9月26日(金) ドレスデン−ポツダム−ベルリン

ホテル(0853)(1240)昼食(1340)(1355)サンスーシ宮殿(1600)(1620)ツェツィーリエンホフ宮殿(1800)(1850)夕食(1955)(2010)ホテル着

1.朝
 朝というか、午前2時過ぎ。junが概略記載している日記をnoriは完成すべく起きた。
 昨日少し予定より飲んだので、寝付きも早く起きるのも早い。その分昼間眠たいかもしれない。
 フォトショップ・ライトルームの使い方が分からず、操作に手間取り小一時間かかる。そのあと、いつものように作業して、日記を書き終えた段階で、職場からのメールを見て返信を書き、姪の結婚式に出席できないのでお詫びのメールを送る。そのあと絵はがきの作成に取りかかる。一日2枚の計算だが、この日は3枚出来てしまって、後でjunの意見を聞いて決めることにする。作業終了4時40分。
 noriはそのあと5時半の目覚ましまでまどろんだ。その後いつもの健康チャックをした。noriの血圧がやや高め。今日はホテルを後にするので、荷物の整理をした。昨日の写真二枚も絵はがきに仕上げ、中身も書いた。
 6時半少し前になったので、階下に行き、レセプションで切手を買って郵送を依頼した。その後既にレストランが開いていたので、朝食をして7時前に部屋に戻った。今日はレストランで同行の人たちとは誰にも会わなかった。だいたい長期の旅行ではこうなるのが通常のパターンのように思う。
 バゲージを完成させて、8時に出す。その間にjunは日記の加筆補正。

2.ポツダムへ
 朝食の出足の割には朝の集合状況はよかった。
 9時出発。バスはドレスデンの街に惜別の念を示すかのように、旧市街付近を再び通り、高速に入る。辺りは再び田園風景。今日はすこぶる天気がよくなるであろうせいだろうか、時に靄が遠くにかかり、ある意味幻想的な雰囲気をも感じた。
 これはドイツを旅行してきて常に見てきたことだが、風力発電施設が様々な場所で設置されていた。この日バスは偶然今まで見た中で多分一番多くの風力発電施設が設置されている場所を通過した。ドイツは日本以上に公害に苦しんだ時期があるという。それ故に、クリーンエネルギー政策には人一倍の力を傾注している。温暖化問題で行方は少し疑問ではあろうが、2015年ころだっただろうか、原子力発電の全面的な停止を決めている。あの風車を見るたびに、ドイツのその思いが伝わってくる。
 10時55分にトイレ休憩。小さな売店で、買う物はなかった。それにしても、市場で見る野菜の金額などは日本と大差ないか時に安くも感じるが、サンドイッチなどは結構高い。ちょっと物価の点で暮らしにくいかもしれない。
 バスはそこから少し走って、それまでベルリンを目指して走ってきた道を左折し、ポツダム方向へ大きく向きを変えた。丁度12時頃ポツダム市域に入る。少し早めかなと思っていたが、市街地を抜けるようにバスは走った。この街にもトラムがあるが、連接されてはいるが、一両の長さが他の都市よりも短い。半分とまでは言わないが、かなり短いし、全長もそう長くはない。これは、この市がそう大きくはないことと、市の道路が細いか入り組んでいるかあるいはその両方かを示している様に思う。
 市街地を抜けて木々の林立する郊外に近づく。バスはいつものことだがGPS頼みの走行なので、道を少しオーバーし、修正しながら走り、ようやく12時40分頃昼のレストランを見つける。昼食までに時間がかかった印象だ。

3.昼食
 今日も酒場のようなところでの昼食だ。メニューはサラダ・魚(ステーキ)・アイスクリーム・白ワイン(3.9)。サラダはそう多くはなかったが、葉野菜の入ったもので美味しくいただいた。ドイツは大きなホテルでも、葉野菜が出てくることはあまりない。野菜畑もあるのだが、やはり主食類(根菜を含む)や牧畜に力点が置かれているのだろう。
 テーブルには何と醤油があった。このキッコウマンはなんと米国製。かようなレストランにも日本人が数多く訪れるものかと、感心する。というか、少し不可思議。
 昼食の後、junと運転手さんの記念撮影。彼はチェコ人で、異国の土地まで旧式のカーナビ一つで我々を運んでいる。すばらしい根性だ。たくましく生きている。

4.サンスーシ宮殿192
 1745年、フーリドリッヒ大王の夏の離宮として造られた。ロココ調。屋根の上には、36体の像が並んでいる。1階のフロア部分とグランドとの高さがあまりなく、階段が2,3段でかつその高さも低い。テラスが地面よりほんのわずかの高さしかないため、冷気と湿気が部屋にまで入り込み、あまり住み心地はよくなかった。フーリドリッヒ大王が建築家の進言を採用せず、自身の執務の目の高さで庭園をより楽しみたいという考えでそうしたらしいが、老後の身になっては寒さは相当こたえたらしい。
 庭の端にフリードリッヒ大王の墓があるが、小さな墓石だけ。花と何故なのかジャガイモも5個が備えられていた。どういう意味があったのか分からない。ジャガイモ好きだったのか?(*)
 中央の階段を下りながら振り向くと、宮殿きれいに全景が見える。ここで集合写真を撮る。天気がすこぶるよいので、コントラストがきつくなる。
 階段の両側に植物が植えられているが、その途中途中に扉が付いている。これは冬用の植物が植えられているところで、寒い冬にはこの扉が閉じられて植物の保温室になるのだそうだ。
 噴水まで降りていくと階段を含めて全体が見渡せる。噴水の周りには10体の像が並んでいる。ここで全体の記念写真の撮影があった。我々も記念に一枚撮影した。

4.1 中国風茶室
 庭の最下段の噴水のところから左折して、中国風茶室に向かう。中国茶館と名付けられている場所。疎水のようなところを通って向かうが、その道道が田園風景的で美しい。
 さて中国茶館だが、東洋式に造ったという茶館。周りの装飾は柱も人もキンキラキン。中国人には似ても似つかず、趣味が悪い。柱はパンテオンをまねている。
 内部撮影禁止。中は、中央に広めのホールがあり、周りに隔離されて3つの部屋がある。その部屋で茶をたしなみ、中央は非常に音響がよく楽団などの演奏が行われた。

4.2 新宮殿
 正面の一部が修理中。外観を一部修復中で、全景写真の取り方に苦労をする。壁を飾る彫刻が見事。裏にまでくまなく施されている。というか、裏側の方がむしろ豪華に造られているくらいだ。どうも添乗員氏の説明で裏側という方が正面に思えてならない。
 最初に見てきた宮殿との間は噴水を挟んで一直線上に並ぶ造り。ここで昨日の銘菓の残りを食す。
 そこからバスが先回りしてる駐車場に向かい、16時頃サンスーシ宮殿(群)を後にする。

5.ツェツィーリエンホフ宮殿192
 20分弱走って到着。やはり田園の中にある。
 1932年から37年にかけて建設。王と家族が住んでいたが、1945年にここを出て行く。その中の長女がオランダに嫁ぎ、戻ってきてからの居所として使われたらしい。
 ここが有名になったのは第二次大戦の事後処理を相談したポツダム会議が行われた場所であるため。当初、ドイツ軍の駐屯地として使われ、後にソ連軍の主に軍の病院として使われた。
 ポツダム会談のために、古い家具は運び出され、代わりにソ連製のものが運び入れられた。おそらくは当初から連後国側はここをそうした場所に使おうと考え、あえて破壊せずにいたのであろう。現在では大部分はホテルとして営業し、1階部分の会談の行われたメインの部屋を中心とした部分だけが見学コースとして公開されている。
 ここも内部は撮影禁止。一枚だけ、どうしても巨頭会談の部屋の写真がほしかった。左の写真の突き出た辺り、二階部分がその場所。noriは苦労して撮影した一枚が下のぼんやりとした写真。それでも、米英ソの国旗がテーブル中央にあることはわかるだろう。撮影方法は秘密である。

5.1 廊下
 そのポツダム会談の様子が、写真と共に説明されて展示してある。

5.2 シシリアの部屋(スターリンの部屋)
 娘の部屋。船の船室を模して造られている。この建物で唯一オリジナルのままの調度が残る部屋。階上にベットルームがあるという。
 ドア続きで隣の部屋は本が並べられている。この本棚と本だけがこの部屋の中では、シシリア当時のもの。ここは勉強部屋として使われていた。
 この二間は、ポツダム会談中はスターリンの部屋として使用された。彼はこの構造に固執したらしい。

5.3 白の部屋(談話室)
 シシリアのミュージックルーム。友達との談合やコンサートに使われた。天井・床・壁が白色。壁には楽器のレリーフなどがある。ポツダム会談中は談話室となり、パーティーなども行われた。米・英・ソ各国の首脳のそれぞれの入口がある。三者はここに通ったわけだが、それぞれが会議を開く際にここへ入るときに顔を合わせるのを嫌ったためらしい。ここの家具類もソ連のもの。

5.4 赤の部屋(会議室)
 リビングルームだった部屋。音楽を奏でる2階の小部屋が3つある。豪華な階段で2階へと続く。ただ、現在はホテルとして使用されているため見学は出来ない。
 ソ連が運び込んだ家具は、絨毯もカーテンもテーブルカバーも椅子の背もたれもシートも全て赤色。ポツダム会談中はここで巨頭会談が行われた。広い円卓を取り囲むように座った。

5.5 喫煙室(トルーマンの部屋)
 王子の部屋であったが、ポツダム会談中はトルーマンのプライベートルームとして使われた。

5.6 図書室
 元々の本は少なかったが、ソ連が自分たちの娯楽用に本を運び入れた。
 トルーマンの執務室として使われた。

6.7 ダイニングルーム
 白で統一された落ち着いた部屋。きれいに食器類なども並べられた、八角形の部屋。往時には朝食などがここで食べられていたという。

5.夕食
 18時頃見学を終えて、バスに乗る。出発の際に一組の方が迷子状態になり、15分ほどロスタイム。途中渋滞もあり7時少し前にレストラン到着。
 さてさて今日もレストランと言うよりも酒場だ。野菜のスープ・ソーセージカツ・アイスクリーム。今までの中で一番洗練された食事だったように思う。昨日の不可思議な味の中華料理に比べて、普通の味だ。相対的に満足できる味。

6.ホテル Mikon Eastgate Hotel ★★★ (ベルリン)510号室
 バスは8時頃出て、明後日使うベルリン中央駅の前を通って、8時15分頃ホテル着。薄暗いその場所は、ホテルの前はそこがホテルであると判じ得ない場所。添乗員氏も迷っていると、周りにいた人がドアの開け方を教えてくれる。
 中に入るとまるでアパートのような廊下。すすむとリフトと表示があるが、リフトなど無い。そばにある赤いボタンを押すと、ドアが開いてまたまた廊下。そこを進むとようやくリフト。この時点で何かすごい場所に来たと一同驚き、言葉も出ない。添乗員氏も相当慌てている様子が伺える。
 ホテルは5Sという表示の階にある。といってもレセプションは2メートルほどのカウンターしかない。何とこのホテルには電話さえ各室に付いていないという。添乗員氏もあわてていて自室の番号さえ知らせない。モーニングはノックとか?!勿論ポーターなどいるわけもない。バスの中で添乗員氏は☆☆☆☆といっても、下の方ですから・・・と言っていたが、インターネットで調べる限り(この時点で接続手段を奪われているので確認できないが)☆☆☆のホテルであり、この☆マークどういう基準があるかは定かではないが、☆☆☆と言っても限りなく☆☆に近いと思わせるものだ。
 渡された鍵で部屋に入って二度びっくり。はっきり言って、日本の旅行でも、個人旅行を含めてかような部屋に泊まって経験は殆ど(正確を期すためにそう書くが気持ち的にはまったく)無いようなホテル。荷物置き場さえない。部屋には階段と思われる三角形の切れ込みが天井にある。あきれてしまい、noriなど茫然自失の感。最低だぁ!
 何とか工夫して部屋のやりくりをする。写真の整理をして、本来なら絵はがきの印刷をするのだが、切手の入手などこのホテルでは考えられないので、運転手さんに渡す昼間撮影して写真のみ印刷。junは普段通りの作業をこなしたが、今日はほとんど酔っぱらってはいないのに日記にまで手が行かず、就寝。ホテルのことで、疲労感が一気に出た感じだ。noriも少し予習して就寝。
 あきれたこの事態、明日以降の展開はいかに。


2008/10/19追記
*フリードリッヒ大王とジャガイモについて
  実はこれがとんでもない誤解であったことが帰国して判った。ドイツにおいて今日かようにジャガイモが食べられている現状の張本人とも言うべき一が、だれあろうフリードリッヒ大王なのだった。このことについては、ここに詳しい説明がある。