスなのかは聞きそびれたが、感じとしては日本で言う文化系の大学の風だった。日本で言えば京都大学などに当たるのだろうか。
 ここは添乗員氏が連れてきたかった場所なのだろうか、この大学の中の散策にはかなりの時間を使った。あるいは夕食時間との時間調整だったのかも知れない。ここでこんなに時間を使うならベートーベンハウスでの時間がほしかった。

8.夕食
 夕食もビアホール。穴倉のようになっており、やや低い天井は、ワインセラーのような感じを醸し出す。奥にはビールの醸造機器もあった。わいわいと飲んでいる人もいるし、ひっそりと食べている人もいるし、比較的短い時間でさっと帰る人もいる。その風景は日本とさして違いはない。
 夕食のメニューは野菜乗せパン、サーモンフライのポテト添え、フルーツのアイスクリームのせ、ビール(2.4ユーロ×3)。
 ビールはやはりタンブラーまでは行かないが小さなコップに毛の生えた程度のものを地元の人は何杯も飲んでいる。このあたりの流儀らしい。グラスも、店によって形やデザインが微妙に違う。ここのは少し弧を描いているようなデザインで、何故こうかと聞いたら、持ちやすいためとのことだった。我々はジョッキタイプにした。
 昼ほど大きくはなかったが、やはり付け合わせ(主食?)のジャガイモ料理の量は半端ではなかった。サービスに時間がかかったので、日本人には間が持てない感じもしたが、同行の人達と話して過ごした。

9.ホテル
  Mercure Hotel Koln Junkersdorf Am Stadion ★★★126号室

 連泊につき、昨日と同じ。