7 1月1日(土) ソナルガオンとパナム・ナガ-ル
起床(0525)ダッカ・ホテル発(0800)ソナルガオン(0902~0925)パナムナガ-ル(0930~1000)博物館(1005~1100)昼食(1234~1325)ラルバ城塞(1344~1435)民芸品店(1512~1600)ス-パ-マ-ケット(1612~1640)ダッカ・ホテル着
7-1 朝
起床(0525)朝食(0630)ダッカ・ホテル発(0800)
朝から則の調子がよくない。戻したり下痢症状だったりしたので、朝食は紅茶のみとするつもりでレストランへ行った。
すると、正月ということで、添乗員さんが雑煮とかかまぼことか黒豆とか、おせちらしき物を用意していてくれたので、有り難かった。junは全て食したが、noriは食べられそうなものだけを口にした。
今日はこのホテルに連泊なので、休んでいることもできる。そこで、行くかどうか相談したが、noriが大丈夫とのことで出かけることにした。
今日からマイクロバスになる。一番先に乗る組だったので、一人席を確保。ただ、一番前は空けて下さい、と言われたので、素直にそれに従ったら、後から乗り込んできた人がガイドさんを動かして自分が座ってしまった。押しの強さに負けたと言うことなのだろうが、こうしたことはきちんとしないと、不満が残る。
7-2 道々
ダッカの町は昨日ほど騒然とはしていなかった。まだ人が動き出す準備の段階らしい。新聞少年も働き始めていた。停車している車に近寄って売っているのだが、かなり危ない。そんなことを思って眺めていたら、我々の方にも売りに来た。が、読めない。ごめん。それにしてもめちゃ明るい表情だ。
市場も準備中。物を運んでいる人たちの姿が多かった。が、さすがにそこは賑わっていた。頭の上にブリキ缶のような物を担いでいるがあの中は魚だそうだ。氷も入っているとか。
そんな時間なのに、バドミントンで遊んでいる子供たちがいた。バングラの子供たち、クリケットにバレーボール、そしてこのバドミントンでよく遊んでいた。
7-4 パナム・ナガ-ル(0930~1000)
20世紀初頭から、1947年まで裕福なヒンズーの商人たちが住んでいたが、パキスタンとして独立する際に彼らはここを捨ててインドへ逃げ去った。1本の狭い道の両側に建てられた50軒あまりの建物がそのまま廃屋となって立ち並んでいる。管理や保存が行われなかったため、かなり傷んでいるが、そこに今は、勝手に人が住み着いている。
バスで一番奥まで行って歩いて戻りながら道の両側に立ち並ぶ廃屋を見る。彩色された色がかすかに残っている家もある。バルコニーがある家もあり、かなりこった作りも見られる。これらが復元されて豪邸が息を吹き返したら、全く違った世界が広がるのだろうと想像を膨らませた。が、この朽ちた感じが風情があっていいのかも知れない。ここが明治村の様になってしまったら、観光客は来なくなるかも。
そんなことを思いながら歩いていると、子供たちがぞろぞろと付いてくる。飴などをあげる人がいるものだから、なかなか離れようとしない。どんどんその数が増えてくるようだ。ガイドさんはやめて下さい、というのだが、何なのだろう。優越感?
また、ちょうど通学時間帯なのか、制服を着た学生が大勢歩いていた。いや、中にはリキシャで行く人もいた。学生なら歩け!などと訳の分からないことを叫んだのはjun。だが、女生徒しか目に付かなかった。女学校なのか?
そんな中で、住み着いている人の1軒の家を見せてもらったりもした。というより、勝手に入り込んだ。
7-6 道々
町中で市場の開かれているところは人も車(リキシャや荷車、トラック、バス)が多く、渋滞しており、抜けるのに時間がかかる。この市は結構近い距離で開かれている。どこも賑わっている。流通が活発だ。
ダッカに近づくにつれて交通渋滞は益々ひどくなる。交通整理されている交差点ではリキシャもきちんと止まって待っている。車も当然止まっているが、そこで初めて物乞いを見た。朝の新聞売りのように車の窓をたたいて手を差し出している。大都会になるとこういう人もやはりいるようだ。
他にさすが大都会と思ったのは、歩道橋が設置されていたこと。確かにこの町にはこれが必要だ。
また、2階建てバスが走っていたこと。なるほどこれならいくらか混雑を防げるかも知れない。が、今のところ焼け石に水状態だ。ちなみにこの二階建てバス、イギリスの中古を輸入しているのかと思って現地ガイドに聞いてみると、なんとインドの会社で造っているものなのだとか。そういえばいかにも真新しい車両もこの後、何台も目にした。