平成22年7月20日(火) エルミタージュ(ゴールデンルーム)

4 7月20日(火)

起床(0400)朝食(1000)ホテル発(0958)エルミタージュ美術館(1020~1705)夕食(1830~2000)就寝(2100)
エルミタージュ美術館詳細 ゴールデンルーム(1115~1220)・建物見学その1(1245~1300)・芸術部門その1(1304~1327)・建物見学その2(1330~1400)・自由見学(1400~1500)・見学後半(1510~1650)

4-1 朝

 今朝はゆっくりの出発なので、モーニングコールはない。にもかかわらず4時には目覚めて起きてしまった。
 外は朝焼けというのだろう、とても綺麗な色をしていた。
 一応の身支度をしてから、日記を書いたり夕べ作成した絵葉書を書いたりした。
 その後、朝食の時間になったので、昨日と同じ時間に行ってみると、今日はすでに開いていた。どうしようか迷ったが、ほかの日本人が入っていったのを見て、それに続いた。メニュー内容は少し変わっていた。
 そこで大仕事。と言うのも、今日は昼食がついていない。と言うことはつまり、ここでそれを調達しなければならないと言うことだ。多めに持ってきたパンにハムとチーズを挟んでサンドイッチにして、素早くバッグにしまった。成功。それからは普通に朝食をとった。バナナもほしかったのだが、すべて出払ってしまって手に入らなかった。
 ところで絵葉書だが、昨日ガイドさんに日本までの料金を聞いたのだが、わからないと言う。それも、なぜわからないかと言えば、ロシアでは毎日のように料金が変わるからだという。それに補足して添乗員さんが、郵便よりもネットの方が先行して普及したために、郵便というものはあまり利用されることがなく、従って郵便制度がしっかりできていないから、ということだ。そんなところだから日本へ郵便を送っても到着する保証は全くない。フロントへ頼んでもそのまま懐へ行ってしまうかもしれない。だから葉書などは出さない方がよい、ということだった。
 が、出発までかなり時間があったので、まあ試してみようとフロントへ行った。
 ちょうど出発するグループがいくつかあって、フロント前は大混雑状態だったが、そのすべてのチェックアウトが終わっていたようで、フロントの人は暇そうにしていた。そこで葉書を持っていくとすぐに計算をして1枚70ルーブルだから280ルーブルと言われた。あらかじめ調べておいたのに比べると3倍以上の値段になっているが、まあお試しという気持ちもあって料金を支払った。が、切手をくれるわけでもなく、それは葉書とともにフロントの引き出しにしまわれた。さて、どうなるか、ロシアの良心のテスト。(9月末現在まだ届いていない。後発の葉書はとうに届いているのだから、こりゃ一杯食わされたのかも。)
 それからゴロゴロして出発時間を待った。



201008russia2393.jpg

クリックすると拡大します。

4-2 エルミタージュ美術館(1020~1705)

 バスは20分ほどで美術館に着いた。
 ロシアにも4つの季節があるが、半年は冬。その寒いときに皇帝の家族が住んでいたので、冬の宮殿と言われるそうだ。
 冬の宮殿は、1754~62年の間に、建築家ラストレッリの設計により建てられたが、1837年の大火により、内部の装飾が完全に破壊された。その後、大規模な復旧作業が行われ、1920~50年には宮殿を美術館として利用するために、大がかりな作業が行われた。



201008russia2423.jpg

クリックすると拡大します。


4-2-1 成り立ち

 宮殿建設の最初の礎は、ピョートル大帝によって建設された冬の宮殿(現在のエルミタージュ劇場の地)である。ピョートル大帝の死後、エカテリーナ一世、アンナ女帝たちがピョートルの事業を受け継ぎ、さらに宮殿の建設を進めていった。
 エリザヴェータ女帝の時代にラストレッリの手により「冬の宮殿」が建設された。これが後の宮廷アンサンブル(複合体)といわれる一大建築物の基礎となった。
 エカテリーナ二世は1762年に即位するとすぐ、宮殿の構造とインテリアの改造を命じ、1764~68年にかけて女帝の美術品コレクションの展示用「小エルミタージュ」が建設された。これは1764年にエカテリーナ二世が画商ゴッツコフスキーから225点という大量の絵画を購入したことによる。この1764年がエルミタージュ美術館のスタートの年といわれている。

4-2-2 増える美術品

 その後も美術品は増え続け、1771~87年に「大エルミタージュ」が建設され、通路で結ばれた「エルミタージュ劇場」も建設された。1774年に刊行された最初のカタログには、約2千点の絵画が計上されている。
 その後、1842~51年にかけて、膨大なコレクションの体系的展示の必要性から、ニコライ一世により「新エルミタージュ」が建設された。
 この様に、エルミタージュ美術館は、歴代ツァーリが住んだ冬の宮殿と他に3つのエルミタージュと劇場の5つから構成されている。
 エルミタージュ美術館の部屋数1057室、部屋の総面積4万6千平方メートル、全部の部屋をつなげるとおよそ27km、階段117箇所。この規模の大きさは、ロマノフ王朝2百年の皇帝の絶対的権力を物語っている。
 集められたこれらのコレクションは、第一次世界大戦と1917年の革命により拡散し、ソ連内だけではなく国外への売却も行われて、多大な損失を被った。売却を止めることが出来たのは、1934年になってからのことだ。
 第二次大戦中には、敵に包囲される前にレニングラード(現サンクトペテルブルク)からウラルまで運ばれ疎開することが出来た。1945年に作品は戻り、やがて美術館は再開された。

4-2-3 宮殿広場

 今日もいいお天気に恵まれた。ということは暑くなると言うことだ。
 はじめに広場で周りの建物の説明があった。
 正面がエルミタージュ美術館。冬の宮殿の上にブロンズ像が並んでいるが、重くならないように中は空洞になっている。中央の旗は、昔は皇帝がいるときに建てられるようになっていた。
 中心にある柱は、「アレクサンドルの円柱」といって、ナポレオン戦争の勝利を記念して1834年に完成した。円柱の上には、アレクサンドル一世をモデルにした十字架を持つ天使の像がある。
 同じように、ナポレオン戦争を記念して造った物がもう一つある。それが、旧参謀本部にある凱旋門だ。
 周りを見ると、イサク聖堂や旧海軍省も見える。



201008russia2431.jpgエルミタージュ美術館全景
201008russia2432.jpg201008russia2434.jpg
201008russia2435.jpg201008russia2444.jpg
201008russia2447.jpg201008russia2424.jpg
201008russia2425.jpg201008russia2458.jpg
201008russia2456.jpg201008russia2462.jpg
201008russia2461.jpg

クリックすると拡大します。

4-3 いざ中へ

 一人一人チケットを受け取って、中に入る。始めにクロークへ行く。荷物はA4サイズ以下にすることは、昨日から何度も言われていたのに、ここへ来て駄々をこねる人がいる。ガイドさんが、「私が決めるわけではないので・・・」という気持ちもよく分かる。何故そんなに大きな荷物を肌身離さず持っていたいのか分からない。
 水も禁止、ただし見えないところへ入れておけばOKとのこと。これだけ繰り返し注意されていたのに、入れるところがないと、人に預ける人も現れる始末。あきれた。



201008russia2469.jpgチケット
201008russia2471.jpg201008russia2474.jpg

クリックすると拡大します。

4-3-1 ゴールデンルームへ(1115~1220)

 迷子にならないで付いてきてください、と言っていたガイドさんだが、そのガイドさんも係の人に確かめながら進んで行った。一旦二階に行ってから下へ降りる。この間、いくつもの部屋を通り抜ける。
 通り抜けながらアレキサンドル一世の広間です。銀食器の展覧会をしてますねえ、とか、ここが奥さんの部屋です、階段も奥さん専用だったんですよ、と話してくれるが、はぐれないようについて行っているので、何処をどう歩いたのか,帰ってから調べてみてもよく分からなかった。
 途中、大昔の人々の暮らしの道具やミイラが展示してある所も通った。



201008russia2479.jpg厳重な管理
201008russia2476.jpg201008russia2478.jpg

クリックすると拡大します。

4-3-2 ゴールデンルーム

 ようやく無事に目的のゴールデンルームに到着。
この部屋には、ピョートル大帝の時代に集めた金銀装飾品のコレクションが収められ展示されている。
 ここでは3つのグループに分かれて入る。我々はBグループなので、前のグループに15分ほどの時間差を付けて、11時15分からの予定だ。それぞれに日本語のガイドが付いた。中に入ると更にもう一人、エルミタージュのスタッフが付いて解説する。勿論ロシア語なので、それを日本語に訳してくれるのだ。
 中は空調が利いていて、常に22度に設定されている。黄金にはよい温度だが、我々にはちょっと寒かった。撮影が禁止なので写真はない。
 入るとすぐに、「ここにあるのは総額でいくらくらいになるんですか?」と質問した人がいた。「これらのコレクションの金額は想像がつかない。一点一点それぞれが貴重なもので、お金には換えられないものです。」という答えが返ってきた。当然だろう、なんて恥ずかしい質問をするのだろう。
 ここの殆どは古代墳墓で発見されたもの。紀元前の民族のアクセサリーを始め、イラン、インド、トルコ、中国など世界各地からの贈り物もある。
 エカテリーナ二世の時代に数が増えた。これはその頃に黄金期を迎えたと言うことといろいろな国と交易をしていたということが関係している。約1500点ほど展示されているが、全て金や宝石が使われている。
 中は3つに分類されている。



201008russia2477.jpgゴールデンルームへの順路表示

クリックすると拡大します。

4-3-2-1 スキタイ民族のもの

 もちろん写真はない。このページを適宜参照してもらいたい。右の写真はこのページよりのリンク。
 スキタイは紀元前8世紀~紀元前3世紀にかけて、南ウクライナを中心に活動していた世界最古の遊牧騎馬民族国家。西シベリアからカスピ海、黒海地方で活動していた。スキタイ人の残した黄金製の装飾品・工芸品の写真として、事典や研究書に載せられているもののほとんどは、このエルミタージュ博物館の陳列品。それほどのものがここには収められている。
 これらがロシアの手に渡ったのは、17世紀にロシア民族がシベリアに進出し、積極的に開発する中で発見されたからである。盗掘により失われたものも多いが、見つけたものは全てピョートル大帝が没収し保存した。この他に類を見ない古代黄金のコレクションは、シベリアコレクションと呼ばれ、大部分は古代墳墓から出土したものだが、「高塚」と呼ばれる墓からのものもある。
★古代首飾り
 紀元前5~4世紀のもの。蛇の形をしているのは腕輪。全てのアクセサリーに動物が彫られている。人間のものはない。それは、人間は自然の中では小さい存在と考えられていたからではないか。むしろ動物の方が大きな存在だったのではないか。
★シカとヒョウ
 どっしりとした動物の像は,極めて正確に表現されている。紀元前6~7世紀頃のものだ。シカは太陽の神を象徴し、ヒョウは夜とか地獄を象徴しているのだそうだ。
★墓
 王の墓からはこれらの他にも斧や刀、儀式用の皿、女性の頭飾りなども見つかっている。
 これは、王が死ぬと、妻や大勢の召使い、王の馬なども一緒に葬られたため。馬の飾りも残っている。死んでもその世界で生きていると信じられたために、生活に必要なものも入れたのだそうだ。昔の人の死生観は何処の地でもこの様なものだったらしい。
★櫛
 それらの中で特筆すべきものは、ソローハ遺跡から出土したスキタイ戦士の姿が掘られた黄金の櫛。これはギリシャ人が造った物で、ギリシャ神殿のような形をしている。
★サルマート族
 サルマタイ人は、紀元前3世紀頃、スキタイ人を壊滅させた。副葬品には幾何学文様が多く、スキタイのような動物文様は少ない。婦人の装飾品や壺の表面装飾は宝玉や七宝細工を多用した。ここで初めて金以外のエメラルドやトルコ石、真珠などの貴石が装飾品として使われるようになった。





4-3-2-2 ギリシャの職人の手による装飾品

 もちろん写真はない。このページを適宜参照してもらいたい。右の写真はこのページよりのリンク。 
 ギリシャ人が黒海岸に移住してきたときに文化も持ってきた。
 彼らは金の薄板を用い、タガネで模様をつけ、研磨し、金の針金や雫状の玉で線状細工を施した。この手法で、たくさんの耳飾りが造られた。
 代表的なものは、フェオドシアで発見されたもの。勝利の女神ニケが操る4頭立ての馬車など、かなり拡大してみなければ分からないほどで、ルーペを通してみるようになっている。このタイプは14個発見されているが、ここにあるのはそのうちの7個だけだそうだ。
 ギリシャと分かるものは他にもあった。たとえば前4世紀のクリオバ遺跡から出土した髪飾りは、アテネのパルテノン神殿にあった女神アテナの頭部が描かれている。
 ギリシャが力を失ってからこの様なものは造れなくなった。前2世紀頃、この辺りはローマが入ってきた。後の職人達がこの手法を真似しようとしたが、難しくて出来なかったそうだ。
 また、埋葬の時のマスクなども見つかっている。



4-3-2-3 各国からの贈り物

 もちろん写真はない。このページを適宜参照してもらいたい。右の写真はこのページよりのリンク。
★まずはペルシャ帝国から贈られた物。小刀や軍刀にエメラルドやダイヤモンドで飾りを付けた。「アッラーの神・・・」という文字も見られる。
その他にも頭飾りとか男性の帯、お腹に付けた飾りなどの装飾品がある。
★ウズベキスタンのものは、結婚式の花嫁用のもので、中央に真珠がある。口飾りというのもあり、また、眉毛を隠すためにトルコ石を使った飾りも造られた。
★インドからはエメラルドで飾られた香水の瓶。バラ水を入れたらしい。これはエリザヴェスへ贈られた。クリスタルのものもある。
★足置き台というものには、何と3000個もの宝石が使われ、足飾りにはたくさんのルビーが。たかが足などと侮ってはいけない。
★中国からはエカテリーナ二世の時代のもので、簪が多い。中国の伝統的なレリーフが目立つ。
★ここで見られるのは、全体の百分の一程度に過ぎない。他は別室に保管されており、また別に予約をすれば見る事が出来るそうだ。ダイヤモンド宝庫という部屋があるが、そこか?



4-3-2-4 お宝の写真

 こうして秘宝室ゴールデンルームの見学は終わった。目の前にはまだ金がチラチラしていた。
 最後の組が終わるまで椅子のある所で待っていてくださいと言われて、そこへ向かう途中、今見てきたばかりの金の装飾品と同じようなものが展示されていた。
 ガラスケースの中に収められているので、撮りにくかったが、ガラスにレンズを張り付けるようにして何とか写真を撮った。
 これらの装飾品が,どのように身につけられていたのかが分かるような図もあった。



201008russia2502.jpgエルクのカップ
201008russia2490.jpg201008russia2504.jpg
201008russia2506.jpg201008russia2507.jpg
201008russia2509.jpg201008russia2513.jpg
201008russia2517.jpg201008russia2518.jpg

クリックすると拡大します。

4-3-3 自分たちだけの昼食

 見学が終わって、最後のグループが出てくるのを待っている間に、朝用意しておいた手製のサンドイッチを食べた。見学時間の中に、カフェでの自由昼食の時間も含まれていたので、我が家はその時間も見学したいと思ったからだ。グッドタイミングであった。バッグに忍ばせて置いた水もこっそりと頂いた。



201008russia2524.jpg朝ご飯の残りで昼食

クリックすると拡大します。