9月18日(木)

  ケルン−シュパイアー−マウルブロン−シェンベルグ

ホテル(0900)(1207)シュパイアーにて昼食(1315)(1330)大聖堂(1430)(1555)マウロブロン修道院(1715)(1830)ホテル着

1.朝
 今朝は頑張ってnoriは4時半まで持ちこたえた。それが限界。junもその頃同じように起きた。その後junが日記などを整理して、7時少し前に朝食へ行く。
 レストランに入る前に、無料のインターネットがあったので、手紙と天気を確認する。手紙は4500件くらいの駄メールを削除。その後台風が心配だったので、進路を見る。関西から関東を縦断する予想。関東には20日に接近とある。そこで職場にそのことについてメールを送った。それからもう一つ職能団体の担当に、会議を欠席するが私にかまわず会議を進めてくれるよう依頼のメールをした。ただし、日本語は使えないので、ローマ字だった。
 今日も9時出発なので、朝食後noriは必死になって昨日の日記を仕上げた。8時40分くらいに終わったので、階下に降りていくと、殆どが揃っていた。何かトラブルがあったようで、それで出発はほぼ定刻の9時になった。今日の座席は2列目を第一列と考えると、三列目。あまりよい席ではない。出発すると直ぐにローマ風呂、そしてローマ橋の脇を通った。

2.今日は最初の目的地が昼食場所
 運転手の話だとほぼ200キロを走る。
 バスは田園地帯を走る、走る。最初の頃は風景に見とれていたが、それでもnoriさえもそれに飽きてきて、次第に居眠りしがちになる。何しろ北海道だらけのような所を走っているので、風景の劇的変化は望めない。こっくりこっくりしていて、ふと目を覚ますと2時間あまり走っているのに気がついた、そして、バスは最初の日に停まったドライブインと同じ名前のドライブインに停車した。ここでビールとつまみを買う。そこから、更に小一時間走り、ようやくバスはシュパイヤーの町に入った。
 大聖堂がちらっと見えたなぁと思っていると、町中の小さなホテルにバスは停まった。本日の昼食場所に到着。今日も酒場ではなく、ホッッとする。
 ここではトマトの「クリームソース」と「ジャガイモの塩ゆでと炒めたほうれん草が添えられた魚のフィレソテー」、と「アイスクリーム」が出た。ほうれん草は久しぶりといった感じで、しかも相当量があったが、緑色系が少ない食事にあっては、皆けっこう食べていた。
 飲んだものは、ビール(2.6×1)と白ワイン(3.2×1)。ビールはあまり特徴はなかったが、その容器の足の部分に特徴があった。白ワインはミディアム系。ほぼ一時間かかって食事をした。「酒場でなくてよかった」などと書いたが、この頃になると、毎回アルコールを飲むのが儀礼化してきて、日本に帰るのが少し怖い気になり始めていた。
 シュパイアー大聖堂までは近いようで、結構時間がかかった。途中ルフトハンザがやっているという航空博物館の前を通った。かつて使ったと思われる旅客機がビルの上に展示されていて、格好の被写体だった。男性陣は迷うことなくカメラを向けていた。

3.シュパイアー大聖堂183
 ここシュパイアー大聖堂も世界遺産に指定されている。ヨーロッパ最大のロマネスク様式の教会。塔が4つあるのが特徴。左の部分(ファサード部分)が先で1030年に建てた。右の部分が新しく、ゴシック様式。アーチの形を見ると分かる。ただ、窓は形としては上部が丸みを帯びているのでロマネスク様式を取り入れているが、大きさはかなり大きくゴシック様式の形式だとのこと。つまり、過渡期のものと言うことが出来るだろう。

3.1 正面から
 後期ロマネスク様式で、重心を低く見せるような造りになっている。両側の塔と中心の高さにあまり違いはない。これがゴシックになると、塔をひたすら高く見せる形式に変化してくる。普通のカメラでは引かないと全景が取れないと言うことで、ファサード前の道を少し後戻りして全体を鑑賞する。
  ファサード前は広場になっていて、更にその手前には道がある。大聖堂を見ながら後ずさりすると、程なく左手に市庁舎となる。その辺りかその更に少し奥が写真のポイント。
 全体がきれいに写ると共に、ファサードの上の丸窓(バラ窓)が非常に美しい。

3.2 内陣
 最大と言わしめるわけは、二つある。第一は後から側廊部分を拡幅している。更には後陣を後から増設しているので、結果非常に縦長になったこと。
 更に、内部にあって視覚的にも工夫をしている。それは中央を高くして広く見せるようにしてある。両側の側廊は、その中央部分を支える役割を持っている。
 中央部の絵は、キリストの誕生を描いている。側廊のレリーフは、入って左側が、キリストの最後の1日、右側が十字架にかけられた後のキリストである。窓のガラスは元々はステンドグラスだったが、第二次世界大戦で破壊されてしまったわけだが、元の様子が分からないので、曇りガラスにしてある。それはその当時、未だ透明なガラスは出来ていなかったから。ただ首を揚げないとそれらは見ることはできない。神を崇める効果もあろうが、少し鑑賞には高過ぎはしまいか。
 表からきれいに見えたバラ窓が、中からは実は見えない。バラ窓があろうと思われる場所には、パイプオルガンが置かれている。設計ミスか?と言われているらしいが、そのような思いつきで作られていることはないのだろうと思う。音響的な効果が一番の位置に作られたと言うことなのだろう。ただしこのパイプオルガンは現役かどうかは聞き逃した。というのも、正面祭壇部分左手の壁に新しいパイプオルガンが設置されているからだ。ここも次に書く地下聖堂と共に、現在でもンサトーなどにも利用されており、その場合にはこちらのパイプオルガンが使われているらしい。というのも、コンサートの準備にはその前が使われていたから。
 奥の祭壇は、11世紀に作られたもの。その手前にあるシャンデリアのようなものは、王冠を表している。国の王と宗教の王の意味がある。

3.3 地下聖堂
 この大聖堂の地下にはコンラート2世をはじめとする、4人の皇帝と4人の国王、そして3人の皇后と5人の司教が埋葬されている。
 また、ここにはロマネスク時代の十字架が残されている。張りつけられたイエスの手や足の様子からロマネスク時代だと分かるという。このキリストは力尽きる直前の様子である。足の部分もくまれてはいない形式だ。
 ここは音響がよい。ということでここもコンサートが行われる準備中。こうした墓に囲まれて、更には林立する柱などで多くは演奏者さえ見えない場所で、コンサートを聴くという聴衆の心ははどんな心境なのだろう。

3.4 天国の門?
 正面に取り付けられたドアにはキリストの生涯?のレリーフが取り付けられている(ノアの方舟のような絵もあったから新旧聖書門語りといった趣のものなのかも知れない)。
 このレリーフの内容は定かではなかったが、そこに描かれている図柄は非常に単純化されていて、かなり漫画チックだった。あるいは子供の描いた絵のようでもあった。

3.5 オリーブ山
 正面から駐車場へ向かう途中にそれはある。かつては大聖堂の南壁に繋がっていた回廊の中央に置かれていたが破壊されたことから、19世紀に新たに作製された。
 オリーブ山のジオラマ風のもの。高さは全体台座から6〜7メートルある。現在は露座で、そのジオラマ風の全体を覆うように屋根がかぶせられている。更にその周りには柵がある。それ故に全体の把握は難しい。

4.マウロブロン修道院へ向けて
 ところでシユバイアー大聖堂の駐車場は非常に広い。また大聖堂も非常に大きい。それ故に出入り口から駐車場までは老人の足であれば10分弱もかかろうというもの。駐車場の大きさは同時に、ここが祈りの場所としてもなお生き続け人々の信仰の大きな対象になっていると言うことだろう。駐車場から見ると他の車の姿が邪魔ではあるが、4本の塔を持つその特徴的な姿の全体を確認することが出来る。
 その駐車場をあとにして、再び航空博物館の前を通る。この辺りからもシュパイアー大聖堂の遠望がきき、皆が盛んにシャッターを切った。勿論、junもnoriも。
 さて次に訪れるマウロブロン修道院までは事前の資料では70qとなっているが、途中で渋滞に引っかかった。高速三車線が一杯になっていた。途中工業団地のような場所も通ったので、そのせいかもしれない。車は迂回(そのように見えた)しながら進んだ。また途中運転手が曲がる場所を間違えたり、更には修正して出た道が通行止めだったりして、1時間20分ほどかっかった。

5.マウロブロン修道院184
 苦難の末よう到着したマウロブロン修道院は、そこだけが切り取られた古の田園都市という風情の場所だった。我々はその中心をなしていた教会部分を中心に観光をした。ここに流れている時間のことを考えると、今回の旅程は少しせわしないなぁと感じた。というわけで、のどかな風景の場所というのが第一印象。

5.1 外観
 最初にインフォメーション横の建物(この建物も往時の施設だが何のためのものだったかメモし忘れた)で、現地の解説者にジオラマ風の模型を使って説明を聞いた。
 このマウロブロン修道院は1147年に建てられた。自立するために、祈りの場だけではなく生活に必要なものをすべて調達できるよう様々な場が設けられた。農業用敷地や、職人の家、製粉所、厩舎などが揃っている。
 それらの仕事を主にする人たちと祈りを主にする修道僧がいた。つまりは「祈りを主で労働を従とする修道士」と「祈りを従とし労働を主とする使徒(レイブラザー)」の二種類の人が、そこには存在したらしい。
  そして彼らは、別々の祈りの場を持ち、決して交わることがなかった。つまり、宗教的存在とそれを支える存在がこのマウロブロン修道院を成り立たせていた。
 16世紀に宗教改革(そう、ドイツはルターを輩出した国でもあった。)が興り、その嵐はマウロブロン修道院も別ではなかった。カトリックからプロテスタントに改宗することを要求された彼らはそれを拒否してここから出て行った。しかしながら、その後ここはプロテスタントの学校となった。そのことが幸いした。そのために、建物は破壊されることなく今日まで残り、保存状態も良いことから世界遺産に指定された。この学校は今もなお続いており、かつてのマウロブロン修道院の一部は教室と寄宿舎となっている。
 ここで「車輪の下」を著したヘルマンヘッセも学んだ。彼を有名にしたその作品自体が、自伝的作品で、数えるほどのわずかしかここにいなかったが、その経験を元にした部分が作中に出てくる。ケプラーの法則を発見した天文学者であるケプラーもまたここの出身であったという。つまり、当時としてはかなり有名な学校で、優秀な人々が厳格な生活の元、真理を学んだ場所なのだろう。

5.2 レイブラザー(現プロテスタント)の教会
 教会の建物は中期のロマネスク様式。15世紀に少し改築が行われ、ゴシック様式のアーチが付け加えられた。窓も大きくなった。そのうちの現在の入口に近い、または広場に近い、つまりは俗世間に近い部分を受け持つのが、レイブラザー(主として働き手)の人々のための教会。現在もプロテスタントの教会としてミサが行われる。十字架は1473年の作。一見するとまるで木彫りのような十字架もキリストの像も一つの石で彫られている。

5.3 修道僧の教会
 その石の十字架の後ろに壁があるが、その後方にあるのが修道院の修道僧のための教会。この壁で両者は分けられており、決して交わらなかったという。
 オークで作られた椅子は15世紀半ばのもの。丁度教会の聖歌隊席のような形のものが左右に並んでいる。92席あり、殆どをこの場で祈りを捧げていた。午前1時を皮切りに一日7回の礼拝の時間があったという。その数は今の一部のイスラム教徒よりも2回多い。
 正面のキリストは、14世紀後半の作。死の場面になる。30年戦争の時に攻め込んだスペイン軍が壊したために、修復した傷跡が残ってやや痛々しい姿ではあるが、かなりの傑作だ。
  左側の壁にはマリア像がある。「マウロブロンの聖母子像」とも言う。この教会の宝物の一つ。
 その反対の右側の壁の彫像はシュパイアー大聖堂の僧で、寄付をしたためにここに埋葬される権利を手にした人。実際祭壇手前に埋葬されている。

5.4 話し合いの部屋
 俗世界と隔絶した生活を送っていた彼らではあるが、とはいえ空気を吸い食べ排泄をしなければ生きてはいけない。神ではないのだから。
 したがって生活についてのあらゆることを話し合いをする必要があった。そうした生活上の様々な問題を解決するために1日に1回皆で話し合うための場所。
  天井は14世紀に作られたゴシック様式。廊下などは四方から梁が出ている(基本的にはこの形が普通)が、ここの天井では梁がキーストーンに3本しか集まっていないのが特徴。

5.5 中庭
 庭に面した柱のアーチにはかつてはステンドグラスが入っていたが、すべて持ち去られてしまった。
 2階部分の窓のある部屋は、修道僧の部屋で、後に学校となったときには学生の部屋になった(今も)。その向かい側の2階がレイブラザーの部屋。こちらには窓が見えない。八角形の建物が中庭の両者の中間に出っ張るようにあるが、その二階部分は今では学校の教室になっている。(左の写真とともに、5.1の最後の写真参照)

5.6 食堂(修道僧)
 中庭の八角形の中には噴水がある。修道院時代は一番下のみであったが、その後バランスや見栄えのためだろう後で二段足されている。
 廊下を挟んでその向かいにある広い部屋が、食堂。初めは瞑想の部屋であったらしいが、その建築美ゆえ、瞑想の場にはふさわしくないと言うことで食堂になった。天井はロマネスク、窓はゴシック。ここに長机を並べて食事をした。その際には一言も話してはいけない。ただ、ワイ











ンを飲むことは許されていたらしく、ワインの柱が中央にある。壁を伝わって下りてきたワインを10本の手の指ですすって飲んだという。当時のワインは度数もひょっとしたらかなり低く、一時的にのどを潤すためのものだったのかもしれない。
 この柱にはこんなエピソードがあるという。それは修行の身であっても飲みたい人はいるもので(不許葷酒入山門と言いながら般若湯を飲む日本よりはましか)、俺の指が11本だったらもっと沢山飲めるのに!といった修道僧がいたそうな。いまでもここで作られているワインの名前は、それ故に「11本の指」という名前が付いているらしい。
 食事は食堂から壁の穴のような所を通して受け取る。

5.7 食堂(レイ・ブラザー)
 修道僧の食堂の壁の向こうには、キッチンになっていたらしい。そこを挟んで反対側がその食事を作っているレイブラザー達の食堂がある。
 こちらは13世紀に作った。ただ、柱は16世紀のコピーで修復されたもの。ここも音響がよいと言うことで、コンサートの準備中だった。教会といいこうしたところといい、直ぐにコンサートホールに仕立ててしまう姿は、やはり日本と違うことを印象づける。

6.ホテル
  Hotel Krone (黒い森地方シェンベルク) ★★★213号室>104号室

 ホテルはアルプスの山小屋風の、窓窓に花を飾った建物。レセプションも常時人がいるというわけではない。勿論ポーターなどいるはずもない。
 我々に与えられたのは三階の213号室。旅装を半分解いたところで、暖房が効かないことに気がついた。ラジュエターのバルブを開けてもお湯が入ってこない。そうこうしているうちに食事の時間になってしまった。仕方なく階下に行き、部屋に入ってくれて良いから食事の時間中に治すように衣添乗員氏に依頼する。
 時間が前後するが、食事が終わって帰ってきても結局の所直らなかった。聞けば、4組中3組までもが給湯不備らしい。そこでそうした人々は皆部屋替えになった。
 ドイツは我々が来る数日前から急に冷え込みがつい良くなり、その冬の訪れとも言うべき気温降下は例年よりもかなり早い訪れだという。おそらくはホテル側も冬支度が未だだったのだろう。それに今はサマーシーズンからウインターシーズンへの間の閑散期で、訪れる人もなく去年使ったままだったのだろう。
 というわけで、我々は一つ下の階の部屋に移った。少し前より小さめの部屋だったが、暖房が効く方を選ぶ。そのくらいに冷えてきていた。ただ、前の部屋にはバスタブがあったが、この部屋はシャワーのみとなってしまった。(部屋の写真は移動する前のもの。移動した跡の部屋の写真は取り損ねた。)

7.夕食
 食事は今回の旅行では前後4回、夕食が自由食。経費の削減というものもあろうが、それとともに連日のドイツ料理を回避するというねらいもあるのかもしれない。まぁそれにしては12回中4回は多いかな。
 今日は添乗員氏が仕切ってくれて、イタメシ。と言っても他に選択のしようがないほど小さい村にホテルはある。
 我々は普段のイタリア料理屋に行くと頼むようなものを頼んだ・・・少なくとも本人達はそのつもりだった。頼んだものは、カルボナーラ・ピザクアトロ・モッツァレラチーズとトマトであった。それとビール二杯、間違いは二つあった。、モッツァレラチーズには何とピザ生地が付いてきたのだ。これだけで優に食事になる。ピザクアトロはクアトロと付いていればチーズだろうと思っていたが、四種類の具が載っかっていた。こちらの方はややうれしい誤算。
 とにかくすごい量だったので、皆の笑いものになった。次回からは一皿しか頼まないようにしたいと思う。お陰でビールは全くすすまなかった。