2010年1月5日(火) ガダメス トリポリへ 晴れのち曇り
起床(0530)朝食(0700)ガダメスホテル発(0805)ガダメス博物館(0808~0852)旧市街巡り(0852~昼食(1110~1200)~1230)ガダメスホテル着(1235)ガダメスホテル発(1241)トリポリホテル着(2100)夕食(2105)就寝(2400)
13-1 朝
起床5時30分。寒い朝だ。でも、これが冬なのだ。砂漠があまりにも暑かったので、体の方が着いていかない。
7時の朝食はいつもの通りに簡単に済ませた。
今日はバゲージダウン(と言ってもホテルは平屋だが)はなく、ホテルの中に置いておく。後で見学中にバスが戻ってきて積み込むと言うことだ。
13-2 ガダメス散策
ガダメスのホテルを8時5分に出発。寒いので、今日はしっかりとタイツをはき、コートを着たままのスタイルで出かけた。
ガダメスはアラブの年代記にも「砂模の真珠」と記され、古くから地中海沿岸部とアフリカ内陸部の交易ルートの中継基地としてにぎわっていた所。
かつてはガラマンテス人がいたが、やがてローマに支配され、ベルベル人へと移っていった。7世紀にアラブに制圧された。
13-2-1 ガダメス博物館(0808~0852)
本来は9時の開館だそうだが、特別に開けていただいての見学となる。
オスマントルコの時代に造られた建物で、5つからなり、それぞれが展示室になっている。イタリアの植民地時代には、軍の施設として利用されたとか。
<一つ目の建物>
ガダメスの地図や、歴代の総督、生活用具、特産品などが並べられている。
ここガダメスは、ローマ、オスマントルコ、イタリア、フランスと支配が続いたそうで、その時代の支配者の名前が記録されていた。支配も歴史、という認識の一つなのだろう。 壺などが展示されていたが、これはガダメス製のものだけではなく、隊商が運んできたものもある。
産業では、皮製品が代表的なものだ。
また、ナツメヤシの木や葉などを上手に活用して、家のドアや天井、椅子などを造っている。ナツメヤシは丈夫で200年も持つのだそうだ。
また、機織り機もあり、独特の厚い布をおるのに使う。天井からぶら下がっていたロープは山羊の毛で作った物。
<二つ目の建物>
ローマ時代の遺跡に使われている彫刻の紹介がある。柱自体は砂岩でできている。彫り物は、現地の人が行ったので、模様にナツメヤシをイメージした三角が多い。中では、狩りの様子のレリーフが日本でも紹介されているものだという。
<三つ目の建物>
トアレグ族に関する資料がある。トアレグ族は遊牧民で国境が無く、西アフリカのマリからこの辺りまで移動しているのだそうだ。テントには民族衣装を着た男女がいる。男性のターバンは7mもあり、女性は目だけを出すように全身を包んでいる。
また彼らの使っている文字の変換表のようなものもあったが、そう言えば土産物屋に置いてあるブローチにもこんなような文字をデザイン化したものがったように思う。
<四つ目の建物>
7世紀以降の家を造る際に使った日干し煉瓦の材料や作り方など。ガダメスの伝統的な住居の構造などが説明されている。
<最後の建物>
自然の生物。化石や剥製などが展示されていた。
<お土産>
最後の部屋はお土産屋さん。民芸品や本が並んでいた。
ここで本を購入。お金が無くて困っていた夫婦者にjunが貸してあげる。他の人達は平気でお金の貸し借りをしてきていたが、junの財布の紐は固く、誰か貸してーという声も無視してきたのだが、この人ならと思ったからだ。
13-2-2 旧市街巡り(0852~昼食(1110~1200)~1230) 234
<いざ旧市街へ>
ガダメス旧市街には、今定住している人はいない。豊かだった泉が涸れてしまったために、旧市街の外側に政府が新市街を作り、そちらへ移住してしまったためだ。1984年以来無人だとはいうが、祭りや週末の礼拝、避暑などで頻繁に訪れているので、ゴーストタウンにはなっていない。
旧市街に入るには7つある門のうちの一つから入る。我々は博物館から歩いてすぐの門から入った。この門は幅が5mほどで、長さが15mくらいのものだ。
入るに際してガイドさんから注意があった。中は迷路のようになっているので、絶対に離れないこと。声が聞こえるからといって油断しないで、必ず目で確認すること。これに関してjunは、身に覚えがあるので、耳が痛い。今回はよく注意しよう。それから、やたらと人にカメラを向けないこと。撮影したい場合には、一言断って許可を取ることを忘れないようにと言うことだ。
<オムランモス>
門を抜けると目の前にオムランモスクが見えた。旧市街にモスクは5つあり、今でも金曜日には新市街からここに来てお祈りするなど、現在でも使用されているとのことだ。
<家々そして広場>
旧市街の家は、日干し煉瓦と漆喰でできている。1250軒の家がつながって、まるで大きな要塞のようだ。これは7世紀から変わっていない。最盛期には6,000人もの人が住んでいたという。
夏は40℃にもなるが、中に入るとひんやりして気持ちがいいそうだ。
ここには二つの部族がおり、それぞれが集まる広場がある。男性はそこに集っておしゃべりに興じたそうな。そういえば、本当にここには広場が多い。そして広場といわず通路と思える所にもベンチのように座れる所が多い。この広場、年齢によって集まる所が違うそうだ。きめが細かいというべきか、自然にそうなってしまったのだろう。
<迷路のような道>
旧市街というのは迷路が当然と言ってしまえばそれまでだが、迷路のようになっている道は、幅が1.5~2mというところか。高さは2.5~3m位で頭の上を住宅が覆っている。が、これだけの高さがあるので、圧迫感はなかった。
その所々に明かり取りように吹き抜けのようになって青空が見える所がある。それだけでは暗いので、壁にあるくぼみは明かり用のもので、電気が通る前はランプを置いていた。
この道を通るのは男性のみ。女性は家の屋上を伝って動いたそうだが(後ほど実際に歩く)、地上に降りることはないのだろうか。聞きそびれてしまった。
ドアにも各家の工夫がある。中でも、「ハッジ」と言って、メッカの巡礼に行った人の家のドアは、丸い印が付いていた。
<解放している家を見学>
途中で観光用に開けている家の中に入った。1階は貯蔵庫や倉庫として使用。2階がメーンの住居で、居間になっている。その周りには複数のベッドルームがある。夫婦用と客用、子供部屋(男女別)。3階が、台所と屋上になっている。
周りの壁は所狭しとばかりに鏡や金属製の皿やカップが飾られている。
一つだけ天井に開いた窓からの光を効率よく反射させて少しでも部屋を明るくするという工夫なのだそうだ。他にも赤を基調にしたガダメス独特の模様が描かれている。そこに、緑と黄色で色を加えて華やかにしている。これらの色は卵白で定着させている。赤はザクロだと聞いたが、他の色については、説明がなかったか聞き落とした。
階段を上がって屋上へ行く途中に台所があった。屋上は隣とつながっていて、見晴らしがよく、女性達はそこを伝って隣へ行ってはおしゃべりなどしたそうな。ただ、この通路、30cm程度の幅しか無く高所恐怖症のjunには怖いものであった。ここは女性専用で、男性は来ない。
屋上からは、周りの白い壁とナツメヤシが見えて美しい。
<カフェにて>
次に、カフェで一休み。トイレはありませんということだったが、お茶をすることで貸してもらえるという寸法。ミントティー代、一人1LD。
<総督の家>
それから、オスマントルコ時代の総督の家へ行く。
さすがに日当たりのよい所に建ち、庭もあってゆったりした感じだ。屋上へ通じる廊下にもきれいに飾りが施してあった。
屋上へ行ってみると町が俯瞰できて三角のとんがりが連なる様がきれいだった。
下へ降りてみると門前に土産物屋が開店していた。この人達は多分で稼ぎの人なのだろう。ちょっとっしたスペースを見つけては商品を広げて商売をしている。
<エンドウハリーフ広場>
エンドウハリーフ広場に出た。白一色の広場だった。もうだいぶ歩いて疲れたであろうから、座ってというjunの要望に、汚いからと拒否したnoriだった。この様にこの町には広場や通りに全て名前が付いている。
<アイン・ファラス>
更に歩いて行くと、池に出た。アイン・ファラス、鏡の泉という。中央から今でも少し水が湧き出している。これがかつての生活用水だったが、徐々に涸れてきてしまって不足するようになり、新市街へ移転せざるを得なかった。
水の取り入れ口が四カ所あり、今でもナツメヤシの畑などには利用している。途中で水路を見たが、きれいな水が流れていた。
<メーンスクェア>
メーンスクェアは、その水路の水の流れを調整する施設がある。
水時計のようなものがあって、それが特定の時間を過ぎると水の流れを変える用にしていたそうだ。ここにも土産物屋が出ていた。
<ユーニスモスク>
ユーニスモスクは修理中だったので、中に入ることはできなかったが、入り口から写真だけはOKだった。ここは男性用で、女性用は別棟にある。
横にも水路があり水が流れていたが、ここは階段を少し下がるようになっていて、お祈りをする前に体を清めるための所だそうだ。
<郵便ポスト?とか柱の装飾とか手の模様など>
面白かったのは、天井からぶら下がった小さめの輪。ここに袋が付いていて、ポストの変わりを果たしたそうだ。隊商がここを訪れて、自分の行く方面に当てた袋を持って行って届けるという仕組み。随分と気長なものだが、それでも当時としてはありがたかったのだろう。
次に出た広場の柱は、綺麗に装飾してあった。初めて他の外国の人と鉢合わせをした。この様に綺麗なのばかりでなく白一色に模様というのもある。
その中に手を彫ったのがあって、「ファティマの手とも言われますが、魔除けの意味があります。」と言う説明があった。
13-2-3 昼食 (1110~1200)
昼食は、旧市街の民家。といってもそれを商売にしているような所なので、純粋に民家というわけではない。家の中は先ほどのものと同様だったが、人の出入りが多い分か,少しきれいな気がした。
メニューは、サラダ、スープ、ラクダ肉のクスクス。デザートはナツメヤシ。
クスクスには花笠のようなものがかぶせてあったが、虫除けとか。埃よけという面もあるのだろう。なかなか綺麗で可愛い。
ここで現地ガイドさんと別れ、スルーガイドさんと共にバスへ向かう。旧市街からは、この門から出た。
13-2-4 買い物
最後に博物館前の商店街に行き、買い物をした。手作りの靴を作っている店の中に入って無理矢理にその様子を写させてもらった。おじいさんも慣れたもので、作っている風を装ってくれた。
そこで、我が家は、50LDなりでその靴を購入。junさんの足に合う大きさのサンダル風のものだが、とてももったいなくて履けるものではない。我が家の壁を飾ることになるだろう。
そのあと、一端ホテルに戻った。これはこの間綺麗なトイレが無かったためと、この先の道中がまた長いためだ。
13-3 トリポリへ
トイレを済ませてすぐに出発(12時41分)。今日も長いバスの旅になる。
<シールとご対面> (1350)
昨日と同じくデルジの町まで走り1回目のトイレ休憩。ここで思いがけず、jun&noriシールと再開。つまりここまでは昨日の道を引き返してきていたのだ。
ようやく気温が上がってきたので、ヤッケとコートを脱いだ。
<道々>
15時過ぎにラクダの群れにあった。こんなにたくさんいるのを見たのは初めてだ。近くに水場があるのかもしれない。
その後道が変わって、15時25分頃シャワの町を通過。古い昔のままの家並みが残っていたが、その横に新興住宅街と思われる新しい家が並んでいた。徐々に開発へ向かっているらしい。道も工事中で、しばらくの間は砂利道だった。
その後も景色は土漠の中の1本道と全く変わらず退屈なバスの中だ。それでも、点々と町があり、必ずモスクがあった。いずれも質素な感じだ。
途中で、黙々と黒煙がある傍らを通る。石油の新しい発掘現場らしい。ガイドさんに日本に下さいと言ったら、どうぞと切り替えされてしまった。
また道の傍らにはオレンジの電話ボックスのようなものが見えたので、緊急電話装置かと聞くと、そうだと答えた。そしてややあって、「たぶんほとんど使えない」とも返ってきた。
今ひとつ気になるものがあった。道路と平行して、白い道筋のようなものが走り、延々と続いている。幅も10メートルに迫るのではないかと思えるくらいにある。そして所々、空気抜きのようなものがある。実は今日は我々がバスの座席が一番の先頭になったので、ガイドに何でも聞ける。これは例のカダフィの大事業、大人工河川計画の一つ何のだそうだ。
16時50分頃ジュウェイバ(町)でトイレ休憩。陽がそろそろ沈もうかとする頃になっており、これからバスは高原地帯を走る。少し冷え込んできた。
「この辺りからベルベル人が住んでいる地域になる。ベルベル人とは先住民のことで、最近では北アフリカ人との混血が多くなっている。遊牧民のベドウィンとは別の人達である。」との説明があった。
この辺りは、キレナイカ地方に対して西の山脈、ナフサ山脈と呼ばれる。乾燥地帯なので土獏状態に少し草が生えた程度で、緑の大地というわけではない。標高はガイドさんによれば820mくらいということだが、noriの時計の高度計はせいぜい765mくらいだった。
17時30分頃、カバウ(町)もベルベル人の町。これから峠越えになる。
高原地帯を抜け、地中海側に出る峠を越えた所で、展望の利く場所で写真ストップ。とはいっても、展望台があるというわけでもなく、柵などもあるわけもない崖っぷちでの写真撮影だ。下には広大な土地が広がるが、ポツポツと人家のようなものが見えるだけで、活用されている風ではない。やはり砂漠地帯と言っていいだろう。
舗装された道路だが、交通量も殆ど無い状態だ。この道路は最近整備されたものだそうで、峠越えの新しいルートになっているらしい。以前はかなり険しい道であったらしく、途中で転落している車を見ることができて、そう想像できた。
峠を越えるとTB?と書かれている町に出る。道路標識を写真に撮ったが、アラビア文字なので全くわからない。全てこんな調子で、町中でもアルファベットというものには、殆どお目にかからない。博物館でさえそうだったから、カダフィー大佐が軟化したとは言っても、英語表記など夢のまた夢なのかもしれない。そこに、珍しくDATSUNが写っていたので、記念に。このように、車にはTOYOTAなどがそのまま利用され、見た目にはむしろそれが誇らしげにさえ見える。
ここからようやくトリポリへいたるやや海岸線よりは離れてはいるものの、海岸線と平行した道路となる。つまり今まではほぼ真北に地中海を目指してきた道がここからは東へと進路を変える。つまり直線距離だと480キロなのに、走行距離だと650キロという距離になる。
トリポリに着く頃にはすっかり日も落ちていた。
13-4 トリポリホテル ガビールホテル 535号室
<ホテル変更>
ホテルが、急遽変更となった。予定されていたホテルが政府関係者を使用することになって、我々が追い出されたということらしい。代わりのホテルをすぐに現地会社が手配してくれて、野宿ということにはならなかった。
新しく決まったホテルも政府系のホテルで、カビールホテル。英語名ではグランドホテルともいうらしい。21時ホテル着。
添乗員さんの言によれば、水回りがよくないので最近はあまり使わないということだが、外観とロビーに入った感じではこちらの方がいいように思えた。ただ、二階に行くエスカレータは動いていない。電気は安いこの国で、やはりお国柄ということか。
<夕食>
すぐにレストランで夕食となった。雰囲気的にもメニュー的にもこちらの方がいいと思った。ビュッフェで、肉類なども豊富で満足いくものだったが、やはり品数は少なく、その意味でも他国の国際級ホテルに比べれば数段見劣りがする、食事の間に添乗員さんがチェックインを済ませてくれた。
<部屋にて>
22時、夕食後ようやく部屋に入る。こちらもなかなかいい。ゆったりしている。バスタブも大きくて、お湯を張っても水漏れすることなく十分に満足できた。ホテルが変更になってラッキーといえるかも知れない。その上、旧市街などにも近い。
その後少し荷物の整理をしたりして24時に就寝。