9月27日(土) ベルリン市内観光

ホテル(0835)(0845)ブランデンブルク門(0900)(0918)カイザービルヘルム教会(0925)(0950)ベルガモン博物館(1133)(1145)壁博物館(1225)(1233)昼食(1330)(1410)ブルノタウトの住宅(1445)(1542)バウハウスアーカイブ(1548)(1612)絵画ギャラリー(1657)(1715)カイザービルヘルム教会(1820)(1905)ホテル着

1.朝
 junは深夜1時頃起きて日記の整理をした。2時半過ぎにnoriは目を覚まし、4時近くまでかかり日記の整理をした。お互いに、荷物置き場が無く、荷物が机を占領しているので、パソコン入力に不自由を来した。
 4時頃になると暖房が切られており、結構寒い。勘弁してもらいたいものだ。noriは眠いようで寝られない。うとうとしているうちに目覚ましが鳴る5時半になった。健康チェックをする。nori心電図異常なし。ただし血圧血糖値高め。
 7時から朝食なので、少し前にレセプションに行って、街の地図を手に入れようとした。今日は午後自由観光なので、資料が欲しいと思った。しかしながら、どうもないようなので、気を紛らわすかのように朝食をと言う。食べられるのかと聞くと5分待てと。
 というわけで、その間を利用して、一番近い駅の名前を聞き出して、それからまずホテルの脱出方法の確認。無事に出られることが分かってから、通りの角までゆく。どうも反対に来たらしいと思い、逆の方角にゆくとおばちゃんがいたので、ユー・シックス(U6)の入口はどこかと尋ねるが、要領を得ない。我々は何となしに、ドイツ人は皆英語は我々より堪能と解釈していたわけだが、どうもそうでもないらしい。何とか話しているうちに、Uはウーと読むことが判明。どうもメトロはウーバンというらしい。7時をだいぶ回ったので引き返し朝食にありつく。
 朝食の後、本格的に駅の確認にゆく。駅は直ぐに分かった。券売機も確認した。こっちの方式では、最後にお金を入れる方式なので、閑散とした時間帯のこの時間は、何度か試みることが可能。英語のページもあるので、我々がゆきたい場所までは一日券が6.10ユーロであることを確認した。一回券だと2.10だったと思う。確認して帰ってきた。ホテルから駅まではおよそ500歩。

2.ブランデンブルク門
 バスは8時半に出発。日本のガイドさんが昼食前まで同行する。このガイドさんが、今回一番面白かった。すごく扱いになれているし、だからといって小馬鹿にするようなこともない。
 さてさて、明日、ベルリンマラソンが行われるので、町中は既にあちこちが通行止めになっている。大回りしてブランデンブルク門が見えるところに着く。車を一時停車するのも苦労する。
 1791年凱旋門として造られた。ベルリンの象徴。東西ドイツに分かれていたときの境界線。我々がその時いる方が東ベルリン。というか、壁と壁の緩衝地帯(死の地帯)。
 その緩衝地帯だったところに、現在は米・英・仏の大使館が建てられている。そうすることも会議で決まったらしい。その後ろにはロシア大使館も。米国大使館など、ほんの2ヶ月ほど前に完成したらしく、その辺りの建物は従前は何もない地域だったので、全てが新しい建物だ。一昨日警官に絞られた運転手は、交通規制のために出ているものと勘違いしてポリスポリスというが、ここいら辺りにいるポリスは大使館警備の人で、マラソンの交通規制ではないらしい。

3.車窓から

3.1 6月17日通り
 のみの市が開かれていた。毎週土日に夕方6時まで開かれているという。既に店はかなり出ており、それを物色している人達もいた。
 ドイツの人たちは朝が早いことがわかる。このあたりは日本人との類似性を感じたところだ。ホテルのおばちゃんも朝からがんばっていたし。

3.2 シャルロッテンブルク門
 6月17日通りにあり、ベルリンマラソンのスタート地点になっている。

3.3 工芸大学

3.4 芸術大学
 ここは、山田耕筰が学んだらしい。滝廉太郎も一時在学したらしいが、直に体を壊して2ヶ月ほどの滞在で帰国のやむなきに至ったらしい。
 この直ぐ先の動物園と水族館がある。動物園の門構えは何故か中国風だと思っていたら、パンダがやってきたときに改築したらしい。しかしながらドイツ人には、昼間あまり動かないパンダはあまり魅力ある動物ではないようだ。人気はシロクマが圧倒的にあるらしい。有名な名前が付いたシロクマなのだが、飼育係の人が最近44歳の若さでなくなって、シロクマは今もその飼育員を捜すかのような仕草をして、悲しみを誘っているらしい。ベルリンマラソンが終わった頃に葬儀も執り行われるとも聞いた。
 その隣に水族館があるが、なぜか鯉幟が風が無くだらんと垂れ下がっていた。
 ところで、芸術系大学と動物園の組み合わせと言えば、上野を思い出すが、何と上野の組み合わせは、ここを模倣して、先の動物園があって芸大をそこのそばに立てたと言うことだ。おもわず?リアリーって聞きたくなるような話だった。

4.カイザービルヘルム教会
 1879年、ネオロマネスク様式で造られた。1944年の大空襲で被災。戦争の記念としてそのまま残されている。負の遺産として世界遺産に指定されている。5分程度停車して、写真に収める。
 ここの詳細については、午後に再訪したので、そこで述べたいと思う。

5.再び車窓から

5.1 ベルリンフィルハーモニーコンサートホール
 ここは小澤征爾などが指揮をしたことのあるところだ。大ホールと小ホールがある。が、どうも別棟になっているようだった。

5.2 ソニーセンタービル
 ここが欧州ソニーの総本山。しかしながらそれは今年までで、売却してしまうためにソニーの名前が消える。ただしビル名だけにはソニーが残るらしい。東横線の学芸大学と都立大学のような感じか。
 それとも虎は死して皮を残し、SONYはビルディング名にその名を残すと言うことか。
5.3 フォロコースト記念碑
 墓のような碑が並んでいる。上から見ると波がうなっているように見えるとか。横からでもでこぼこ間は感じられた。そして何とも言えぬ、物量感に支えられた音楽、レクイエムが聞こえてくる感じ。
 道路を挟んで反対側の一つ建物を置いたところに駐車場があるのだが、そこはかつてはヒトラーの防空壕のあったところで、彼はここで自殺した。何か因縁めいた感じの両者の配置だ。

5.4 オペラ座
 世界で初めて造られたオペラ座。いまではオペラだけでなく様々なものが演じられると言うことだ。

6.ベルガモン博物館183
 今日一番の観光は、世界遺産にもなっている博物館島(いくつかの博物館が集合してあり、そこが調度中州になっているから。)の中の博物館の一番のメイン。
 フードリッヒ2世と3世の時に、収集されたものが元になっている。現地ガイドさんの言によれば、当時は貴族のステータスとして古代遺物が収集されたと言うことだ。大英博物館、ルーブル美術館などに対抗したものだったらしい。4年くらい先には、世界最大のエジプト博物館が出来ると言うが、収集物の多様さでは大英博物館の方が上ではないのだろうか?
 ここでは日本語のガイディングレシーバーが使える。非常に細かい説明を聞くことが出来て、しかも直訳調でなく聞きやすいすぐれもの。しかしながら難点はその物量。膨大な話が収められているので、とてもぜんぶはおろか、半分さえも聞く時間はない。もう一度訪れなければならないだろう。そう、我々のテーマは、今は世界遺産200(これは時間的には1年後には達成できるのではないか)と、世界三大瀑布歴訪と、4大博物館(エルミタージュと、あと上に言及した3館)をみたいと思っているが、のっけから超えなければならないテーマが出来てしまったかんじだ。すごい物量だった。
 写真は特別展を除き、フラッシュを焚かなければOK。

6.1 ゼウスの階段
 最初に迎えてくれるのは、ゼウスの神殿の階段部分の再現。スケールは多少小さめにしてあるとのことだが、それでも圧倒される大きさだ。階段部分の左右にはギリシャ神話に基づいたいろいろな場面が彫刻されている。
 (解説本より)ペルガモン祭壇西部の復元。紀元前164−156年。祭壇底面の大きさは36.44×34.20mである。階段の5段目に、滑らかな面をした台座部と高さ2.30mのフリーズ部とそして歯状装飾付きの突出した蛇腹が載った巨大な下部構造がそびえ立っている。屋外階段だけが下部構造に食い込んでいる。屋外階段は、上部構造部の全体を取り囲んでいる列柱回廊へと続いている。
 写真を二人で撮ったら、すかさず警備員が飛んできて、注意された。

6.2 西南アジア博物館
 特別展で、バビロンを扱った展覧会をやっていると言うが、感じとしてはずうっとやっているように思うが、勘違いだろうか。この部分は写真撮影禁止。写真はパンフレットより。
6.2.1 イシュタール門
 すごい、すごい、すごい。そのすばらしさ。イランに行ってもこれほど極彩色の門は見ることはかなわなかった。イラクに行きたい!イラクに行けない。
 (解説本より)バビロン出土。紀元前6世紀。オリジナルと複製品。正式には「イシュタル・サーキバト・テビシャ(イシュタルは敵を征服する女神)」という名前である。バビロニアのパンテオンの神々の中でも最も重要な神の一人が崇拝されたのである。イシュタル女神の聖動物であるライオンは、この門にはなく、門の所で終わる入口通りの両脇の壁を飾った。
6.2.2 ライオンの浮彫
 (解説本より)バビロン。紀元前6世紀。部分的に浮き彫りになっている。長さ30.00m、高さ12.50m。博物館の中で公開している古代建築遺物の最も著名なものの一つは部分的に復元された「行列通り」。右はライオンではないが、感じとしてはこのようなもの。
6.2.3 西南アジアの遺跡・発掘品
 アッシリアやイラン、シュメール、バビロニアなどの遺跡から発掘されたものが展示されている。ここは日本語のガイドがなかったので場所や時期についてはわからない。

6.3 ミレトスの市場門
 残念ながら修復中ということで全体が覆われており見ることは出来なかった。
(解説本)起源120年頃。大理石。高さ28.92m。古代ローマの市ミレトスの市場門は古代ローマ・ファサード建築の最も代表的な例の一つである。これは、市の南市場への入り口であった。

6.4 古代美術コレクション
6.4.1 墓石碑や彫像など (『』内は解説本より)
 「王座の女神像」・・・ほぼ等身大のこの像は、『紀元前460年頃。ターラント出土。荘重な厳しさの態度と穏やかな感じの顔の表情がこの優れた作品の特徴。』とある。後ろの背もたれと像の間にはクッションのようなものが挟まれており、乗り出すような形にも見える。
 「トラセアスとエウアンドリアの墓碑レリーフ」・・・『紀元前350年−340年頃。アテネ出土。亡くなったテラセウスは、腰掛けに座っている妻と別れを告げている。この世からの別れの光景は、市民的な家族の姿と愛情のこもった夫婦の結びつきを彷彿とさせる。』後ろで悲しんでいるように見えるのはのは女奴隷だという。おそらくは二人に信頼されていた僕なのであろう。椅子の脚の形にも特徴がある。
「ある夫婦の墓碑レリーフ」・・・『紀元前340−330年頃。アテネ出土。紀元前4世紀後半になると、アテネの墓碑はますます手の込んだものになってゆき、ついに紀元前317年にはファレロンのデメトリオスが墓標の贅沢を禁じる法律を公布した。この墓碑レリーフはある豪奢な墓地のほんの一部で、2本の円柱と切妻屋根付きの小さな神殿に置かれていた。 』このレリーフもモチーフは「トラセアスとエウアンドリアの墓碑レリーフ」とほとんど同じ。椅子の脚の形さえも。しかも座っている女性の方は足を台の上に置いているところも共通。
「アスクレピオス」・・・『ヘレネス(ギリシャ)神話の医術の神、治療の神。アポロンの息子。人間を治療するだけでなく死者を蘇らせることもできたという。そのことでゼウスの怒りをかい、電光で焼き殺されたという。一匹の蛇の巻き付いた杖が医学のシンボルとなる 。』いまでも、WHOのシンボルマークは国連の地球マークに杖とそれに巻き付く蛇で表されている。
「ヘリオスが描写されているトロヤのアテナ神殿のメトープ・トリグラフ・フリーズの隅のブロック」・・・『紀元前300年以降。1872年にハインリッヒ・シュリーマンがイリオン城塞山の北斜面で発見。トロヤ出土の浮き彫りになったドーリス式アテナ神殿のメトープの中で最も良く保存されているもの。海から嵐のように躍り出た太陽神の4頭立て馬車を描いている。太陽神の頭上には、ダイアデムのように放射状の後光がついている。』メトープとは「浮彫石板」と訳される、神殿の外側の列柱と屋根の間にある部分に飾られたもの。またイリオンとは通称」「トロイ」の別称。

7.壁博物館
 博物館の前が東西ドイツの境界線。東側に東独の兵士、西側に米国の兵士の大きな顔写真でそれを表している。そこには米国の小屋を復元(?)して前には軍服を着て写真のモデルになっている人がいた。チェックポイントチャァリーと呼ばれている場所だ。
博物館には、終戦時や壁の様子、東独から脱出する人々などの写真が並べられている。1961年壁が突然出来たために、帰れなくなって家族が別れ別れになってしまったために赤ちゃんを高く掲げている写真や、脱出のためにビルから飛び降りる人、人一人がやっと通れるほどのトンネルを通って抜け出した人の喜びの表情などが印象的だった。このトンネル作戦では54人の人が脱出できた。他に車のエンジンに隠れたり、サーカスの人がスピーカの中に入って脱出したり、熱気球でそれをしたり、様々な事例の紹介があった。
その後、直ぐ近くの残されている当時の壁を見に行く。壁は二重になっていたわけで、その間の幅は16mから時に450m(ブランデンブルグ門付近)もあり、その間が緩衝地帯、別名死の地帯と言われていたところ。ここで失敗して1050人ほどの死亡が確認されている。しかし実際にはそれ以上の数だっただろう。
ガイドさんが興味深いことを言っていた。旧東ドイツの人の亡命先として日本が一番多かったこと、日本に来たというような人の殆どは、西側の事情視察のスパイだった可能性が高いと。

8.昼食
今日の昼食場所は、日本でも知られているレーベンヴロイの直営店のようなビアホール。
トマトスープ・ドイツパスタ・アイスクリームケーキ。ドイツパスタと称されて出てきたものは、うどんのぶつ切りのよう形で、更に煮すぎた感じのもの。その上に、ビーフシチュー風のものが載っかっている感じ。今日の夕食は自由食なので、粗末にしようと決めていたので、junはnoriに全て食べなさいとささやいたが、そのjunすら残してしまった。うまくないというより不味いに近い。言い方が悪いが、本当にこのようなものを食べているのかと思う。
このあと自由時間になる。それぞれがガイドさんに地下鉄の乗り方などを確認してバラバラに散っていった。

9.地下鉄
ビアホールからそう遠くないところに、U6のシュタットミットの駅があることは、バスを降りる前の風景で確認していた。我々は迷わずそこへ向かう。
 AB区間の1日乗車券を購入。6,1ユーロ。これは事前学習していたので、簡単に購入。ほぼ分かっている入れ方も一応周りの人に聞いて終了。
切符に関わるのはこのときだけ。その切符は懐深くしまったままで、あとは乗り降り自由状態なのだ。電車の中の改札は勿論、乗降駅にも改札口などないのだ。それでも皆さん切符はちゃんと買うのですかね、と聞いた所、ドイツ人の人間性とやはり宗教的なものが強いせいでしょうねと言うのが添乗員さんの言。

10.ブルーノ・タウトの住宅194
ここは先のカナダケベック州での世界遺産会議において新たに指定されたドイツの近代集合住宅建築等の特徴ある例が6ヶ所ほど一括指定されたが、その代表例ともいえるものでブルーノ・タウト等によるもの。ブルーノ・タウトは桂離宮を評価して西洋日本庭園美の紹介をした人として有名だが、元々は都市計画の専門家だったようだ。1933年5月、日本を訪れ、そのまま亡命した。1936年まで在日。
 勿論世界遺産だから見に行くというのが大前提なのだが、それとともに日本において関東大震災以降に建てられた同潤会アパートが無惨にも消失していっている過程の中で、その対比としても、つまりは文化的遺産の価値観の違いの興味深い例としても見逃せないだろう。
ガイドさんに○○○の駅に行きたいのだけれども、といったら、そんなところに何があるのですか?と問われてしまった。そのくらいまだまだレアもの。
シュタットミット駅からは乗り換えを加えて10数駅の距離がある。グーグルで検索した地図の場所とどうも反対側に降りてしまったらしく、地上に出てきて二人の人に確認を求めた。どうも地元でも未だあまり知られていないようで、あぁあすこに行きたいのね!という反応は返ってこない。しばらく行って、我々が反対の出口を出たことが判明。駅からそう遠くないところにそれはあった。
 さてブルーノ・タウトの造った集合住宅だが、簡単に言えば、3階建て(屋根裏部屋あり?)の集合住宅を一直線に並べるのではなく、馬蹄形に並べて中心部に内周の周回道路(散歩道)を造りその内側には芝生を敷き更に中心部には池を造った。池までは内周道路からスロープになっている。馬蹄形の開いた部分と、その反対側に外周の周回道路部分との接点がある。各家々は内側の周回道路までの間に個人的な庭を持ち、その外側は全体の共通の庭という雰囲気で、個人的な部分と共同部分とを区分けしていた。
犬の散歩をしている人と、絵を描いている人の二人しか最初いなかった。我々はぐるっと回る形で見て歩いた。正しい地下鉄の出入り口付近にたむろしていた一段がやがてやってきた。それなりには知られているようだ。
 帰路noriが杖を忘れるというハプニングがあった。外周壁を見ているときに気がついたのだが、内周でもそう言えばと気がついたが、最近塗り替えられた形跡がある。おそらくは世界遺産登録でそうしたのだろうが、馬蹄形の開いた部分には階段があるが、これまで見てきたドイツの平均値からすればあまり清掃はされている様子はなく、地域は世界遺産に無関心といった感じであった。帰路は間違わずに地下鉄の駅に入った。

11.バウハウスアーカイブ
 その後地下鉄を乗り継いで、○○○まで行った。
最初にバウハウス・アーカイブにゆく。あまり調べていなかったので、建物もあるのだろうと思っていたが、新しいものだった。アール・ヌーボーの調度品などが展示されている、ワイマールにあったバグハウス・ミュージアムと同じ系統の趣か?
調べておらず思いつきで行ったので、外観を撮影しておしまい。人気もあるらしく、外で飲み物などを飲んでいる人もいた。
この運動自体の建物その他は、世界遺産にやはり登録されている。

12.絵画ギャラリー
 絵画ギャラリーまで歩いてゆく。途中「広島橋」の脇を通る。自らも被爆者だった荒木市長さんの書があった。
さて絵画ギャラリーがある建物は大きな建物群というか美術関係の展示場の集合体で、8ユーロかかる。日本語のガイディングレシーバーがあるかと聞いたが、無いと言うことだったのと、併設のブックショップにも英語・ドイツ語・フランス語・スペイン語・イタリア語はあったが、日本語のものはなかった。予習もしていないから、それでは手が出ない。やむなくここではトイレ休憩のみとした。
外へでるとかなりの人だかり。ベルリンマラソンの高校生部門などのどうも通過時間が近いらしい。そこにいる関係者にポツダム広場の方向を聞いて向かう。noriが考えていた方角とはずれていたので、やはりこういう場合には人に聞きまくるに限る。ポツダム広場までも沿道は交通規制がひかれ、観客でごった返していた。
ポツダム広場の駅からカイザービルヘルム教会の最寄り駅まで、やはり地下鉄を乗り継いで向かう。マラソン関係者の乗車が多く、非常に車内は混雑していた。

13.カイザービルヘルム教会 再訪
 一番先に失敗していたので、我々は下車時にどちらの出口から出たらよいかをまず駅の表示で確かめるようにした。カイザービルヘルム教会は出口を出たら先ほど見た反対側の面を直ぐそこに見せていた。
カイザービルヘルム教会の建つ部分は丁度中之島のように上下方向の道路で分断された部分で、近づくとカイザービルヘルム教会(旧)に入れるようになっていた。カイザービルヘルム教会(新)には入れることは、そこが教会である限り一般的にそうだが、まさかカイザービルヘルム教会(旧)に入れるとは思わなかった。ちょうど原爆ドームの中に入ることができるようなものだ。
入ると、1階部分の天井壁の一部は修復もしてあったけれども、そのかなりの部分が輝いていた。カメラはしまっていたが、取り出して天井の極彩色のイエスなどを二人して撮る。
その後、だいぶ歩いて疲れたので、カイザービルヘルム教会(新)に入る。かなり長い間立ちっぱなしだったので、休憩をする必要があった。新しい方の教会は外部もそうだが内部も斬新で、270度ほどの壁面はステンドグラスになっていた。しかしながら新しい教会ではあるが、荘厳さは同じように保たれている。しばしその中に身を置く。不可思議な、そこがあたかも天国のような感情を抱かせる。

14.ホテル Mikon Eastgate Hotel ★★★ (ベルリン)510号室
 ホテルに入る前に、夕食用の食料とnoriの帽子を調達して帰る。
部屋に入って、少し翌日の出国のための荷物作りをする。その後に写真の整理をしつつ交互に風呂に入り、ワインを1リットル近く(フルボトルとクオーター瓶)を飲んで、熟睡した。明日は帰国日だ。