9月17日(水) ケルン−エルツ城−トリーア

ホテル発(0852)(1020)エルツ城駐車場(1020)(1040)城入口(1050)宝物館(1110)(1120)城内見学(1200)(1227)バス駐車場(1230)(1255)昼食(1405)(1555)トリーア(1800)(1820)ホテル着

1.朝
 昨日と同様に3時前には目がnoriは覚めたが、我慢と言うことで、4時過ぎまで頑張る。暖房が入らないので、この頃になるとかなり冷え込む。夜になると暖房をいったん切るのは、日本でも良くあること。その頃になるとjunがこれで3回目だとトイレに起きたので、そのまま我が家の起床時間とする。今日はバゲージダウンがあるので、散らかしている荷物を片付けなければならない。junが昨日の日記のアウトライン部分(タイムテーブルと章分けとコメント)を書いている間にnoriが時分の身の回りの片付けをする。
 その後、荷物の詰め込みをして食事に行く。今日は6時半少し前にレストランに入る。昨日と同じものだが、種類が多いので、重複を避けることも可能。
 食事の後は、部屋に戻りnoriは日記を完成させた。定刻少し前に旅行鞄を部屋の外に出して、それからしばらくして階下に降りてゆく。予想通りに、皆少し早めに集合している。

2.エルツ城へ
 というわけで、出発は5分程度早かった。ホテルからは高速は直ぐなので、行程の130qの中の多くは高速道路。田園地帯を走り抜ける。本当に道は完備されていて、日本との違いを痛感する。しかも日本だけが異質なのだろう事はわかっているが、有料ではない。
 田園地帯の多くは牧草地で、既に忍び寄っている冬の季節を感じさせるように牧草がきれいに巻かれて整然と並べられているのを数多く見る。時に同じような建物がきれいに並んでいる場所もあり、別荘地の風でもあった。
 というわけで、1時間半足らずでエルツ城の入口にあたる駐車場に到着した。エルツ城では、いくらかは知り得なかったが、駐車場も料金が取られる。バスは駐車場に入る。

3.エルツ城
 エルツ川の谷間にあり、ドイツの名城ベスト3の1つとも言われる。1157年に建てられてから一度も陥落したことがなく、完全な姿で残っている。

3.1 エルツ城の入り口まで
 エルツ城は、駐車場から直ぐに見られるわけではなく、その奥ゆかしさ故であろうか、写真撮影の時間を含めて15分程度の先にあった。谷底にある関係上、往路は下りである。1.5ユーロを払えば、ピストン輸送しているすこぶる小型のバスもある。バスは人気で、というか観光客は殆ど年配者なので、結構ぎゅうぎゅう詰め状態で往復していた。
 歩き始めて2分半ほどで、展望地に出る。ここからはエルツ城を眼下に見渡せる。名声に違わない端正な姿は、国家的な今や宝となっていることは納得がゆけるものであった。谷底の中洲と思われる小山のうえにそれは築かれていた。さらに下っていくと徐々にその姿は眼前に迫ってくる。商売上の理由もあるだろうけれども、ここをわざわざ徒歩で徐々に城に近づけさせるという演出は、足腰が丈夫なものにとっては、的を得たものであった。

3.2 宝物館
 危険が迫ったときには落とすか、あるいは跳ね橋のようになった装置が付いていたのではと思われる谷間の道は現在はその面影がほとんどなく、城内には簡単に入ることができる。城内に入ると、すぐに右手にチケット売り場がある。そこから少し上ってったところが城内入り口。周りを建物に囲まれた中庭のような場所で、見物客はそこで大気をさせられる。
 エルツ城では、時間を区切って、20名程度ずつの小集団での場内専用のガイドとの見学となる。もちろんその多くはドイツ語のガイドで、英語ガイドは11時5分開始ということだったので、入り口脇にある宝物館から見学する。
 宝物館は、1975年から81年にかけて行われたエルツ城の大規模な修復工事の終わりと同時に設けられたもので、地下のいくつかの部屋によって構成されている。
 武器や装身具などが展示されている。全部で5つの地下室からなり、金銀細工、象牙彫刻、コイン、アクセサリー、陶磁器、食器、衣服、甲冑など中世ヨーロッパの生活を彷彿とさせる品々が揃っている。

3.3 エルツ城内見学
 ここは後で解説書を見ながら書く。写真撮影禁止のため、内部の撮影した写真はない。引用しているものは、エルツ城のウェブページから。(http://www.burg-eltz.de/)
 解説書によれば、エルツ城が初めて古文書に登場するのは12世紀のこと。エルツ城の基礎は三方をエルツ川に洗われる高さ70mの楕円形の巌頭の上に築かれ自然の状況に即して城の平面図も楕円形になった。
 西暦1263年以前に三人兄弟の時代に分家が行われ、エルツ家の家計は三系統に分かれた。そして三系統の家計は仲良くここで暮らしていた。だからいろいろな設備が3組ある。
 エルツ城は500年の長きにわたって引き継がれて建設されたが、それ故にロマネスク様式からバロック初期までのあらゆる建築様式を網羅している。全体としては実に調和のある建物となった。
 8本の居住可能な塔が中庭を囲んでびっしりと肩を並べて立ついわゆる「輪状砦」で、全部で100からの居住可能な部屋があり、最盛時には家来や召使いを除く家族だけで100人が住んでいた。
 ライン川地方にある数多くの城塞の中でもエルツ城は巧妙な外交のお陰で破壊を免れた数少ない文化遺産の一つ。
 1786年に別のエルツ一族が死に絶えてエルツ城はエルツ・ケンペニヒ一族単独で所有するようになる。19世紀になると時の当主カール伯爵は修復に着手し、1845年から1888年頃までかけて完成させた。現在エルツ家は他所に住んでおり、伯爵の代理人が住んで管理している。
3.3.1 レセプションホール
 現在は武器庫になっている。甲冑や三日月刀、円形の盾、弓矢などが展示してある。
3.3.2 リューベッアッハ・ウンターザール
 リビングルーム。この部屋もそうだが、100余りの居室のうち約40室に暖炉が着いている。この暖房こそが、この城が高い居住性を誇っている。
 フランダース鹿の絵入り絨毯は約1580年頃のもので、グリーンが主な色調なのでヴェルドゥーレンと呼ばれた。図柄は動物と植物でこの時代の典型だった。(右の写真はエルツ城のページからの引用)特に注目に値するのが油絵の具で描いた板絵。「グンゴリウスの血のミサ」「三賢王の祈り」などがある。
3.3.3 寝室
 2階に行くと寝室がある。天井にも壁にも一面に花と蔓草の模様が描かれている。後期ゴシック様式のチャペルの出窓は建設当時の姿をそのままに残している。
木組み構造の出窓の中にはトイレがある。城内には全部で20カ所のトイレがある。
3.3.4 選定候の部屋
 この部屋にはエルツ家から出た二人の選定候の肖像画がある。
3.3.5 騎士のホール
 城の中で一番大きなホールで、宴会場兼交渉会場である。三家族が住んでいた時。この部屋にはどの家族の誰でも入れた。中央の梁の下と部屋の4隅にはこの部屋では何をしゃべっても罰せられない、つまり言論の自由のシンボルとして「馬鹿」の面が、また、出口の上には寡黙のシンボルである「沈黙のバラ」がある。天井には、一族と親戚の紋章が描かれている。
3.3.6 伯爵令嬢の部屋
 当時の流行に合わせて造ってある。花嫁の寝台やベビーベッド、屏風などがある。
3.3.7 ヴァムボルトの部屋
 1600年頃南ドイツで造られた素晴らしい寄せ木細工の戸棚がある。
3.3.8 螺旋階段
 螺旋階段は場所を節約できるので、城塞建築にはしばしば利用される。階段のひねりは右上から左下になっているが、敵の攻撃を防ぐ場合に非常に有利になる。
3.3.9 旗のホール
 建築学的に最もこった部屋である。丸天井は星の形をした後期ゴシック様式。台付き時計や陶器製のストーブなどがある。このストーブは隣の台所から火をくべるようになっている。
3.3.10 台所
 中世後期のもので、1490年当時の状態を伝えている。

4.昼食
 12時半過ぎバスは再び田園地帯を走り始める。30分足らず走って今日の昼食場所のホテルに到着した。
 更に二時間は走るということで、同行の4組の夫婦のいくつかは、添乗員氏の誘惑の声に誘われるままにいくばくかのアルコールを注文した。食事は、アナウンスでは牛肉だったが実は豚肉だったというローストポークタマネギソース添えがメイン。メインの前にグリーンサラダが出た。デザートはバニラプディングということだったが、ムース状のものだった。ビール(2.7×1)ワイン(2×2)。

5.トリーアへ
 食事を摂ったホテルの前の坂を200メートルほど下ると、そこはモーゼル川。下ったところが観光船の発着所になっている。船影はなかったが、ゆっくりと流れる大きな川で、対岸の岸辺に2つ、見上げた山の山頂に1つ城を遠望できた。
 バスはこれからトリーアに向かう。川岸の両岸はワイン畑ならぬ、ブドウ畑。ここから優秀な白ワインができる。おそらくはその実をつける時期に川から適度な霧が発生してこの谷を覆うことになるのだろう。また土地もアルカリ質なのだろう。山肌に作付けされているワイン用のブドウ畑の中に、時折城が点在している。そうした風景に身を任せ、酔いに任せていると、ついうとうととなる。ふと目を開けると高速の表示は、トリーアまであと9qを示していた。

6.トリーア182
 程なくしてトリーアの新市街に入り、旧市街に入ったのだろうと思っていると、突如目の前にポルタ・ニグラが現れた。それから複雑な構造の町を少し走って、丁度バジリカの前の辺りにバスが停まった。ここからマルクト広場を通り、大聖堂を抜けてポルタ・ニグラに徒歩で向かった。
 トリーアの名前はB.C.57年のガリア戦記に既にこの町が出ていたことで分かるように、非常に歴史の古い町である。それ故にドイツ最古の町などとも称される。ローマ時代には人口およそ11万人と、現在の10万足らずの人口を凌駕する規模の町だったらしい。西ローマ帝国の最初に首都と定められた町だということでも、当時の反映ぶりが分かる。このトリーアの世界遺産は8ヶ所の部分からなる。正確な名称は、「トリーアのローマ遺跡群、聖ペテロ大聖堂、聖母聖堂」。認定理由からも分かるようにローマ遺跡である。

6.1 ポルタ・ニグラ
 この町のガイドさんも日本人女性。海外でこうしてたくましく生きているのは殆ど女性だ。
 ポルタ=門、ニグラ=黒いという意味の門。砂岩で作られているため、建設当初は乳白色をしていた。長い年月の間に、石の中にいた微生物の排出物が長時間の間に蓄積し、更にそれが酸化したために黒ずんできた。他の大都市、例えばケルン大聖堂が、酸性雨による酸化と排気ガスのために黒ずんだのとは理由が違う。
 円い柱は、接着剤を使っておらず、ただ積み重ねただけである。それでも地震がないので1800年もの間持ちこたえている。
 近づいてみると、城門の壁面に小さな穴があいているが、鉄の留め金が埋め込まれ更に鉛で結束するようにしていた。しかしながら金属部分は、フランク族が侵入してきたときに武器にするために取ってしまった。その跡になる。イランのキュロス大王の墳墓と同じ。また、文字が刻まれているが、これは落書きではなく、ローマ時代に切り出した石切り場がわからなくならないようにと書かれたもの。また、筋のようになっているのは、切り出したときののこぎりの跡。のこぎりは水車によって動いていたという。
 門は二重になっており、その間は数メートルもあり、そのそれぞれに2つの門が作られている。中央部分には、敵が門を突破したときに上から石や熱湯が落とせるようになっている。この辺りのセンスは古今東西変わらない。
 ところでこのポルタ・ニグラはもともと左右対称に造られていたが、後に教会にするために内側から見て右側の塔部分が壊された。更に左側には建て増して尖塔のようにしていたという。古い時代のイラストをガイドさんが示してくれた。

6.2 カール・マルクスの家
 カール・マルクスが幼少期(三歳くらい)から17年間住んだ家で、今では階下は眼鏡屋になっている。従って一般の見学は出来ない。しかし石造りの家は、こうして今も残っている。そして博物館になるわけでもなく使われている。日本の木造なら、その維持だけで大変だろう。ともかく、ガイドさんがそう説明してくれなければ、判然とはしない状態である。
  マルクスは誰でも知っている共産主義思想を考え出した人。近代で言えば、一番世界で知られている思想家と言ってもよいだろう。彼は平民(父親はユダヤ教の牧師とも言うべきラビの家庭に生まれた人で生業は弁護士だった。母親もユダヤ人。)だったが、奥方は貴族の出だったらしく、結婚当時のそれはちょっとしたスキャンダラスな話題を人々に提供したらしい。彼は「18歳のとき姉の友人で検事総長の娘だったイエニー・フォン・ヴェストファーレン(22歳)と婚約した。」ということだ。
 ユダヤ系のドイツ人であった彼の生まれた場所は、もう少し町の中心部にある(ポルタ・ニグラ前の家から6〜700メートル離れている)。偶然に通った瞬間をバスの中から撮影したので、単なる写真だけになっているが、勘弁願いたい。生家は写真の中央の黒ずんでいる家がそうらしい。写真の前に何人かが佇んでいることがわかる。こちらの方は何か解説があるのかも知れない。

6.3 1230年の家
 次に1230年に建てられた三聖人の家を見た。カール・マルクスの家はポルタ・ニグラの脇と行って良いような位置にあったが、もう少し大聖堂へ向かって歩いてゆく途中にあった。
 この古くから立っている家は、ドアが2階部分についている非常に奇妙な形をしている。当時1階部分はすべて閉じられ窓もドアもない状態だった。それは、ローマ崩壊後治安が悪くなったので、こういう造りにし、はしごを使って出入りしていた。
 夕暮れになると鐘がなりいっせいにはしごを引き上げて夜間はじっと家に篭っていた。
 なお三聖人の家というのは、最上階のまで部分に三聖人の像があったからで、特段外に意味はないそうだ。

6.4 ペテロのマンホールの蓋
 この町のマンホールにはペテロの像が刻まれている。ペテロはこの街の守護神なのであちらこちらと、この町にはペテロに関するものがいくつもあるらしい。ペテロはイエスの第一の弟子だが、それ故にイエスから預かった天国の鍵を持っているので、我々素人にもよく分かる。所でこの蓋は何とメイドインチャイナ。ふたの表面に書いてあるところがすごい。町ではかっこうわるいので消したのだが、いくつかは消し忘れてあるらしい。

6.5 ユダヤ人横丁
 12世紀後半から14世紀までユダヤ人が生活していた。十字軍が各地に遠征するようになると、イエスを裏切ったユダの話が思い起こされユダヤ人に対する恨みがよみがえったり、金儲けのうまかったユダヤ人に対する妬みなどが生まれ、ユダヤ人たちは一塊になってここのように集まって生活するようになった、あるいは強制的にそうさせられた。
 入り口には門をつけて出入りを制限した。ユダヤ人ゲットー。60軒の家とシナゴークがあったという。マルクスの父がキリスト教に改宗した事情もこのあたりにあったのだろうか。
 ユダヤ人は迫害を元々受ける立場にあって、それが宗教との関係で複雑化し、それ故に身を寄せ合って暮らすようになったという事情は、中世以降の欧州の普遍的な姿だったらしい。ナチス一人だけを問題視できない、人種差別の問題がここにある。

6.6 マルクト広場
 ふたたび、マルクト広場に戻ってきた。やはり我我の目に着くのは、「ワインの立ち飲みコーナー」。2〜3ユーロでおいしい白ワインが飲めるらしい。ただしいわゆるつまみを食べている人はいなかった。
6.6.1 市場許可の柱
 ここにも中央の部分に、市場の許可を与えた柱がある。
6.6.2 参事官の家
 市場が一定程度形成されると、次第にその価値が増すと共に、徐々に力をつけた参事官は、自由都市を希望して大聖堂と対立するようになる。この参事官の家が広場の片隅にある。1階の柱には4人の聖人が彫られている。左からヤコブ、聖ヘレナ、ペテロ、パウロ。特に聖ヘレナは、この町との関わりが大きく、イエスの十字架の釘や聖衣を持ち帰ったりした人。この二つは大聖堂に保管されているが、釘は既にさびてボロボロになってしまった。ただしこれはあくまでも伝説であるとのこと。ヘレナはミラノ勅令を出したコンスタンチヌス帝の母親で、ゴルゴダの丘からそれらを見つけたという。
6.6.3 ラテン語の家
 参事官の家は角にあるが、そのお隣、つまりは曲がった角にある家が「ラテン語の家」と呼ばれているところ。上の写真では、白いのが参事官の家で、そこを曲がったところ。
 聖書一節の文字が書かれている。ここはバビロニア時代に既にここに町があり反映していたという(大聖堂以前-キリスト教以前-から住民はいたという主張か?)ことで、トリーアに栄光あれと結ばれている。
6.6.4 噴水
 15世紀に不仲となった市民と大聖堂が16世紀に和解した印として造られた。
 ルネサンス様式で華やかである。ホフマンという人の設計。一番上にいるのはペテロ。別名「ペテロの噴水」とも言われる。
 和解したと言っても実際には市民の方に不利であったので、その悔しさを彫刻の中に残した。周りにある4人の女性(これは博愛だとか知性だとかを表している)の像に隠れるように彫ってある、おしりを鏡で見ている猿の像がそれ。丁度鏡で見るおしりは大聖堂の方を向いている・・・と言われている。
6.6.5 大聖堂
 右側にある聖母教会と共に320年に双子教会として造られた非常に大きな教会。ロマネスク様式。造った頃はマルクト広場まで達するほどの広さがあった。後ろにどんどん付け加えられたが、赤煉瓦は当時のもの。地面が今より3mほど低かったので、入口のアーチ模様がずいぶんと下にきてしまっている。
 パイプオルガンは「ツバメの巣」とも言われ有名なものである。
 また、聖ヘレナが持ち帰った聖衣の部屋もある。実際のものは目に出来ないが、写真が公開されていた。
 ここの祭壇の中央には穴があいていて、その奥にキリスト像がある。その丁度下辺りに持ち帰られた聖衣が収められた箱があるという。入口付近の天井の彫刻がきれいだった。

6.6.6 聖母教会
 初期のフランス風ゴシック建築。バラ窓がある。写真では、緑のシートの火糧散る部分の右側が聖母教会の入り口。床を発掘中に下にローマ時代の柱が見つかったために、現在中にはいることは出来ないかった。
  外側から除くときれいなステンドグラスがかいま見えて、時間的な問題もあったが、入場や外観の見学があまりできなかったのはすこぶる残念だった。

6.7 ペテロの門
 実はバジリカの入場期限が5時ということで、それで大聖堂の見学はそこそこに急いでバジリカ方向に向かうことになったらしい。向かう途中大聖堂を横から見たが、石積みの部分が年代的に分かれていて増改築の過程がわかって興味深かった。
 バジリカの祭壇のある部分の更に手前に、ペテロの門がある。モチーフがそれだからだろうが、ここは選定候の住居の入口の門であったもの。

6.8 バジリカ
 3世紀の宮殿。謁見所として使われた。コンスタンチヌス大帝の戴冠式をした所。外側の柱の所にローマ時代当時の赤色が残っている。ローマは侵略した土地に同じ形式でこのバジリカを建てたが、その中で現存する唯一のもの。価値がい。
 内側の左側の壁は建設当時の、すなわち1700年前のもの。小さい穴の後は、大理石の板を止めていた金具の跡。右側の壁は、選定候の住居とつながっており、暑さが2.7mもある。
 このバジリカは往時床暖房になっており、暖められた空気は壁を伝って窓の間にある穴から中にはいるようになっている。さすがにローマ風呂が好きだったローマ人の着想だ。というよりも、この地が、丁度スカートのようなものしか身にまとっていなかった当時の兵士にとってはあまりにも寒い場所だったのだろう。
 壁の窓は、ローマ時代に似せて造ってあり、当時は透明なガラスは造れなかったので、現在でも改築時に往時と同じように曇りガラスにしてある。また、現在は祭壇になっている一番正面の窓は、4つある内の中央部二つは、外側二つより小さめに作られており、遠近法による視覚的効果を狙っている。
 このバジリカも、ローマ滅亡後は、廃れていった。それでも後世に伝えられたわけで、今我々はそれを目にしている。その規模の大きさにまずは圧倒された。そしてローマ遺跡で、ほとんど記憶がないくらいに、きちんと屋根のある建物を見た。感動ものだった。

6.9 その他
 ローマ橋までバスを走らせる途中に、車窓からいくつかを見学した。
  最初に見たのは、「ローマ時代の風呂」跡。それから新しい「シナゴーク」。古いものは戦時中に破壊されてしまったから(400人くらいの信者がいた)。ただし今ではユダヤ教徒というのは、殆どがロシア系の人という。
 更に、「最古のワイナリー」という所を通る。何のことはない、ローマ時代の穀物貯蔵庫のあったところで、今でもワイナリーが存在するので、そういうニックネームがついているらしい。

6.10 ローマ橋
 ローマ橋は相当くねくねと道を通って、ようやく渡った。渡ってみれば何ともない橋だ。
 橋脚部分の下の方が往時の姿をとどめている。ローマ橋を割り終えて曲がったところに、「コンスタンチヌス帝の像」があった。彼はこの町と深い関係にあるから当然の像であり、あちらこちらにあるらしい。

7.ホテル Golden Tulip Trier ★★★★ 137号室
 ホテルはゴールデンチューリップ。早めと言っていたが、結局はなんやかんやで6時半の到着。久しぶりにバスタブで体を休めた。
 夕食もホテルで食べた。グラスワインも白だけで3種提供されていた。辛口、ミディアム、甘口とあった。勿論ビールも。我々は、そのすべてに挑戦して、同行の人々はあきれ顔であった。
 帰ってきてみてここが一番よいホテルだったかもしれない。