9月21日(日)
  バンベルク−ワイマール−ヴァルトブルク
  −アイゼナッハ

ホテル(0830)(1150)昼食(1240)市内散策(1435)(1550)ヴァルトブルク城(1715)(1725)バッハハウス(1800)(1820)ホテル着

1.朝
 今朝はjunの方が早く起きた感じだ。4時少し前のこと。昨日は帰ってほぼそのまま寝たので、日記のアウトラインもまだだったから。今日の朝食は7時半から(まぁそれは昨日と同じなのだが)で出発は8時なので、何でもせっかちな我が家としては、食事前に全て終わらせたかった。というわけで、5時半頃からnoriが日記に、junが荷物整理に取りかかった。荷物整理が終わる頃noriも日記を終了し、パッキングをして7時となった。
 もう一度昨日のスーパーに出かけたが、今日は日曜日で休み。スーパーが日曜日に休むなど日本では考えられないが。仕方なく戻ってきてレストランへ行くと、10分前なのに案の定もう開いていて、一昨日のドライバーが食事をしていた。昨日も早かったのだ。

2.ワイマールへ向けて
 一番最初に乗り込んだので、カーナビを除くと214qとあった。一回の移動では、最初の日にフランクフルトの空港からケルンへ移動したよりも長い。しかしながら今日は日曜日とあって、一般車両も少ないが、トラックの台数が皆無と行って良いような状況の道路だったので、かなり快調にバスを進めることが出来た。
 バスは快調であったが、雲行きは怪しかった。最初ポツポツとフロントガラスを濡らすだけの雨だったが、途中山越えをする辺り(旧東西ドイツ国境あたりか)から本降り、そして雷までは登場しなかったがかなりの激しい雨となった。しばらくすると雨は小やみになり、やがて殆ど雨粒を感じないまでになった。そして途中一度トイレ休憩を取った。junが眠そうなので、noriはエスプレッソを注文した。
 バスが走り出すと、またまた雨になった。雨域がどうやら移ってきたらしい。本降りの表現が適当と思われる雨量のままバスはワイマールの町へ入ってきた。
 これまで見てきた旧西ドイツの町並みとはどこか、しかし確かに少し町の感じが違う。そう見てしまうせいかもしれないが、建物に優しさが?かける感じ。機能美というよりは機械的な感じがした。しかしそれも、旧市街ともいうべき辺りで、川を経て旧市街に入ると感じは再び一変し、まるで映画のセットのようだ。誰かが雨なので、シェルブールの雨傘などを連想していたが、その連想が許せる町だった。

3.昼食
 バスは可能な限り近くまで接近してくれたが、それでも雨脚が強く結構濡れた。石畳なので、足の悪いnoriは結構難儀をしながら歩いた。200メートルほど歩いて着いたレストランはきわめて近代的なおしゃれなバー風の、いやたぶん夜の営業形態は多分そうであろう雰囲気の場所だった。
 食事の内容は、オニオンスープ・ポークシチュー(ジャガイモ、サワーキャベツ添え)・木の実のアイスクリームだった。全体的にここの料理はかなり辛かった。おそらくは伝統的な味付けはかような辛さなのだろう。今から想像しても仕方がないが、旧東ドイツ圏は味的には旧来のドイツを引き継いでいる地域なのではないのか。母親に作ってもらった舌は、なかなか変えられない。
 ところで我々の与えられた席は、ほぼ天窓で覆われている場所で、それ故に雨の状況が確認できた。おまけに一ヶ所雨漏りまでしていた。これは店の造りの問題よりは、雨足の問題だったというべきだろう。その雨も少しずつ食事中に弱まった感がした。

4.市内散策
 レストランを出る頃には、雨足はかなり和らぎ、帽子を持っているjunは傘を差さずとも気にならない程度までに回復していた。添乗員氏の私は晴れ男という言葉に期待をしたい。

4.1 国民劇場187
 ワイマール憲法の決定がなされた所。前にはゲーテとシラーの像が立っている。
 さて話を国民劇場に。ここは、もしもということが歴史を語る際に許されるのならば、輝かしいドイツの歴史を誇るべき場所となったはずの場所であった。ナチスの台頭を許さなければ、いや逆の言い方をすればナチスの台頭を許してしまうそもそもを、ここで成立させたともいうべき場所であった。そう、ワイマール憲法がここで生まれた。この小さな町ワイマールはその意味で政治史の舞台の中に今でも登場する。

4.2 バウハウスミュージアム
 広場を挟んで反対側は、バウハウスミュージアム。このバウハウス本体にも行きたかったが、何しろこのツアー駆け足ツアーなので、その意はかなわない。ランプなどが展示されているらしい。アールヌーボーの時代のもの。バウハウス本体は先にも書いたように別の場所にあるが今回は訪れることが出来ない。わずか5分くらいの余裕で、バスは迂回できたものを、残念だ。いや、この街で少しの自由時間があれば行けたかもしれないほどのところにあった。
 バウハウスとは、世界遺産にもなっている、ドイツの戦前のニューウエーブともいうべき建築運動、およびその教育施設。

4.3 ゲーテハウス
 選定候がゲーテを招いて住まわせた家。1週間のつもりで当初は他の家に住んでいたが、長居することになり、6年後にこの家に移り住む。非常に大きな建物だが、当初から全体を使っていたわけではなく、少しずつそして最終的に全体を自分の物にしたらしい。写真禁止なので、外見しか撮影がかなわない。
 ゲーテは、当時は町の噴水の場所などまで水を採りに行かねばならなかった時代に、生活に必要な水は自分で屋敷内に引いてきた。馬車の出入り口があり、家屋の裏側の小屋まで直接乗り入れたらしい。当時の馬車を模した物が展示されていた。当時の馬車は、近距離用で、20kmを3時間で引くくらいゆっくりした速さだった。
 室内には趣味で集めた彫刻や家族の使ったものなどが展示されている。家具類は全てゲーテ当時の物である。残念ながら、もっと光を!と言って絶命したその場所、椅子の上だったという場所、は見逃した。というよりガイド付きだったのだが、その説明はなかった。

4.4 シラーの家
 実は国民劇場を見てゲーテハウスに行ったが、その前を通過していった。同じガイドさんが巡回してくれるのだから、最初にこちらを見るべきではないのかと思った。勿論年功序列を重んじるのなら別だが。時間のない割には無駄な行動だったよう思う。それとも国民劇場は添乗員氏の思いやりか。
 シラーの家の裏に記念館が出来ていて、そこからシラーの家に入る。さて入口を入ると直ぐにシラーを記念したコインやメダルが置いてある。彼はゲーテに誘われてこの地にきたが、4年間しか住んでいない。ゲーテとは非常に仲が良く、直ぐ近くに住んでいるの往復書簡をやりとりするほどだった。
 この家はゲーテの家より間取りがかなり複雑な感じで、またどちらかといえば一部屋の大きさが小振りだったが、住み心地としてはどうだったのだろう。

4.5 イルム公園
 ゲーテやシラーが散策したであろうこの公園の入口で、ゲーテと同じ雰囲気を楽しむことにした。この公園はかなり広く、ここでも残念ながら我々は全体ではなくほんの少し雰囲気に浸るだけしかできなかった。
 公園の端には、市の城があり、ここに選定候がいた。
 この頃になると雨は上がり、薄日まで差すほどに天候は回復してきた。

5.ヴァルトブルク城188
 ワイマールとの距離は100qに満たない。しかしこれから先は実は時間との勝負のようなタイトな上に更にタイトなスケジュールで結果的にあった。
 このヴァルトブルク城は1067年簡単な国境の砦として築かれたのが最初。1080年始めて文献に登場し、その存在を世に知らしめた。エリザーベートの献身的な活躍や歌合戦などで平和的存在として名を広め、文化的なことで名を轟かせた。
 そして現在では、ルターが匿われ、そこで一時期隠遁生活をし、ドイツ語訳聖書の作成をした場所として特に有名。

5.1 階段
 バスは城の下までしかいけない。坂道を登る階段が付いている。ときどき階段のない坂道になる。展望台までは180段、そこから城までは更に62段上っていく。時間的には、展望台で3分の休憩を入れて15分かかった。帰り道の計算もしておかなければならない。
 城の中に入ると、最初に往時の遺物などが展示されている。写真のそれは、たぶんここを作った地方伯ルードヴィッヒ・デア・シュプリンガーではないかと思う。
 ここでの解説は、現地のガイドさんというか案内嬢が、カセットテープのスイッチを場所場所でいれて、日本語の解説を聞く。けっこう細かな説明であったが、聞きやすかった。

5.2 騎士の間
 中央に柱があり、天井に広がるように造られている。写真でわかるように比較的大きめの部屋。床暖房も完備していたらしい。丘の上の城はさぞ冬は寒かったことだろう。ここは11世紀から13世紀まで領主の部屋であった。
 四隅の窓側の一つの脇に大きな暖炉も設けられている。中央の柱が印象的だが、その上部および土台部分の彫刻もきれいに残存(または修復再現)している。

5.3 食事の間
 食事の間というが、現在はそれに関わる調度品はほとんど展示されてはいなかった。
 木組みの力強い印象を与える天井と赤い縁取りの窓が特徴的であった。この赤はかなりきつい色を塗られている。やはりここにも中央部に柱がある。強度のためと思われるが、会食をどうやってしたのか興味がわく。
 ここの場所から一旦外の通路に出る。通路と外側には勿論壁があるが、そこにはめられている柱が特徴的。二本の飾り柱と1本の柱の組み合わせで、厳つい城だが、細やかな演出もされている。
 そこから外を見ると大きなため池があった。ひょっとすると往時は、らせん式の井戸だったかもしれない。

5.4 エリザベートの部屋
 豪華絢爛で、金を豊富に使ってある。モザイク画やフレスコ画で部屋全体を飾っている。それらは、エリザベスの人生について描かれている。したがってエリザベートの部屋と言うが、彼女の時代の姿ではない。ここは女官達の部屋として使われたらしい。金を多用したガラスモザイクは、薄明かりの中でも輝きを主張していた。
 ところで、エリザベートは4歳でこの地にきた。領主の后として。政略結婚の極みであったろう。14歳の時に結婚した?彼女は救貧民活動をしたことで有名。なぜ幼くしてこの地にやってきた彼女が、そうした活動に携わるようになったのかは知るよしもない。しかしここで大事なのは、彼女の性格もあるだろうが、4才にして城に来たということは、彼女に付いてきた周りの人や、この城の教育のシステムがそうさせたのであろうとか思う。
 しかしながらこの幸せはつかの間で、22歳頃夫は戦場で病死。未亡人になってこの地を去る。彼女の慈しみの精神は、一地方のこの小城を著名なものにするのに一役買っている。

5.5 礼拝堂
 1320年頃建立。壁には6人の使徒が描かれている。これはフレスコ画で、かなり薄くなっている。
 柱はロマネスク様式のもの。
 現在もここでミサやコンサートなどが行われるとのこと。それゆえであろうか、祭壇と共に、小さなパイプオルガンが置かれている。

5.6 エリザベートギャラリー
 14枚のフレスコ画で廊下が飾られている。ここもエリザベスの一生が描かれている。その中に「バラの奇跡」の1枚がある。
 これは貧しい人たちにパンを配っているときに突然夫が現れる。エリザベートはとっさにまとっていた布で、配っていたパンを胸に隠す。夫の「何をしているのか」との問いに、「バラを摘んでいます」と答える。「それではその胸に抱えて隠しているバラを見せよ」と夫君が迫る。そして夫が中を確かめると何とパンのはずがバラに変わっていた。夫君とてパンを配っていたことは先刻承知で、この奇跡を目の当たりにして、これは神の教えそのものだと理解したという。
 エリザベートは、夫の死後も貧しい人たちとの関わりを続け、24歳で死亡した後、聖人と認められた。

5.7 芸術の間
 豪華で大きな部屋で、客をもてなしたり、歌合戦をしたりした部屋。『中世伝説であるタンホイザー伝承で歌合戦の舞台となった。歌合戦とは、12世紀のヘルマン1世(1190年-1216年)の時代に、この城の広間で盛んに行われた歌による合戦で、のち13世紀に入って「ヴァルトブルクの歌合戦」の題で歌集が編纂された。』(日本語版WikiPediaより)
 一段高くなっている部分があり、舞台のようになっている。実際歌などが披露された場所とのことだが、後方の壁に文字の書かれたタペストリーがあったが、その内容までは定かではなかった。

5.8 ランドブルサの部屋
 この部屋も他と同じように中央部に柱がある構造。この中央に置かれた柱がこの部屋ではライオンとワシになっているのが特徴。ライオンとワシは権力と力を表す物とされていた。ライオンというよりカエルに見える。ワシも厳つい感じはあまり感じない。台座と頭部を拡大して写真に入れてあるが、noriは大型の水鳥がカエルを狙っているような構図に見えて仕方がなかった。
  壁面上部、日本まで言えば欄間に当たる部分にぐるっと絵画が掲げられている。写真でも一部その様子がわかるだろう。それぞれに物語があるのだろうが、これまた残念ながら詳細までは判じ得ない。狩りの場面や、祝宴の場面などがあり、一貫性のある物語があるのではと思われる。

5.9 祝宴の間
 19世紀再建のもの。音響がよく、今でも、この部屋もコンサートが行われていたりして使われている。
 周りの装飾はキリスト教徒の勝利を表す。19世紀頃理想の部屋とされた。
 天井に紋章がある。どれがどういう家柄かは判じないが、威圧感がある。暖炉は窓側に一番後方と中央に後2ヶ所の三ヶ所ある。シャンデリアも二重になっていて豪華。
  真ん中の暖炉の前にはドイツ国旗の原型ともなった旗が飾られている。1817年、この部屋で学生による民主主義のデモが行わた。このときに使われた黒・赤・金色の旗。だいぶ色褪せているが、その意味でもこの城は重要。

5.10 宝物館
 我々にはあまり時間が残されてはいなかった。宝物館は残念ながら素通りをしてもらいたい旨の話があった。
  しかしここで見過ごすわけには行かないのがマルチン・ルターの肖像画だ。よく見るルターの絵と共に、ひげを剃ったルターの絵があるからだ。彼はこの城でも暗殺などの危害を避けるために、名を変え変装し髭を生やしていた。まぁ使用前使用後の写真みたいなものだが、その意味で価値ある肖像画。
 しかし思いの外小さなもので、まるでポートレートのような2Lサイズほどの大きさだった。ガラスケースの中なので、光って上手く撮れなかった。

5.11 ドイツ語訳の部屋
 最後にここだけは見なければならない。ルターが匿われて、翻訳をした間。ラテン語からの翻訳(解説の日本語ではギリシャ語)からの翻訳。当時は僧職にあっても既にラテン語を読めなくなっている者もおり、ドイツ語訳は飛躍的に民衆に受け入れられたものと思われる。その意味でも宗教的に一大改革だっただろう。
 ここから転げるように山を下り、バスに乗った。目指すはバッハハウス。

6.バッハハウス
 時間がかなりおしており、17時20分に到着。生家の横に記念館があり、そこの玄関には18時まで開館とある。先のヴァルトブルク城の時間も決まっていたので、オンタイムスケジュールなのだろうが、かなり綱渡りだ。かなりの年配の方もおり、この方がまた元学者だったようで、老いてもなお好奇心が旺盛、というか時間に関して頓着がない。危険なスケジュール。我が家としてはハラハラドキドキだった。
 さて入場して17時30分からのスケジュールのチェンバロの生演奏を聴く。
  同じ鍵盤楽器ではあるが、チェンバロなどの古典的な鍵盤楽器は、弦をひっかくようにして音を出す。バロック時代のあの抑揚のない、うまく言えば周りを包み込むような音楽は、ここに由来しているのだろう。因みにその後に出現したピアノは弦をハンマーで叩いて音を出すので音の強弱のコントロール可能。
 チェンバロの演奏が終わると時間があまりない。駆け足でバッハの足跡をたどる。
 最初は、バッハの頭部の復元。バッハの遺骨は採取されていて、その骨格からかなりふくよかな姿の顔が復元されている。多くの弟子を引き連れて歩く姿が想像できるような、そんな感じの頭部復元が最初にある。
 さてここからバッハの旧宅にはいる。
  この音楽の父と言われる楽聖は、言われているよりは往時としてはかなり贅沢な生活をしていたように思えた。書斎のようなところ、奥方の部屋、執筆をしたと思われる部屋などが当時の調度品類、あるいは当時の楽曲に関係のある書物などと共に展示されている。最後は台所だった。
 台所を出ると記念館の方に再び入る。そこではバッハのいろいろな研究の成果を見ることができるのだが、語学がだめな我々は球体の椅子でバッハの音楽にしばしの時を楽しんだのみであった。閉館時間が迫ってきたので、追い立てられるようにして記念館を出た。バッハの優雅な宮廷音楽に似つかわしくない、慌ただしい見学だった。

7.ホテル
 Gobel's Sophien Hotel (アイゼナッハ)★★★★
 107号室 シャワーのみ

 ホテルは市街地区域の外れにあったので、まぁまぁ明るい内に到着した。バスが到着すると、ホテルの女性の方が出てきた。なんと路上で添乗員氏に鍵を渡している。ホテルの場所が定かではない。荷物を運び始めて始めてやっとホテルがどこかだか分かった。いくつか数少ない旅行をしてきているが、路上でキーを渡されたのは初めてだった。それでもホテルのランクは★★★★なんだって。ドイツのホテルランクの基準がわからない。
 というわけで、ここもドイツ版ビジネスホテルの風で、部屋は機能的ではあったが、そう広くはなかった。通りすがりの旅行者にとっては、しかしながらこれで十分だ。豪華さに走らないでよい。(ただし重い荷物があるので、ポーターだけは必須だ。また最終日に泊まった屋根裏部屋は論外だ。)
 夕食はホテル内のレストランにて。食事はおいしかった。