2 7月18日(日)
上起床(0400)朝食(0700)ホテル発(0930)血の上の教会(1000~1045)聖イサク寺院(1140~1205)青銅の騎士像(1210~1223)昼食(1235~1353)運河クルーズ(1412~1515)ネフスキー大通り(1527~1730)夕食(1755~1905)ホテル着(1930)就寝(2150)
2-9-1 フォンタンカ川
船が動き出すとすぐに注意があった。「橋は低いので決して立たないようにしてください。特に昨日は大雨が降って川が増水して危険です。」ということだ。その後、橋の下をくぐる度に「危険です、危険です、立たないでください。」と繰り返し聞いた。なるほど、先へ進むほどにそのことがよくわかった。
この川はまっすぐに行くとネヴァ川に注ぐ。ピョートル大帝の夏の庭園の噴水はここの水を引いているので、「フォンタンカ川」つまり噴水の川と呼ぶ。
この辺りには大貴族の館が並んでいる。中に、本屋になっている所があるが、KとSの間に描かれているのは「戦争と平和」のレフ・トルストイ。ここに滞在したことがあったとか。
他にも国立図書館の分館や一部が楽器博物館(シェレメチェフ宮殿)に変わっている館もあるそうだ。
また、伯爵家の家紋が残っている建物も1つだけある。スターリンの時代にはそれらを壊して回ったのだそうだ。全て壊しきる前に新しい時代が来てしまって、壊す時間が足りなくて残ったとガイドさんが言ったが、何故壊す必要があったんですか?と言う質問には答えられなかった。
「WASABI」と書かれた店もあった。ロシアでは日本食は人気があるのだそうだが、東京の方が安いですよ、とガイドさんは言うが、そんなに高くて商売が成り立つのだろうかと余計な心配をしてしまった。ただ、日本人がやっていない日本料理店は安いのだそうだ。
赤い建物がパーヴェル一世の宮殿(ミハイロフ城)だった建物。彼の死後、陸軍工兵大学になり、ドストエフスキーもここで学んだ。今は、ロシア美術館の分館の一つになっている。
ちらりと血の上の教会が見えた。
それから左に曲がった。
2-9-2 モイカ川
これからモイカ川になるという。モイカ川は、自然の川で、昔は水が綺麗で洗濯など生活用水として使っていたそうだ。
入るとすぐ左にパーヴェル一世の宮殿の正面が見えた。
パーヴェル一世は、18人子供がいたが、その中でも特に可愛がったのがミハイル。その息子のために自分の物よりも立派な宮殿を造った。それがミハイロフ宮殿で、現在はロシア美術館の本館となっている。
またまた血の上の教会が見えた。ガイドさんはその都度大きな声で知らせてくれるので、こちらもパチリ。いろいろな角度から楽しめるというわけだ。
この辺りからは、宮殿の近くということもあって,貴族しか住めなかったということで、立派な屋敷が並んでいる。それらの中には、領事館になっている物もあり、オランダ、フランスと共に、日本のものがこの地区にあった。
その向かい側にある黄色い建物が、プーシキンの家博物館。プーシキンはロシアの中では大 変に尊敬されている詩人で、彼の名の付いた街もあるくらいだ。
著名な人の建物といえばこの人のも忘れてはなるまい。ストロガノフ宮殿。言わずと知れたビーフストロガノフの名前の元になった人。と言ってもこの人が始めた料理ではなく、この人のコックさんが考えた料理だとか。
この辺りは、超高級住宅地で、ガイドさん曰く、「ここはミリオネア通りです」と言うことだ。
そこを少し過ぎた所でUターンして、ネヴァ川へ向かう。
日本総領事館の手前の運河を左に曲がると、左にエルミタージュ美術館、右にエルミタージュ劇場と、その間を通ってネヴァ川に出た。
エルミタージュ美術館は明後日見学する。エルミタージュ劇場は、オプションのバレエ鑑賞を申し込めば、今夜入ることが出来る。ただし、我が家はパス。
2-9-3 ネヴァ川
狭いトンネルを抜けると、パアッと視界が広がる。目の前に要塞があった。ネヴァ川では泳いではいけないというが、要塞の前には日光浴だろうか、それを楽しむ人達がいた。
見慣れた灯台もぐっと近くに見える。
振り返るとエルミタージュ美術館が見える。最高のロケーションかも知れない。
ヘリコプターが頭の上を旋回していたが、2000ルーブルくらいで15分間、空からの市内観光が出来るのだそうだ。ソ連時代は、秘密主義で許可されなかったことだ。
またまた血の上の教会が見えた。
トロイッキー橋を渡ると右岸に緑の一帯があった。モイカ川やフォンタンカかわに囲まれた地帯でピョートル大帝の夏の庭園だ。
ずっと向こうの高い建物のある所は新市街。旧市街は、冬の宮殿よりも高い建物は法律で禁止されているが、新市街はそれがないのでどんどん高い建物が建っている。
左側に見える黄色い長い建物は、防衛省に付属する病院と大学。1862年に福沢諭吉もここに来ている。諭吉は、ここで初めて麻酔外科手術を見た。
右の2階建ての建物はピョートル大帝の夏の宮殿で、窓は雲母。ガラスではない。1704年からそのままで残っている。
他にもチャイコフスキーが卒業した法律学校とか芸術大学なども次々に説明してくれたが、よくわからなかった。
ただ、最後のサーカスだけはわかった。ロシアで初めてのレンガ造りの建物だそうだ。
これでようやくクルーズが終わった。面白かったので、これはお奨めだ。
特に沢山架かっている橋が面白い。橋自体の形もだが、欄干の模様が二つとして同じのがないほど豊かなのだ。また、ネヴァ川のは跳ね橋で、夜中のクルーズだと開く所が見えるらしい。
2ー10 ネフスキー大通り(1527~1730)
それからまたお土産屋に行った。何しろトイレという物が町中にないので、こうしてお土産屋を利用するしかないのだ。日本語を話す売り子もいて、日本人の利用客が多いことを伺わせた。
ここで解散となり集合もここになった。
2-10-1 ネフスキー通り
目の前が芸術広場となっている。とりあえずネフスキー通りへ出た。この通りの名は、「アレクサンドル・ネフスキー」に由来している。彼は、中世ロシアの英雄として讃えられている人物。1240年夏にスウェーデン軍が侵攻して来たとき、わずかな兵力でネヴァ河畔の戦いで大勝し、逆にスウェーデン軍を壊滅させてしまった。この戦いに大勝を収めたことにより、アレクサンドルは「ネヴァ河の勝利者」という意味の「ネフスキー」と呼ばれることになった。
自由時間が思ったよりもあったので、マックを捜しがてらフラフラとそのネフスキー通りを歩いた。何しろ暑いので、マックで涼もうという魂胆だった。が、看板はあるのだが肝心の店が見つからない。そうこうしているうちに「カザン聖堂」に着いた。
2-10-2 カザン聖堂
ここは、パーヴェル一世がバチカンのサン・ピエトロ大聖堂のような物をと希望してロシア正教では珍しい半円形に列柱が並ぶ聖堂となった。この列柱が並ぶ様というのは壮観だ。
ソ連時代には無神論博物館となったが、ソ連崩壊後にロシア正教に戻された。イサク聖堂や血の上の教会が博物館扱いであるのに対し、ここは教会として機能している。為に内部は撮影が出来ない。
ここに来る人達は信仰が篤いようで、教会の出入りの時には必ず頭を垂れて十字を切っていた。また、多分「カザンの聖母」のイコンにも長い列を作って、一人一人がキスをしていた。蝋燭を捧げる人も大勢いた。そこで丁度結婚式が行われていた。
中の写真は撮れないので、前の庭でたくさん写した。