2009年12月26日(土) ジャマヒリヤ博物館とサブラタ遺跡
起床(0530)朝食(0630)トリポリホテル発(0900)ジャマヒリヤ博物館(0910~1110)昼食(1235~1330)サブラタ遺跡(1335~1615)ホテル着(1735)夕食(1925~2135)就寝(2145)
3-1 朝
5時半に起床。朝といっても、昨日の晩から風切り音に悩まされたりで、何かすっきりしない朝を迎えた。junは日記を書き始めた。一方noriは写真の整理などをしていると、朝食の目標時間6時半になった。
ホテルの朝食場所は夕食と同じ所。チェックをする人もいない。先客がいたが、我々のグループの人はいなかった。食事はパン類と野菜少々。食事が終わるころに添乗員さんがのぞきに来る。部屋に帰るべくレストランを後にする頃、ようやくグループの一人とすれ違う。部屋に戻ると電話が鳴っている。急いで取ると添乗員さんのモーニングコールであった。
日記などを書いて過ごしていると、外が明るくなってきた。日の出を望める訳ではなかったが、空がピンク色に染まり、潮目なども眺められて美しかった。
集合時間は9時。少し早めに行ったら早すぎた感じだった。今日はこれからジャマヒリヤ博物館と、サブラタ遺跡にゆく。ジャマヒリヤ博物館はホテルから至近だ。すぐに到着した。ここは赤壁城の一部を使って展示されており、赤壁城の内部に入れる唯一の建物でもある。日本風に言えば、国立考古学博物館という感じだろうか。
3-2 ジャマヒリヤ博物館(0910~1110)
ここでツアー中この後同行したツアーポリスのハイメン氏と初めて対面。いかにも警察官らしいがっしりとしたヤツだったが、中身はぐうたら警察官で実はあった。まぁエジプトなどでも同様の姿が見られたから仕方がない。我々の安全を保証すると言うよりは我々を監視するという方が任務的には強いのだろう。見た目だけだが武器も携帯していない感じだった。
<一の部屋> エントランスホール
・ギルザ墳墓(ギルザとは砂漠の中にあるやはりローマ遺跡の一つ。これから先も時折耳にすることになる。)
・ギルザ墳墓石碑のレリーフ(太陽の周りに魚)(ナツメヤシ)など
・モザイク(ギルザ墳墓の向かい側にある四角い形をしたモザイク画。1~3世紀のもので、オリジナル。非常に細かい作りになっている。
上と下のモザイクは戦いを、右は狩猟の様子を描いている。左の部分は損傷が大きい)
・トリポリ古図(出島のようになっている)
写真で、トリポリ古図を指さしているのが今回の旅行の現地スルーガイドのサレム氏。
<二の部屋> 先史時代
・遺跡の場所がわかるように大きな地図が展示されている。ボタンを押すとその地域に小さなライトが付くという仕組みになっており分かり易く工夫されている。何故かここに、カダフィ大佐の乗っていたジープもある。
・また大きな鏃や、人型の人形のようなものが、古い時代のものなのだろうかかなりハイライトをあてて展示している。石製。(何しろ英語の説明文というのが無いので、ガイドの説明が唯一の頼りだ。)
<三の部屋> 先史時代
・化石の木(砂漠地帯で発見された。高いので天井が吹き抜けになっている。)
・石器(12,000年も前頃線刻画を描いたと思われるものから、徐々に進化していく様子がわかるように展示されていた)
<四の部屋> 先史時代
・アカクスの線刻画(実際に持って来られないため、レプリカ。足のあるワニやゾウなど)。これらの実際は後に屋外展示で見ることとなる。
・壺などの生活用具。
・子供の頭蓋骨(3,446年前のもの。アカクスで発見)。頭部に穴が開いているので手術痕かと思って尋ねたが、発見時に傷つけたんじゃないのという素っ気ない回答。年数が細かいのはC12測定によるものらしい。おおざっぱな国にしてはえらく細かく数字を出している。
・12歳の女の子のミイラ(2世紀頃。装飾品から身分の高い家の子と思われる)。手前が発見時のもので、中身は奥に取り出して展示。ほとんど骨状態。
・色彩壁画(ラクダや人々の生活の様子などが色の付けられた物もある。1万2千年くらい前の物)
<五の部屋> リビアの先住民
・ガラマンテス人(下記囲み記事参照)の使っていた車輪(1万年前から前5世紀頃の人。世界でももっとも早い部類で車輪を使った人々と思われる。その復元した荷車)
・石に彫られた彫刻(道祖神のように寄り添っているのもある)
※現在のリビア中部フェザーン地方に居住していたベルベル人の一派。トゥアレグの祖先とも考えられているがはっきりとしたことはわからない。前1000年ごろから同地域に居住していたと考えられている。独自の文字(古代リビア文字?)を持ち当時はまだそれほど乾燥していなかったサハラを縦断する交易に従事していた。
古代ギリシャの歴史家ヘロドトスの著書の中に「四頭立ての馬車で穴居エチオピア人を狩るガラマンテス人」との記述があり、このローマ風のガラマンテス人の馬車の絵がサハラ各地の岩絵に残されている。その絵の分布の南限は現マリのガオ付近であり、当時すでにサハラを越えた交易網が確立されていたころがうかがえる。
ガラマンテス人は前500年ごろからフェザーン地方を支配し独自の王国を作っていたと考えられている。ガラマンテス王国は前1Cから1Cまで断続的に続いた北方のローマとの戦いに敗れローマの属州となった後、ローマ滅亡後の500年ごろまで存続していたと考えられている。(アフリカ関連用語集より)
<六の部屋> フェニキアの時代
・レプティス・マグナから発見されたものが並んでいる。砂岩のために保存状態がよくない。人やライオン(狛犬ようなものもある)、頭像などが並んでいる。
・フェニキア文字の石版(アルファベットの元となったと言われる)
<七の部屋> ギリシャ時代
・キュレーネから発見されたものが中心。ゼウス神殿の復元想像模型などもあった。写真はディオニソス(バッカス)の裸像。
<八の部屋> ギリシャ時代
・アテナ像(レプティス・マグナのローマ劇場からのもの。右手には知恵のシンボルであるフクロウが、ベルトには守り神としてメドゥーサが彫られている。1世紀のもの)
・3美神(アグライァ、エウプロシュネ、タレイアの3人娘。大理石でできている。お尻が可愛い)
<九の部屋> ローマ時代
・殆どレプティス・マグナから持ってきたもので、モザイクや彫像が並ぶ。シーザー(大きくがっちりした体)
・フォーシーズンのモザイク(左から左回りに春夏秋冬を表している)
この意匠のものは他の博物館でも目にした。ローマ時代には今よりもはっきりとした四季が存在したと言うことだろうか。
・アルテミス像。胸の房は諸説有るらしい。どうも乳房ではないらしい。
・アウグストゥス帝とその妻オリビアの像(模写している人たちがいた)
説明を加えているのは添乗員のMさん。帰国子女の彼女の英語の発音は抜群であり、皆を驚かせた。リビアに関する知識も抜群で、しばしばガイドのサレム氏をたじたじとさせた。
・サブラタのモザイク(バシリカにあったもの。)本物を剥がして持ってきた。一部屋の床の部分の殆どをしめるくらいの大きさ。ちみつさもある。
<十の部屋> ローマ時代 ここから二階
・小さめの彫像が並んでいる。中には、アポロンも何点かあるが、いずれも首がない。食器などもある。ここから下を見ると床に広がるサブラタのモザイクの全体が見渡せる)
<十一の部屋> ローマ時代
・明日訪問する予定のレプティス・マグナのセウェルス帝の凱旋門のレリーフ。これが本物で、現地のはレプリカ。4つのレリーフのうち、2つは「皇帝の勝利の行進」、残りは「生け蟄」「セウェルス帝の家族」。
・父親セウェルス帝を中央に手を取り合ったローマ皇帝カラカラ帝、その弟ギータの姿も見られる。
<十二の部屋> ビザンチン時代
・廊下のようになった所にはサブラタのモザイク(神話や日常生活の様子、狩猟した動物、家畜など。鳥や魚もいる。イルカに乗った少年も)とビザンチン時代のモザイク(noriが見ているもの)が並んでいる。ビザンチン時代の物は、ローマ時代に比べると目が粗く、幾何学的な模様が多くなる。
<十三の部屋> ビザンチン時代
・教会の窓枠のレリーフなど。
・ガラスの食器(ガラスはフェニキア時代からあった)や骨壺、オイルランプ、コインなどが並んでいる。ランプはキリスト教の時代は十字架が刻まれているが、イスラムの時代になると無い。型があって、大量に同じものを造っている。
・コインはセウェルス帝が刻印されたものもある。イスラムになると四角型のコインが現れる。
<十六の部屋> イスラム文化 ここから3階
ここから3階になる。以前はまだ解放されていなかったという。ここからはイスラム関係の展示になる。
・モスクの模型やイスラム教を伝えた人の墓のミニチュアなどがある。
<十七の部屋> イスラム文化
・アメリカとの戦いのきっかけとなったフィラデルフィア号の模型
これは写真を取り逃がしたが、実はこの博物館のある赤壁城の入り口に二本の柱があり、その一方にその模型が飾られている。このフィラデルフィア号というのは、リビアが拿捕した米国艦船。
<その後の部屋> イスラム文化
通路や部屋にはガダメスの部屋の様子や民族衣装、トアレグ族の生活の様子などをジオラマ風に展示してある。歴史が浅いせいか資料が少なく、イスラム関係の紹介という感じ。民族衣装を着ているマネキンの中には、青い目で金髪というのもあった。民具の中には、下駄やわらじそっくりのものも見られ人の考えに大差はないことを思った。
3-3 道々
とにかく車が多い。二重駐車はお手の物、3車線の道路を4列になって走っている。それでも警官の姿があちこちに見られるせいか、信号はよく守っている。これだけ車の数があるが、女性のドライバーは一人しか見かけなかった。車はヒュンダイがよく目に付いた。韓国企業がかなり進出してきていると言うことだ。日本というと乗用車はトヨタ、軽トラックでは三菱、トヨタが多い。ニッサン、スズキもたまに目にする。
道路際の看板で時折目にする40という数字は、今年革命40周年と言うことを表している。これとガダフィイ大佐が一緒になっている図柄が欲しい。この願いはだいぶ後に叶った。それが表紙の写真になっている。
また、椰子の木や実をつけたサボテンも数多い。その椰子の木の下でたむろっている男達の何と多いこと。友人と話すのも楽しみの一つだと言うが、それにしても多い。休日(リビアでは金曜日と土曜日が日本などの土日に当たる場合が多い)のせいかも知れないが。
ただ、最近では、テレビが娯楽の主流になっているのだそうだ。確かにパラボラアンテナが殆どの家に備え付けられている。多チャンネルの衛星放送が数年前から解禁になったそうだが、この国もやがて情報の波を止めることが出来なくなるだろう。ポストカダフィの姿やいかに。
家と言えば、市街地はビル形式が多かったが、少し離れると1軒家が多くなり、そのデザインがそれぞれ斬新的で面白い。
軍事訓練の一つ降下訓練も目にした。
3-4 昼食(1235~1330)
メニューは、スープ、サラダ、ミックスグリル(牛と鶏)、茶。特別サービスとかでソフトドリンクが無料で出てきた。でもこの後もソフトドリンクが付くときはかなり無料の場合が多かった。
一人で旅行しているという日本人がいた。ガイドさんと二人だったが、個人旅行が可能になったのだろうか?ネット上の旅行記にもそうした様子がアップされてはいるが。あまり根掘り葉掘り聞くのもどうかとそれ以上の会話はなかった。
3-5 サブラタ遺跡(1335~1615) 230
「サブラタ」とは、大きな市場の町という意味。トリポリタニア(古代リビアの地中海沿岸に発展した三つの大きな都市の意味)の一つ。他の二つは「オエア」(現在の首都トリポリ)と明日行く「レプティス・マグナ」。
そもそもはフェニキア人が造った町。と言ってもここに定住したのは、前6世紀頃から。始めから大きな町ではなく、30km位毎に沿岸部に集落を造ったそのひとつだったのだそうだ。ジャマヒリヤ博物館の<二の部屋>に掲載した点灯している集落部分がそれ。
一方土着のリビア人は、内陸部に住んでいた。その人達がアカクスの山中に壁画を残した。ただ、徐々に砂漠化が進み、その人達は沿岸部の方へ移り住むようになった。しかしそこで争いはなく、ポエニ時代辺りから次第に融合して行った。こうして町も発展していったのだろう。
この遺跡の殆どはローマ時代のものだが、フェニキア時代のものも少ししか残されていない。というのは、フェニキアの建物の上にローマ時代の建物が建てられたから。が、建物の基礎部分は砂岩を使っていたために、365年の地震で殆どが崩れてしまった。
その後、時代の移り変わりに伴って、ビザンチン時代に至るまでいろいろな建築が重ね造られていった。
より大きな地図で サブラタ遺跡 を表示
3-5-1 博物館
博物館の建物は、1932年に建てられた。
まずは部屋から見学が始まる。
・入り口の部屋にあるのは、全てサブラタ遺跡のモザイク。目が粗い。
・リベルバター(バッカス)の家のモザイク。バッカスのモザイクとも言う。中央にライオンが描かれている。
・劇場の浴場のモザイク。サンダルが描かれてあるが、実際には浴場の入り口の床にあった。同じように文字の案内のものもある。
・役者達の館のモザイクとフレスコ画もある。ただ、フレスコ画は、かなり損傷していて部分的なものである。
・ゼウスの部屋。堂々としたゼウスの胸像や、彼の奥さん、ビーナス、バッカスなどの彫像が並んでいる。
・レダのフレスコ画。かなり痛んでいるが、白鳥に身を替えてレダの元を訪れるゼウスの姿がかすかに見て取れる。
ここには他にもいくつかのフレスコ画があったが、特に説明はなく先を急いだ。
次に、南の部屋へ行く。と言ってもここは大きな部屋が一つしかない。その全てを生命の樹のモザイクが占めている。
6世紀のユスティニアヌス帝のバシリカの床にあったものを移築したそうで、ブドウの樹と伸びたつるにたくさんの鳥が止まっている。
スタートにいるのは羽を閉じたクジャク。左右対になっていたのだそうだが、右のは盗まれてしまったとか。中央の幹をたどっていくとまずフェニックスが、その上に鳥かごに入った鳥がいる。これはハート、つまり魂を表す。鳥はいずれよみがえることを表しているのだそうだ。更に目を進めると大きく羽を広げたクジャクが一羽いる。ここはパラダイス(天国)。オメガと表現していた。
左右の壁面には、側廊に敷かれていたモザイクが架設され、さまざまな十字架のデザインを見ることができる。
正面に説教壇があり、先には祭壇がある。確かに教会の一部だったことがわかる。この説教壇がポイント。遺跡を歩くと、これを剥離して持ってきたエリアに至る。説教壇のレプリカがそこにある。それがその場所にあった姿を想像するキーになる。
3-5-2 遺跡
博物館を出てカルドを歩く。博物館正面から海に向かって伸びているのが古のカルド。
ビザンチン時代の城壁まで行って、全体を俯瞰する。列柱の向こうに地中海が見えた。今現在、発掘されているのは35%に過ぎないのだそうで、後は土の下。「掘れば何か出てくるかも知れませんが、持ち帰りは厳禁」と言うことだ。
<ローマ時代の住宅街>
ここの石は、ビザンチン時代の建物のためにかなり持ち出されてしまった。フォーラムの周りにあるのは、残されたモザイクから金持ちの住宅が集まっていたことがわかる。
<フォーラム>
敷石の下は砂岩で、その上に大理石が載っている。一部に売春宿を表す印が残されている。柱は砂岩でできており、ドーリア式。
<墳墓>
ここには二つの墳墓があり、目の前にある通称ベスの塔はB塔と名付けられている。1962~1973年にかけて再建。フォーラムの写真で、左奥に見えているもの。
3段になっており、一番下が墳墓。中間はベス神。番上は灯台の役割。ベスは醜い顔で、片眼が開き、舌を出し、首が短く腹が突き出ている。片眼が開いているのはいつでも見守っていると言うことで、守り神だ。両側にライオンがいるのは、強さを表している。
反対側に回ると,ベスのいた部分にはヘラクレスがいる。どこでそうわかったのかは定かではないとのことだ。ベスもそうだが、形がかなり崩れている。
<南のフォーラム>
イタリアの雲母大理石(シポリン)のマーブルの柱、魚の骨のようなデザインの床(大理石)などが残る。ここからはたくさんの神の像が見つかったため、特定の名前は付いていないのだという。床の石は、イタリアやトルコ、ギリシャ、エジプトのアスワンなど各地から集めた。
水路もある。その、水路建設に力を尽くしたことを記念して作られたのが、フラビウス・ティルスの像。かつてはそこに噴水や彫像があったと言うが、今はこの1体のみが残る。
<アントニウスの神殿>
階段と神殿の基壇のみが残る。アントニヌス帝によって166年から169年の間に造られた。高い所の好きなnoriはどんどん上がって行った。
<フォーラム>
周囲を神殿やバシリカで囲まれ、町の中心になっていた。四方に残る柱はエジプトの花崗岩。
<バッカスの神殿>
2世紀に建設されたが、365年の大地震で倒壊し、修復された5本の柱が残るのみ。バッカスは、ギリシャ神のディオニュソスのことで、古代イタリアの豊穣の神、リベル・パテルと同一視されたために、それらいずれかの名前で呼ばれることもある。
<元老院>
かっては玄関の一部であったと思われるアーチが、花崗岩の柱に乗っている。長方形の議場の左右に配置された幅の広い階段は、参加者が多い際には腰掛けになった。
<レダの家>
レダのフレスコ画が見つかったのでこう呼ばれている。小さくて崩れているので、わざわざ見に立ち寄るほどのことはない。
<ユスティニアヌス帝のバジリカ>
ビザンティン時代のユスティニァヌス帝によって建てられたもの。生命の樹のモザイクがあった所で、現在はレプリカの説教壇へ行く階段が残る。発見された当初は破損を恐れて砂で覆ってしまったが、その後、モザイク・パネルだけを切り離し、新たに博物館を建ててそこへ移した。
<昔の港>
前6世紀のものが、海岸から少し離れた所に見られる。港というより船着き場といった方がふさわしい。レバノン杉で造った小さな船だったので、規模も小さくてすんでいた。
その後、交易が盛んになり、大きくなった港では、象牙や猛獣、奴隷などを扱っていた。衣類や食物は輸入していた。
<オリーブオイルの道>
オリーブを圧搾した石臼のようなものがある。かなり大きい。1番目に絞った物は食用として、2番目は燃料として、3番目は浴用に使ったそうだ。オイルを貯蔵していたプールもある。通りには左右に商店跡が並ぶ。
<海の見える浴場>
着替え、冷水浴、温水浴、熱水浴、サウナの5つの設備が揃っている。サウナのテラコッタの管が少しわかるように残されている。
風呂から上がったばかりのビーナス(noriの後ろにある)は、衣が肌に密着している。
モザイク画が綺麗に残されている所がある。そこから地中海を望めるのだが、こんな所で優雅に風呂に入るのは、さぞや気持ちのよい事だろう、と当時に思いをはせる。
もうお馴染みの公衆トイレはやはり水洗で、細い水路に水が流されている。海岸縁で同行者の一人が拾った拾ったスポンジはお尻を拭くのに使っていたと思われる。
イシス神殿が遠くに見える。
ワイン貯蔵庫や水槽、売春宿などがあったメーンストリートを通って先へ進むと、イタリアが発掘していたときのトロッコのレールが一部残っていた。
<ヘラクレスの神殿>
白い固まりがヘラクレス。ライオンがかすかにわかるのでヘラクレスということになった。つまりヘラクレスの12の大業の第1番目の話による。他には柱が1本残るのみ。
<役者の浴場>
劇場の役者が使った浴場で、モザイクが残っている。博物館で見たサンダルや文字のモザイクはここのものだ。
役者の住宅街を通って劇場へ行く。浴場といい、住宅といい、役者の活動は日常的で、しかも優遇されていたと思われる。
<円形劇場>
190年に建設が始まり2世紀中に完成されたとされる。砂に埋もれていたため保存状態がよい。1926~1936年にかけて修復された。
南の入り口から入る。劇場の後ろの楽屋の床は、大理石。また、柱もいろいろな大理石を使って3層構造になっている。108本あった柱のうち、98本が残っている。
舞台は、37m×6.5mもあり、その基部にはレリーフが彫られている。踊り子や哲学者、劇の場面、皇帝、ヘラクレス、三美神など様々である。
3段に分かれている観客席は、半円形に舞台を取り囲み、5,000人は収容できたという。
ローマ劇場はもう何カ所かで目にしてはいるが、これを見ると、ローマだなあと思う。何処にもこの様な物を造ってしまうローマの権力の大きさを知らされる遺物の一つだ。
<美しいモザイクタイルを敷いた、列柱に囲まれた邸宅>
そこから少し自由時間になったので、フラフラしているとモザイクの綺麗な所を見つけた。帰ってから調べてみると「美しいモザイクタイルを敷いた、列柱に囲まれた邸宅」という物らしいことがわかった。柱といい、モザイクといい、かなり立派な建物だったようだ。
3-6 ホテル着(1735)
見学が終わって、来た道を戻りホテルに到着した。カードキーは毎日更新しないと駄目というので、フロントで再生?してもらう。磁気がうまくいかないからだろうか。
部屋をチェックすると、またまたタオルが一人分しかなかった。フロントに行こうとすると、運良く添乗員さんにあったので、依頼をした。すぐに持ってきてくれた。
集合時間まで一時間半程度あったので、風呂に入りながら洗濯をした。それからjunのカメラの電池の充電と、写真の整理をした。写真は何があるかわからないので(フランスの時には失敗をして業者に復元してもらってかなりの出費となった)、きちんとハードディスクに毎日落としてくようにしている。
少しばかり余裕があったので、ちょっとと思ってベットに横になったいたら、集合時間に瞬く間になった。
3-7 夕食(1925~2135)
・メニュー 魚のスープ、野菜はビュッフェで、スズキのソティー、デザート、ミントティー
今日はホテルの外で夕食。7時にロビーに集合する。我々と後一組の夫婦が一番最後で、ロビーに降りるとすぐにバスは出発した。
夕食場所のある広場には、中央郵便局があった。切手を買うことができるというので、行ってみた。さすがに24時間オープンということだが、肝心の切手が十分にはなかった。ツアー客は40余枚を全体で希望したが、20程度しかなかった。しかも適切な金額のものはなく、組み合わせてやや大きい金額のものとのこと。我が家は10枚希望したが、他に買いたいと騒ぐ人がいるので、やむなく辞退した。皆で少しずつという発想は全くない人たちだった。このように今回は自己主張の強い人が数人いた。彼らは譲ることを知らない人たちだった。
広場の向かい側にあるレストランにその後行く。看板に魚の絵があった。アルムルジャーンという店の名前も魚の名前に由来するとのこと。
最初に水の他に、ジャマイカアジュースというのが出た。添乗員さんがこの店のオリジナルかと聞いたら、ボーイはインターナショナルな飲み物だとはばからなかった。ミリンダオレンジやセブンアップなどを混ぜて造った、スペインのサングリアのノンアルコール版といった感じのもの。それからノンアルコールワインというのを飲んだ人もいた。これは飲まなかったが、聞く所によれば「小岩井農業で出されるブドウジュースに炭酸を入れたようなもの」なんだそうだ。
それから野菜サラダをビュッフェスタイルでもらう。我々の階は二階席だが、それは一階にあり、junさんは上り下りがやだというので、仕方なくnoriが二度往復した。二回目に降りた際にハリッサを厨房からゲットして、サラダに混ぜて食べた。マグレブに来たらハリッサは欠かせない。
メインは店の看板にあったように、魚料理。グリルしてあり、ほんのり味が付いていた。我々は困ったちゃんで、これに更に醤油をかけて食べた。美味しかった。日本人ここに有りである。
デザートはオレンジ。それとチャイが出た。ここのはそんなに甘くはなかった。
3-8 就寝(2145)
再びバスに乗り、ホテルに戻った。シャツが存外乾いていたので、靴下もjunさんが速攻で洗った。これはしばらく浴室に置いておいたが芳しくないので、部屋に移したら翌朝には履くことができた。
洗濯の後は、疲れていたのでベットに入り翌日の予習を始めた。しかしそれも長続きはせずに、眠りに落ちた。明日も出発が8時半なので、まぁ余裕がある。