9月22日(月)
 アイゼナッハ−ゲッティンゲン−ゴスラル

ホテル(0830)(1015)ゲッティンゲン(1155)(1350)昼食(1550)ゴスラル(1725)(1750)ホテル着

1.朝
 朝はいつものごとく4時過ぎには目を覚ます。今日は出発が8時半。少し早め。昼食前に一ヶ所見学するというスケジュールのためか。いつものパターンで、我が家は日記と荷造りをする。外の天気が気になるが、この時点では未だ暗くてよく分からなかった。
 6時半から朝食と言うことで、合間をぬって食べに行く。このホテルは実にコンパクトに機能的にできあがっているので、ホテルのレストランの中にフロントがあるような構造だ。まぁそれはともかく、朝食の内容は悪くはない。ただここでも野菜はキュウリとトマトだけだ。
 食べていると、老夫婦がやってきた。この夫婦は先にも書いたが(元)学者であったようで、夫の方はマイペース、妻の方はそれを気遣いながらも自身も結構マイペース。ただ、今回の旅行は少々きついようだ。添乗員氏の歩くスピードについて尋ねると、奥方の方が「あの方は足が長いわねぇ。ゆく前に旅行会社に聴いたら、このコースはノンビリとしているから大丈夫って聞いたのに、忙しいコースですね。」と答えた。全体のペースを考えず勝手な行動をする夫の方も少し困りものだが、80近いと思われる人を連れて来るとなれば、それなりの覚悟が旅行会社にもあるべきだろう。

2.出発は雨・・・
 あいにくこの日の天候は小雨。教会がホテルの正面にあるのだが、その鐘も何とはなしに悲しげに、濁って聞こえる。雨は恵みももたらし必要なものだが、旅行の時だけはご遠慮願いたい。それでも定刻になればバスは出る。
 添乗員氏も心得たもので、天気の話は全くしない。余りよい予報ではないのだろう、たぶん。朝方いつも日本のニュースを流してくれるが、この日はスポーツが中心。日本のプロ野球ではライオンズが順調に勝ち星を重ねているみたいだし、13ゲームあった阪神・巨人のゲーム差が直接対決でとうとうなくなったそうだ。大リーグでは松坂が念願の背番号と同じ18勝目。イチローはヒット一本。添乗員氏は野球少年だっただけに、野球中心。九州大分県日田で小学一年生が殺害された事件ではまたもや母親が逮捕されたそうだ。
 雨足は衰えず、少し強まった感じも。窓の外には水滴が付いて、風景写真もうまく撮れない。
  我々はバスの中で少し苦労しながらヤッケを着た。ヤッケを着終わると雨がやや小降りになった。皮肉なものだが、junにどうすると聞いたら、このままお守りとしてきてゆくというので、そのままにした。
 10時少し前にゲッティンゲンの町域に入り、10時20分頃には旧市街に降り立った。

3.ゲッティンゲン
 雨は小休止状態で、ゲッティンゲンの旧市街に到着した。旧市庁舎前まで歩く。そこで現地のガイドさんと待ち合わせ。
 中世以降この町の多くの建物が建てられた。18世紀に大学が設立された。13万人の町に5つの大学がある。バイオ・レーザー・科学技術などの分野の専門の研究施設があり、科学関係の産業の町(重工業はない)。また、現時点(2008年9月・・・この年のノーベル賞はまだ)で何と44人ものノーベル賞受賞者を出している町。心なしか、町の中で若者が多い感じがする。坂があまりないのかもしれないが、それにしても自転車が目立つ。

3.1 旧市庁舎
 1270年に建てられた市庁舎は、旧市街の中心のマルクト広場に面してある。広場にはがちょう娘リーゼルの像も。これは後で説明。
 ここでは、登録するための部屋というものがあり、婚姻届、出生届、死亡届などを受け付けていた。今の役所のような仕事をしていた。判事はこの時代未だ聖職者がその職を兼ねており、分離はしていなかった。
 壁画はその当時のもの。階級を表したもの(聖職者・学者・職人・農民)や大道芸人のようなことをしながら各地を歩き回り情報収集提供などをしていた楽士の絵、税金の徴収の場面の絵などがあった。
 壁面中央から少し登ってはいる部屋には扉があり、そこは鍵がかかっていた。その部屋は、ガイドさんの持ってきた鍵でjunが開けた。鍵は普通とは逆回しになっていて、皆間違えるようだ。junも間違えて、反対方向に回すように言われた。鍵も扉もすこぶる重い。
 さて鍵を開けてはいるとそこは、12の町の代表が集まって会議をした部屋で、今では結婚式なども行われる場所になっている。
 床には蓋を取ると穴が開いている部分があり、実は床暖房の暖気がその穴から出てくる。穴は12個あり、丁度代表の数で、彼らはその穴をまたぐように座り、暖気を長いローブの中に入るようにした。日本で言えば股火鉢だ。実際に空気がそこから上昇してきていた。かなりの風速だった。
 天井は、政治に携わっていた家家の紋章が描かれている。
 金庫は分厚く頑丈に造られている。金庫の扉などは、オーク(樫)の木に金属(鉄)板を打ち付け現状座と軽量化を両立させている。この時代ではこの方式がポピュラーだったようだ。

3.2 リーゼルの像
 ゲッティンゲン大学で博士号を取るとこの像にキスをしても良いとされる。世界で一番キスされる像と言うわけだ。ただ、周りには噴水の池があるので、まずはそれを無事に突破しないといけない。実際問題落っこちてしまう者もいるらしい。
 でも彼女は一体何歳なのだろろう。とうに100才は越えているに違いない。

3.3 リヒテンブルクの像
 リヒテンブルクは18世紀 ドイツを代表する物理学者で、「リヒテンベルク図形(ゼロックスコピーの基本原理ともなった)」を発見し、ドイツで初めて避雷針を使った人。ガウスと共に二大学者とされる。像は意外にも小さい。これは彼が若くして背中が丸まっていたことを表しているのだろう。写真で、現地ガイドさんと比べると高さがわかる。彼女もそう背の高い人ではなかった。
 手には電気の+−の記号を書いた球を持っている。旧市庁舎で結婚式を挙げたカップルがこの玉を触ると縁起が良いというので、今ではつるつるになっている。
 ただし彼は結婚が嫌い(結婚しなかった?)だったらしい。現地ガイドさんの説明では、それまで別姓だったために、プラスとマイナスで引き合っていた者が、同姓になれば引き合うのではなく反発するようになるからだとか・・・。「結婚とは、熱病とは逆に、発熱で始まり悪寒で終わる。」「恋は人を盲目にするが、結婚は視力を戻してくれる。」(リヒテンブルク) 彼は結婚以外にも、いろいろ格言めいた言葉を残しているが、これらは彼が残した15冊にも及ぶ雑記帳が原点という。。

3.4 ルネサンス式の建物
 555年前から建っている。2階部分が飛び出ているのは、税金対策。1階部分の広さで税金がかかる。京都の町が間口が狭く奥に深いのは、間口の幅で税金を支払っていたせいだと言うが、何処でもそうした税金対策というのはあるらしい。
 細い道など両側からせり出してくると、実質的にそこがアーケードのようになっているところもこの後見る。

3.5 ウィリアム4世の像
 ハノバー朝の時代の王。この人は一時期英国をも占領していた人。
  この町の発展に尽くした人で、このウィリアム広場に面している大学を寄付した。大学の正面入口はギリシャ建築を模して造ってあり、上の彫刻は、学問の神を中心に、左から薬学・神学・法学・哲学と、当時あった学部を表している。現在のゲッティンゲン大学には13の学部がある。

3.6 アールヌーボ−の家
 植物模様を取り入れるているのがこのアールヌーボーの家特徴だが、このパン屋は建てた大工が茶目っ気で壁の外側の柱部分におかしな顔をした頭部を彫り入れた。当時は人目を引いたことだろう。
  入口にはパン屋の主人の顔を入れたが、この出来に建て主であるパン屋の主人はあまり満足しなかったという逸話があるそうだ。あまりにも気むずかしいパン屋の主人をリアルに作ってしまったからなのだろうと想像する。
 ところで、(ドイツ風の)アールヌーボーの家としては、日本では神戸の風見鶏の家が有名。曲線が多用されている。
  現在はここのパン屋の主人が飾られている部分は、文房具屋になっており、その他の部分はまた他の店舗が一階部分には入っていた。

3.7 ルター派教会
 元々は14世紀にカトリックの教会として造られたので、その名残が残されている。今のように整えられたのは15世紀になってから。フラッシュ無しなら写真撮影は許可される。
 入口にある貝の模様は、聖ヤコブに捧げられた教会であることを示している。
 ステンドグラスが右は窓枠が3つ、左は2つとなっている。左右対称なのが本来の形だが、ガラスが貴重で手に入らなかったため、建築している過程で財政的に苦しくなったためという。






  正面の祭壇の絵は、観音開きになっていて、しかも扉部分が何枚かあり、曜日によって異なるようになっている。全体的にではあるが、祭壇においてもルター派の特徴で質素である。絵の前の祭壇の下には、以前は聖人の骨や髪など聖遺物が入っていたが、今はないらしい。

4.大渋滞
 ここではガイドさんは1時間しか雇われていない。最初にトイレ休憩を入れたりしたため、少し時間オーバーになって、話はこの教会の前で終わった。
 ちなみにこのツアーではトイレ休憩が今までの経験よりも少ない。年寄りや女性は近いのだから、その辺りも配慮してもらいたいことだろう。それくらい時間がタイトなのかも知れない。実際問題トイレに行ってかの学者だった人はトイレチップに困っていて、noriは手助けをした。勿論直ぐに返していただいたのだが、トイレのペースをきちんと決めておけばこうした緊急事態を避けられる。
 バスまた走り出した。途中湖のようなところがあり、ヨットハーバーのようになっていた。さてその辺りまでは快調だったが、その後バスは大渋滞に巻き込まれた。このためにおよそ1時間くらいの時間をロスした。その間に再び雲行きが怪しくなってきた。でももはや、昼飯を食べると言うことでヤッケを脱いでいるので、御利益もない。
 人々の話によれば、どうも車が路肩から落ちて木々をなぎ倒したらしい。そのためそこを一車線に絞っていたので渋滞になったらしい。後で写真を見たが車はぺしゃんこになり分解していた。
 さて渋滞部分を抜けると再び走り出したが、そこはすでにゴスラルへの分岐点であった。高速を下りた。
 高速を下りてからも約20qほど走る。こうして昼の時間をかなりオーバーしてゴスラルの旧市街に到着した。
 昼食場所は旧市庁舎の地下。こうした「市庁舎食堂」は各町々にあるらしい。そこでは比較的安価な食事や時には結婚式などの行事も受け持っているらしい。

5.昼食
 昼食の内容は、野菜サラダ・チキンとライス・すりりんご。野菜は内容豊富で食べやすかった。
 チキンの方はあんかけご飯風で、日本人的にはうまかった。
 noriは天候が心配でここでも昼には飲まなかった(足が悪いので石畳で滑るのが怖かった)。

5.ゴスラル189
 『ゴスラーの町には歴代の皇帝・王の居留地が置かれ、美しい街並みが形成された。 ヨーロッパ屈指の歴史を持つランメルスベルク鉱山とゴスラーの旧市街は、1992年、ユネスコ世界遺産に登録された。』(日本語版WikiPediaより)

5.1 カイザーリングハウス
 旧市庁舎前は広場になっている。丁度3時に鐘の音と共にからくり人形が動く。
 ゴスラルはかつて銀鉱で栄えた町。そのうち石見と姉妹都市になるかもしれない。
 さてからくり人形の中身は、銀(ここでは金)を発見し、採掘の様子の移り変わりを表している。手堀りから、最終的にはダイナマイトで爆破するまで。

5.2 マルクト広場
 市庁舎やカイザーリングハウスなどが取り囲んでいるマルクト広場には、12世紀に遡ることが出来る噴水がある。
  一番上の黄金色のワシが皇帝を表し、下の水受けがゴスラル。つまり皇帝への忠誠を表している。広場にはまた、罪人を縛り付ける柱もあった。かつても今も町の賑わいの中心にあることは間違いない。

5.3 市庁舎
 会議室は今では結婚式などに利用。天井には金の木の葉がちりばめられ、2体の皇帝の像が下がっている。これも常に皇帝に従うという忠誠心を表すため。ステンドグラスには、町の有力者の名前を刻んだり(シーメンス)もしていた。
 シーメンスはドイツを代表する電機メーカー。日本にも多数輸出している。初代がこの町の出身だったらしい。そして昔から町の有力者だったということであろう。
 ここの見所は壁画。始めにその説明ビデオを見てから本物を見るが、しっかりとガードされていて室内に入ることは出来ない。外側から中をのぞき見て、一人ずつ防御のプラスチックにカメラをくっつけて写真を撮る。おまけに中は暗く、下手に窓が開いているので逆行になる最悪のコンディション。正直なところ、壁に飾ってある写真を撮った方がよいくらいだ。(この部屋の完全版はVRとなってこのページにある。)
 市庁舎の会場の会議室などを見学して広場に下りてくると、雨が再び降り出した。うーん、困った。以降は傘を差しながらの見学となる。

5.4 散策
 木組みの家(ファッハヴェルクハウス)は、1600件ほどあるが、200から300は古いままである。新しいものは、壁にスレートを使うようになってきたという。その方が家の持ちがよいとのこと。またそのスレートの組み方で、様々な形、たとえばハートマークなど、が作られており、意匠的にも興味をそそる。
 マルクト広場から少し歩いたというか、マルクト広場の一番端の方とでも言うべき道が七方向に伸びている場所に立つトライアングルハウスといわれる今ではホテルになっている家(ただしあまりにも高価で客が寄りつかず、経営不振で売却話があるらしい)やシーメンスの家などを見た。シーメンスの家はひっそりとしていた。『銅のゴスラーで財を成したシーメンスと足尾銅山で財を成した古河鉱業が提携して設立したのが富士電機と富士通なのはなにかの因縁?(フルカワ+ジーメンス=ふじ)』って、うんちくある話だが、銀でなくて銅で財をなした?
 散策しながら歩いてゆくと川の流れている場所まできた。これは元々は運河だったらしく、採掘した銀を運び出していたらしい。
 その先には旧城壁の一部を見ることができた。残存しているものを見るとそう高くはなかった。橋を渡ると庶民の区域から支配者の区域へ。その先には皇帝居城がある。

5.5 皇帝居城
 庭には、ビルヘルム皇帝とルードリッヒ1世の騎馬像がある。入口手前にゴスラルの町並みが一望できる場所がある。そこでしばし風景写真。しかし空はどんよりとしている。添乗員氏曰く、私もかつてはれたらよいのにこの空は・・・といったことがあるが、その時にいた人は、この地方の天気はこれが普段なのだと切り返しにあったそうだ。そうはいっても、旅先では晴れて欲しい。
ここは内部の写真撮影は禁止。
 建物はアルプス以北では、現存する一番大きい宮殿形式の建物。ハインリッヒ3世(日本語WikiPediaの2世は間違えか?)が造った。皇帝はその当時定住するのではなくいくつかの渡り歩いていたのだが、ここにも年に2週間くらいしかいなかった。それも1250年を最後に来なくなったので荒れ果て、付近の住民たちによって倉庫などに利用されたり、時に火がたかれたりした。
  1867〜1879年にかけた大がかりな修復がなされ、大広間の壁画もその時に描かれた。
 壁画は、王の目覚め(眠れる森の美女風)から始まり、カール大帝によるカトリックの支配、帝国の繁栄、ルターの出現でカトリックの終わり、王の眠りで帝国の終焉と左から一つの話になっている。カノッサの屈辱のハインリヒ4世もここで生まれた。
 最後に16世紀の模型を見た。7kmの城壁で囲まれ、15の見張り塔、12の門があった。教会も多数あり、その教会を辿っていくと町の中に大きな十字が造られる構造になっていた。
 帰路再び雨脚が強くなった。

6.ホテル
  Best Western Residenz Hotel Harzhohe ★★★★ (ゴスラル)
  215号室 シャワーのみ

 添乗員氏の最初の話だと、今夜の宿は2qほどで、明日の自由夕食時には徒歩期間も可能とのことだった。だから明日はソーセージが出てこないので、ソーセージでも食べにきましょうと、タマネギ料理の時の苦労を忘れたかのような発言。
 しかしである。バスを乗り込んで、運転手はホテルが18qもここから離れていることを告げた。かれは我々が見学している間に、そこを往復して既に荷物だけは先行して部屋に入れてあるそうだ。勤勉な方だ。
 そう言うわけでホテルは遠かった。2kmのはずが18kmもあったのだから。山道を登り、蓮池・丸池風の景色を過ぎで、ようやく巨大なリゾートホテルに到着した。
 今夜の夕食は19時半から。18時少し前に到着したので、少し時間があった。それに連泊だったので、junはこの旅最後の洗濯を、noriはこれまでの写真のピックアップをして絵はがきに仕上げる準備をした。
 シャワーを浴び終わると丁度良い時間になったので、食事にゆく。今日はビュッフェスタイル。味はこれといった特徴はないが、一部のドイツ料理を除けば薄味。ほっとする。というか、山の中にはあるが、ここがこの旅一番のホテルだったかも知れない。
 酔いも手伝って、9時前に就寝。junは深夜に今日の行程の整理に目を覚ました。