バングラデシュ世界遺産紀行

バングラデシュへの旅 前説

 バングラデシュへの旅を決意した理由は、たぶんこういったところだった。①正月休みにどこかに行きたい(世界遺産を訪れたい)、②まだ見ぬ土地がよい、③正月料金になるからあまり高くないところにしたい、④暖かそうなところがよい・・・などなど。
 こうした条件に当てはまるところはなかなかなかった。消去法で白羽の矢が立ったのがバングラデシュだった。東アジアの最貧国と言われるバングラデシュはこれまでに選択肢として上ることはあまりなかったが、数年前からブータンなどとともに候補地にはなっていた。そして順番が巡ってきたという感じだ。

 さてnoriがバングラデシュを意識したのは、たぶんこれまでの人生の中で二回だろう。一回は、ワールドカップ1994年アメリカ大会アジア地区予選、1993年4月11日(日)のことだった。その日noriは職場の若い人たちに連れられて対バングラデシュ戦を国立競技場に見に行った。記録によれば、8-0で日本が勝利を収めたということだが、お目当ての中山雅史が出場していたことくらいで、あまり覚えてはいない(このとき記録では三浦知良が4得点をたたき出しているが、中山雅史の得点はなかったようだ。)。確かに圧倒的な勝利だったことは記憶しているが、それよりも何よりも驚いたのは、日本にこんなにベンガル人(バングラデシュ国籍の人)がいるのか!ということだった。緑の波があった。国旗は実は日本と意匠的には同じで、白地が緑になっているだけだ。もちろん日本人サポーターが国立競技場のかなりを占めていたことは占めていたが、バングラデシュの人々もかなりの一角を占めていた。同僚の一人は、電車の中から、あそこにもにもバングラ、あそこにもバングラと驚き指さしていたのを記憶している。noriは後にも先にもサッカーの試合はこのときしか見ていない。それ故にということもあるが、彼らのほとんどが皆正装して国立競技場に足を運んでいたのも印象的だった。大騒ぎしているのはむしろ日本人の方で、彼らは比較的冷静に試合を見ていたように思う。そしてそのことは、今ひとつの記憶とダブって、バングラデシュの人々の感覚的な印象となっている。

 その今ひとつは、ダッカ日航機ハイジャック事件である。1977年9月に日本赤軍が起こしたハイジャック事件だ。当時の福田首相の「一人の生命は地球より重い」という言葉とともに超法規的措置がとられた事件としてある世代以上は記憶に残っていることだろう。しかしながらここで書きたいのは事件そのもののことではない。noriが記憶しているのは、テレビがその日航機をずっと流し続けたことだ。通常番組中も画面の端に小さく日航機が映し出されていたことを今でも覚えている。考えてもらいたいのは、1977年(昭和52年)という年だ。1971年に西パキスタンからの独立を果たして間もない、この国で日航機の着陸の瞬間からずっと日本に映像を送り続けてきたことを。もちろん特派員などその場所にいるわけもなかった。そして多数の日本人がその映像を固唾を飲んでみていたことを。一歩下がって考えれば不思議と思わないだろうか。noriが親近感をこの国の人たちに持つのは、実にこの事件のことに由来している。当時衛星回線を駆使し(日本へ衛星経由で直接はこなかったように記憶している)、日本に伝えてきた人々はもちろんバングラデシュの人々だ。日本人ではない。貴重な衛星回線を使い、その映像を流し続けたのは、日本に(たぶんNHK)研修に来て帰国した人々だった。彼らは日本への恩返しの意味を込めて流し続けたているのだと、当時の放送は伝えていた。乱れることのない映像を送り続けたゆえんはそこにあった。

 現在のバングラデシュの人々の宗教はイスラム教徒がほとんどを占める。しかしながら、この「礼儀正しさ」とも言うべき印象は、どこか仏教の思想に通じているところがあるように感じられてならない。元々仏教の教えが広まっていた地域であり、そうした遺跡はインド・ネパール・パキスタンに引き続く仏教遺跡への旅という思いとも通じ、2010年暮れjunとnoriは日本を旅立った。

 今回の旅行に利用したのは、T旅行社。この旅行社はうたい文句がすべて社員添乗員。しかしこれにこだわる必要は無いように思う。対応力があるかと言えば、必ずしもそうではない。若い人は、この会社を踏み台にしてフリーへ移ることだろう。社員添乗員であることのメリットは、厚生年金や健康保険で有利な点だろうが、今時年金制度を過信している若者は多くはないだろう。何が言いたいかと言えば、老人は援助をしてくれる若者を好むかもしれないが、問題が生じたときや我の強い現地ガイドへの対応となるとほころびが生じる。今回もその例に漏れなかった。
 このT旅行社は今回で三度目だが、最初の利用の時はイエメンで、全く最低な旅だった。属人的な問題だろうが、5指には残るお粗末な添乗だった。しばらくそれから利用しなかったのだが、コーカサスの時にどうしても行きたい場所に合致していたので選んだときだった。このときの印象は悪くなかった。さて今回はどうかというと、のっけから不安を予感させる事態が。いくつかメールで質問をしたのだが、直接添乗員から答えがった。Q1「二日目に飛行機移動があり、その次にバス移動となりますが、船に乗り込むまでに スーツケースから船に乗る際に持っていく荷物を振り分ける時間と場所が確保されていますでしょうか?」A1「ない」、Q2「シュンドルボンでは歩くことがありますか?もし歩くときには、どのような格好(靴など)を想定すればよいですか?長靴など借りることができますか。」A2「歩く。ただし自分たちの靴で。」、Q3「自由時間が7日目にありますが、どのくらいの時間が予定されていますか。昼食後直ちにですか? いったんホテルに戻りますか? 推奨コースなどを示していただけるのでしょうか? なにぶんデータが少ない土地なので、全くの自由時間であれば、これから少し真剣に資料をあさらないといけないので、よろしくお願いします。」A3「現地ガイドと会って相談します」、などなどだった。要するに、添乗員としては失格だ。客のニーズに対応ができていない。これは覚悟して出かけないといけないと、二人で話し合った。
 おまけに出発直前になって、国内線が飛ばない!のでバス移動するとの連絡が。どうなっているのだろう。ますます不安は広がった。もっともこのおかげで、前述のQ1の不安な要素はなくなったのだが・・・

 このことの危惧は、後に譲るとして、関空に集合したのは添乗員を除いて12人。男女の内訳は、女性が8人。なんと、我々以外夫婦者はいない。この構成には、いささか驚かされた。今までの記録では、4人で催行というのが二回あったが、それも二組の夫婦者だった。夫婦者は得てして、日常の延長で旅を楽しもうとする。それに比べると、ひとり参加の人々は、非日常を楽しもうとする。こういった傾向がある。これまでも夫婦者は固まる傾向があったが、今回は我々だけ。
 バングラデシュを選択するような人たちだから、皆旅慣れた人たちのように見受けられた。しかし奇妙な点もあった。というのは、旅をしに来ているという感じの人が多かったように思う。旅それ自身を目的としている感じだ。あまりというかほとんどガイドに質問をしない。既存の知識の中で、それを復習するように見学してそれで納得してしまうのか。よくはわからないが、バスに乗っている間寝ているか本を読んでいるという御仁もいた。景色も料金のうちのように思う。我々だけしか質問をしない状態が続いたので、「帰ってから本でも書くつもりか」とも同行者に聞かれてしまった。旅慣れている以上、様々な知識も持っているから、それだけに興味も尽きないのではないのか。わからなかった。

 今回はスルーガイドだった。ハルンという。日本語は比較的堪能だった。日本に来て習ったのだそうだ。話を聞くと、ワールドカップ1994年アメリカ大会アジア地区予選当時日本にいたことがわかった。そこで国立で対バングラデシュ戦があったことを覚えているかと聞くと、ああ8-0の時のことで、と返ってきた。結果はともかく、国立に行ったかと聞くと、もちろん行ったと答えた。同じ日同じ場所にいたという奇遇を知った。
 しかしあまりガイドとしての知識はないように思えた。というか、たとえば世界遺産の場所でも、あまり研究が進化していないせいもあるのかもしれないので、一概に彼を責められないだろうが、もう少し学術的な説明がほしかった。
 ダッカに戻ってくるときに到着が異常に遅れた。金曜日と言うことを考慮せずに、途中で余計な時間を入れたのも一因だった。一番事情通の彼がなぜそれを見誤ったのか今もって謎だ。まぁ一遅れたことは仕方がないとしても、ホテルに着くと雲隠れ状態になり、添乗員のみがあくせくしていたのも、気になった。
 この国に確かに観光産業は根付いてはいないが、観光資源は皆無というわけではない。そして外貨を稼げる貴重な選択肢でもあろうと思う。

 ところで、ダッカへのアクセスは広州経由。実はこのコースが今ダッカへ行くのにもっとも搭乗時間の少ないコースになっている。関空からだと、羽田からの時間を除けば、8時間である。ただし、乗り継ぎ時間をうまく調整しないと、結構ロスタイムができることになる。ただ4時間毎のフライトは体力的には好ましいものだ。今回の行程は、このルートの格安さによって成立しているようにも思えた。
 実際に我々は飛行機のでの疲労はほとんどなかった。往路の接続は中国の訳のわからぬトランジットのシステムで、むしろぎりぎりと言ってよかった。帰路も飛行機が遅れたと言うこともあるが、もう少しラウンジでゆっくりしていたいくらいだった。

 さてバングラデシュの印象だが、昨日のインドという感じかな。アジア最貧国のひとつと言うが、そうした印象を強くは持たなかった。その一つは、広大な緑がそこに存在することだ。自然災害や土壌の汚染、そしてたぶん人口問題にも直面しているだろうから軽々に論じられるわけもないが、食べるものにも多くが困る生活という感じはなかった。
 それよりも人々がひたむきに働いている姿を多く目にした。イスラム圏で見られるチャイを飲んでボートしているというような男達は皆無だった。この国は発展を遂げるに違いないと思った。
 もちろん、山岳地帯に問題があることは、東京の大使館に行った際にもビラが配られ、その存在を知っていた。解決しなければならない問題は、やはりこの国でも少数民族の処遇の問題が一つあるようだ。

 そのような中で、この国が日本よりも優れていると「うならなければ」ならないことが、旅行中の限られた視野の中からでも、二つあった。先にも書いたように、アジアの中でも貧しい国と言われるバングラデシュだが、多くの国よりも優れていると、その二つはうならせるモノがあった。
 第一は、太陽光発電の普及。我が家も昨年から太陽光発電を始めたが、その普及率は日本を凌駕するという。もちろん、我が家に載っているような大きさのものではなく、一メートルから一メートル半の矩形のものだが、夜を照らすには十分だ。NGOなどの努力があって、電気とは無縁と思われるような地域にも光が行き渡っていた。
 第二は、ポリ袋と日本で言われる買い物袋(プラスチックバッグ)の撤廃だ。街で買い物をすると、粗末な布の袋に入れてくれた。貧しい国を旅行すると、街道にプラスチックバッグなどのなかなか土へと変化しない製品がゴミとなって放棄されている場面に遭遇することが多い。こうしたことはしたがってこの国ではほとんど目にしなかった。日本では、有料化が未だ始まって間もない。隣の町では有料化が始まったが、私の住む街はまだだ。少し、いやだいぶ、恥ずかしい思いがする。
 この二点は、バングラデシュの旅で伝えたいことの最大のモノだ。

 ともあれ、2010年12月26日、旅は始まった。           

表紙

2010年12月26日(日) バングラデシュへ

12月27日(月)
 シュンドルボンの森へ

12月28日(火)
 シュンドルボンとバーゲルハット

12月29日(水) プティア

12月30日(木) マハスタンとカタナガ-ル寺院

12月31日(金) パハルプ-ル

2011年1月1日(土) ソナルガオンとダッカ観光

1月2日(日) ダッカ観光

1月3日(月) 帰国

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