ハンガリー世界遺産訪問の旅

マジャール人の国へ 大平原の国へ


◆美しき旧東欧諸国のかつての栄華を伝える街並みを再び
 前世紀末、第二次世界大戦の結果として、ヨーロッパは東西に分断されていた。わずか二十数年前のことだ。我々の世代にとってはまさに現代史の範疇。その中で東側(東欧)と呼ばれた地域は、西側の20世紀後半の飛躍的発展の波にもまれなかった分、19世紀以前の城下町の雰囲気が街全体でよく保存されていることが多い。そしてセットとして、中心部を離れるとあからさまになる、住む道具という機能一辺倒のアパート群ももちろん忘れたはならないだろうけれども。
 さてLinkIconチェコLinkIconバルト三国、そしてハンガリーの隣国かつてのオーストリア=ハンガリー二重帝国の相手であったLinkIconオーストリアを旅してみて思うことは、それらの国の都市、特に首都の「旧市街」の美しさは、特筆モノであったと言うことだ。*1
 だから、ハンガリーの首都であるブダペストやその他の都市もその感動を再び味わえることだろうと思って出かけた。この期待は、今回も裏切られることはなかった。ブダペストはもちろん、訪れた街々は、皆美しかった。かつての栄光の残照と言えば、それまでだが、その美を競うように、ライトアップがなされ、それが筆舌尽くしがたい美しさであった。
 地下鉄*2でさえ、レトロで素敵だった。17世紀に迷い込んだ感覚に襲われる体験もさせてくれた。

◆旅の目的(1)世界遺産訪問
 世界遺産訪問数を生涯で333訪問と決めている我々にとっては、もちろんこの旅の目的も中心は、世界遺産の訪問であることは間違いの無いところであった。今回は2011年5月現在の指定された8カ所(うち1カ所はオーストリアと、うち1カ所はスロバキアとまたがっている)すべてを訪れた。世界遺産のすべてを訪ねるという旅行社のキャッチコピーが、今回の旅行のコースを決める決定的な要因だったことは言うまでも無い。

◆旅の目的(2)現代史の舞台へ
 が、我々特にnoriは、この国を訪れる目的は今ひとつあった。それは世界遺産地域にも指定されている「フェルテー湖 / ノイジードル湖の文化的景観」の一部にもなっている、「汎ヨーロッパピクニック事件」の場所を訪れることにあった。世界的に見てどう認識されているかは定かではないが、ベルリンの壁の崩壊が東ヨーロッパの社会主義社会からの解放の火蓋ではない。それよりも早く1989年8月19日にこの事件が起きた。ベルリンの壁崩壊(11月9日)に先立つ歴史的な事件であった。より重要なのは、この当時すでに、ハンガリー国民についてはオーストリアへの通行、すなわち西側諸国への通行が半ば自由化されていた(1988年4月~)ということがその下地にある。そして引き続く当時のハンガリー政府の下した決定こそが、ベルリンの壁崩壊を大きく前進させた。
 その国境は今日も、その時と変わらず静かであった。国境の一部施設は記念に残されている。写真も自由に撮れる。正確に言えば、車に注意しながら。そう、そこには地図に示された国境はもはや存在しない。車は我々がいなければ、そこを全速力でただ通過するだけだ。
 その意味で言えば、今回のガイドさんからは、LinkIconハンガリー動乱の悲劇をあまり聞くことはなかったのは、少し不思議な気がした。日本人から見れば、国土を蹂躙された大事件であり、犠牲者を多数出したわけだし、その日は民主化以降祝日ともなっているのに少し不可思議だった。彼は35歳くらいなので、もちろんその時代を知るよしもないが、ハンガリー人には刻み込まれている悲劇であるはず。慎ましやかな、日本人的な人柄のせいなのだろうか。

 日本人的と書いたが、この国の人たちは自分のことをハンガリー人とは言わないらしい。日本人がジャパニーズと自称しないのと同じだという。固有の言語(マジャール語)を持ち、それではマジャール人というのだそうだ。つまりは、日本人が日本人と自分を言うのと同じことらしい。

◆旅の目的(3)ワグナー・ナンドールゆかりの地へ
 さて、もう一つ今回の旅には目的があった。いつもの旅ではない目的が。
 この旅の最終目的地は首都のブダペストだったのだが、我々はこの地で、ある彫刻(群)に出会うことも楽しみにしていた。それは「LinkIcon和久奈 南都留(ワグナー・ナンドール)」の作品。実は我々の住んでいる町(東京都中野区)には哲学堂公園という、元々は東洋大学の創始者井上円了の作った哲学をモチーフにした公園がある。この公園の中を川が流れているのだが、中心部分から川によって隔てられている一角に、和久奈 南都留(ワグナー・ナンドール)*4の作品「哲学に庭」がある。これはブダペストのゲレルトの丘に作られたも「哲学に庭」と同じもので、これを知ってから、是非とも訪れたいと思っていた。
 幸いにも、宿泊先のホテルから徒歩圏内であったので、朝の散策時に訪問することができたが、時間が時間だったこともあろうが、彼の地の、ドナウ川や王宮を遠望する場所に、ひっそりとそれはあった。

◆ハンガリーの心象風景
 風景に目を転ずれば、ハンガリーは大草原の国だ。高い山といっても、1000メートル級のものしかない。今回の訪問はチェコ訪問と同じような時期だったので、その時と同様に、広がる大地に咲き誇る菜の花がすこぶるきれいだった。どこへ行っても、咲いていた。もちろん食用ではなく、菜種油をとるためのものだが、「菜の花や 一むら染めて 春陽つよし そこ過ぎてゐる しづかなる径」*3とでも言いたくなる景色を再び味わった。
 もちろん先にも書いたように、街々もまた美しく今なおそこに存在した。そしてそれらの多くが、修復家庭にあったり既に終わったりしている様を見ると、この国の「東欧社会」:からの脱却もまた進んでいることが感じられた。

◆スタッフに恵まれた旅
 旅行社は久しぶりのE旅行社だったが、添乗員も現地のスルーガイドもほぼ完璧な人たちだった。添乗員氏について言えば、例えば前日に予定を大まかに言ってくれたので、翌日の活動がしやすかった。またたぶんこういうところというようなことはなく、不確実なところは、自らの足で確かめてきて説明をしていた。この国の、特にハンガリー一国だけのツアーは、この旅行社でも実績は少ないらしく、昨年は催行されなかったとも聞いた。それだけに、現地の不確かな情報も、現場に足を運び確認した上で説明するという態度は見上げたものであった。またこの会社は旅の記録を配ってくれるが、久しぶりに昔に経験したような、詳細なレポートをいただけた。

 現地ガイド氏も、ややストイックな感じがしないでもなかったが、日本語はかなり達者で、例えば日本の○○のよう、と言うような表現で、伝わりにくいものを伝えようという努力をしていた。年代も西暦だけでなく、日本の○○時代という表現をいつも付け加えていた。元々の大学の学科はイタリア語科らしいが、ロシア語のガイドを振り出しに、英語そして日本語とガイドをこなしてきたらしい。マジャールを語含めると、少なくとも五ヶ国語をしゃべるという、現代のシュリーマンとも言うべきすごい才能の持ち主だ。(ただしここは難しいところだが、街々のローカルガイドの方が、その町自体については詳しい。少し突っ込んだ話はローカルガイドの方が勝る。両方では、かつて個人旅行で敦煌を旅したような、大名旅行になってしまうし、あちらをたてればこちらが立たない。)
 またほとんどをつきあったドライバーも、安全運転に努める一だった。
 今回は総じてスタッフに、今までの旅行の中で一番恵まれた旅の一つであったことは間違いない。

◆リタイヤ後の気楽さを味わった旅
 今回の旅行はnoriが退職して初めての海外旅行であった。noriにとっては、こんなにも心構えが違うのかという、自ら驚きのあった旅行であった。今回旅行したオーストリア航空は今回で三度目だが、帰路便は7時過ぎに成田に着く。前二回は、一つは5月のゴールデンウイーク、一つは正月休みだったが、そのいずれもが成田から職場に直行している。そうした世界からはおさらばで、帰国便もゆっくりアルコールも飲めた。例によってウオッカとトマトジュースをリクエストして、フラッド・メアリーをアテンダントに作ってもらったのは言うまでも無い。


◆人は旅を何故するのだろう
 さてゴールデンウイーク開けの旅行はいかがかと言えば、我々がそうであるように、日本の旅行産業は退職者によって成立していると言うことを改めて実感した。junが辞めてからは、noriはいくらかは自由がきいたので、9月とか7月とか、やや時期の早いあるいは遅い夏休みをとって旅行したが、自分よりも若い人が(たぶん)いない旅行というのは初めてだった。
 こうした人たちは金銭的には、年金制度の改定前の人たちが多いせいもあって、恵まれた人たちばかりのようだった。ハンガリーというのは比較的旅行の対象からは外れると思うが、それでも3回目という人が二人もいたのには驚いた。東欧周遊などで、ブダペストにも立ち寄ったと言うことなのだろうか。
 また既婚独身を問わず一人参加が多く、夫婦者は我々とあとひと組で、総勢16人だった。
 そのもう一組の夫婦者を除くと、旅の途中で記録を取ると言うことをする人はいなかった。逆にこれが旅の中で強く印象に残る点となった。もちろんこの会社は旅の記録をくれはするが、それはあくまでもダイジェスト。記憶が記録になる世代では残念ながら無いだろう人たちではあるが、まぁ物見遊山の世界の人たちで、我々とは旅のスタイルが、あるいは住む世界が、違うと感じられた。いや、旅行の楽しみ方が、別物だった。極端な例は、飲み続けて、酩酊しバスの中でも鼻歌や口笛を吹く御仁すらいた。
 もちろんお金の使い方は自由だ。しかし、国を代表しているわけではないが、それでもあまり日本人を見かけない人々や、日本に行く機会のない人々にとって、我々が数少ない日本人であることを考えれば、日本を表現できないまでも、もう少しその国の文化に触れる努力をしてもよいのではないだろうか。いささか悲しい気持ちがした。

◆ハンガリー再び
 まぁやはりそれなりにいろいろはあったにしても、そのことはともかくと片付けられる程度でった訳で、noriの卒業旅行としてはおおむね上出来だった。同じスタッフに恵まれるのであれば、再訪したいと思う旅だった。

*1オーストリアの世界遺産の街グラーツの都市計画の考え方はこうした一般的な例からすると例外的ではある。街は博物館ではないという考えに基づいて、都市の再開発が考えられている。

*2ブダペストの地下鉄は、ロンドン・イスタンブールに次ぐ世界で三番目の開業だが、当初より電気機関車で運行された本格的なものであり、現在の地下鉄の歴史の初を占めるもの。ニューヨーク地下鉄の手本にもなったという。なおこの地下鉄を最初に運転したのは、フランツ・ヨーゼフ1世であったという。

*3木下利玄「曼珠沙華 一むら燃えて 秋陽つよし そこ過ぎてゐる しづかなる径」を捩ってみました。

*4ワグナー・ナンドールの出生の地は現在では、ルーマニアのオラデア(マジャール語ではナジヴァーラド)となっている。しかしながら、1920年代のオラデアは人口の9割以上がマジャール人であり、彼が母国~出生地~をハンガリーとしているのはそうした背景があるものと思われる。