2009年12月27日(日) レプティスマグナ遺跡
起床(0412)朝食(0600)トリポリホテル発(0830)レプティスマグナ(1005~昼食(1350~1445)~1535)トリポリ空港着(1716)夕食(1750~1830)搭乗(1905)離陸(1931) LN610 自由席 ベンガジ空港着陸(2029)空港発(2054)ベンガジホテル着(2120)就寝(2330)
4-1 朝
4時12分に起床。朝食は昨日と同じく6時から。朝食のメニューも昨日と同じ。まぁ日本人の口に合わないものは殆ど無いので、同じといっても問題はない。朝食会場で、日本人団体と遭遇。昨日のジャマヒリヤ博物館でもグローバルの人たちに出会ったが、同じかどうかはわからない。
実は朝食の中に昨日から気になっていた食べ物があった。実際に食べてみると、それはちょうど日本の落雁のような砂糖菓子だった。この国の人もイスラム圏の他の国の人と同様に甘いものに目がない。なおこの菓子の名前は聞きの忘れたが、他のホテルでも出てきていたので、それなりに一般的なものではないかと想像される。
食後まだ時間があるので、日記などで過ごす。
4-2 レプティスマグナへ
トリポリのホテルを8時半に出発。海沿いの道をしばらく進む。道を掃除する人がいるので、舗装されている道はきれい。ただ、その脇にはゴミが散乱している。特にビニールが多い。
ちょうど学校に行く子供がいたが、きちんとした身なりの制服を着ていた。
検問所を通過(0907)。どのような人が乗っているのかを調べるそうだが、今は殆どリストを渡せばOKだそうで、簡単にすむ。その辺りから内陸部に入る。苗木やオレンジを売る店が道路脇に店を広げていた。ヒッチハイクをしている人がたくさんいる。スーツ姿にビジネスバッグの人は仕事に間に合うのだろうか。オリーブ畑も目に付くようになり、やがて広がりを見せた。
4-3 レプティスマグナ(1005~昼食(1350~1445)~1535)
さすがに名だたる観光地とあって、入り口の前は観光客でごった返していた。ここの駐車場のトイレは有料だった。我々の分は旅行社が払っていたらしい。
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4-3-1 博物館(1025~1115)
博物館の前に置かれている塔。フェニキア時代の墳墓。ここのものではなく、近くから運んできたもだが、誰のものかはわからない。周りの彫刻が見事。ただしそれは復元されたもの。
更に博物館入り口近くに、セウェルス帝の像。本物はイタリアにあるので、これはレプリカ。
<一の部屋>
・2世紀頃の再現地図。現在まだ40%程度の発掘なので、何があったかわからない所は住宅地として描いてある。
<二の部屋>
・フェニキア時代の交易ルート図。地中海に面した国の殆どになるので、同じような遺跡が造られた。
ただ、ローマに占領されてしまうとフェニキアの遺跡は壊されてしまって、殆ど残されていない。その時代の墳墓からの出土品などが並んでいる。
<三の部屋>
・骨壺や生活用品、フェニキア文字などを展示。中に小さな棺があるが、これは生け贄にされた幼児のものか?
<四の部屋>
・セウェルス帝の凱旋門の模型と本物のレリーフ。
大理石で造られている。勝利の行進など。大きな物は、全てトリポリのジャマヒリヤ博物館の方にある。
<五の部屋>
・軍人の像がある。首がないのは、すげ替えるため。ライオンと戦うヘラクレスの像もあるが、想像力を働かせる必要がある。
・柱に顔のレリーフは、ネプチューン。歯が見えるそうで、見つけられると運がいいとか。
<七の部屋>
・像が数体並んでいる。細かい仕事をしていたことが、洋服の襞の表現などに見られる。
・セラピス・アスクレピオス神像。神業を持つお医者さんで、蛇が一緒に彫られている。
・イルカに乗った少年、実はエロス、いわゆるキューピット。イルカは平和と愛の象徴だそうだ。noriはすぐさま城みちるを思い出した。
<十の部屋>
・ローマ劇場の舞台下にあった彫刻類。盗掘を避けるためにここに移された。アウグストゥスと妻の像、ヴィーナス神像など。
円形闘技場の模型と絵などもある。
<十一の部屋>
・フォーラムの写真、彫刻。競技場のモザイク画。説明してるのは、レプティス・マグナのローカルガイドのムハムド氏。当時の馬車競技などの様子が垣間見られる。
<十二の部屋>
・首のない像が数体。すげ替えるための胴体部分。
<十四の部屋>
・市場で発見された石。オリジナル。布や穀物をはかる際の単位とした。今で言えば、メートル原器とかリッター原器といった感じの物。
・各地から集められた水瓶。
<十五の部屋>
・多数のコイン。皇帝が変わる度に作り替える。金を入れる壺もあった。
<十六の部屋>
・日用品や装飾品など。フレスコ画の一部や日時計などもある。
<十八の部屋>
・生活用品(垢落としの道具、ランプなど)、骨壺(大理石やアラベスク製)、ギルザ墳墓のレリーフや写真など。
<十九の部屋>
・ギルザ墳墓の石のレリーフ。ウサギやライオンは勝利のシンボル。他にも結婚式や畑を耕す様子、家畜など生活の場面もある。
<二十の部屋>
・ここからはビザンチン時代になる。モザイクや十字架のマークがある。
<二十一の部屋>
・7世紀以降のイスラム道具やモスクの模型。
<二十二の部屋>
・20世紀以降近代のもの。イタリアとの戦争や武器、生活具などの説明。
<二十三の部屋>
・ベドウィンのテントや民具、衣装などの展示。
<二十四の部屋>
・カダフィ大佐への贈答品。リビア人からのものが多い。
<二十五の部屋>
・カダフィ大佐の肖像画、化石水を利用した運河の計画など。
4-3-2 遺跡(1122~1330) 321
前5~7世紀にフェニキア人が開いた。2~3世紀のローマ時代のものが残っている。1920年以降イタリアによって発掘された。
この遺跡が破壊された理由としては、
- 365年の大地震による
- ベルベル人とイスラムとの戦いによる
- 伝染病のために衰え放棄された
などの理由が考えられるが、断定されるには至っていない。
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<セプティミウス・セウェルス帝の凱旋門>
203年から213年にかけて、故郷に凱旋するセプティミウス・セウェルス帝とその家族を称えるために、カルドとデクマノスの交差する地点に造られている。石灰岩の表面に大理石を張ってある。四方に柱が2本ずつ有り、その上に乗っている三角は、フェニキアの影響。道の両側が土が盛られている状態になっているが、当然当時のグランドは人が歩いている位置。ここもまだまだ発掘が進んでいない状態を示している。
いま見られるものは、1964年、リビアの発掘隊によって復元されたもの。彫刻は全てレプリカで,これまで見てきたように本物は博物館(併設及び主なものはジャマヒリヤ博物館)にある。
<デクマノス>
東へ歩いて行く。中央の石が違っているのは、ここに下水道が通っていたため。売春宿を示す看板なども残っている。
<ハドリアヌス帝の浴場> 126年~127年作
これはVIP用の浴場。今は涸れてしまっているが、横を流れるレプタ河から水を引いていた。広い運動場があり、チボリウム(シポリン)という高級素材の柱が屋根を支えていた。どうやら、ここは総合保養施設のような趣の所だったようだ。
浴場は5つあり、それぞれモザイクなどで飾られ、温度も違っている。見て歩いた順番は、プール、冷水のプール、温い湯のプール、蒸し風呂(熱湯を通したのは四角いパイプ)、熱い湯のプールである。
脱衣所も備えてある。当然トイレもある。主人のために、あらかじめ奴隷が座って暖めておいたそうな。また、社交場でもあるために、楽団による演奏もあったとか。単に用を足すためだけの所ではなかったようだ。
この頃から小雨が落ちてきた。今は雨期らしい。
<ニンファウム(ニンフの神殿)>
噴水の周りに若い女性が集まって話をしたり願い事をしたりした所。レブダ河から水を引いた噴水は二層式で、1階はチボリウム、2階はアスワンの花崗岩の列柱で飾られた壁は半分ほどが倒壊している(一度復元したが洪水でまた崩壊したらしい)。かつて、2階の台の上からムッソリーニが演説をしたという。
<列柱の大通り>
20mの道が500mあり、港まで続いていた。かつては250本もの柱があってアーケードを造っていたが、今はたった1本のみが残る瓦礫の道だ。その殆どがヨーロッパへ運ばれ、たとえばフランスのヴェルサイユ宮殿などの建造のために持って行かれたという。
列柱通り沿いにかつてのバジリカ、やがて教会として使われたという遺跡があるが、ここの四角い扉が珍しい。
<セウェレス帝のフォーラム>
セウェルスがオールド・フォーラムに代わる新しい町の中心として建設したもの。100m×90mの広さがある。周りにはアーケードが巡らされ、店が並んでいた。ここには買い物やおしゃべりのために人々が集まってきたそうだ。
そのアーチの間にメドゥーサの顔が並んでいるのが特徴。メドゥーサは、見たものを石に変える能力を持つ魔物だが、そのために魔除けとして重宝された。ヘビがからみ付きハート形の瞳をしたメドゥーサが、無造作に転がっている様は、哀れさを覚える。トルコでも逆さのメドゥーサをみたが、どうも扱いがぞんざいだ。
広場の南側にはセウェルス神殿に上る階段が残っていたので、上ってみた。殆ど崩れかかっていて足下が危ういが、上へ行くとフォーラム全体を見渡せる。見渡した写真が最初のもの。
<バシリカ>
商店の裏側に元々は裁判所だったところがある。会議や集会も行われた。セウェレス帝によって作り始められたが、完成したのは216年、息子のカラカラ帝時代になる。その後、6世紀からはキリスト教会として使われたため、説教壇や洗礼槽が残されている。
四角い柱が特徴的で、一方には、ヘラクレスの12の物語が、反対側には、バッカスの物語が彫られている。
足下にゴロゴロ転がっている大理石は、柱の上に乗っていたものが崩れたもの。皇帝の名が彫られた石もある。
<オールドフォーラム>
最も古い地区で、セウェルス帝が新しいフォーラムを造るまで、レプティス・マグナの中心的なフォーラムとして機能した。バッカス、アウグストゥス、ヘラクレスの3つの神殿もあった。現在は、石がゴロゴロしているだけと言ってもいいような所なので、それぞれの区切りがはっきりしていないが、公会堂や元老院などもあった。
人々はここに集まってゲームなどに興じたそうで、敷石にはその跡が残っていた。港が近いので、船が着いたり、また出るのを待っている時間つぶしでもあったそうだ。
少し海岸沿いの高台を通る。海の水がきれいだった。道の横には今にも積み出されそうな列柱が残っている。今でも緑の色が鮮やか。磨けばさぞや美しかろう。非常に現地のガイドさんも残念がるが、そう思う反面、多くの遺跡が宗教的理由から破壊されていることを思うと複雑さもある。
<セラピス神殿>
少し丘側に入ったところにエジプトの神だというセラピス神殿がある。
<市場>
前8世紀頃のフェニキアの時代に造られ、ローマ時代に今の2つの八角形のマーケットという姿になったという。
1つは、衣類や穀物、オイル、ワインなどを売り買いしたマーケット。noriが売り子になる。
刀を研いだ溝や単位の石などがある。長さは腕の長さを基準にしたようだ。アーチには、ローマとフェニキアの交易船の様子が見られる。
もう一つは野菜と果物の市場。売り台が低く、中央には貯水槽のようなものがあって水をためるようになっている。これは野菜を水に濡らして新鮮に見せるためのものだとか。工夫の仕方が今と同じだ。
出口の所に双子の柱がある。2本がくっついて作られ、ここだけに見られる非常に珍しい柱だ。
また、市場を表す肉や魚の柱は盗難を避けるために今は外して博物館に置いてある。その写真を見せて説明された。昔は右の写真のようだったのが、最後には僅か二つになってしまい、それを博物館へ移設したのだそうだ。とにかく、目が行き届かないので、盗掘が多いとか。そういえば、さっきのフォーラムのメドゥーサもいくつも盗まれている。ベルサイユへの移送も含め、残念な話ではあるが、逆に言えばこの遺跡の価値からしても早急なエリアの防護策などの設置と警備強化が望まれる。
<ティベリウス帝とトラヤヌス帝の凱旋門>
素朴なアーチのみの門で、すぐ近くに向かい合うように並んでいる。
ティベリウス帝の凱旋門は35年から36年の間に造られたもので、レプティス・マグナにおいては、最も古いものといわれている。ちなみに、このティベリウス帝の時に、イエスが十字架にかけられた。
トラヤヌスの凱旋門は、セウェルス帝がトラヤヌス帝に捧げたもの。
この他にも凱旋門はあり、全部で5つが確認されている。ここは、たいした説明もなく通過した。
<劇場>
アフリカでは第二の規模を誇る。元々はフェニキア人の墓地だった所に、ハンニバル・ルフスという人が金を出して1~2年に造った。
5,000人収容で半円形。客席は3段だったが、1階部分しか残っていない。2階部分は柱だけがある。
舞台は長さ45m、幅8m。奥部分は楽屋となっていた。舞台や客席にはたくさんの彫刻が彫られていたが、全て博物館に保管されている。
<アウグストゥス帝の神殿>
劇場の裏にある。42年作。コリント式の柱が並び、アウグストゥス帝の像が見つかった。
そこからもう一度セプティミウス・セウェルス帝の凱旋門にでて、これで1周してきたことになる。結構歩いた。暑さもあり、疲れが溜まった。
4-3-3 昼食(1350~1445)
昼食は遺跡の入り口にあるレストランで食べた。
4-3-4 円形闘技場(1452~1535)
たぶん堆積物なのであろう今や陸と化してしまった旧港沿いに走り、海水から淡水を作っている施設を遠望しながら円形闘技場へと向かう。
町の中心部から1.5km離して造られた。理由は治安上とのことだった。それ以前は石切場だったところを、その穴を利用して造った。更にすり鉢状に掘って大きくし、16,000人収容できた。前2世紀頃に完成。
地面は砂地になっているが、流された血がしみこみ易いためだ(その砂のことをアレーナと言った、現在のアリーナの語源らしい)。競技場の地下にはトンネルが掘ってあり、VIPの通路になっていたり、戦いで死んだ戦死の死体を投げ捨てるためにも使ったりしたそうだ。水を張って水軍戦もしたとか。結構大規模に行っていたようだ。
戦いに使う猛獣は、アフリカから集め、戦いの2~3日前から何も食べ物を与えずに備えさせた。客席の下に小さな出口がいくつかあり、どこから出てくるかわからないそうだ。考えてみれば、随分と残酷なものを娯楽にしていたものだ。写真はその一つ。
1960~70年代に発掘された。海側は当時を忍ばせるためにわざと修復せずそのままの状態で残してある。
そこから馬車道を通って海岸の方へ行くと競馬場がある。こういうものを説明するときに必ず出てくる「ベンハー」。あの競技場面を思い出してみるとわかりやすい。1周450mの競技場を7周して勝ち負けを競う。25,000人も収容できたという。競技の勝利者は馬車道を通ってアリーナの方へ行き観客の声援を受けることができたそうだ。また、観客も、アリーナと競馬場の両方を自由に行き来できてひがな1日楽しむことができた。
こちらは殆ど発掘が進んでいない。資金不足でできないそうだ。
4-4 トリポリ空港(1716着) 夕食(1750~1830)
レプティスマグナ遺跡の観光を終えて、来た道を引き返し、トリポリ空港に向かう。空港到着17時16分。
二時間前には到着しないと・・・ということだったが、まぁだいたいそんな時間に到着。最初に荷物のX線検査を受けてから空港内に。用心に越したことはないのだろう。
国内線のカウンターはインドのニューデリーの国内線と同じような感じの混雑。それを小型化した感じだ。カウンターの前に人が群がり、行列などできていそうもない。呆然としている我々の中、スタッフ達はてきぱきと切符をゲット。スーツケースも運び入れて、上のレストランで夕食に、ということになった。
飛行機を待っている間に夕食とは効率がよい。が、まだ開店していなかったので、お茶などを飲みながら待つ。ようやく時間になったので、料理の並ぶカウンターへ行き、店の人に指示を出して好きなものを皿に盛りつけてもらう。
4-5 ベンガジへ LN610 自由席
・搭乗(1905)・離陸(1931)・ベンガジ空港着陸(2029)・空港発(2054)
レストランから搭乗口へ行く。その前に勿論X線検査があるが、おおざっぱで、形式的な感じだ。こちらにとっては楽だ。水の持ち込みもOKだった。
当初は午後8時の予定といわれていたのだが、7時発になったという。そんないい加減なことでいいのかと思うが、それでも何とか流れているのが現状らしい。乗り遅れる人はいないのか心配になったが、そういうことを理解していれば常に確認をするのが日常化していて大丈夫なのだろう。
搭乗ゲートを入ると切符に確認の印をもらう。それから待合室で待つこと数分、ようやく案内があった。自由席ということなので、急いで行ったのだが、そこからバスに乗って行くというのでガッカリ。それでも、二人席をゲットすることができた。2-2の並びの小さな飛行機だ。
座席が広いので非常口の所に座ったのだが、隣の非常口は乗務員席になっているとかで、先に座った人が追い出された。それならそれがわかるように何とかしておけばいいのに。我々の席も非常口であったので、杖を持っている人はダメと言われた。でもがんばって動かせるから大丈夫と行って、アテンダントをあきらめさせた。
二席オーバーブッキングというこで更に出発が遅れた。これも普通のことらしい。
離陸して30分もしないうちに飲み物のサービス。コーヒーとブドウジュースをもらう。
それから30分後に着陸。またバスに乗って空港ビルに行く。
荷物を受け取るターンテーブルが故障していて、それぞれが飛行機から降ろされて台車に乗ったままのものを取りに行く。ターンテーブルは直す気がないらしく長らく放置されたままのようだ。それほど荷物が多くないからだろう。
4-6 ホテル ウズホテル 336号室
空港から25分ほどでホテルに到着(2120)。その道々の明るいこと。リビア第二の都市だというが、こうこうと明かりがともされていて、店もまだ営業している感じだ。その店や建物にも電光装飾がなされている。トリポリよりも豊かな感じがした。更に、トリポリであれほど目にしたカダフィ大佐の看板が殆ど目に入らなかった。
ホテルは一応バスタブが着いていたが、排水が悪くて溢れてしまい大騒ぎになってしまった。リビアではバスタブに水を張るという習慣がないからという添乗員さんの説明だったが、そうではなく手入れが行き届いていないということだろう。後のホテルでは、シャワーを使うだけでも排水溝から溢れる感じだったのだから。
23時半に就寝。