カダフィの国リビアへ



 リビアへ行こうと思って何年になるだろうか。多くの人がそうであろうが、我が家でも出掛ける前にかなりその国のことを調べる。調べる作業は、ここのところもっぱらjunの仕事になっている。ある程度調べ上げると、今度は旅行会社のコースに沿って見学地などを丹念に調べ上げていくわけだが、junのフォルダーを覗くとそうしたファイルの一番古いものは、2005年10月27日になっている。つまり、リビア行きを決意してから少なくとも足かけ4年以上の歳月が流れていることになる。

 リビアへの固執は、第1は『レプティス・マグナ』を見ることにある。我々はマグレブ三国(モロッコチュニジアアルジェリア)を巡り、エジプトを含めて古代ローマ時代の地中海世界における北アフリカの遺跡巡行の旅の空白はリビアだけになっていた。何故北アフリカ地中海沿岸の国々でリビアを後回しにしたのか?・・・それは実に『レプティス・マグナ』が有るからに外ならない。そこは未だ広大な地域が発掘されないでいるとも聞く。実際問題2006年には新たなる出土品が公開されている。そう、そこは最大級の規模と最大級の保存の良さが同居したタイムカプセルであり、北アフリカローマ遺跡双六の「あがり」の場所としてまさにふさわしい場所だと確信して出掛けた。

 リビアの旅行ではその多くは、こうしたローマ遺跡を巡るという趣向のものだ。先にコースのことを書いたが、我々は今ひとつ重要視していたものがある。つまり第二には、『タドラルト・アカクスの岩絵遺跡群』を見たいからだ。我々は体力的な問題もあって、アルジェリアの「タッシリ・ナジェール」を断念した。しかしながら、サハラ砂漠がかつて緑の大地であったという証拠をこの目で見たいという希望は捨ててはいない。その希望がかなえるものの一つが、『タドラルト・アカクスの岩絵遺跡群』だった。そして、徐々に砂漠化してゆく過程を岩絵に見いだしたいと考えて出掛けた。

 最後に付け足しのようになるが、カダフィ・グッズを見てみたい、買ってもたぶん役に立たないと思うが、何かしら安価なものを一点くらい買ってきたいと思って出掛けた。

 以上がカダフィーの国リビアへのあこがれの辞である。

 実は出掛ける二月ほど前に。旅行会社から往路復路の利用航空便名が郵送で告知されてきた。利用する会社はカタール航空だった。我々はホッと胸をなでおろした。というのは、カタール航空かエミレーツ航空かのいずれかが選択肢なのだが、二度と我々はエミレーツには乗りたくなかった。というのは、最初はシリア・レバノン・ヨルダンの旅に出たときのこと。目的地ドバイは霧で着陸できず、フジャイラに緊急着陸した(2004年3月26日)。更に、イエメンに行ったときもエミレーツであったが、この時には隣国オマーンのマスカットに緊急着陸した(2005年12月23日)。
 ところがである、こともあろうに一月前になって、エミレーツに変更したという手紙が届いた。我々の落胆は想像以上のものがあったと思ってもらいたい。我が家では、折からのドバイ不況の影響で、エミレーツかディスカウントしてきたのではないかとも話し合った。こうして三度目の正直なのか、二度あることは三度あるのか、不安を抱えて旅立った。

 ところで今回は前回の米国西部の公園巡りの旅に利用したE社。E社には決定が遅いと常々文句を言っていたのだが、今回はずば抜けて早く催行決定が出た。二ヶ月以上も前だった。私たちは訴えた。『決定が遅いと良質な客は逃げてしまう。』
 それが功を奏したとは思えないが、イライラしないで済んだ分、我々は喜んだ。実際ほぼ一月前には残席僅かの表示も消えていた。(このことと航空会社変更に因果関係があるのかは不明。)不況で海外旅行者も落ち込んでいると聞く昨今だが、この会社の毎月送られてくるパンフレットも心なしか近頃薄くなってきた感じがする。円高が一時的な追い風となるかも知れないが、平均値で見れば良質な旅行社だけに、踏みとどまってもらいたいものだと思う。

 今回我々が装備として用意したもののはシュラフだ。砂漠でのテント泊があるからだが、防災用の意味も込めて、レンタル5000円也もあったが、購入した。web上で見ていると面白いページがあった。やはり我々と同様にリビアで砂漠のテント泊に行く予定の輩が、自宅の屋上で寝てその予行演習とも寝袋の寝心地の確認とも言うべきものをやっているページだ。その御仁のレポートでは、どうやら問題がないようで、我々も少し安心した。
 前回の旅で、砂漠テント泊をご経験された方がいて、その方のお話も我々には参考になった。生活的には快適であったらしいが、夜中に用を足すのは少し抵抗があったようだ。

 と言うわけで2009年12月24日、我々は機上の人となった。

 今回の旅はまずまず満足のいくものでったと言ってよい。それはベテラン添乗員氏の腕によるところが大だ。最後のエミレーツの座席(その席は最悪の席だった)の取り様を除けば、不満な部分はなかった。E社は添乗レポートをくれるが、その出来も詳細かつ正確であり、出色のできだった。一つだけ注文をつければ、これは何時も思うのだけれども、明日の予定とともにその次の日の出発時間を告知してもらえると、長期の旅ではありがたい。ただくっついているように見えても、旅行者も興味のままに歩き回りたいものだ。予定がはっきりすると旅行にメリハリをつけられる。

 スルーガイドについても、勤勉な人だった。バスの運転手についても同様だ。市場などに行っても、概してこの国の人たちも友好的だった。ただ、二度ほど子どもたちがバスに向かってものを投げる姿を目撃した。何を怒っているのか見当が付かなかった。

 カダフィについて言えば、トリポリではその姿をうんざりするくらいポスターに発見した。またホテルでその肖像画が無いところはなかった。もちろん一部は国営ホテルだから、当然ではあるが。しかしながら、地方に行けば行くほどその傾向は薄れていった。やはりこの国も部族社会が生きているのだろうと感じた。息子への(北朝鮮同様に三男らしい)委譲がうまくいくかどうかは不透明だと感じた。

 さてリビアそのものだが、スーパーに行ってバーコード62(リビア)を探すのは非常に困難だった。物資的には、そのかなりの部分を他国に頼っている現状が見て取れた。外国製品だらけだった。それはこの国が石油で潤っていることを示すものと言えるだろう。カダフィが人民に時々ボーナスのようなものを配給するとも聞いた。同行した警察官はiPodに夢中だったし、町には車が溢れていた。石油が出るかどうかでこの辺りの国はその豊かさが決まってしまう。そうした何とも言えない矛盾を少し垣間見た感じがした。

 さて旅行の目的の一つの遺跡は、素晴らしかった。期待にこたえた遺跡と言ってよいが、時間が少なかった。またもう少し考古学的な掘り下げが期待されたが、概ね現地のローカルガイドの説明は表層的なものだった。またそれぞれの遺跡の相関もあまり語られることがなかった。これはガイドの数が限られ、多用されているからなのか?解説に情熱が伝わってこなかったことがほとんどだった。それは我々の方にも責任が或いはあるかも知れない。質問が少なかったし、あっても週刊誌的な興味を抜けていないことがほとんどだった。noriばかり質問しているのもはばかられ、noriも次第に口数が少なくなった。

 そう言えば今回の旅行の一団は、概ね観光の中身よりも旅そのものを楽しんでいる風の人が多かったように思う。こうした感じの旅行では、「ジャマヒリヤ博物館」は最初より最後に組んだ方が良かったように思った。高い金をかけているのだから、非日常を謳歌するだけで終わらせるのはもったいない。少なくとも我々と価値観がかなり違った旅人が多かった。

 さてもう一つの目的の砂漠だが、その感動は計り知れないものがあった。もちろん、マグレブ三国を既に経験している我々は、サハラ初体験ではない。しかしながら、帰国後三日三晩ならぬ一週間ほど、我々は二人共に、毎晩毎晩砂漠の夢を見たのであった。その内容は様々だったが、4泊5日の砂漠の旅行がいかにインパクトの大きなものだったかは、このこと一つで説明十分であろう。

 さてこの旅を終わって、世界遺産の数は234となった。我々の目標まではあと99とまだまだ先が長いが、2/3を越えたのは今回の旅の成果でもある。