9月25日(木)
 ドレスデン−ザクセンスイス−ドレスデン

ホテル(1850)(0910)ドレスデン(1230)(1315)ピルナ(1415)(1445)バスタイ(1600)(1650)ドレスデン(1815)(1825)夕食(1950)(2010)ホテル着

1.朝
 junは今日は2時頃に起きて日記の整理。3時頃終わって再び寝た、noriは4時過ぎに起きて、日記を形にしてゆく。jun、5時半に再度起床する。
 日記を書いていたが、絵はがき写真の作成が未だなのを思い出して、印刷の後、6時15分頃降りてゆく。切手を買いにフロントに行くと、本当はこれからのも入れて14枚欲しかったのだが、しっかり絵はがきの枚数を数えられて、8枚しか売ってもらえなかった。今日印刷した2枚の内容を書いて、合計8枚を再びフロントへ持ってゆき依頼する。
 レストランが開いたので、朝食をそのまま食べる。誰も来ないうちに、7時過ぎに食べ終わる。ようやく部屋に戻るときに、同行の人と一組すれ違う。
  今日も天気はあまりよくない。空から落ちてきてはいなさそうだが、厚い雲に全天覆われている。天気が悪いと旅の時は特に憂鬱になる。

2.市内観光191
 9時に市内観光へ出発。日本人ガイドさんがホテルから乗り込む。といっても、市内までは7qほどなので、そう時間がかかるわけではない。
 市内に入る。新市街から、旧市街に向かう。黒色の建物が林立する。この黒色に変わっているのは、この地方で産出する砂岩の中に鉄分が含まれ、時代と共にそれが酸化鉄となり黒色化するとのこと。

2.1 アウグスト王の騎馬像
 公園に曲がる角にそれはあり、車窓から撮影した。丁度昨日の夕食のレストランの近く。金色に輝いている。再建なのだろうか。ザグゼンの選定候。
 道の側ではなく、あらぬ方向を向いているように見えるが、実はこの人はポーランドの王を兼任していたので、ポーランドの方を向いて造られている。行かなくても睨みだけはという意味なのか。

2.2 劇場広場
 バスは公園脇に到着する。そこから歩いて劇場広場と言われる場所にゆく。いわば旧市街の中心地。ここは、この広場の名前のゆえんとなるゼンパーオペラ劇場、ツインガー宮殿、レジデンツ宮殿(王宮)、三位一体大聖堂、イタリア村といった建物に取り巻かれている。360度のパノラマ写真を撮りたいくらいだ。そのうちのいくつかの建物に黒い部分が見られるのは、先にも書いたように砂岩が風化して、鉄分が酸化したため。

2.3 ゼンパーオペラ劇場
 丁度車のプロモーションビデオの撮影をしていて、写真を撮るのは邪魔だった。(上の写真)
  1841年に造られた新ルネサンス様式。ゼンパーとはこれを造った建築家の名前。火災と第二次大戦の爆撃により2回消失。現在のものは1985年に新築された。でも20年以上にもなると、もう黒っぽくなっている。
 タンホイザーの初演はこの劇場で行われた。現在もオペラやバレーなどの公演が行われている。添乗員氏の話によれば、入場料は日本ほど高くはなく、多くの場合はS席でも1万円程度と言うことだ。
 入口には左にゲーテ、右にシラーの立像がある。ファサードの騎馬像の下に見える大きなAの文字は、アントン王の頭文字。

2.4 騎馬像
 この騎馬像は劇場に背を向けて、広場のほぼ中央に建つ。ザクセンのヨハン王の騎馬像。
 この人が初代のゼンパーオペラ劇場を造った。1945年の爆撃でも壊れることなく残った。
 しかしながらかわいそうに、その設計者の名の方が後世に残っているわけだ。

2.5 ツインガー宮殿
 日本では宮殿と言われているが、そのようには使わなかった。現在は絵画館と博物館になっている。
  高さはともかく、面積的にはこの広場の中で一番大きな建物。中に入ると、そこは大きな庭園になっている。そこもかなり美しい。
 後ほどこの中にある美術館の一つ「絵画館」に入場するが、まだ開場時間ではないのでとりあえず市内を見て歩く。

2.6 レジデンツ宮殿
 12世紀に要塞として使っていたものを王宮として改築した。1918年まで使用された。1945年の戦災で被害を受け、再建した。
 ここの緑の丸天井は有名であり、翡翠など宝石類を展示している。現在は、図書館、博物館となっている。

2.7 三位一体大聖堂
 この三位一体大聖堂1755年にアウグスト3世によって建てられる。
 78体の聖人の像が並んでいる。
 アウグスト王の心臓があると言われている。ここも戦災の被害を受けて復旧された。

2.8 イタリア村
 三位一体大聖堂はカトリック教だったので、地元の人々は仕事をするのをいやがったために、職人をイタリアから呼び寄せ、職人の住居としたことからこの名が付いた。

2.9 王宮広場
 王宮に添って歩いていく。
 途中王宮と三位一体大聖堂の間をまたぐように架けられている橋の下をくぐり抜けてゆくと、王宮広場に出る。
 アウグスト王の像と裁判所がある。
 裁判所の壁には、6年前の大洪水の時の水の跡が線で残っている。優に2m以上はある高さだ。この洪水で、この辺りはエルベ川の氾濫で皆やられてしまった。

2.10 君子の行列の壁画
 1907年から1910年にかけて造られた。ここで重要なのはこれは壁画ではなく、マイセンのタイル24,000枚を使用して作られているということだ。ドレスデン観光局のページには、『一番有名な観光箇所といえば、シュタルホーフの北壁を飾る、長さ102メートルの「君主の行列」でしょう。35人のザクセンを支配したヴェッティン家の王侯、それに市民階級の代表者たちが描かれています。1868年に画家ヴィルヘルム・ワルターがスグラフィット用法で仕上げましたが、1904年から1907年に、24,600枚のマイセン焼きの壁画に替えました。これは、目地がわからないほど緻密に造られています。』
 この中で一番の見物は、中央辺りにあるアウグスト2世と3世の親子の騎馬像。
 この君主の行列が第二次世界戦の爆撃に遭わずに無事だったことは、まさしく奇跡と言うしかない。

2.11 聖母教会
 君主の行列の見学の後、少し自由時間になった。このたびは自由時間が少ない。貴重な時間を利用して、いくつか写真を取り損ねた場所を見に行く。また添乗員氏がおやつようにお菓子を買う。この時我が家も小さなお土産を買う。
 再集合して、聖母教会へ。17年かけて作られ、1743年に完成した。ドイツには珍しいドーム型の教会。
 1945年2月13日、ここも、連合軍(主に英国空軍)による爆撃による火災のために焼失。壊滅的な状態だった。この時ドレスデンは85%が崩壊したとも言われる。また戦況は決しており、意味のない爆撃との批判もある。これによって多くのバロック建築群が瓦礫の山と化したわけだ。
 どのくらい爆撃後の聖母教会が「壊滅的」打撃を受けたかと言えば、下のガイドさんが持っている写真を見ればよく分かるだろう。広島の原爆ドームは、中にあまり柱がなかった分、外壁が残ったと思われる。聖母教会は柱が火災の熱で損傷を受け、ドームの重みに絶えかねて、爆撃から二日目に崩壊してしまった。
 その後、世界各地からの寄付により元の石材の80%を使用してパズルを組み立てるようにして復元された。黒い色のところが元の石で、きれいなところが新しくされたところ。やはり砂岩で出来ているので、やがては黒ずんでくると言う。この辺りは、現在朱色に輝く薬師寺西塔がやがてはフェノロサが絶賛した東塔と同じ姿に変わるのと同じ趣向なのかと思う。
 爆撃時、当時の教会の一番の頂にあった十字架は少し溶解して黒くなって教会の内部、ひとつの出入り口付近に保存されている。現在の教会の一番高いところに輝く十字架は、爆撃をした側のイギリスによって寄付され、塔の最上部に金色に輝いている(写真の右側楕円形の中)。
  この「物語」は以前NHKの番組で見た記憶がある。『人々は過去の憎しみから「和解」に至るプロセスを体感していった』(NHKのページより) それが結実したのは、2004年7月のことだった。その後、内部を含めて完工し、落成式は2005年10月30日に行われた。
 内部は淡い色彩が使われており、明るい。祭壇にはゲッセマイヤーで、最後の祈りをするイエスの姿が描かれている。聖母教会なのに、このモチーフはやや不思議に思う。その頭上にある雲からは後光が差し、真ん中の空間には神の目がある。天井の八角形の中には、4人の聖人と4つの得を積む人が描かれている。
 現在は、毎日12時から礼拝式が行われ、その際には新しく作られたパイプオルガンを使用する。

2.12 マルチンルターの立像
 聖母教会の前にはマルチンルターの像がある。旧東ドイツに属したこの地方はルター派が多いと言うことで、聖母教会の前にもルターの像があった。つまりはここ聖母教会はプロテスタントの教会と言うことになる。

2.13 ブリュールのテラス
 かつてここは要塞だったが、ブリュール伯爵が購入したために、ブリュールのテラスと呼ばれる。芸術大学やエレストリーゼの彫刻などがある。ここから見るエルベ川の風景は、絵画館で見た「エルベ川の風景」そのものを、今も見ることが出来るほどに中世が蘇った都市であることがわかる。
 エルベ川に挟んで対岸が新市街地で、ザグゼン王国の首都だったために内閣総理府や大蔵省などかつての役所が並んでいた。旧市街との交通が不便なために新しく橋を架ける工事が始まったが、完成した場合、世界遺産を取り消される恐れがあるとのこと。

2.14 再びツインガー宮殿
 バロック様式で、王宮としてではなく祭典の場として使用された。中庭に出て正面に輝いている王冠はポーランドの王冠。先のも述べたが、アウグスト王がポーランドの王を兼ねていたため。中庭の左と右にある同じような建物は、パビリオンと呼ばれる。特に左側のは鐘のパビリオンと言われ、マイセンの時計と鐘がある。

3.絵画館
 中庭を見てから絵画に入る。ここにはこの絵画館を含めて4つの博物館が入っているという。写真撮影は可能だが5ユーロかかる。

3.1 エルベ川の風景
 最初に見たのは250年前のエルベ川の風景。1755年に描かれた。カメラの原理を応用して写真と見間違うほどの出来になっている。この絵をもとに戦後、この辺りが復旧されたとのこと。
 絵の中では聖母教会?が建築中として描かれている。したがってこの絵の作成年代も特定が出来る。

3.2 アウグスト2世と3世の騎馬像
 両者は展示の部屋に向かい合ってある。この二人がドレスデンの発展に力を尽くした。バロック建築やこのコレクションなどはこの二人による。特に3世は絵画に興味があって数多く収集して今日の作品群を作った。1855年に絵画館となる。戦時中は疎開していて無事に残ったが、進駐してきたロシアに殆ど没収され、その後一部は返却されたが、未だ全てではない。


3.3 ルネッサンス絵画の部屋
3.3.1 「聖母マドンナとクッチーナ一家」
 聖母マリアやキリスト大天使などが絵の三分の一で、後の三分の二はクッチーナという家族によって占められている。しかも高さが同じ体の大きさも同じになっており、非常に珍しい。普通聖人と俗人とでは聖人が中央部に大きく描かれる。
 クッチーナ一家の信仰の厚さを描いている。またその向かい側には、「カナの奇跡」の絵がある。結婚式に呼ばれたイエスが、足りなくなったワインを増やしたというあの話だが、その結婚式がクッチーナ一家の次女の結婚式であったという絵になって描かれている。
 両方で一対の絵なのかも知れない。
3.3.2 ラファエロ「サン・シストの聖母」または「シシティーナのマドンナ」
 大聖堂の下絵として描かれた。下部にある天使が可愛らしい。3世が気に入って莫大な金額で手に入れたという。
 元々あったイタリアのピアツェンツァ教会には今ではそのレプリカが置いてあるという。左には法王、右が聖バーバラで聖母と三角形の構図になっている。
3.3.3 ジョルジョーネ「まどろみのビーナス」または「眠れるビーナス」
 ルネサンス絵画は、宗教画や古代の世界(ギリシャやローマの神話)を取り上げることが多いのが特色。これもその一つで、女神ビーナスの神話に基づく。
  この絵をジョルジョーネは32歳未完のまま終えてしまったがその後友人テッツィアーノが完成させた。本来は足の辺りにキューピットがいたのだが、19世紀の修復の際に塗りつぶしてしまった。これはエックス線の解析でも確認が出来た。絵画の技法は、スフマート法といい、ぼやかす技法でレオナルドダビンチが編み出したもの。裸婦というものを描いたのは、ジョルジョーネが最初で、その後の画家に大きな影響を与えた。
3.3.4 「フローラの王国」ニコラプッサン フランスの古典絵画の巨匠
 特に説明はなかったが、junが事前に調べておいたので直ぐに見つけた。ただ廊下に展示してあるのでこの絵画館での扱いとしては小さいのかもしれない。でも買った図録には載っていた。
 この絵のモチーフは様々な神話などで、死後花に返信する人々(神々?)をオムニバス的に描いている。 たとえばナルシスのがヒヤシンスになるといったように。長い闘病生活を経た画家自身の心の内を表しているとも言われる作品。

3.4 バロック絵画の部屋
 バロック絵画はダイナミックなのが特徴。
3.4.1 ルーベンス「噴水のそばで手紙を受け取るバテシバ」
 1757年の作。旧約聖書の話を元にしている。
 ダビデ王がバテシバ(バト・シェバ)という人妻に横恋慕し妻にしてしまったと言う話。夫ウリヤを激しい戦いをしている戦地に赴かせ、戦死させ、見事自分の妻とした。ただしその最初の子は、神の怒りで殺された。
  二番目にバテシバから生まれたのがソロモンで大美での死後イスラエルの王となる。したがって旧約聖書によれば、彼女は重要な役を演じている。
 ソロモンはエルサレムの神殿を造り、そしてその後、ダビデとバテシバの子孫が古代イスラエルを形成する。
3.4.2 ルーベンス「狩りから帰るディアナ」
 このモチーフはフランソワ・ブーシェの作品が有名。
  題材になっているディアナはギリシャ神話に登場するオリンポス十二神のひとり。アポロンの双子の妹。仮の名手として主に鳥を捕った姿で絵画にしばしば登場する。
  バロック期のヨーロッパを代表する画家の一人であるルーベンスは、ディアナと男たちの姿を借りて、あふれいずる生命感の中に、男女それぞれがもつ美しさを表現している。ディアナの赤い服が印象的。
3.4.3 レンブラント 「放蕩息子の帰還」または「失われた息子」
 彼は光と闇を描き分けられる天才といわれ、バロック絵画の第一人者と言われる。
 聖書から題材を取っている。元々は横長の絵だったが、両端を切り落とし、更に下20cmほど付け足した。また真ん中にもう一人人物がいたが、それも消し去った。この作業はこの絵を肖像画にするためにそうしたとの説明を受ける。しかしながら、一説には二人は新婚当時のレンブラント夫婦がモデルとも書かれており、どうもつじつまが合わぬが、改作はX線写真で証明されているので事実ではある。
  写真はその部分図だが、女の着物の質感がよく伝わってくる。男が掲げているのはビールジョッキだそうだ。17世紀にはこのように北欧では一般的に飲まれていたと言うことだろうか。
3.4.4 フェルメール 「売春宿の女」
 レンブラントとともに17世紀オランダのバロック絵画を代表するフェルメールは、若くしてこの世を去ったために作品は数に限りがあるが、ここでは数多くの作品が収蔵されている。つまりは、ドレスデンの絵画館は貴重なフェルメールコレクションの場でもある。
 これは5年前に洗浄され,色が蘇った。非常に鮮やかに、つややかに描かれている。真ん中にいる人物はフェルメール自身とも言われている。
 ドレスデン絵画館の本では、「取り持ち女」という表題が付けられている。現存するフェルメールの作品としては比較的早い時代のもの。
3.4.5 フェルメール 「窓辺で手紙を読む少女」
 光と陰のコントラストが見事。細部を見ることによって、この少女の手紙がラブレターであると見て取れる。というのは、もともと上部空間にはキューピットが描かれていたという。
 窓の光の力を得て、ややほほを赤らめて、恋人からの手編みを見る少女。右側の緑の質量間あるカーテンは、少女と歌人との空間を厳然と確保し、この少女の手紙への集中力を助けている。
 また窓からの光は同時に壁を照らし、少女を立体的に浮かび上がらせている。ガラスには反射した少女の顔が写っている。目だけが文字を追いかける緊張した空間が演出されている。
 この絵画館の至宝の一つ。
 この作品はまた売買された際に、レンブラントの作品として扱われたらしい。それだけフェアメールが評価されるのには時間画家かたということだろうか。

3.5 スペインイタリアのパステル画
 3階の一番奥の部屋にそれはある。18世紀以降、パステル絵画で肖像画を描くのがはやった。
3.5.1 レオタール「チョコレートを運ぶ女」
 服の素材を描き分けている。シルク、ベルベット、木綿など質感が違うものを見事に筆で描いている。コップはなにやら東洋風で、マイセンを想起させた。

3.6 再入場
 このパステル画の部屋で現地ガイドさんとはお別れ。少し自由時間を再びもらったので、最初に地下のミュージアムショップに行き、日本語の本を買い求めて、その後再び入場していくつかを見た。作品の解説は日本語の解説本による。
3.6.1 「受胎告知」フランシスコ デル・コッサ
 上部は大天使ガブリエルがマリアにキリストの宿りを知らせる受胎告知の場面、下部は馬小屋でキリストが誕生する降誕の場面が描かれているもの。
  遠近法を使った構図になっている。ルネッサンスの時代を反映した作品と解説本意は書いてある。
3.6.2 「酔っぱらいのヘラクレス」ルーベンス
 ギリシャ神話の中でも英雄の一人として名高いヘラクレスが酔っぱらってしまい、一人では立っていられない姿。
 向かい側に同じ絵があるが、そちらは弟子が描いたもの。ほとんど同じ構図で描かれている。
3.6.3 「レダと白鳥」ルーベンス
 これもギリシャ神話を題材にしている。神ゼウスが人妻レダに一目惚れをして白鳥に変身して近づき思いを遂げる場面。
 先ほどルーベンスの弟子がほとんど同じ構図の絵を描いたと言ったが、この構図はミケランジェロの作品に影響を受けていると言われている。
  画面が光ってしまい上手く撮影できなかった。
3.6.4 「鷲に捕らわれのガニュメデウス」レンブラント
 少年愛がテーマに含まれている作品。ギリシャの神ゼウスは美少年ゲニュメデスに夢中になり、ワシに姿を変えて彼をさらう。
 ガニュメデウスを少年から赤ん坊に置き換えたり、更にその赤ん坊に放尿させたりと、少し風変わりな作品。
 素人目には、ガニュメデウスがキャンバスの中心におかれて、立体的に浮かび上がるように描かれていて、とても印象的なものだった。

4.昼食
 バスに再度乗り込んでピルナという町までゆく。小さな町で、道が入り組んでいる。車は久しぶりに彷徨する。そのうちにうっかり一方通行を逆送した。運悪くポリスの車(この地方では緑と白のツートンカラー)がそこを通りかかった。運転手はしこたましぼられたらしい。迷走して少しレストランから遠い場所に着いた。お陰で少し町の雰囲気にふれられた。更に少し迷ってレストランに到着。
 店はまたまた夜は酒場のようで、我々の通された一番奥まった部屋は、楽譜が天井にいくつも貼られ、そこでセッションなどが行われるのではないかと思われるような、洞窟風の雰囲気のやや薄暗い部屋だった。
 この日の昼食のメニューは、ジャガイモスープウインナ入り・ローストポーク団子添え・アイスクリーム・白ワイン(2.2)。
 スープは手の付いた壺のような容器に入って出てきた。このジャガイモスープはどろっとしていた。ローストポークではなく、実際はたぶん牛肉と思われるものが出てきた。

5.ザグゼンスイス
 そこから1時間15分ほどかけてザクセンスイスと呼ばれる場所にゆく。スイスとはほど遠く、むしろ雰囲気的にはオーストラリアのブルーマウンテンの「三人の少女」付近の展望によく似ている。山があまりないこの地方では、これが発見されて、スイスを知らないが、たぶん山が多いスイスはかようなところだろうと想像してこう名付けられたという。
 バスを降りて10分ほど歩くとバスタイ展望台へ。階段を約く130段ほど下って行くと更に岩に近づいて見晴らしのよい橋へ出る。
 そこから少しゆくと、有料エリアがある。先に歩いていた我々であったが、noriが引き返して添乗員氏に入ってもよいだけの時間あるかと聞くと、全員いるので私の方で払いますとのこと。一人分1.5ユーロ払って有料の展望台へ。今来た場所が遠望できたり、少しアップダウンがあり、より「スイス」の雰囲気を味わえた。
 最初の展望台あたりに戻ってきてトイレ休憩。その際にさきほどドレスデン市内で買い求めた銘菓をいただく。長期保存が利くというので堅いものかと思ったが、干葡萄などが入っていて存外しっとり感があった。あとで添乗員氏にそのことを話すと、日本のよりも砂糖が沢山使われているから、その分長期保存が可能になるのではないのかとのこと。でも、激しい甘さのものではなかった。

6.再びドレスデン
 ドレスデンに戻る。今日は目立った渋滞にも巻き込まれることなく、快調にプログラムをこなせた一日だったらしい。当初の予定では夕食後に少し散策時間をと言うことであったが、夕食まで時間に余裕があるあったので先に自由散策時間とすることになった。

6.1 バームクーヘン
 ドイツと言えばバームクーヘンだろうと、日本の雑誌でも紹介されている店を探して行く。あるにはあったのだが、余りにも大きくて土産物には不適と買うのをあきらめた。junは食べるだけでもと思ったのだが、あえなく却下。

6.2 聖十字架教会(ニコライ教会)
 戦後再建されたと言うが、未だ途中で、装飾はほとんどなく質素。後方は未だ工事用シートで一部覆われている。外側の修復がようやく終わったという感じの所だ。
 祭壇には十字架にかけられたイエスの絵、天井には大きな十字架が彫られている。周りには沢山の人の写真があった。このあたりでも多くの人が亡くなったことだろうと、思いをはせる。

7.夕食
 当初の予定の明日から変更された中華料理。一応表向きの理由は、ベルリンマラソンが週末あり、そのため交通規制に引っかかるとのこと。でも、それは予め分かっていたこと。ギリシャに行ったときにやはり建国記念か何かのパレードがあって、パルテノン神殿が閉鎖されたが、それは予め周知されての募集だった。実際そうなのかもしれないから疑ってはいけないだろうけれども、ツアー客層を見ればそんな理由で満足はしていない人たちばかりなことは分かるだろう。
 さてメニューはご飯・スープを入れて7種類ほど。ビール(2.6×2)・白ワイン(2.8)。白ワインは飲む予定ではなかったが、何故かテーブルにあったのでnoriが飲んだ。味付けは、日本や本場中国や、あるいは中華料理人が沢山逃げている大洋州の国のようにはいかないものだった。もっとましな中華レストランがありそうなものにと思う。が、やはりここにもベトナム人が働いていた。

8.ホテル ラマダ・ホテル・ドレスデン(旧トレフ・ドレスデン)★★★★
  167号室

  ホテルには8時少し過ぎに帰還。
 写真の整理、バスタブがあるので入浴をした。入浴剤が活躍するホテルが少なかったのも今回の特徴だ。
 そのあとjunは日記のアウトラインの入力。といっても、この日のメニューは絵画館など盛りだくさんで、したがって書くことも沢山あった。また後日日本に帰国して調べないと、書けない部分もあった。noriは早めに就寝。

システィーナ