9月24日(水)
 ゴスラル−ライプツィヒ−マイセン−ドレスデン

ホテル(0830)(1150)昼食(1255)(1300)ライプツィヒ(1445)(1615)マイセン(1735)(1820)夕食(1945)(2005)ホテル着

1.朝
 junは1時半から2時半まで日記のアウトライン作成をした。それを引きついでnoriは3時半から5時まで日記を肉付けした。5時半にjun起床。その後はがきの印刷をして、荷物の片付けをした。
 今日も朝食は7時からなので、少し前に降りて行きフロントで切手を買う。1ユーロ切手を24枚欲しいと言うと、数えてくれたがどうも足りないらしい。朝食の間に揃えておくからと言われた。朝食は昨日と変わらず。メニューが豊富なので、食べるものに迷う。
 贅沢なものだ。そのうち何度か登場している一番年上と思われる学者風のご夫婦が食べに来た。そのうちに皆も揃った。
 食べてから、フロントに行くが、声をかけてくれるものと思ったがかけてくれないので、仕方なく再度聞こうとカウンターにゆくと、先ほどの人は交代してしまって他の人が対応した。結果的には、10枚というか5.5ユーロと4.5ユーロの10セットしか切手はなかったらしい。そりゃあそうだろう、元々ないのだから・・・。
 フロント横で切手を貼って、再び送付を頼む。そして喫煙室(元々休憩室だったのかもしれない)にあったパソコンについて利用は無料かと聞くとそうだというので、パスワードを教えてくれと言ったら、カウンターから出てきて自分で入力し始めた。しかしどうもうまくいかないようで、結局一番最初にカウンターにいた女性が来て入力した。彼女は着替えていたので、勤務が終わる感じだった。これで切手の件がぞんざいになった理由が分かった。

2.ラィプツィヒへ
 今日も雨だ。大粒ではないが、空一面厚い雲が覆っていて、晴れそうな気配はない。ホテルのロビーに出ている天気予報でも、今日一日は回復しないような予報だった。暗い気持ちで8時半に出発。ラィプツィヒに向かう。
 それでも今日は一番前(客として)なので、フロントグラスはワイパーがあるから、正面からなら景色などを狙える。少し写真が撮れる分気分転換になる。
 ホテルからラィプツィヒへは地図も見ても直接行けるような道はない。少し大回りのコースになる。9時10分頃ザクセン州にはいる。
 10時半少し前にトイレ休憩。添乗員氏曰く、旧東ドイツでは未だあまり食事など出来る、日本風に言えばサービスエリアが少ないとのこと。これは、人口が比較的に少ないことも理由のようだが、交通量がないわけではない。ここで「SUDOKU」の小冊子をかう。noriの帰りの飛行機用。
 11時頃になってようやくラィプツィヒの文字が高速の案内版に現れる。およそ40q先。11時半過ぎにラィプツィヒの中心部へと橋を渡りはいる。一番先に目に飛び込んできたのは、廃墟のような場所。旧東ドイツ時代に建てられた建物を壊して、新しく建て替えようとしているらしい。まだスクラップにする過程が途中の状態で、いっそう侘びしさが増している感じ。残っている建物には、旧東ドイツ時代のものか統一後のものかは定かではないが、いたずら書きが目立つ。
 ほどなくしてラィプツィヒ中央駅前をバスは通過。中心部は整備が終わっているようで、見違えるようにというか、旧西ドイツ側と同じように整備されている。それでも、添乗員氏はどこか暗い感じがする町だという。これまでに木組みなどの町々からすれば、どちらかといえば灰色の町だが、けばけばしさはなく落ち着いた感じの建物が多い。
 この町の風景でもう一つ目に飛び込んでくるのはトラム。路線も数が多そうだし、煩瑣に来る。中心部では完全にバスを見かける数よりも圧倒的にトラムが多い。旧東ドイツ時代のものと思われるようなずんぐりむっくりとしてパンタグラフも菱形のタイプのものも時々走る。この形式のものは、一両完結式、つまり連結している場合には、他の車両には移れない。旧東ドイツ時代には、そうした必要のない交通量だったのだろうか。
 その一方で、ヨーロッパの他の国にもある、低床タイプのスマートなものも、あるいはその過渡的な形のものもある。それらを見ているだけも面白い。

3.昼食
 バスは昼食場所のあるアーケードの付近で停まった。旅行会社の行程表には、『ゲーテも足繁く通ったレストラン「アウアーバッハスケラー」でご昼食』となっており、ファウストの一場面(学生がファウストにだまされて怒っている場面)の二対の像が道の左右に並ぶ場所を降りてゆく。左右どちらから降りても、アーケードの下にあるので、再度合流して店の前に否応なしに出る。店の前の看板には、今日の昼定食のような看板がある。約10ユーロ。毎日千五百円の昼食代は痛い。物価の高さを痛感する。
 中は思ったよりも広く大きな店だ。ここでは観光客も多い(なぜなら我々と同じようにあちらこちらでフラッシュがたかれるから)。今は人はまばらだが、夕刻になれば、ワインジョッキを持つ人であふれることだろう。
 メニューは、スープはザグゼンポテトスープ、メインは牛肉のロール煮込みで、デザートはフルーツサラダアイスクリーム乗せであった。ビール(4、1)白ワイン(4、6)。外が雨でないことを期待して飲む。メインの方は、煮込んであるので、牛肉のうまみがどこかに行ってしまって、辛いだけの印象を受けた一品だった。
 13時少し前に日本人の現地ガイドさんがお店にやってきた。
  ここで、今度はjunが帽子を忘れた。気がついたのがずっと後だったので、結局は手元に戻らなかった。夫婦二人でまったくもって困ったものである。

4.ライプツィヒ市内観光
 ライプツィヒは市の町、商業の町として発展したところ。産業革命後、見本市が開かれるようになった。先のアーケードもその時に建てられた中心的な建物の一つらしい。
  見本市というが、要するに輸入品など交易品のサンプルを並べておいて、商談に応じるという形式のものが常設化されていたというような感じらしい。フェスティバルのような感じのものを浮かべると間違えだ。

4.1 アウアーバッハスケラー
 最初に食堂を出てきたところで直ぐに説明を受ける。まさに食堂そのものから。やや重複になるがご勘弁を。
 それは市で一番の大きなアーケード街の中にある。入口には先に話したようにファウスト博士の像や若者の像がある。そこの階段を下りていくと店があることは先に書いた。かなり広いことも。壁には、ファウストのいろいろな場面が描かれていて、ファウストに詳しい人はどの場面が直ぐに分かるのだそうだ。
 1525年に小さな居酒屋としてスタート。ルターやゲーテ、森鴎外などが訪れた。特にゲーテはよく訪れ、ここでファウストの構想を練ったらしい。またワイン4リットルを飲んだという逸話も残されている。ただしその時代のワインは今のアルコール度数の半分程度だったらしい。

4.2 トーマス教会
 この町にはかつて(ゲーテの時代)7つの教会があったが、今はそのうちの2つが残っている。トーマス教会はそのうちの一つ。
 1212年アウグスチヌス教会として建てられた。ロマネスク様式だったが、その後何度も改築し、15世紀後半には、ゴシック様式となる。当初はカトリックだったが、後にプロテスタントに変わる。
 ここでバッハは、トーマスカントーレ(音楽学校教師)となり、トーマス合唱団(少年合唱隊・・・何かと行事に引っ張り出される存在だったらしい)を指導した。1723年から亡くなるまでの27年間。
 教会の前にはバッハの像がある。右手には、楽譜を丸めて持っているが、これが当時はなかった指揮棒の代わりで、指揮が終わるとその楽譜を懐にしまったために、胸ボタンの上から2番目が外れている。左のポケットの中がめくれるように外に飛び出しているのは、家族を養うのが大変で、お金が足りないということを表しているという。記念像なのに、ずいぶんと辛辣な姿で造られているものだ。因みにこのバッハ像は比較的新しいもので、メンデルスゾーンが寄贈したバッハ像というのがかつてはあったらしい。
 中に入ると右側にステンドガラスがある。町にゆかりの人々が描かれている。入口の方から、皇帝(ドイツ初代)・メンデルスゾーン(ライプツィヒ初の音楽学校を作った)・ルター(1539年にここで説教を行う)・バッハ・スペインの国王・兵士(戦争の犠牲者)となっている。因みに右側は、昔風の曇った小さなガラスが埋め込まれているだけで、ステンドグラスにはなっていない。
 左側に一組のパイプオルガンがある。昔からここにあったわけではなく、2000年に教会の250周年を記念して、当時のままに復元したもの。それ故に、バッハオルガンと呼ばれているという。主にバロック音楽を演奏する。
  後ろにもう一組のパイプオルガンがあるが、これは19世紀に造られたもので、主に、ロマン派以降の音楽を演奏するのに使う。ということは、パイプオルガンにもチューニングというものがあって、その時代時代に合わせていると言うことになるのだろうか。おそらくはここではもコンサートが行われることだろうから。
 祭壇の前の絵はゲッティンゲンのルターは教会にあったのと同じぱたぱたとその時によって図柄を変えられる形式のもの。こういった形式で、その時代多かったであろう文盲だった人々にもキリスト教の考えを広めようとしたのではないかと思う。祭壇の中央には洗礼台があり、ワーグナーもここで洗礼を受けた。洗礼台の前の地面部分に花を供えてあるのは、バッハの墓。楽聖はここに葬られている。

4.3 バッハ博物館
 現在修理中のため隣の小さな建物(部屋)に楽譜や肖像、教会の移り変わりの絵のようなものが展示されている。そのお陰で?無料だった。そのうちにバッハの生家のような整ったものにするのだろうか。
 内容的には写真でも何となくわかるだろうが、殆ど楽譜などのコピーや写真の複製だけで、重要な展示はなかったが、その時代の雰囲気は感じられた。

4.4 マルクト広場
 後ろに見える旧市庁舎の前の広場だが、明日から始まる秋のマーケット(それと一部で工事している)で、露天が立ち並び、市庁舎の眺望の視界を遮っている。少し残念。
 写真に写っているのはガイドさんで、何が並ぶのかと聞いたら、主に食べ物なの露天が並ぶと言うことで、にぎわうらしい。町のクリスマスマーケットもここで開かれる。

4.5 旧市庁舎
 マルクト広場に面してある。1556年から57年にかけて当時の市長ロッターが造った。わずかに9ヶ月でできあがったが、これにはちょっとしたトリックがある。昔の建物の土台を利用したためだ。中が完成するには更に2年かかった。塔が中央よりもずれているのは、広場の真ん中に塔を持ってゆきたかったため。ロマネスク様式。
 20世紀には新しい市庁舎を造ったので、ここは歴史博物館になった。

4.6 ナッシュマルクト(ナッシュ広場)
 ここではかつては食料品の市を開いていた。ゲーテの立像がある。土台のところには二人の女性の顔が刻まれている。ゲーテが恋した女性ということで、右側にある正面を向いているのが本命だった女性。左にある横を向いているのは知的な人で、後々まで文通をしていた。

4.7 商品取引所
 ゲーテ像の後ろに見える建物。市の間、商人達の談合や取引がなされた。30年戦争後に建てられた、初のゴシック建築。右側の立像は、商人の神様。マーキュリー?だったかな。

4.8 リケーハウス
 リケー商会は、お茶やチョコレートを扱う貿易会社。その会社がかつて入っていた建物。
 東洋との取引が多かったので、壁面は東洋風の模様が多い。日本人らしき着物姿とおぼしき絵も。
  入口にある象(牙が見えるだろう)はこの商会のシンボルだった。そのまま残っている。今は1階と2階はカフェになっている。

4.9 ニコライ教会
 ニコライ教会はこの町に二つある教会のもう一方。この辺りはニコライ地区といった。
 ここで宣伝の人たち(写真の中にある異様に身長のある人たち)に見とれて別の方角へ行こうとして、junが添乗員氏に止められる一幕があった。
 さてこの教会は1165年に商人の守護神ニコラウスを祀って造った。ライプツィヒ最古の教会。ロマネスク様式から16世紀後半ゴシック様式に改装された。内部は新クラシック様式で、椰子の木をモチーフにしている。ちなみに椰子の木は中東地域に多く栽培されている聖書に多く出てくる木である。大きなパイプオルガンがある。
 この教会は現代史の中で重要な役割を演じたことでも知られる。ここは旧東ドイツにおける市民運動の始まりの場所で、ベルリンの壁崩壊のきっかけを作ったところでもある。

4.10 ライプツィヒ大学
 来年創立600周年を迎えるというので、何処の国でもこうした場合に同じなのだろう、記念のためか新しい校舎造っている。
  noriの勤務先の近所の早稲田大学がこのあいだ125年を迎えたとイベントをしたのに比べれば、その歴史は途方に長い。
 いろいろな著名人が学んでいる。日本人でも森鴎外を始め著名人がいる。

4.11 アウグスト広場
 噴水やオーケストラホール、オペラ座、時計塔などが面して建っている。トラムも縦横に走っている。
 オーケストラホールは、この地のゲバットオーケストラ(ゲバントハウス)のためのもの。ゲバットとは、織物を扱う商人のことで、昔、織物商人などの裕福な人々が定期的にオーケストラの公演を行っていたことから発展したもの。つまりは織物倉庫と言った意味かな。メンデルスゾーン、ワーグナー、シューマンなどが指揮を執ったこともある。もちろん現在のものは新しい建物。手前に見えるのが、メンデの泉と呼ばれる噴水。
 オペラ座は、ドイツで2番目に建てられたもの。戦争での破壊が激しかったが、戦後の1960年に復旧された。
 写真の左にちらっと見える時計塔は、以前はユダヤ人のビルだった。・・・そう聞くとやはりユダヤ人迫害のことを思わされる。

4.12 メンデルスゾーンの家
 1415年当時のままに復元した。床は当時のものを使用。
 メンデルスゾーンは1809年にハンブルクで生まれ、ベルリンで成長したが、26歳でライプツィヒに来て38歳でなくなるまでいた。写真撮影には更に1ユーロが必要。
 彼はユダヤ系の人で、父親は商人であったらしく、裕福な家庭の中で育った。(そのために改修前はかなり荒れ果てていたらしい。)
 全体に部屋は小さく分かれており、家族部屋・仕事部屋・妻の部屋・子供部屋・寝室などがある。
 仕事部屋だったところには、彼が尊敬していたバッハとゲーテの胸像がある。これは彼の有人の子供が彼の死の後直ぐにスケッチをしたものが残されており、そのスケッチから再現した。
 寝室にはデスマスクがある。畳三畳あるかないかの小さな部屋であったが、そこが涼しく快適だったため、メンデルスゾーンは気に入っていたらしい。
 また彼はとても絵が上手で、旅先で描いた水彩画があちこちに飾ってある。この風景画だけでも高そう。素人目にはかなりの腕前に見えた。光を当てているが複製なのだろうか?
 滝廉太郎は日本人として初のメンデルスゾーン音楽学校の留学生。このハウスを改築するときに多くの日本人が寄付を寄せたお礼と言うことで、当時の滝廉太郎の家の前には彼の像が建てられた(レリーフが置かれた?)。実際家の前の土間部分に寄付した人のリストがあるが、その多くは日本人であった。
 ここからアウグスト広場へ戻る。戻ると既に我らの乗っているバスがそこにいた。ここでガイドさんとお別れ。彼女は結婚してこちらにいる女性とのことだが、ここでも彼女をいたく添乗員氏はお気に入り。まるでゲーテのようだ。

5.マイセン
 ライプツィヒから1時間半で、マイセンに到着。
 アウグスト候が命令を出して造らせた白磁。それを生み出したヨハン・フリードリッヒ・ベトガーという人。写真はアウグスト候で、デッサン画はドイツ語版WikiPediaからの引用によるベトガー像。彼は錬金術師だったらしく、アウグスト候に見いだされほぼ軟禁状態で、白磁開発にあたらされた。完成したらしたで、製法の秘密の漏洩の防止のため幽閉状態になり、彼は一生閉じこめられたままだった。酒におぼれ精神的にも障害を煩い、若くしてこの世を去った。その張本人の、アウグスト候の胸像(上の写真)がバスが丁度停まったと場所にあり、最初にそれ見る。
 店(ミュージアム)の前にはマイセンのマークの変遷を体中に刻んだ馬が入場者を出迎える。
 ここはすこぶるよくできた見学コースになっている。我々は日本語のビデオ、日本語解説テープを聴きながらの見学であったが、他の言語の人も同じコースでイヤホーンで解説を聞きながら巡った。
 さてここでは、まずビデオ(日本語)で説明を受けてからマイセン磁器が出来る工程を日本語の解説を聞きながら見て回った。ろくろを回して原型を造り、それを型に入れて同形のものを沢山作る。次に型に入れて細かい部分を造るのを見た。細かい部分を器用に組み立てる。次は模様ツケ。細かい線などを手作業でつける。最後に色つけ。仕上がりを考えて色を塗っていく。
 要するに、日本の陶工のように同じ品物をその熟練した手だけで作り上げてゆくのではなく、分業の工業化が進んでいることが分かる。この過程を見て、日本の作陶を知っている我々は、作陶に半ば技術とその価値を見いだしていることもあり、マイセン磁器への憧憬がやや失われたことは確かだった。
 見学を終わって、博物館に行く。ここで始めて分かったことなのだが・・・。今のマイセンは、そのモチーフが年代によって変遷しており、マイセンマークも変わっているのでマイセンマークで年代を、モチーフでほぼ特定年を知ることが可能だ。このことはマイセン磁器を特徴づけているものの一つ。しかし、しかしだ。ミュージアムに飾られたその変遷の当初10年ほどは、それは今のマイセンではなかった。中国陶器のコピーであった。このことは、後から考えれば当然とも思えるが、それはそれでショックな事実だった。そしてマイセンの技法は、この模倣することで技術力を上げて受け継がれていく。実際に、添乗員氏によれば、マイセン白磁は中国白磁と偽って売られたこともあったと言うことだ。(上は初めて白磁を作ったときの模様。調合の割合などが書かれている。右は1800年制作のもの。)
 マイセンは、中国や日本の白磁の技法を盗むことなく自力で完成させ、それを欧州のそれまでの作陶技法をも加味して大量生産に結びつけたことが今日の繁栄を気づいたのだと理解した。
  こう理解すると、標準的な製品なら自分たちの分としてコーヒーカップ二揃えくらいは変えない金額ではない(およそ3万円らい)が、買う気が失せてしまったのが偽らざるところだ。それにここにあった店では二級品などが沢山売られていて、あぁここはメインの店ではないなぁと感じたことも一因。

6.夕食
 バスはマイセンから暮れなずむドレスデンの町に入った。エルベ川に架かる橋を渡るときにドレスデンの旧市街が遠望できた。その多くがシルエットになり、更にそれがエルベ川に写る様は幻想的でもあった。
 ドレスデンでは夕食の後にホテル入りする。
 レストランといってもほとんどビアホールの乗り。店員も片言の日本語を操る。食事の後のビールの勘定の計算も日本語だった。メニューは、スープ・魚のフィレ揚げ・アイスクリーム・ビール大ジョッキ黒と白(12,8)。魚は白身で、食べやすかった。nori完食。
 ここで飲んだビールはミュンヘンなどに出ているビールらしい。飲み口がやや軽かった。ミュンヘンとは離れた町々を旅してきて、ホップが効いているビールのに慣れてきていたので、やや物足りなかった。

7,ホテル ラマダ・ホテル・ドレスデン(旧トレフ・ドレスデン)★★★★
  167号室

 ホテルは今日も市街地から離れている。郊外の住宅地の中にある感じ。
 バスタブあり。設備もまぁまぁ。
ところでこのホテルで、この旅行中初めてi-PAssが繋がった。職場からメールが到着していた。返事を出した。