2 7月18日(日)
上起床(0400)朝食(0700)ホテル発(0930)血の上の教会(1000~1045)聖イサク寺院(1140~1205)青銅の騎士像(1210~1223)昼食(1235~1353)運河クルーズ(1412~1515)ネフスキー大通り(1527~1730)夕食(1755~1905)ホテル着(1930)就寝(2150)
2-4-1 イサク広場
そこで少しフリータイム。ほとんどの人はバスの所から見える聖イサク寺院の全景を写真に収めていたようだが、我が家はできるだけ近くまで行って写した。
金色のドームの下には彫像が並んでいたが、そこが展望台ということで上ることが出来るらしいが、今回は時間がないのと、それほど見晴らしが良さそうでもないので余り執着心は無かった。
またそこに、ニコライ一世の騎馬像があった。前足を上げた姿は、先ほど橋桁で見た物と似ているが、いずれにしてもバランスが良く,今にも走り出しそうだ。
ニコライ一世の騎馬像を挟んで聖イサク寺院の反対側にはマリインスキー宮殿がある。かつては迎賓館として使用されたが、今は、サンクトペテルブルク市議会が置かれている。中央に掲げられている旗のうち、右側の碇のマークがあるのがサンクトペテルブルクの旗。
2-5 聖イサク寺院(1140~1205)
先ほどから遠目に見て早く行きたくて仕方なかったのだが、全員が揃わないと危険ということで、買い物をしない我が家はじりじりしながら待っていた。
ようやく全員が揃って、歩いて行くのかと思ったら、何とバスで目の前まで連れて行ってくれた。
聖イサク寺院は、高さ101m、奥行き111m、幅97mという大規模なもので、世界でも大きい教会の一つ。その名前になっている聖イサクとは、元々はビザンチン(東ローマ帝国)の修道士だった。ピョートル大帝の誕生日がこの聖人の日であったことから、守護神とした。そこからの命名である。
1710年に建てられたピョートル大帝の時代は、狭くて小さな礼拝堂だったが、後に都として町が発展すると、立派な建物が並ぶようになり、1717年エカテリーナ二世によって大きくされた。1790年にはパーヴェル一世によって3代目が建てられた。そしてその後のアレクサンドル一世が更に大きな物を建設しようと、設計を募集した。その結果、フランス人のモンフェランが優勝し、それが現在の姿となっている。
彼はカトリック信者だったので、ここがロシア正教の教会であるにも関わらず、カトリック的な装飾が多く、ローマ教会との共通点も多い。ただ、やはり十字架はない。ロシア正教では十字架ではなく、イコンを掲げる。
モンフェランは死後、ここに埋葬されることを望んだが、ロシア正教に改宗しなかったとして許されなかった。代わりに、彼の胸像が中に置かれている。
2-5-2-2 絵画・装飾
中にはたくさんのシャンデリアがある。これは下ろすことが出来るようになっていて、昔は蝋燭を灯していた。ために、その煤でフレスコ画が痛み、徐々にモザイク画に変えていった。が、19世紀も後半になると電気が出来たので、フレスコ画のまま残されている部分もある。
特に有名なのは、中央真上の天井にある「聖母マリアの栄誉」。更にその中心には鳩が描かれている。これは、三位一体のシンボルで、そのことからやがて平和のシンボルともなった。楽園もある。
しかし、一番綺麗なのは、やはり祭壇だろう。本来なら見る事が出来ないのだが、ここは博物館となっているために見る事が出来る。中央にあるのが「キリストの復活」というステンドグラス。ミュンヘンで造られた。
祭壇の左には聖母子、右にはキリストがいる。このキリストが手にしているのは地球だそうだ。何故かは解説してくれていたのだが、よく聞き取れなかった。
その横にいるのが聖イサク。ちなみに聖母子の隣にいるのはネフスキーなのだそうだ。
祭壇の上には「最後の晩餐」の場面がある。
ここまでは先の「血の上の教会」で聞いた通りの配置だった。
ミサが行われていたコーナーには信者達の声が流れていた。まさに今祈りの最中なので、ずかずかと踏み込むことも出来ず、遠くから写真だけ撮らせてもらった。
2-6 青銅の騎士像(1210~1223)
イサク聖堂から道路を渡り、次の「青銅の騎士像」を目指す。
横断歩道は、30秒程度で信号が変わってしまう。この点についてもガイドさんは、「ロシアはまだ人が大事にされていない。」と言うことらしい。
公園は札幌の大通公園のように花壇が競い合うようにいくつも作られていた。その中に真っ赤な花文字で「E」と作られている物があった。エカテリーナの「E」ですよ、と言うことだった。ウエディングドレスの人もいた。近くに教会があるらしいが、この様に公園で友達と歓談するなんて、日本では考えられない。
そんな雰囲気の公園の芝が切れた所に青銅の騎士像は建っている。ピョートル大帝が、馬上でたずなを引く姿で、台座には、「エカテリーナ二世からピョートル大帝へ」と言う文字が刻まれている。それが、詩人プーシキンが「青銅の騎士」という作品に描いたことから青銅の騎士像と呼ばれるようになった。
台座は花崗岩で作られており、波をイメージしているとか。後ろには蛇がいるが、これは敵を表す。ピョートル大帝の時代の敵はスウェーデン。その蛇を押さえつけているということはスウェーデンに勝利したことを表している。大帝が向かっている先にはストックホルムがある。この勝利によって、ロシアはバルト海まで獲得し、西ヨーロッパとの貿易が出来るようになった。
この広場の名前は「デカブリスト広場」と言う。以前は「元老院広場」と言った。その元老院は、騎士像の広場に面して建っている。
ところが、1825年12月に武装蜂起が起きた。これは失敗に終わり、指導者が処罰された。12月のことをデカプリストと言うので、「12月の党員達」と言う意味で呼ばれるようになった。
ここには昔の衣装を着た男女がウロウロしていたが、これは有料のモデルなので、カメラを向けないようにと注意された。
2-7-2 ヴァシリエフスキー島の岬
ヴァシリエフスキー島の岬で、また赤いロストラの灯台柱を見る。
また、クンストカメラ(人類学博物館)には、日本関係のコーナーもある。大黒屋光太夫のものや日本で大津事件に遭遇したニコライ二世に、陳謝の意味で明治天皇が贈った物などが展示されているのだそうだ。ついでに、この大津事件で負傷の際に着用していたシャツについた血痕が、後に、ニコライ皇帝一家処刑埋葬で、最後まで不明であった2人分の遺骨(長男アレクセイと3女マリア)のDNA鑑定に使用され確認された。
日本に縁があるといえば、巡洋艦オーロラ号もそうだろう。
オーロラ号は、1905年の日本海海戦で日本軍の攻撃を受け、ロシアに戻ってからは、ロシア革命(十月革命 1917年10月25日)の始まりの合図として、冬宮に向けて砲撃した。
まさに生きた歴史の証人ともいえる巡洋艦だ。