2009年12月28日(月) キュレーネとアポロニア 曇り一時雨
起床(0505)朝食(0610)ベンガジホテル発(0805)キュレーネ遺跡(1110~1300)昼食(1318~1415)アポロニア遺跡(1450~1525)ベンガジホテル着(1900)夕食(2000)就寝(2245)
5-1 朝
モーニングコールは6時30分だが、我が家の目覚めはいつも早い。5時5分に起床。朝食が6時からというのに合わせた形だ。6時10分に朝食を食べに行く。
5-2 キュレーネへ
ベンガジのホテルを8時5分に出発。キュレーネへはバスで向かう。途中、検問所を何事もなく通過する。リビアでもこうして道路の所々で検問を受ける所がある。ツアーの場合はメンバーリストのコピーを渡すそうだ。そのためにかツアーポリスもいる。その手続きさえすれば簡単に通過できるが、時折、トランクを調べられている乗用車などもいる。リビアでテロとは考えられないのだが、何をそんなに気にしているのだろう。密入国者への監視だろうか。
1時間一寸走った頃、カフェでトイレ休憩。まだ青空トイレにはなっていない。ここで今回初めてアラブ式トイレを経験。ようやく感じが出てきた。
その後耕作地帯を走る。野菜や麦を作っているそうだ。リビアでもキレナイカ地方という地域で、多雨地域だそうで、予め傘を用意するように言われていた。その分、これがリビアかと思われるくらいに緑が多い地域だ。
さて添乗員氏の予想がピタリと当たって、この辺りがイタリアとの激戦地域です、などと説明を聞く頃から、外は強風が吹き、雨が降り出し、気温も下がり始めた。「砂漠のライオン」の舞台となったワディクフ橋はそんな中での見学だった。ただしこの橋は新しく架け替えられた物。
5-3 キュレーネ遺跡(1110~1300) 232
バスを降りて観光を始める頃に,どうにか雨は小止みになってきた。
前7世紀に、エーゲ海のテラ島(現在のサントリーニ)で、干ばつや災害が続き、デルフォイでアポロンの信託を受けた人々が移住してきた。キュレーネ(キュレネ)とは泉の妖精の名前。英語名はセイリーン。
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5-3-1 ゼウスの神殿(1110~1135)
まず始めに訪れたのは、北アフリカ最大のギリシャ遺跡であるゼウスの神殿。一人一人回転式の入口を通って中に入る。これも盗掘を防ぐための物なのだろう。
このゼウスの神殿は、アテネのパルテノン神殿(長さ68.7m、幅30.6m)に引けを取らない、というよりこちらの方が大きい。70m×32mもの広さがある。前600年頃に造られた。その後、115年のユダヤ人の反乱によって徹底的に破壊され、2世紀中頃になってハドリアヌス帝によって再建された。その後も、その時代の皇帝によって再建が繰り返されたが、365年の大地震によって破壊されてしまった。現在の姿は、20世紀初頭にハドリアヌス帝の時代の柱をイタリアが修復した物。ただ、まだ発掘されない部分もあり、全容が明らかになっていないが、カダフィ大佐による故意の破壊もあり、今後どうなっていくのか不透明な部分である。
ドーリア式の石灰岩の柱が一辺に8本ずつある。石灰岩は大理石に比べて加工しやすいために使われた。柱の石はちょうどだるま落としのように、積み重ねて造られている。ここに木造の屋根が乗せられていた。今後も再建計画があるそうだ。
正面から見ると、目の錯覚を利用して外側の柱が、少し内側に傾いて造られている。こうすると安定して見えるのだそうだ。これは、ギリシャ人が神殿建築技術で磨き上げたリファインメントという技術だ。
中に入ると中央に祭壇の残骸がある。多分ここにゼウス像があったのだろうと言うことで、代わりにnoriがその大役を果たす。本物のゼウス像は、現在も発掘されていない。
その前の広場にはやはり生贄台がある。神殿の前には必ず付いている物だ。
5-3-2 アポロンの神域(1145~1300)
この神域と神殿は、前7~4世紀にかけてアテナ、シラクサに次ぐ第三のアクロポリスとして造られた。神殿はアポロンに捧げられ、キュレーネでは一番古い建物と考えられている。
<フォーラム(ギムナシオン)>
メーンストリートのバッカス通りの南門から入り、まず巨大なフォーラムへ。84m×96mもの広さがあり、110本も柱があった。前2世紀にプトレマイオス8世によって建てられた。体も鍛えなければと運動場がその中心にあった。しかし、それだけではなく図書館や講義堂もあった。つまりは文武両道。頭も体も鍛えたと言うこと。ローマ時代になると、フォーラムへと変わった。
一時ローマ軍の駐屯所にもなり、住宅が建てられたりして、変容してしまっている。
1935年頃、イタリアの発掘隊が散乱している外壁のパーツを見つけて再生していった。
<オデオン>
小さな劇場。住宅地エリアにある。ローマ時代のもので、平地に石を積み上げる方式で2世紀に造られた。ただ、他の建物を建築する際の材料として破壊してしまった。
<バットス王の道>
テラより植民団を率いてきたバットスの名の付いた通り。たくさんの彫像が刻まれた柱が並んでいる。ヘラクレスの像とゼウスの子ヘルメスの像が交互に見られるというのだが、破壊がひどくて特定は出来なかった。
<ギリシャ劇場>
前5~6世紀、傾斜地を削って造った。音楽や演劇を行った。上の方の三分の一はローマ時代に石を積み上げて付け加えた。
<アゴラ>
ギリシャ時代の公共広場アゴラ。ハドリアヌス帝の時代にローマ式フォーラムに変えられた。裁判所や集会所、商店があった。
勝利の女神、ニケの像がある。これは、紀元前3世紀にプトレマイオス1世が、海戦での勝利を祝って建てた記念碑。大理石でできており、軍船の船首を模した台座の上に、立っている。
台座には2頭のイルカが彫られている。
<デメテルの神殿>
前400年に造られた。デメテルは農業の神様。円形の神殿は珍しくここだけの物。直径10メートルほどか。中にいるのが、デメテルと娘のコレー。ただしこれらはレプリカ。
写真でも分かるように、この頃ようやく時折青空も顔を出すようになり、傘の心配が無くなった。
<食料貯蔵庫の穴>
丘の斜面に大きく開いた横穴は食料の貯蔵庫だとのこと。
ここを下がっていくといよいよアポロンの神域に入る。眼下に神殿群が見えてきた。
<アポロンの泉>
アポロンの信託を受けたサントリーニの市民は、その昔ここへかけらぬ覚悟を決めて移住してきた。そしてこの泉を発見したために、ここに定住することになった。前700年頃近隣の5つの街に水を供給した。小規模ながら水道橋がある。水は今でも湧き出しているが水量は少なくなった。
更に丘を降りて行くとアポロン神殿に着く。
<アポロン神殿>
1本高い塔のような物が立っているところが噴水。両側のライオンは、キュレーネが手で絞め殺したというもので、かつてはその口から水が出ていた。
その横にあるのが、イシス神殿とセラピス神殿。ヘレニズム時代になってから、付け加える形で建てられた。殆ど形をなしていないので写真はない。
中央にあるのが、本命のアポロン神殿。前6世紀に建設された。115年ユダヤ人によって破壊され、前2世紀に再建されたが、365年の大地震で瓦解した。今はわずかに柱が残るのみ。ここの出土品「竪琴を弾くアポロン」は、大英博物館にある。返還を要求しているそうだが、応じる気配はないとのこと。
その隣にアルテミス神殿があったというのだが、何しろ石がゴロゴロしているばかりな上に、特に触れて説明と言うこともなかったので、わからない。写真は説明書きのあったヘカテ(地上と冥府を支配する女神)の神殿。まぁ全体的にこんな感じでしかない。
大理石で出来た生け贄の祭壇がある。泉の水が引かれてきている。そこから細い用水路を流れる水は、生け贄の血を洗い流す為の物だそうだ。
<劇場>
崖の斜面を利用して客席が設置された。ギリシャ時代に造られた物を、2世紀になってハドリアヌス帝の時、円形闘技場に変えられた。闘技に使う猛獣が逃げ出さないように聖域との間に城壁が造られ、ニコモダスの壁と呼ばれた。地震でかなり壊れている。1930年に修復したが、その後は放置されたままになっている。
ここでも記念撮影をした。
<浴場>
ギリシャ時代に造られた物だが、117年,ローマ時代に現在の形に造りかえられた。365年の大地震後もビザンチン風呂として再建された。ここで使われた水は勿論泉の水である。
緑色の柱は、ギリシャのもので、床はオリジナルで2世紀の物。モザイクの床は2層になっている。ローマ時代の物の上にビザンチン時代のモザイクを重ねたのだ。
壁の一部に大理石が残っている。ジャマヒリヤ博物館の三美神像はここで見つかった物。
<入場口>
4本のドーリア式の柱がこの聖域への入口となる。神域は有料だったために、横の建物で入場料を徴収した。これは再建。
<帰り道にも>
聖域から出て坂を上るようにバスの待つところに行く道にも、首のない彫像が並んでいた。どこからでた物かわからないが、こうして並べられるのは、誰とも知らないところに放置されるよりも光が当たって良いのだろうか。それとも情けないと思っているんだろうか。ちょっぴり彫像に代わって考えてみました。
<墓地>
ここは特に触れられることはなかったのだが、事前に調べておいたので、写真を撮ることが出来た。
墓地遺跡の中でも特に規模が大きいと言うだけのことはあって、バスの中からでも見逃すということは無かった。墓の形や埋葬方法は時代によって違うそうだが、さすがにそこまでは見切れない。
5-4 昼食(1318~1415)サラダ、スープ(ショルパ)、チキン、フルーツ(バナナ)
洞窟レストランにて。洞窟といっても、トルコやイタリアの様な本物っぽいものではなくて壁が岩のようにゴツゴツしているだけという感じの家だった。
5-5 アポロニア遺跡(1450~1525)
アポロニアは、キレナイカ地方のギリシャ植民都市の一つとして、前7~5世紀頃に港が造られ、シルフィーム(薬草)の産地として、それをギリシャに送るなど、貿易港として栄えた。キュレーネの北15キロの所に位置し、その玄関口としての役割を担った。100年頃最盛期を迎えたが、115年のユダヤ人の反乱によって一部が壊された。一時は、ローマ帝国によって再建されたが、365年の大地震で殆どが海に沈んでしまった。この辺りの歴史は、キュレーネのそれと同期する。
更に、642年のアラブの侵入によって教会はことごとく廃墟化してしまった。
現在は、4世紀からのビザンチン時代の教会跡が残っているだけ。
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<中央教会>
バシリカ式の教会。左が入口で、右に祭壇がある。柱や石はローマ時代の物を利用している。
その中の大理石の柱にビザンチン十字が浮き彫りにされている。その後、一時モスクとして使われた。コンクリートの壁は、第二次大戦の時にイギリス軍が保護のために造った物。
<浴場>
75年から建造が始められたローマ時代の浴場は、その後貯水池となって利用された。四角いプールがいくつかあり、浴場だった頃の名残を思わせる。折れた柱頭が並んでいる。これはローマ時代のコリント式柱頭であるが、かなり崩れている。
<カルド通り>
かつてのメーンストリートも,今は海の中へ入り込んでいる。その先に街があった。つくづく自然とは恐ろしいものだと思う。
<東の教会>
かつてのアポロン神殿。アポロニアでは一番大きな教会だった。ローマ時代の2世紀にバシリカが建てられ、6世紀になってビザンチン教会に改築された。柱は前500年くらいのギリシャ産の雲母大理石。床一面にしいてあったモザイクは、キュレーネの博物館に移された。1950年頃に発掘が行われたが、その後はなし。
<知事宮殿>
600年ごろのビザンチン時代の総督の館。83もの部屋がある。西半分がレセプションホールや教会を備えた知事の公邸、東半分が召使いや兵士の居室に当てられていた。中庭は、列柱で仕切られた回廊で囲まれているが、列柱の上部は連続アーチとなっていた。
十字架の印も残っている。noriが本を読んでいるのが図書室だったところ。
<西の教会>
6世紀に改築された際に西側へ拡大された。緑色の雲母大理石の柱はローマ時代のもの、台に乗った白い柱はビザンチン時代のもの。
洗礼槽が残っている。地面に横たわっているアーチ型のものは、実際は知事宮殿のように立っていた。
5-6 事件発生!!
junは記録を取る関係で、ガイドさんに付くような形で早めに進んでいるのだが、ふと後ろを振り返るとnoriの姿がない。どうしたのか止まっているとようやくやってきたnoriは足を引きずっていた。石を踏み外して転んだのだという。手の指と太ももをかなり痛めたようだ。(明日が移動日に当たることはnoriにとっては幸いなことだった。)
実はnoriはこの記録を作成している時点の2月になろうとしているにもかかわらず、まだその負傷の後遺症に悩まされている。普通なら歩けない状態に近かったし、カメラを構える力も弱かった。日本の旅行だったら、途中で放棄して帰っていたことだろう。
5-7 ベンガジへ
帰りは旧道を走る。というのも、ワディクフの古い方の橋を見せたかったらしい。その近くはオマールムクタールが隠れた洞窟もあるという。この辺りの地の利を活かして対抗したらしい。
このオマールムクタールという人は、植民地化を進めようとしたイタリア軍に対して戦いを指導したリーダー。最後はとらえられて絞首刑になってしまうのだが、今でもリビアにとっては英雄なのだ。10LD札にその肖像が使われている。その人の活躍の場を見て欲しかったのだろう。
6-8 ホテル ウズホテル 336号室 (連泊)
ホテルへ戻って、夕食の20時までには少し時間があるので、入浴したり荷物の整理をしたりした。明日、また国内線に乗るので、結構荷物作りが面倒だ。おまけに、明後日から砂漠に行くので荷物の仕分けが必要だ。これが結構大変。しかも朝早いときている。ということで、早く寝たかったのだが、そんなこんなで結局今日も遅くなってしまった。22時45分就寝。