9月20日(土) バンベルク滞在

ホテル(0900)(0910)市内観光(1203)(1240)昼食(1330)(1355)自由時間(1800)(1840)夕食(2000)(2030)ホテル着

1.朝
 今朝も4時起き。それはnoriだが、junも5時前には目を覚ます。
 今日は連泊でバゲージダウンがないので楽だ。7時10分頃階下に降りてゆくが、レセプションには誰もいないので、外に出て隣という程度の距離のディスカウントショップへ行く。そこでワインの小瓶3本と水を仕入れる。
 戻ってきて朝食の場所へ。既に開いていたので食べる。程なくして全員揃う。皆早い。

2.出発
 今日だけ運転手さんは交代。
 この交代は、労働契約に基づくものらしい。6日間働いたら1日は休みを与えなければならない、うーんキリスト教徒め。でもこの後7日目にはこの運転手休まなかったのだけれど。
 まぁそれはそれとして、今日は市内観光。そう遠出ではないが、何しろホテルが市内から遠すぎる。この設定はいかがかと思う。noriは徒歩で帰ろうと考えているので、必死になって辻辻や特徴ある建物を覚えたり写真に撮った。バスは日本にも毎年のように訪れるバンベルグ交響楽団のベースホールともなっているバンベルグのコンサートホールの前に停車した。
 ここで待ち合わせていたのは、現地の女性ガイドさん。日本で、山口と熊本で2年過ごしたことがあるという。今はこの地で結婚して住んでいるらしい。

3.バンベルグ市内観光186
 バンベルグには7つの丘があり、ローマと同じということがバンベルグの誇りになっている。一つの丘の上に司教座があり、つまりはそこが大聖堂の場所。1600年頃と殆ど変わっていない町並みで、世界遺産になっている。1600年といえば関ヶ原の戦いが行われた歳。右は古地図のコピー。カラー版はこちらにある。街は、宗教施設が占めるベルクシュタット(大聖堂周辺の「山の街」)と市民の街であるインゼルシュタット(レグニッツ川の二つの分流の間にある「島の街」)、そしてゲルトナーシュタット(「庭園都市」)の三つの部分からなる。上の写真で言えば、左中右に割り当てられる部分。黄色い色に塗られている部分が大聖堂で、赤い色に塗られている部分が、旧市庁舎で教区と市民を分けている。
 この町の名物は二つ。ビールとワイン。そのうちのビールの醸造所は昔は10あったが今は9つ。ラオホビールというのがあるが、麦芽を乾燥させるときに火をたいていぶしていたので、その香りが残ったもの。これは昨晩飲んだ。

3.1 コンサートホール
 バンベルグオーケストラのメーンコンサートホール。先にも書いたように日本にも演奏に来たことがある著名な世界でも第一級のオーケストラ。こうした人口十数万の土地にそれが存在することからしても、ドイツの文化的な高さが知れる。バンベルグという土地は日本人の多くは訪れたこともないし知りもしないかも知れないが、バンベルグ交響楽団の名をいえば、知っていると応える人は多いだろう。

3.2 かんぞう(甘草)
 バンベルグの木で、今はそうではないが、昔はこれを甘味料としていた。今でもこのエキスを取り出してお菓子(?)にしている。食したが、あまり美味しいものではない。が、確かに甘みは感じる。・・・ドイツ以北の地域では、このかんぞうを材料にした菓子が作られている。その代表が、リコリス。あまり日本人お口に合うものではない。ドイツでお目にかかるとは思わなんだ。

3.3 川沿いの道
 コンサートホールの広場で漁師の祭りがあった。その前を流れる川で昔は漁をしていた。鯉や鱒、ウナギやナマズ、外にも沢山釣れた。漁師のマイスターは、漁だけではなく、荷物の運搬やそれらの販売も出来た。
 この川はフランクフルトに通じている。川を利用して物を運ぶことが可能だったのがこの土地の強み。ところで上流への帰路はどうしたかといえば、船を引かせて登るために道が整備されていた。勿論それだけの理由ではないだろうが、馬の行き来が盛んだった。

3.4 昔の病院
 バンベルグ初の病院。この街の領主でもあった司教?○○○が、貧しい人たちのために建てたもの。1部屋に12のベッドがあり、一人の看護婦がいた。おまるも付いていた。ただし、けんかなど、自分に原因のあるけがでは入院することが出来なかった。病棟部分は、現在では高級なホテルになっている。付随してある手術などを行った建物は飾りもありきれい。

3.5 小ベニスの風景
 川の文化盛んなりし頃は、川沿いの家々は、現在1階は沢山の花や植木で飾られているが、昔はそこが船着き場だった。この町は第二次世界大戦の戦火もほとんど受けなかったので、こうした細かい町並みまでしっかりと今も保存されている。
  屠殺場のあった場所の建物に、その面影を見ることができる。(下の写真)日本の丹後半島にある伊根の舟屋の趣だと考えればよいだろう。この屠殺場のあった場所は、現在はオットー=フリードリヒ大学の一部となっている。おそらく今よりも水深は浅かったのだろうが、それでも船の大きさがあまり大きなものでは無かったことが推定される。
 トイレは各家庭の下流側に付いているが、垂れ流しだったために、家の一番川下の場所につけられている。現金なものだと思う。

3.6 メッサーシュミットの家
 この辺りで有名な家に、メッサーシュミットの家がある。世界で最初にジェット戦闘機を造った人。この家には後で訪れた。この人は、元々は実家が宿屋(ホテル)やレストラン業だったようなのだ。

3.7 屠殺場
  川からは見えないが正面に回ると牛のマークが付いている。屠殺処理した際に出る汚物ども垂れ流していたらしい。
  今から比べれば、それほど人口が多くはなかったのかも知れないが、それ故に当時の川は現在よりもひょっとしたらだいぶ汚れ、異臭もしていたかも知れない。

3.8 大聖堂
 川沿いから中に折れる辺りから見慣れた風景が現れた。昨日訪れた場所ではないか。noriは結構前からそれに気がついていた。以降、この街の中心部でもあるこの辺りを、終日我々はウロウロすることになる。
 昨晩夕食を食べたレストランの前を通り、大聖堂への道を登った。7つの丘の一つだ。しかしながら、この時はミサのため中に入れず、外観のみ。
 この大聖堂はハインリヒ2世が最初に建てた。以前は城があったが、紛争後皇帝のものとなり、それを皇帝が教会に寄付し、大聖堂を建てた。現在の建物は800年前のもの。
 正面はロマネスク様式になっているが、後ろの方はゴシック様式になっており、塔の上の方は、壁というより、窓と柱になっている。
 大聖堂の正面の入口の前には、崩れかけたライオンの像がある。今では見る影もなく、地元民はカエルと称しているらしい。が、noriは直ぐにライオンと思った。
 ファサード部分から右側に回ると、道を挟んで反対側に司教の住居がある。そしてそこから通じる道から入れるようにと大聖堂に付いている門は、ゴシック様式で司教専用の門とのこと。装飾の上の部分は神を中心に左が天国、右が地獄となっている。地獄に堕ちようとしている中には、王や教会関係者も描かれている。
 また柱の部分にある女性は、左がキリスト教徒、右がユダヤ教徒(顔の部分だけを切り抜いて写真で示した)。ユダヤ教は目が見えていないという意味で布が巻かれている、正しくない(未だ宗教的に開眼していない)ということを表している。しかしながら、ガイドさん曰く、どう見てもユダヤ教徒の女性の方が美しい姿ではないかと。ある意味ここは皮肉の門と言ってもよいのかもしれない。

3.9 旧宮殿
 当時、国王(ハインリヒ2世)は1カ所に定住していなかったので、ここには殆ど住んでいなかった。ハインリヒ2世が没すると他の国王は見向きもしなくなったので、やがて司教の住居となった。
 台所、使用人の住まい、厩舎、ワイン蔵、武器庫、麦倉庫などがあった。庭にはやはり水を確保するための井戸がある。現在は歴史博物館になっている。
 門は、ドイツルネサンス様式。1600年より少し前に造られた。中央の大きい門は馬が通れるようになっている。上の飾りの左に男(ワイルドマン)、右に女(ワイルドウーマン)がいるが、共に毛深い。伝説の人物。ドイツの男性女性の人称の元になっているといわれる。
 それぞれ手には壺を持ち、そこから水がこぼれ落ちているが、それが川に繋がっている。ドイツの大河を表しているということだが、その正確なところは記録漏れ。

3.10 新宮殿
 バロック様式。後の司教が朽ちてきた旧宮殿の建て替えを迫り、機知を働かせて建てたもの。
  というのは、司教といえども、街の幹部会(名称忘れた)との「新しい建物は建てない」という着任時に書かされた契約書を無視は出来なかった。しかしながらローマが他の地域の同様のそうした契約を無効としたので、それに乗じて新築した物。まだまだ増築したかったらしく、左側には梁がむき出しのようになっている。それ故に、左右対称系ではなく、左側が途中で切れたようになっている。たぶん写真で我々が建っている辺りをコの字型に囲むようにしたかったのだろう。これは資金が続かなくなったためとのこと。
 入口の部分は石畳ではなく木を切ってそのように見せて造ってある。馬の足音を和らげるための工夫。

3.11 バラ園
 ナポレオンの時代に造った。遠征先からいろいろなバラを持ち帰って増やしていった。
 きれいに整備されたバラ園にはギリシア風の彫刻が並んでいた。ふと丘の上を見上げると、かつての修道院、今の老人ホームになっているという建物がきれいに見えた。この建物は後ほど訪れることになる。

3.12 街を臨む
 バラ園からは眺望が少しだけきく。農民地区の教会の尖塔は、緑色で丸みがかっており、特産品のアスパラを思わせる。各家庭の屋根瓦は、ビーバーのしっぽといわれる丸形の物で、新しくするときには必ずこの瓦でなければならない。やや値段が高いが、町から補助金が出るという。世界遺産の町に住むということは、その努力も並大抵のことではない。

3.13 バロック式の建物
 ゴシックの派手さはドイツにはなじまないということで、大聖堂でさえもバロック式の部分を改修した。ステンドグラスなどもその時に全て外してしまった。当時、民家でもバロック式にすると税金面での配慮がなされた。
 だから大聖堂の内部を見学できなくてもそう惜しくはない・・・とガイドさんは言いたげだったが、我々にはみたい物が中にあったのだ。

3.14 聖マリア教会(オーベレ・プファル教会)
 質素な塔が立っている。この辺りは以前はアパートが多かった。この塔は、そんな家々から火事が出た場合に直ぐに皆に知らせる火の見櫓の役割も果たしていた。
 万が一火事が起こった場合、真っ先に駆けつけるのが大工さんで、広がりを防ぐために隣の家を壊した。それから男集が水をかける役割をした。この辺りは、文化的に分離されているであろう日本でも、同様だった。町火消と同じいわゆる「破壊消防」である。とともに、その時代はこの辺りでも木造家屋が多かったということを物語っているだろう。
 先にも書いたようにバンベルグは戦時中戦火に遭うことはなかったが、唯一爆弾が落ちたのがこの教会の前。そこだけ近代的な建物になっている。そこだけ異質の建物が今もなお建っている。
 入口の方はバロック様式(に改築されていた)だが、奥の部分はゴシックのまま残されている。柱の違いを見ると一目瞭然。つまり、数本の細い柱を束ねたような形の柱がある。
 ここで有名なのは、マリア昇天の図の絵で、それはイタリア人の作。左にそれよりも後にドイツ人によって造られた同様のモチーフの木彫があるが、非常に静的で宗教的な価値しか見いだせないのに反し、絵の方は躍動感が感じられ美術的にも価値がある。

3.15 ユダヤ人の道
 昔シナゴークだったところは今は教会になっていた。ただ、ユダヤ人達が多く住んでいたというので、名前だけ通りに冠して名残としている。つまりはこの町にもユダヤ人は住んでいた。ゲットーがあったのかどうかは定かではないが、今では別の所にシナゴークがある。日本語版WikiPediaのバンベルグの歴史の項を見ると中世からユダヤ人は迫害をここでもやはり受けていたようだ。

3.16 旧市庁舎
 町の市庁舎を川向こうに造りたいという市民の要求を司教側が拒んだために川の中に造ったといわれているが、「もともと川の中程に小さな塔があったので、それを大きくしただけ」というのが、ガイドさんの説明。
 我々が訪れた大聖堂側からくぐる門は、市民の門で、ここからは市民の町であることを示している。先にも示した二つの川の間に存在する部分。また旧市庁舎の壁面には当時の司教の死の悲しみの様子を壁画で表している。反対側が司教の門で、ここからは教会直轄地であることを示している、反対側同様壁画があるが、こちらは新司教の就任の壁画。これらの絵柄というのは、市民と協会側の妥協の産物?
 橋の上にはパントマイムをやっている白塗りの人がいた。このおじさんには後で驚かされる羽目になる。
 ここで今日のガイドさんとお別れ。

3.17 大聖堂(棺と・バンベルグの騎士像)
 丁度ミサが終わって、その後の予定の間隙を縫って教会が唯一開かれる時間というので、集合時刻までの時間を使って大聖堂へ急ぐ。
 開放時間残り10分に滑り込む。棺やバンベルグの騎士の像を見た。
 この棺は、皇帝ハインリヒ2世とその妻クニグンデ皇后のもの。彫刻家ティルマン・リーメンシュナイダーが彫り上げたもの。ティルマン・リーメンシュナイダーという人はヴュルツブルグの市長もドイツ農民戦争当時つとめていた人。それ故捕らえられてそれ以降腕を使えなくされた悲劇の人である。多くの人が群がっていることでもわかるようにここでは見応えのあるものだ。
 同じようにバンベルグの騎士も、ガイドさんたちが必ず立ち止まって説明をしていたものだ。しかし、我々はガイドさんとともにここには入らなかった上に、これらについては何も触れていなかったし、逆に大したことないですというようなことを言っていたので、何人の人が見ただろうか。中世騎士の理想像とも言われる13世紀の作品。ただし作者は不詳。一説には像の主は「ハンガリー国王シュテファンI世」ともいわれている。
 ここでnoriは帽子をなくした。なぜなら教会にはいるときには脱帽しなければならず、それをいい加減に懐に放り込んでいた結果だった。これが我が家の帽子紛失三連発の始まりだった。

4.昼食
 サタデーマーケットが開かれているということで、バスは動くことが出来ず元のコンサートホール前にあるという。そこまで歩く。
  コンサートホール前の庭まで戻ってくると、まだ漁師の収穫祭のような物をやっており、そこで白身魚のあげた物をいただく。美味しかった。川魚かと聞くと、そうだとのこと。noriはおかわりをして食べていた。
 車に乗ったが、店に到着することがなかなか出来ず、車は東奔西走。迷って、結局店に電話をする。道に面してあるアリーナの奥に大型スーパーがあるのだが、その一角にあったからだ。そこは、アジアレストランで中華料理だった。町の中華(+ベトナム)レストランだ。いつも中央から離れたわかりにくい所に指定する今回の旅行の歪みの表れか。だいぶ時間をロスした。

5.自由散策
 昼食の後、直接ホテルに戻るという一組をホテルまで送り、その後再び我々はコンサートホール前まで送ってもらった。そこで今日のドライバーとはお別れ。

5.1 ホフマンの家
 始めにたどり着いたのはホフマンシアター。家ではなかったが、前にホフマンの像があったので無駄足ではなかった。次にようやく家に着いたが、閉まっていて中に入ることは出来なかった。
  このホフマンという人は、多才な人で、自身が音楽家であると共に、演出などプロデュースも手がけた人だ。そしてなんと本職は裁判官だったという人。「牡猫ムルの人生観」という彼の代表作は、夏目漱石の「吾輩は猫である」の下敷きになったと言われている。

5.2 サタデーマーケット 1
 ちょうどサタデーマーケットが開かれていて、いろいろな屋台が出ていておもしろかった。
 子供向けの物もいくつかあり、junはそこで紙をもらって折り鶴を披露した。子供は反応がなかったが、そこにいた大人は感心していた。

5.3 大聖堂
 noriの帽子を探しがてらまた大聖堂へ。大聖堂の前で、大聖堂と新宮殿をバックに記念撮影をした。すると運良く中に入ることが出来た。そこでまた少し写真を撮った。
 ちょうど午後のミサが始まる時間だったが、追い出されることはなかったので、少しだけその雰囲気を味わった。 

5.4 新宮殿
 バラ園に行ってしばし休憩。ここでこれからの作戦を練る。見上げる高い建物には我々は興味があるので、そこにゆくことにする。

5.5 ミヒャエル修道院教会
 展望が良いというので、行くことにした。坂道を登ってたどり着く。かつてはベネディクト会修道院の付属教会だったもので、現在は救貧院などがある。
 到着すると正面に教会があったので、中に入ると、装飾が今までの教会とはちょっと違う。正面に十字架がない。宗教画のような物が中心にある。天井は植物の絵が描かれている。
外に出て建物の裏側に回ると確かに眺望がきく。

5.6 サタデーマーケット 2 
 未だ集合時刻まで時間があったので、再びサタデーマーケットへ。
 途中トイレによってが、そこでnoriはぎょっとした。用を済まし手を洗おうとすると、そこを一人の人が長い間使っていた。でも直ぐ体をよけてくれたのだが、その人の顔を見て驚いた。なんと顔一面が真っ白なのだ、先ほどのパントマイムをやっていた御仁であった。
 さて、鶴を折った子供の遊び場はもはや閉店していたが、まだまだマーケットはだいぶにぎわっていた。
 いくつかの店の前ではバンドも出ていた。心なしか酔っぱらいも増えてきた感じ。飲みたい!衝動を抑えつつ、一番奥までいってみるとメッサーシュミットのホテルとレストランがあった。店の前まで行って、記念撮影をしたことはいうまでもない。メニューも。
 そのあと集合場所へ行くと、他の人たちは皆そろっていた。

6.夕食
 バンベルグオニオンを食べたいというので、添乗員さんがメッサーシュミットレストランへ予約を入れてくれていたので、行ってみると、なんと店の勝手でキャンセル。どうしてもそれが食べたい我々はしばらく放浪して、結局は昨日の夕食レストランへ行った。しかしながら、そこでは室内には席がなく外の席ならと言うことだったので同行の女性たちが嫌だと言う。添乗員氏はそれではまずいと更に町中を探し回ってくれたが、とうとうバンベルグオニオンは食べられないが、室内の席は確保出来たと戻ってきた。ご苦労様。でも、皆はバンベルグオニオンが食べたい。
 ということで、昨日のレストランで食べた。外の寒さは毛布を掛けることによって我慢。ところでこのバンベルグオニオン。タマネギの外側の枚数は数枚で、その中に挽肉が入っている。予想とはちょっと違って、肉が多かったが、ソースの美味も手伝って美味しかった。
 そこからnoriのたっての希望で、大型タクシーを呼んでもらって全員で乗って帰った。

7.ホテル Berliner Ring (バンベルク) ★★★ 35号室
 連泊なので同室。明日の出発に備えて少し準備をして、シャワーを浴びて寝た。